第6回ポプラ社小説新人賞受賞作『パドルの子』

虻川枕

第6回ポプラ社小説新人賞受賞作『パドルの子』

イラストレーション Ilya Kuvshinov

2

『パドルの子』冒頭試し読み①
「何にも混乱せずに」

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pud・dle
1. (きたない または濁った)水たまり、(液体の)たまり
2. (粘土と砂を水でこねた)こね土、《口》ごたごた、めちゃくちゃ
3. こね土にする、〈土壌を〉固める
4. ...にこね土を塗る、よごす、〈水を〉濁す、泥だらけにする、
   ...に水たまりをつくる、ごちゃまぜにする、混乱させる
pud・dled
   《俗》頭の混乱した、おかしい
〈研究社 リーダーズ英和辞典 第2版〉より

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零.


 春は化け物。
 二年生になった初日の朝、水無月中学の生徒たちは、こぞってこの化け物にやられていたように思う。新たにクラスメイトとなった全員とアドレスを交換しなくては、そう携帯電話片手に息巻く彼も。仲良しと離ればなれになったことで、廊下で泣きじゃくって教師に抗議している彼女も。
 かく言うぼくだって、そのうちの一人である。春休み明けの寝不足に、長年続く花粉症。ぼくの免疫力は、完全に低下していた。それに加え、何と言っても。
 昇降口の掲示板に貼り出された、あの、躊躇のない寄せ書き、である。
〈ありがとう。君のことは、忘れない。
九十年間、私たちを見守ってくれた、水無月中学校旧校舎に捧げる〉
 恥ずかしくなるようなそのキャッチコピーもさることながら、無数に寄せられた生徒たちのメッセージも。目を背けたくても、それらはあまりに巨大で、否が応でも視界に入ってくるのだ。
 なんだって、こんな、青臭い言葉で──。
 そもそも、ここ、水無月中学は創立九十周年を迎える今年、夏休みの間に旧校舎を取り壊しすぐ近くに建設された新校舎への移転を決めている。各教室にはエアコン完備、トイレは全部洋式、しかもウォシュレット付き、校庭は砂ではなく人工芝。普通に考えれば、誰もが喜ぶように思えた。が、へそ曲がりとはどんな場所にもいるものらしい。
「旧校舎、かわいそう。なんか、忘れられちゃうみたいで」
 どこかの誰かが上げたその謎の悲しみの声を皮切りに、なるほどたしかに、言われてみればそうだな、せめて俺らに何かできることはないか、そうだメッセージを送ろう、などの便乗の声が膨らんで、この寄せ書きプロジェクトは発足したらしい。去年の夏に始まったこの寄せ書きは、卒業生らを巻き込んで、すでに全校生徒の数を超えた書き込みが集まっている、のだそうだ。
 ぼくは、これが飾られたときから、ずっと、疑問に思っていたことがある。
 なんだって、こんな青臭い言葉で、さも全生徒の気持ちを代弁した気になっているのだろう。ぼくみたいに、何の感謝もなければ哀れみすらも感じていない人間は、どんなことを書けばいいというのだろう──、と。
 当然、こんなこと、誰にも言えない。
 というか、ぼくは、誰とも仲良くない。
 想いの丈を言い合える相手など、そもそもいないのである。
 困ったことにぼくは、置いてけぼりで隙だらけな気分に陥っていた。
 ──そこをつけこまれたのである。春に。
 
「嫌になっちゃうよね、春って」
 色めく教室の片隅にて、その声は一際小さく、だからこそぼくだけに向けられたもののように感じた。振り返ると、そこは三輪くんの席だった。三輪くんとぼくは出席番号が一つ違いで、席が前後ろだったのだ。
「君も、花粉症?」
 ぼくはくしゃみを飛ばし、言った。春が嫌なのだとしたら、まず疑うべきは花粉だ。
「いや、違うんだ」三輪くんは声を一段と潜める。みっともなく思えてくるんだよ。席を立ってウロウロしてるのも、こうして席にじっとしているのも。どのスタンスを取ってもなんだか恥ずかしくて、どこにも逃げ場がないんだもの」
 そう言うと三輪くんは、元からだらしなく垂れ下がった目尻をさらにだらっと垂れさせて、そのくせなんとも心地よい、微笑みを見せていた。
 ──さて。ここで、化け物の登場だ。
 化け物は、ぼくの身体を操った。ぼくの口を勝手に動かし、ぼくの喉を勝手に揺らし、ぼくの声を勝手に使って。
「父さんがね、言ってたんだけど。春の、正しい解釈の仕方、について」
 何の許可もなく、勝手に、父の言葉を引用しはじめたではないか。
 
〈熊だって冬眠から目覚めたら、また新しい餌を調達しに出るだろう?
 人間も、それと同じなんだ。春に培った人間関係を夏で熟させて、秋に収穫する。同性だったら親友になったり、異性だったら恋人になったりする。そうして冬になるとだんだんと枯れていって、また春を迎える。要は各々、喜んでいる。新しい人間関係、いや、新しい餌の訪れと言ってもいい。とにかくそれを、喜んでいるんだ──。〉
 
 ここまで言うと、パッと身体の拘束が解かれていた。
 すると目の前の三輪くんは、難しそうな顔で黙ったあと、なるほど、と独りでに納得した表情を浮かべていた。
「俺はまだ、冬眠中だったんだ。だったら、最初っから、こうすればよかったんだね」
 そう言って三輪くんは机に突っ伏した。そのまま、騒がしい俗世を遮断するようにして、眠りの中へと落ちていった。
 ぼくは、かくして、混乱への一歩目を踏み出すのだ。
 三輪くんとだったら、仲良くなれる、かもしれない。だなんて。

 ぼくらの関係は、父の言葉通り、すぐに熟した。クラス替えの日から一ヶ月が経ち初夏にもなると、自然と昼休みや帰り道をともにしたりする間柄になっていた。一緒にいすぎたせいか、あいつらデキているんじゃないか、という噂が流れ聞こえてきたこともあったが、そんなことは気にも留まらなかった。ぼくらはとにかく気が合った。あの昇降口の寄せ書きの件も、あれはやりすぎだよねえ、と同意してくれたし、担任教師の愚痴なんかも話したりして、大いに盛り上がっていた。
 だが一方で、三輪くんの生まれや育ちは、ぼくのそれとはまったく違っていた。三輪くんの人生は、一言で言って波瀾万丈だった。
 まず、三輪くんは正真正銘の転勤族だった。団地、海沿いの町、都会のビルの隙間のマンション、山奥の村。その住処は実に多種多様で、十以上の町と学校を経験しているというから、その見聞も自ずと広かった。
 生まれてこの方この町を出たことのないぼくは、ここぞとばかりにそれらの体験談を聞きたがった。都会の学校の屋上にはプールがあるらしい、とか、団地の一階には謎の床屋があるらしい、だとか。大抵は三輪くんが面白おかしく教えてくれたのだが、海の感触を訪ねたときだけは、バツの悪そうな表情を浮かべこう答えていたのが逆に印象的でもあった。
「海に入るのは親が禁止してたんだよ、危険だからって。スイミングスクールに通わされてて、そこで泳ぎが上達してからって約束だったんだけど、その先生が変わり者でさあ。まず最初にペーパーテストを受けさせて、そこで合格点を取らなきゃ泳がせてくれないんだ。バサロキックとは何のことか、とか、バタフライは平泳ぎから派生した、だなんて豆知識、幼稚園児が知ってるわけないよねえ」
 大げさに顔をしかめ、あの先生さえちゃんとしていればな、と恨み言を連ねる三輪くんからは痛いほどに切実さが伝わってきた。海の町に住んでおいてその海に入れないというのは、遊園地に行ったらジェットコースターが故障中、に匹敵する辛さだったことだろう。
 お互いの家族のことも、もちろん話した。中でも三輪くんは、ぼくの父と母の馴れ初め話を大層気に入っていて、何度となくぼくにその話をせがんできては、ぼくを赤面させていた。親の馴れ初めほど、こっ恥ずかしくなるものはない。
 一方で、三輪くんの家族についてはというと、そこまで深く聞き出そうとは思わなかった。三輪くんは早くにお母さんを亡くしていて、今は父子家庭であるらしいから、こちらからはあまり首を突っ込むべきではないと配慮していたのだ。
 それゆえ、その日は雨が降っていたんだ、と三輪くんがお母さんのことについて話し始めてくれたときも、なるべく邪魔せず、ただ心の耳を傾けることに専念したのである。
「スイミングスクールの帰り道、母さんに連れられて横断歩道を渡っていたら、突然、車が飛び込んできたんだ。俺はその時、水たまりを踏みながらゆっくり歩いていたもんだから、その車の前にはいなかったんだけど、母さんは見事に撥ねられてて、クルクルって、傘の上の駒みたいになってて。車はそのまま停まりもせずに走ってって、気づいたら、もう、病院だった」
 三輪くんは、表情を変えずに、淡々とそう言っていた。
 事故現場となったその道路は人通りも少ない場所だったようで、目撃者は三輪くんただ一人だったらしい。しかしその時の三輪くんには、即座に救急車を呼びつけるほどの知識も、車のナンバーを覚える機転も備わってはおらず、ただ泣きじゃくるのが関の山だった。結果として、三輪くんのお母さんはその日のうちに亡くなってしまい、犯人は過失致死とひき逃げの容疑で捜索されているのだそうだが、いまだ逮捕には至っていないらしい。
 話している間、三輪くんはなるべく感情を出さないように努めていたが、その奥にある悔しさはどうしたって透けて見えた。けれど、ぼくに気を遣わせないために敢えて平静を装っていたのだ。そういう大人なところが、三輪くんらしいところでもあった。
 とにかく、こんなに深い話から、本当に大したことのない話まで。三輪くんとは、もろもろの言葉を交わしたものだった。
 ──そう。だからこそ。
 逆に、聞けなかった、聞けなくなったことも、あった。
 例えば、三輪くんは、ぼくのこと、どう思っていたんだろう、とか。
 ぼくに気を遣って、時間を合わせてくれていたのではないか、とか。
 本当は他のみんなとの時間も、そりゃ少しは欲しかったんじゃないか、とかとか。
 そういった言葉たちを、喉元まで出しかけては再び呑み込んで、ぼくは別の、いろいろな話をすることにしていた。だって、そんなことを聞いてしまっては、どういう風に思われたものか、分かったものじゃない。ぼくらは、恋人などではないのだ。
 それらの言葉は、今までに呑み込んだどんな言葉よりも、苦い味がした。

 そんなぼくら二人にとっての収穫の季節は、しかし、父から聞いていたよりもずっと早くに訪れた。
 六月に入るとすぐ、今月いっぱいでまた転校することになった、と三輪くんから打ち明けられたのだ。しかも、今度の転居先は隣の県の山奥の村で、なかなか気軽に会えるような距離でもないらしい。
 ここまで残念な気持ちになることはそうそうなかったが、家庭の都合ならば仕方あるまいと割り切り、残り少ない時間を大切にして、かけがえのない思い出を作ろう。そう心に誓っていた。──はず、だった。
 その日から徐々に、三輪くんと過ごす時間が気まずくなってしまったのだから、心ってのは信用ならないな、と思う。
 原因はわからない。けれど、何か話さなくては、思い残すことがないようにしなければと考えるほどに、何を話していいか途端にわからなくなってしまっていたことが、その気まずさの一端を担っていたように思う。結果として、昼休みも帰り道も、ぼくらは沈黙することが多くなってしまっていた。
 さらに三輪くんも三輪くんで、引っ越しの準備に大忙しだったのだろう。なんだか疲れが溜まっているようにぼくには見えた。帰り道はずっと何かを思案している様子が見て取れたし、ある時から、昼休みは用事ができてしまった、とあからさまに断られてしまうようになっていた。ぼくもぼくで、疲れているならば、用事があるならば、と輪をかけて気を遣ってしまうものだから、気まずさはますます膨れあがっていき、もう悪循環で、どうしようもなかった。
 そんな日々が続き、さて、問題は今日だ。
 今日は、三輪くんの転校前最後の日で、今は、その放課後で。ぼくは、屋上の手前の踊り場のところで、身を隠していて。
 つまるところ、逃げていた。帰りの会を済ませると、そのまま誰も寄りつかなそうな場所を探し当て、三輪くんには何も言わず、姿も見せずに、隠れてその場をやり過ごすことに決めたのだ。
 知り合って三ヶ月、という短さではあったが、三輪くんのように始終時間をともにし、ましてやお互いの個人的な部分にまで深く突っ込んで話す間柄になった友達なんて、今まで一人もいなかった。
 そうだ。三輪くんは、紛れもなく、ぼくの親友だった。
 なのに、そんな三輪くんとのお別れですら、上手に出来ないのだ、ぼくは。
 圧倒的にお別れが下手なのかもしれない。あるいは、そんな三輪くんだからこそ、お別れが上手に出来なかったのか──。
 どちらにせよ。今の自分がとんでもなく情けないことには、変わりなかった。
 耳をすます。屋上の扉の先から、雨の音が聞こえてきた。
 雨の音は、ユーウツを加速させる。雨そのものがユーウツなのだから仕方のないこと、とは言え、せめて雨のあとには、ご褒美みたいなものがあったらいいのにな。そしたら、雨に対する印象も、少しは、マシになるのに。
 なんて関係のないことを考えて、自分をごまかしてみる。それでもその時折には思い出してしまうので、その場でうずくまって、やがて目をギュッと瞑ることにした。眠るつもりはなかった。逃げた、という現実を見つめ続けるのが、辛かっただけだ。
 ──恐らく。次に、この目を開けたとき。
 三輪くんは、もう、この学校にはいないのだろう。
 そうしたら、あとは、一人で暮らそう。ここで、一人で。お別れが苦手ならば、誰とも交わらなければいい。どんなに邪魔されたって、目を開けなければいい。
 誰にも心開かず、どんな音にも反応せず。
 何にも混乱せずに、生きていくのだ。そう決めた。

(次回へ続く)

本書は7月14日発売です。ご予約はこちら

Profile

虻川枕

1990年、宮城県生まれ。日本大学芸術学部映画学科脚本コース卒業。卒業後はゲーム会社に入社し、プランナー/シナリオライターとして務めたのちに退社。第六回ポプラ社小説新人賞を受賞し、本作でデビュー。
ツイッターアカウント @abu_maku

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