『活版印刷三日月堂 星たちの栞』ほしおさなえ<特別動画公開中>

評者:藤田香織

知る楽しみ、読む悦び。明日に寄り添う物語

知る楽しみ、読む悦び。明日に寄り添う物語

子どものころ、難しい漢字の横に記された小さな文字のことは「ふりがな」と呼んでいた。

 いつのころからか、それを「ルビ」とも呼ぶのだと知って、今や当たり前のように使っている。雑誌や漫画を読んでいて、こんな漢字にまでルビ振るの? と思うこともよくあるし、自分の書いた原稿に、校閲さんから<ルビ?>と赤字を入れられることもある。ルビによって、そう読むのか! と学ぶことも珍しくない。

 でも、だけど。「ルビ」が、なぜ「ルビ」と呼ばれているのかなんて、まったく考えたこともなかった。

 そう、この『活版印刷三日月堂』を読むまでは。

タイトルからも推測できるように、本書の舞台となっているのは、かつて城下町として栄え小江戸と呼ばれた川越の街に古くからある印刷所だ。その店「三日月堂」は、五年ほど前に閉店し、店主夫婦も亡くなり、長く空き家になっていたのだが、ある日、亡き店主の孫娘・月野弓子が引っ越してきたことから物語は動き出していく。

事情があって、ひとりでここに住むことになったという二十八歳の弓子は、あるきっかけから「三日月堂」を再開。昔ながらの活版印刷に興味を引かれて店を訪れた人々との交流と、様々な心模様が連作短編形式で描かれる。

「世界は森」の主人公・市倉ハルは、十八歳になる息子の森太郎とふたり暮らし。十四年前に夫を亡くして以来、川越市内専門の運送会社で働きながら、女手ひとつで森太郎を育ててきた。息子は春から北海道の大学で寮生活に入ることが決まり、ようやくひと息つけることになったものの、ふとした瞬間、寂しさも込み上げてくる。そんなとき、森太郎の大学の入学祝いに、かつて自分が両親に作ってもらった三日月堂のレターセットを贈りたいと思いつき、越してきたばかりの弓子に相談。そのことが、三日月堂を再開するきっかけにもなっていく。

 続く「八月のコースター」では、大学生の頃にアルバイトをしていた亡き伯父の珈琲店を継いだものの、いつまでたっても自分は伯父の代理にすぎない、という違和感を抱える岡野の屈託を。「星たちの栞」では、川越市内にある私立高校の文芸部に所属する、類稀な文才を持ちながら家庭に問題を抱えた侑加と、その才能に複雑な思いを抱く部長の小枝に、ふたりを見守る文芸部顧問の遠田の過去を重ねて語られる。最終章の四話目となる「ひとつだけの活字」の主人公・雪乃は、翌年の三月に結婚を控えているものの、夫となる友明の海外赴任に伴い、図書館司書の仕事を辞めて街を離れることに逡巡を抱えている。

 それぞれに悩みや迷いを持つ彼らが、小さな繋がりから三日月堂を訪れ、弓子に相談しながら「レターセット」や「コースター」や「栞」や「招待状」に、どんな文字を刻んでいくのか。その経験を経て、気持ちがどのように変わっていくのか。個々のドラマは読者の心に、ゆっくりと沁みていく。

 と同時に、知っているようで知らない世界を覗き見る興奮を、登場人物同様に体感できるのが本書の大きな魅力だろう。

 鉛を主とした活字は産業廃棄物なので、ふつうには捨てられず、三日月堂には印刷機などと共に、そのまま残されていた。教室の半分ほどの広さの店には、四方の壁一面に天井まで棚があり、鈍い銀色の活字が積み上がっている。   

文字の種類は漢字だけで七千五百種。同じ文字にいくつものサイズがあり、文章として活字を「組む」ためには一種類の文字が何本も必要になる。たとえば「おはようございます。今日はいい天気ですね」という文を印刷するだけでも、「い」は三つ、「は」と「す」の活字は二つずつ必要になるのだ。

 印刷業界ではインク、ではなくインキ、ということ。活字を鋳造して販売する活字店という存在。かつて銀座にその活字店や印刷屋がたくさんあった理由。読み進めていくうちに「ルビ」だけではなく、たくさんの、毎日目にしているのに「考えたこともなかった」物事について知る楽しさが広がっていく。<「すごくない? 活版印刷だよ。ジョバンニが働いてたとこだよ?」>。三日月堂の存在を聞いてはしゃぐ侑加の言葉に、ああ、と、自然に頬が弛んでしまう。

 コンピューターのなかの文字とは違って、活版印刷で使われる活字には、重さがある。厚さもある。「もの」としての存在感がある。さまざまな理由から自分の存在を見失いかけた登場人物たちが、小さな活字に励まされ、前を向いていくと共に、「事情」を抱えた弓子の気持ちが解けていくことにも、安堵せずにはいられない。

 今はもう絶版となり、組まれた活字も解版され、すべて破棄されたであろう一九七0年代に編纂された宮沢賢治の全集を手に、弓子は言う。<「不思議ですよね。版も活字もないけれど、印刷された文字はこうして残っている。実体が消えても、影は残る。影が実体になって、いまもあり続けている」>。言葉を受けた遠田はその「不思議」を思う。

<この本を組むために活字を拾った人も、活字も、印刷機も、もうなにもないかもしれない。それでも本はそのまま残っている>。

 人間もまた同じだ。いつかこの世を去る日が来ても、関わった人々の心には亡き人の「あと」が残る。少し怖くもあるけれど、そのことを、今、心強く感じている。

Profile

評者 藤田香織
(ふじた・かをり) 書評家。著書に『だらしな日記』『ホンのお楽しみ』、共著に『東海道でしょう!』などがある。

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