なんて訳せばいいのかしら?

加藤洋子

なんて訳せばいいのかしら?

3

だから、"きみ"と語りかける

 日本語はおもしろい。人称代名詞がとても豊富だ。英語なら老若男女すべて"I"でことたりるけれど、日本語はそうはいかない。一人称代名詞なら、わたし、あたし、あたくし、わたくし、おいら、ぼく、おれ、自分、あっし、あたい、わし......数え上げるときりがない。二人称代名詞だって、あなた、きみ、おまえ、きさま、てめえ......。方言も含めたら、とんでもないことになる。

 子供のころ、わたしは自分のことを名前で呼んでいた。しかも"ちゃん"までつけて。友だちはみな、あたし、とか、わたし、と言っていたのに。どういう心理だったのかいまとなるとわからない。自己主張が強かったとか? 自分を客観視していたとか? 

 わたしがいまよりずっと若かったころ、大橋巨泉が司会を務める『クイズダービー』という人気番組があった。そこで出題された記憶に残る一問がこれ。「南極観測隊の一員である男に新婚の妻が打った電報は、たった一言だった。新妻の思いがこもるその一言とは?」長山藍子が正解した答は「あなた」。英語の「You」ではこうはいかない。情感もへったくれもない。

 本書は57歳の孤独な男、レイの一人語りだ。"I"ではじまる文章と、ワンアイと名付けた飼い犬に語りかける"You"ではじまる文章で構成されている。この人称代名詞をどうするかで雰囲気ががらりと変わる。人と犬との関係も変わってくる。翻訳に取りかかったとき、まず頭を悩ませたのがこのことだ。"おれ"と"おまえ"にするか、"ぼく"と"きみ"にするか。レイが日本人だったら自分をなんと呼ぶだろう。母親は彼が生まれてすぐに亡くなっており、家族は父親だけ、しかも父親は彼を知恵遅れだと勝手に決めつけ学校にやらなかった。だからレイはおなじ年頃の子どもと遊んだことがない。"おれ"と"おまえ"、"ぼく"と"きみ"の関係を築いたことがないのだ。日本なら、そういう男は自分をなんとも呼ばないのかもしれない。日本語の場合、それでも会話は成立するだろう。英語だとそうはいかない。主語がなければ文章にならない。考えに考えたすえ、"ぼく"と"きみ"にすることに決めた。"おまえ"と呼びかけるより、"きみ"と呼びかけるほうが、そこに心理的な距離が生まれると思ったからだ。それに、相手を尊重する気持ちも感じ取れる。レイは犬にとって自分を支配する"ご主人さま"ではない。犬はレイにとって"飼い犬"以上の存在だ。はじめて持つ家族といえるかもしれない。だから、"きみ"と語りかける。それでしっくりくる(ような気がする)。

 話は変わって、著者の経歴を紹介しよう。

 サラ・ボームは、アイルランド人で考古学者の母と、イギリス人で採石場の監督をしていた父のあいだに、イギリスのランカシャーで生まれた。家族は彼女が幼いころにアイルランドに移り住む。母が読書家だったので、彼女も子どものころから本に親しんできた。大学では美術を専攻したが、それで身を立てることは考えられず、スウィフトやトマス・モア、オスカー・ワイルドを輩出した名門、ダブリン大学トリニティ・カレッジに進み、クリエイティヴ・ライティングで修士号を取得した。20代半ばは美術をとるか文学をとるかで気持ちが揺れ動いたが、28歳のとき、2年間は書くことに専念しようと決めた。そのときに書いた短編が、このエッセイの前の回で紹介したジェイムズ・ジョイスゆかりのパブが主催する、デイビー・バーンズ・ショート・ストーリー・アワードを受賞し、処女長編である本書の出版に結び付いた。

 ワンアイのモデルは彼女が飼っている犬だ。アニマルシェルターから引き取った噛み癖のある片目の犬で、人に噛み付いたことも一度や二度ではなく、そのたびに金を払って示談ですませているそうだ。

 現在は、本書の舞台となったアイルランド南西部コーク州の田舎町でアーティストの恋人と、面倒ばかり起こす犬と暮らしている。

 彼女のブログには、センスのよさが光る手作りのオブジェがたくさん紹介されているので、ぜひ覗いてみてください。

https://sarabaume.wordpress.com

 "Home"の画面の上の欄の「SPILL SIMMER FALTER WITHER」をクリックすると、壁一面に張られたポストイットの写真と、紙粘土で作った381体の黒い犬の写真を見ることができる。ポストイットのほうは、本書を書くために作ったメモだそうで、紙粘土の犬は、本書の出版が決まってから実際に本になるまで、毎日一体ずつ作りためたものだそうだ。ポストイットに書かれた文字の細かいこと! しかも、定規で線を引いて書いたようにまっすぐ! 彼女が紡ぎ出す文章と同様に緻密で繊細だ。

 もっともこのブログは、2014年12月を最後に更新されなくなってしまった。「わたしのとりとめのないおしゃべりを読む時間があったら、おもてに出て球根を植えてね」という言葉とともに。わたしの想像だが、心が傷つくような書き込みがあったのだろう。

 紙粘土や木、テキスタイルやカードで作るアートも、言葉で作る小説も、彼女にとっては自分を表現する作品で、書いていて煮詰まると手を動かしてなにかを作っているそうだ。アーティストなら、作品を一人でも多くの人に見てもらいたいという気持ちがあって当然だろうが、不特定多数の人の目に触れることで嫌な思いをすることもある。「インターネットの功罪を議論するつもりはない。わたしは好きじゃないだけ」という彼女の気持ちもよくわかる。

Profile

加藤洋子

(かとう・ようこ)
英米文学翻訳家。主な訳書に『アウトランダー』(ハヤカワ文庫)『ブーリン家の姉妹』『凍える墓』『クッキング・ママの最後の晩餐』(集英社文庫)、『ナ イチンゲール』(小学館文庫)などがある。また翻訳者を目指す方々のための翻訳教室も主宰している。
http://www.japanuni.co.jp/business/seminar/translate/kato.html
「八ヶ岳山麓の森の中で、猫6匹犬1匹と暮らしています。犬は今年18歳、目と耳が衰え、ボケも進んでいるけれ ど、ちゃんと食べて、散歩のときはスタスタ歩いて、その姿を見ると愛しさに胸がキュンとなります。趣味の乗馬は20年以上続けているのにまったく上達せ ず。でも、馬はいいです。そばにいるだけで気持ちがやわらぐから。気心の知れた人たちと、おいしいお酒を飲んでおしゃべりするのが至福の時です。」

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