西加奈子『i』

評者 藤田香織

自分で自分を見放すな! 深く大きなアイの物語

自分で自分を見放すな! 深く大きなアイの物語

 カメラの前で「自分らしく生きたい」的なことを言う芸能有名人を見るたびに、その屈託のなさを凄いな、と思う。
 青臭いことを言うようだけど、私は未だに自分で自分がよく分らない。ナンバーワンどころか、オンリーワンになれる気も全くしないし、いくつになっても、友人、知人、他人が持っているものと、自分が手にしているものを比べずにはいられなくて、「私は私」だなんてちっとも思えない。
 自分らしいって何? オンリーワンって何? 「私」って、つまり何? 疑問はずっと心の奥底にある。
 もちろん、日々の暮らしのなかで、そんなことを口に出したりはしない。気付かないふりをして、見ないふりをして、鈍くあることで毎日をやり過ごす。仮面をかぶって、スイッチを入れて、モードを切り替えて働き、その場その場で与えられたポジションに相応しいと思われる言動を心がけ、そうしているうちに、また少しずつ、自分が遠のき、薄まっていくような気持ちになる。そんなことを繰り返しているから、いつまで経っても自分を掴みきれないのだろう。けれど、こんな話は口に出した瞬間「厄介」さをまとってしまうし、そもそもこうして書いていること自体、繊細アピールのように受け取られかねない。
 分らないことと向き合うのは怖い。それを人に話すのはもっと怖い。でも、だけど――。本当は分っているのだ。いつまでも、自分自身から眼を逸らし続けることなんて、誰にもできない、ということを。
「i」と題された本書は、一九九八年、シリアで生れた少女の物語である。名前は「ワイルド曽田アイ」。れっきとした本名だ。アメリカ人の父・ダニエルと日本人の母・綾子は日本語で「愛」、英語で自分自身の「I」という意味を持つことを気に入り彼女にそう名付けた。自分をしっかり持った愛のある子に育って欲しい、と。
<「この世界にアイは存在しません」>。
 物語は、高校の数学教師が、昨日入学式を終えたばかりの生徒たちに向かって、そう切り出す場面から幕を開ける。虚数についての話だったが、その言葉は、アイの心に深く刻まれた。
 アイは両親の「本当の子ども」ではなく養女だった。生れて数ヶ月のうちに、シリアからニューヨークのブルックリンに暮らす両親のもとへやって来たことを、ふたりは隠さずきちんと話してくれたし、何よりも、血の繋がりがないことは、容姿を見比べれば一目瞭然だった。
 母親の綾子は、アイは幼い頃から手のかからない「グッドガール」だったと言うが、アイは自分がナチュラルにグッドガールだったのか、「そうでなければいけない」と思ってそうしていたのか分らなかった。
<覚えている限り、自分が「養子」であるという意識は、いつもどこかにあった。それを忘れたことなどなかった。両親とまったく違う自分の容姿にいつも対峙しないといけなかったからだったし、アイが特に心を尖らせて、自身の環境をみつめていたからだ>
 ワイルド、という姓とは裏腹に繊細極まりない子どもだったアイは思う。自分は「不幸な幸せ」を手にしているのだと。恐らくは過酷な状況にあったに違いない場所から、自分は裕福で優しい両親のもとへやって来た。でも、そうして選ばれた自分がいるということは、選ばれなかった誰かがいるということだ。自分は誰か他の子の幸せになる権利を奪ったのかもしれない。どうして自分だったのだろう。恵まれていることを恥ずかしいと思い、感謝するより先に苦しみ、けれど、感謝できないなんて絶対に許されないことも十分に分っていて、そんな複雑な気持ちを表現できず、自然に黙りがちになった。
 ニューヨークから東京へ。少女から大人の女性へ。自分の意見を<簡潔に伝えること>が苦手だったアイの上手く言葉にできない思いを丁寧に掬い上げながら、本書はその変化を追っていく。日本の学校という社会のなかで、肌の色も体型も圧倒的に異質な自分。みんなと同じには決してなり得ない自分。「この世界にアイは存在しません」。その言葉を思い浮かべるたびに、寂しさと同時に何故かほっとしてしまう自分。アイは「I」を見つめ続ける。
 そんな彼女が、自分自身から大切な人へ、そして更にその周囲の人々へと少しずつ少しずつ認める世界を広げ、居場所を見つけ、折り合いをつけていく課程が胸に迫る。友情、恋、結婚、不妊治療。不器用で頑なで、聡明で懸命なアイの抱える屈託と葛藤を見守るうちに、読者の思いは自分自身へも向かっていく。
 あるいは、家政婦にさえ古着を「あげる」のではなく「もらってもらう」と言うようなアイの両親に対して、偽善的な思いを抱く人もいるだろう。安全な場所から、手を汚すことのない範囲で捧げられる祈りや寄付に、鼻白むかもしれない。けれど、そこにも確かに「愛」はあるのだと気付くのだ。そうした腑に落ちる瞬間が、本書には数え切れないほどあって、目を開かれる。
 見ないようにしていた物事に焦点を合わせて見る勇気と覚悟。この世に生れてきたこと。愛する人がいて、愛してくれる人がいたこと。今、ここにいること。当たり前に思っていたことを改めて強く思う。
 自分で自分を手放してしまうわけにはいかない。アイの物語は、たくさんの「I」に、そんな力を授けてくれることを確信している。

 それは同時に「愛」を知っていく過程でもある。

Profile

藤田香織
書評家。著書に『だらしな日記』『ホンのお楽しみ』、共著に『東海道でしょう!』などがある。

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