なんて訳せばいいのかしら?

加藤洋子

なんて訳せばいいのかしら?

登場人物の声が日本語を誘い出す

 学生時代、ピアノを習っていたのだが、先生の専門はピアノではなく作曲だった。だから、技術的なことより作品の解釈に重点を置いたレッスンだったと思う。思う、と書いたのは、ろくに練習もしない怠慢な生徒だったので、なにも身に着かなかったからだ。もったいないことをした。その先生は、本業である作曲の仕事が入るとレッスンを休まれた。余計な音(生徒のへたくそなピアノの音)が耳に入ると作曲に集中できないからだそうだ。無音の環境のなかで、先生は頭のなかに響く自分の音に耳を澄ましておられたのだろう。

 わたしは原著を読みながら、まず登場人物の声に耳を澄ます。声が聞こえると、頭のなかに姿が浮かんでくる。顔も浮かんでくる。優れた作品ほど、声がはっきりと聞こえてくる。原著を読んで聞く声が大事なので、下訳は使わない、使えない。下訳者の声が聞こえてしまうからだ。わたしの勝手な解釈だが、これはピアノの先生がレッスンを休んだことに通じるのではないかと思っている。

 幸せなことに、わたしは出版業界がまだ勢いを保っていたころにデビューしたので、ずっと仕事が途絶えることはなかった。来る仕事はすべて引き受け、ひたすら量をこなす生活を20年以上つづけてきた。それで得たものはむろん大きい。訳すスピードが格段に速くなって文章にリズムと勢いがつき、「すらすら読める」と読者の受けがよくなった。エンターテイメントの作品は、ひっかからずに読めることが命だからだ。とくに長い作品は、文章自体が疾走しないと読者は途中で放りだしてしまう。

 そうやって走りつづけてきて、3年前、仕事がぷつりと途絶えた。まず、わたしが20冊以上訳してきた、ロマンティック・サスペンスの女王と呼ばれる作家が書かなくなったのだ。出版社との契約が切れたのを機に、しばらくのんびりしようと思ったのだろう。こっちは死活問題だ。かならず年に2冊のペースで訳していた仕事がなくなったのだから。「休むなら休むでもっと早く言ってよ。こっちにも都合があるんだから」と文句のひとつも言いたかった。同時期に、日本でも人気が高かったシリーズ物の作品の最新作の版権を、出版社がとらないことに決めた。翻訳すると文庫で4冊になる長大な作品だったので訳すのに半年はかかる。そのために空けておいた時間が、ほんとうにぽっかりと空いてしまった。弱り目に祟り目。自由業はしんどい。しかも出版不況。

 さあ、どうしよう。困った。わたしにとって、訳すものが手元にないのは、死ねと言われるのに等しい。翻訳は仕事であると同時に、(不適切な言い方かもしれないが)最高に楽しい暇潰しでもあるからだ。趣味の乗馬も(文字どおり)最高に楽しい暇潰しだが、馬に乗っている時間が楽しいのは、全力で取り組む仕事があってこそ。趣味だけで生きてはいけない。貧乏性のわたしにそれはできない。なにもしないことは罪だと思ってしまうのは、育った環境のせいだろうか。93歳で亡くなる数年前まで現役の医者として働いていた母と、わたしは結婚してもずっと一緒に暮らしていたので、働かずにグータラするなんてもってのほか、という考えが骨の髄まで染みついている。のんびりできない損な性分なのだ。

 だから思った。こうなったら自分で訳すものを探すしかない、と。そこで、自分で取り寄せたり、エージェントから頼まれたりした本を読んで、シノプシスを書くことに"ぽっかりと空いてしまった"時間を使った。そうして、すばらしい才能をもつ新人作家三人と巡り合った。ハンナ・ケント、デレク・B・ミラー、サラ・ボーム。三者三様、まず生まれた国がちがう。オーストラリア、アメリカ、アイルランド。作品の舞台もちがう。アイスランド、ノルウェー、アイルランド。まったくタイプのちがう作品をつづけて三つ訳すことができたのは、翻訳者として幸運だったと思う。ずっとおなじ作家の作品を訳してきたせいで鈍化した感性に、喝をいれることができたからだ。知らず知らずのうちに"翻訳脳"にたまった垢を、こそぎ落とすことができたからだ。それまで蓄積してきた日本語の語彙の抽斗をすべて開けて、言葉を探しまわる毎日だった。それでもぴったりの日本語が見つからなくて、自分の語彙の貧弱さに愕然とすることもあった。本書を訳しているときはとくにそうだった。長年培ってきたスピードを生かせない。立ちどまらざるをえなかった。エンターテイメントの作品なら、意訳しても読みやすさを追求するのだが、本書はそうはいかない。謎解きやどんでん返し、幾重にも張り巡らされた伏線、登場人物たちの丁々発止のやりとりで読者を引っ張っていける類の作品ではないからだ。ひと文字、ひと文字、英語を日本語に移し替える作業がつづいた。そのあいだわたしは、本書に頻繁に出てくる浜辺にいて、石ころをひとつひとつひっくり返していた。そんな気がする作業だった。

 もうひとつ、苦労したのは、本書の肝である自然描写だ。主人公のレイが片目の犬、ワンアイに語りかける形で描写される、アイルランドの美しい自然。そこに生きる動植物の名前の羅列。ただ羅列してあるのではない、リズムを生みだすために並べ方にも工夫がなされている。最近の翻訳書では、動植物の名前をカタカナで表記することが一般的になっている。最初はわたしもそれに倣って訳していったのだが、そうすると、カタカナばかりの文章になってしまう。たとえば、ヒメフウロ、カラクサケマン、コクマルガラス、アカアシシギ。舌を噛みそう。どんな草なのか、どんな鳥なのか想像がつかない。担当編集者からも、カタカナが多いと「可読性を弱め」「読むことのストレスを増してしまう」という指摘を受けた。そこで、可能な範囲で漢字に直した。姫風露、唐草華鬘、黒丸烏、赤足鴫。漢字を見れば(読めなくても)色や形の見当がつくから、日本語はありがたい。

 そんなこんなで、苦しくも喜びに満ちた作業は終わりを迎えた。一幅の絵画そのものの美しい表紙を纏って、本書は真四角な本に生まれ変わった。いま、わたしが思うのは、レイのおだやかでやさしい声に導かれて、すてきな旅をしたということ。必死に言葉を探していたと思っていたけれど、じつは声が日本語を誘いだしてくれたということだ。

 最後に、わたしがいちばん好きな場面を紹介したい。名も知らぬ小さな町、夜のファーストフード店でトイレを借り、ポテトチップスを買うレイが、店の表に駐めた自分の車を眺める場面。

「ぼくが座っている場所から、通りに面したガラス越しに、駐まっているぼくたちの車が見える。きみの頭と耳と首の輪郭が見え、ダッシュボードに休ませた、きみの濁ったベルベットみたいな前足と、首輪の名札の煌きと、きみの蛆虫鼻の煌きと、きみのひとつだけの除き穴の煌きが見える。店の通りに面したガラスと車のフロントガラス越しに、自分の家族すべてを一瞬にして見ることができる。どこもかしこも煌いている」

Profile

加藤洋子

(かとう・ようこ)
英米文学翻訳家。主な訳書に『アウトランダー』(ハヤカワ文庫)『ブーリン家の姉妹』『凍える墓』『クッキング・ママの最後の晩餐』(集英社文庫)、『ナ イチンゲール』(小学館文庫)などがある。また翻訳者を目指す方々のための翻訳教室も主宰している。
http://www.japanuni.co.jp/business/seminar/translate/kato.html
「八ヶ岳山麓の森の中で、猫6匹犬1匹と暮らしています。犬は今年18歳、目と耳が衰え、ボケも進んでいるけれ ど、ちゃんと食べて、散歩のときはスタスタ歩いて、その姿を見ると愛しさに胸がキュンとなります。趣味の乗馬は20年以上続けているのにまったく上達せ ず。でも、馬はいいです。そばにいるだけで気持ちがやわらぐから。気心の知れた人たちと、おいしいお酒を飲んでおしゃべりするのが至福の時です。」

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