絶望と希望の混じった強烈な吸引力 それぞれの「これから」を見たい

評者 宮下奈都

一木けい『愛を知らない』

一木けい『愛を知らない』

 何も知らずにこの小説を読んだ。青春小説かな、と思ったのだ。その印象はどんどん変わっていき、引きずり込まれるように読み進めるのをやめることができなかった。だから、この評をどう書こうか、とても迷う。この小説は、たくさんのものを投げかけてきて、いくつもの問いと迷いを残す。私はそれをまだ手放せずにいる。

 主人公は高校二年生の「僕」。合唱祭で、クラスのピアノ伴奏を弾くことになる。そこで指揮をする青木さんと、バスのソロをするヤマオ、アルトのソロをする橙子とかかわるようになる。橙子は僕の遠い親戚にあたり、情緒不安定で、風変わりで、わがままだ。これは僕の語る橙子の物語でもある。僕の視点で語られていくから、僕に見えている範囲だけが僕の世界だ。しかし、やがて、聞こえなかった音が少しずつ聞こえてくるように、見えていなかった何か不穏なものが見え隠れするようになる。
 登場人物たちが、とても魅力的だ。高校生たちの、とりわけヤマオの魅力が光っている。誰にでも歴史があって、誰にでも事情がある。ヤマオにもだ。それがとても自然な形で垣間見えるのがいい。
 大人たちの存在感も素晴らしかった。物わかりのいいだけの人など、ひとりも出てこない。主人公の母・すみちゃん。橙子の母・芳子さん。ピアノの先生である冬香先生。人生に脇役なんていない、と思うけれど、小説の中には主役と脇役が生まれる。でも、この小説では、脇役であるはずの人物たちも光っている。ちゃんと息をして、そこに生きているのがわかる。
 主人公にピアノを教えている冬香先生は、ピアノのみならず、人生の師ともいえるだろう。家族や学校の先生とは違い、毎日顔を合わせるわけではない、斜めの立ち位置にいる人だ。この人が、ただものではない。後半、思いがけない出来事の板挟みになって惑う僕に、冬香先生の存在がありがたい。
「見たいものだけ見てるからよ」
 冬香先生はいう。歌曲の楽しみ方について話しているときだ。でも、この言葉が後に響いてくる。見たいものだけ見てるから。だから、大事なものを見落としてしまう。行きたい場所にたどり着くことができない。
 後に、奇しくも、橙子も同じ言葉をいう。
「誰も彼も、見たいものだけ見て、信じたいものだけ信じるよね」
 何を見なければならなかったのか。何を信じてほしかったのか。なかなか明かされない真実に緊張感が増していく。
 僕視点の章の間に、ときどき挟み込まれる日記がある。これが誰のものなのか、この切り裂かれるような痛みを吐露しているのが誰なのか、しばらくわからないままだった。誰にも当てはまらないように思えるし、誰であってもおかしくないようにも思えて、おそろしくなる。
 その日記の書き手が誰であるのか、意外な人物であることがはっきりしてくると、物語が歪みはじめる。いや、歪んでいたのは初めからだったのだろう。ただ、それがきれいにラッピングされていて、どこにほころびがあるのかさえ見えていなかった。
 日記の書き手を、壊れている、と断じてしまうのは簡単だ。だけど、どこで、どうして壊れたのか。あるいは壊されたのか。考えていくと、気持ちが重くなってくる。この人はたしかに酷い母親ではあるが、この人だけを責めても意味がないように思える。この人が酷い母親になる準備は、ずいぶん前から少しずつ整えられていったのだ。もちろん、だからといってこの人が免罪されるわけではない。ただ、誰かが誰かを傷つけることによって、誰かの何かが壊れてしまい、壊れた部分がまた別の誰かを傷つけてしまう。そういう連鎖の一部が肥大してしまったのだろう。一生懸命だったのに。しあわせになろうとして一生懸命がんばってきたのに、うまくはいかなかった。
 ことさら重い気持ちになるのは、幼い頃、父を亡くし、泣いてばかりいた母とふたりだけになってしまった僕にとって、この人だけが「唯一の光だった」という事実を知っているからだ。「僕は今でも(中略)胸がいっぱいになる。嵐の中を漂う小舟から振り落とされそうになっている僕たち母子をたすけだして、大きな船に乗せてくれたのは」この人だったのだから。だからこそ、僕はなかなか真実にたどり着けない。まさかこの人が「暴走」しているとは想像もしていない。「光だった」ことは、僕にとって偽りのない真実なのだ。それも、見たいものだけ見てるから、ということになるだろうか。
 橙子のある決断によって、最後に光が差し込む。この決断が誰かを傷つけるとしても、これからを生きるために、迷い、苦しみ、悩んだ末に、選んだに違いない。あきらめのほうがずっと大きかったように見えた橙子が一歩を踏み出せたのは、きっと、合唱祭で見事にソロを歌いきった体験があるからだ。そこに至るまでの僕たちとの日々がなければ、何も変えられずにいたかもしれない。
 合唱祭の場面は圧巻だった。歌を歌うということ、音を合わせる、心を合わせるということが、これほど力を持つのか。ヤマオに「生きようと思いました」といわしめた橙子の歌が、力強く、美しく描き出される。本を閉じた後も、その声がいつまでも耳に残っている。

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一木けい『愛を知らない』
定価:本体1500円(税別)

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Profile

評者 宮下奈都
2004年「静かな雨」で文學界新人賞佳作を受賞してデビュー。2016年『羊と鋼の森』で本屋大賞受賞。他の著書に『スコーレNo.4』『メロディ・フェア』『とりあえずウミガメのスープを仕込もう。』など。

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