パパとセイラの177日間

まはら三桃

パパとセイラの177日間

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パパの背中は気持ちいいのに

「セイラ、急げよ」
 Tシャツから頭を出して耕生が声をかけると、セイラはメロンパンをほおばりながら振り向いた。
「まだじゃんけんしてないよ」
 不服そうな顔だった。セイラはいつも見ている朝の番組のゲームコーナーでじゃんけんをしてから「ごちそうさま」をする。
 朝食を終えてから、歯を磨き、トイレに行って保育園へ行く準備を整えると、八時三十分。これがセイラのルーティーンだ。
「今日は保育園まで歩いて行くんだよ」
「えーっ」
 耕生が言うのに、セイラはブーイングのような声を上げる。
「仕方ないだろ、自転車はママが持って行っちゃったんだから」
 普段通園用に使っていたママチャリは、沙織が持って行ってしまった。Tシャツの上からシャツをはおりながら言うと、「じゃあパパのコルナゴで行けばいいじゃない」
 セイラは目を輝かせた。以前住んでいたマンションで使っていたもののほとんどは、このアパートに引っ越してくるときに処分した。沙織の指示でリサイクル業者に売ったのだ。が、クロスバイクだけは手放せなかった。イタリア製の有名ブランドであるコルナゴのバイク。耕生が興した会社が東証マザーズに上場した記念に買ったものだった。
「会社はなくなったのに、記念だけあったって仕方ないでしょ」
 沙織は売却をすすめたが、どうしても売れなかった。沙織に対する反発がほとんどだったが、かつての栄光の唯一の証を手放すことはできなかった。自分の積み上げた事実まで、消えてなくなるような気がしたのだ。意地でも離すもんかと持ってきたコルナゴは、安アパートの駐輪場にカバーをかけて厳重に鍵をかけて置いてある。
「荷台がないでしょ」
 耕生が出された提案を却下すると、セイラはふっと目を伏せた。
「パパの背中は気持ちいいのに」
 くーっ。
 耕生は身もだえしそうになるのをなんとか踏ん張って耐えた。そこいらのすれた女が言ったのならば、あざといと一蹴しそうなこの一言が、自分の娘が発するとどうしてこうも胸に突き刺さるのか。それは?ではないことが明白だからだ。そうだ、セイラは自転車に乗ると決まって背中に?を寄せてくる。
 今にも飛び出しそうな涙をぐっとこらえ、耕生は言った。
「コルナゴにはチャイルドシートが付けられないから無理だよ」
「そうね。パパがおまわりさんに連れて行かれちゃ困るもんね」
 この言葉にも心が乱れた。会社が倒産に追い込まれたとき、危うく警察沙汰になりそうだったのだ。どうにか民事で収まったが、和解金の支払いはまだ続いている。
「ごちそうさまー」
 父親の動揺を知ってか知らずか、セイラは無邪気に手を合わせて、食器を台所に持って行った。
「洗っている間に歯磨きな」
 いつものように言い、耕生は皿を洗う。子ども用と大人用の二人分の食器はあっさり洗いあがった。たった一人分減っただけなのに、簡単すぎて不思議な気さえする。
 セイラは着替えに取りかかっていた。着脱の楽なTシャツとパンツくらいなら、三歳前から一人で着替えられたので、今ではそでのボタンもちゃんと留められる。今日は無地のグレーのTシャツとソフトデニムのパンツを着るようだ。次の日に着る物は前夜にそろえておくように沙織がしつけてくれた。耕生としてはもう少し女の子らしいスタイルをした方がいいのではと思うが、セイラのワードローブにはフリルやレースはおろか、スカートさえもあまりない。本人の好みらしい。
 沙織似だな。
 沙織もファッションにはあまり興味を示さない性質だ。だから、コルナゴもさっさと売れなどと言ったのだ。沙織は、洗練されたものがもたらす豊かさやうるおいを解さない野暮な人間だ。

 セイラの手を引き保育園につくと、入口で元気な声が迎えてくれた。
「月野さんおはようございます。セイラちゃん、おはよう」
 セイラのクラスの担任の彩夏先生は、二十代半ばの元気な先生だ。一年を通して胸にひまわりがプリントされたエプロンをつけている。ちなみにひまわりは花芯の部分がポケットになっていて、タオルやティッシュやパペット人形などの必需品が入れてあり、いつも大きく膨らんでいる。
「彩夏先生おはよう」
 セイラの視線の高さに目を合わせるようにしゃがんだ先生に、セイラは返事をした。いつもと変わらぬ光景で、耕生はひとまず安堵する。
 沙織がいなくなってもさして態度を変えないセイラだったが、「行かない」とごねられやしないかが少々不安だったのだ。生後半年から保育園通いをしているセイラの歴史の中にも、登園拒否は何度かあった。
 だがセイラは耕生の手をあっさり離れた。教室に向かって走り出すのを見届けて、「じゃあ、よろしくお願いします」
 帰ろうとした耕生だったが、彩夏先生から呼びとめられた。
「あの、月野さん」
 その声になにがしかの湿り気を感じてぎくっとする。もしやセイラの様子に変わったところでも感じとられたのだろうか。今どき離婚家庭など珍しくもないが、育児のプロは見抜いたのだろうか。
「はい?」
 おそるおそる振り向くと、彩夏先生はやはりやや暗い顔をしていた。何を言われるのかと構えたが言葉は続かず、「あのこれ」。
 小声で言いながらひまわりポケットの中から小さな紙を取り出した。B5判の用紙の半分くらいのサイズである。
「よろしくお願いします」
 早口に言い、素早く耕生の胸に押し付けすっと離れた。そして、何事もなかったように園児たちの出迎えに戻った。
「おはようございまーす」
 片耳で明るい声を聞きながら、紙に目を落として耕生はぎょっとした。
 まず、手書きの数字が目に飛び込んできた。4、5、42800。それが何であるか瞬時にわかり、耳の裏が赤くなった。逃げるようにその場を離れ、五メートルほど歩いたところで改めて手元の紙に目を落とした。落ち着いて、印刷文字を含んだ全体を確かめる。
 月謝滞納のお知らせ
 4月、5月分 42800円
 6月25日までにお願いいたします。
「あちゃ」
 駅への道を急ぎながら、耕生は思わず声をあげてしまった。セイラの保育料はいくつかある耕生名義の通帳の一つから引き落とすことになっている。半年前、会社の整理が完了した際、当座の用意はしておいた。しかしいつのまにやら底をついていたらしい。
「四万二千八百円か」
 一か月分のセイラの保育料、二万一千四百円。半年前は延長保育料を含めて六万八千円ほどの料金を払っていた。保育園の月謝は、各家庭の収入で違うのだ。半年前までは上限だったものが、一気に最低ランクに落ちた。当時は会社の整理で頭がいっぱいで、そのシステムにありがたさも情けなさも感じなかったが、改めて複雑な心境になった。
「四万二千八百円か」
 思わずくりかえしたつぶやきのしみったれ具合に耕生は舌を打つ。ほんの数年前まで数億円単位の数字を動かしていたというのに、四万円にこれほど動揺するとは。
 我ながら受け入れがたい話だが、入金は急いだ方がいいだろう。滞納が続けば、セイラは退園させられてしまうかもしれず、それは由々しき事態である。沙織に言えば融通してもらえそうだがそこは避けたい。会社が解体したときに生じた借金を、役員だった沙織も一部かぶっている。しかもあの離婚届だ。どんな顔をして保育費の無心をすればいいというのか。
 駅までの道を急ぎながら、耕生は通帳にあるはずの数字を思い出した。今月の引き落とし予定数字。出資者への返済や、支払うべきかつての取引先への和解金。
 数字に明るい耕生の頭に、やがて浮かび上がった融通可能な数字からは四万二千八百円は引くことができなかった。今月、アルバイト先から支払われるはずの給与は、セイラとの生活にぎりぎりだ。
 売るか。
 耕生は、足を速めた。交互に出している脚が、朝日が作った短い影を追いかける。

<生計が苦しいことをまざまざと実感した耕生。決心したのは何か──。続きは3/5の更新をお待ちください>

Profile

まはら三桃

1966年、福岡県北九州市生まれ。第46回講談社児童文学新人賞佳作入選し、『カラフルな闇』でデビュー。『鉄のしぶきがはねる』で坪田譲治文学賞を受賞。他に『鷹のように帆をあげて』『奮闘するたすく』『白をつなぐ』など多数の作品がある。

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