才能の分岐点

おおたとしまさ

才能の分岐点

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両親が、僕をプロ野球選手に育ててくれた(2)


元プロ野球選手・福本誠さんインタビュー【後編】

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バッティングピッチャーからつかんだチャンス

 
 大学に入ってからはどうだったのか。
 「先輩たちの選手の層は分厚いし、同期もほとんどがセレクションで入ってきている奴らです。付属から上がってくるような選手ははっきり言って味噌っかすなんですよ。そういう目で見られます。練習でもグランドにすら入れてもらえないんですから」
 まるで出自による「野球差別」である。そこからどうやってチャンスをつかんだのか。
 「そこで転機になったのがバッティングピッチャーでした」
 レギュラーの先輩たちに対して後輩がバッティングピッチャーをする。しかし多くの選手が緊張してうまく投げられない。ピッチャーでも難しい。ところが福本さんにはできた。
 「先輩相手のバッティングピッチャーはみんな嫌がるんです。でもどうせグランドの外でボール拾いをさせられているくらいなら、バッティングピッチャーでもいいからボールを投げているほうがましだと思って。そうするとちゃんとストライクが入るから、『おお、お前、いいな』となるんです。神宮で試合があるときには、バッティングピッチャーをするとお昼のうどんの食券をもらえます。それがうれしくて、志願してやっていました」
 それでも選手としてのチャンスはなかなか回ってこない。チャンスは本当に意外なところから回ってきた。
 「実業団野球の日本石油(現在のエネオス)のチームが大会前の強化合宿をやるときに、法政大学のピッチャーがバッティングピッチャーをしに行く習わしがありました。でもあるときに、同期のピッチャーが軒並み故障で誰も参加できませんでした。誰かやってくれるやついないかということで、僕がまた志願したんです。野手なんですけど(笑)。実業団の選手相手に投げられる機会なんてなかなかないし、1日5000円くらいのアルバイト料がもらえるというし、学校のグランドのまわりでボール拾いをしているよりは全然いいじゃんと思って」
 いつものように、気負うことなくストライクを投げた。すると、日本石油のピッチングコーチから、「お前、いい玉投げるな。ブルペンでも投球を見せてくれ」と言われた。
 「まずいなと思いましたよ。だって本職のピッチャーじゃないのに、実業団の選手を相手に投げていたことがバレてしまうわけですから。でも仕方ありません。正直に経緯を話しました」
 すると今度は内野の守備コーチが「ノックを受けて行けよ」と言ってくれた。後日、そのコーチが、法政大学の監督に「いい選手ですね」と伝えてくれた。それで監督が初めて福本さんの存在に気づき、「お前、ちょっと守備に入ってみろ」ということになった。
 「そこからノック練習に入れてもらえるようになりました」


千載一遇のチャンスをものにしてプロへ

 
 同じ守備位置には1年先輩のすごい選手がいたが、彼は4年生のときに大スランプに陥った。代わりに出場した試合で、福本さんはホームランを放った。それまでほとんどベンチにも入れてもらえなかった選手が、一躍注目選手になり、盗塁王に輝き、ベストナイン賞も受賞した。大学3年生の秋だった。
 実業団野球の複数のチームから声がかかった。住友金属から内定をもらった。
 「そのときにはもう社会人で野球を続けることも、自分の能力的になかなか厳しいなと感じていました。それで野球をやめてからも面倒を見てくれる会社が良いなと思って、選びました。ましてやプロなんて......と考えていました」
 しかしドラフト会議を前にして、「指名しますから、実業団への内定を辞退してください」と連絡を受ける。当時日本一に輝いたばかりの横浜ベイスターズからだった。
 子供のころからの夢が叶う。プロでどこまでやれるかはわからないけれど、せっかくのチャンスを手放すわけにはいかない。二つ返事で了承した。まるでシンデレラストーリーである。
 しかし当然プロの世界はとてつもなく厳しい。
 「日本一になったチームです。僕と同じショートには石井琢朗さんがいました。サードが進藤達哉さんでセカンドがローズさん。ファーストは駒田さんですよ。つけいる隙がない。で、僕は2軍になるわけです。プロになっても2〜3年で結果を出さないと、チャンスはどんどんなくなります。僕はプロに入って、初めて試合に出られない悔しさを知りました。高校のとき、試合に出られなくて応援団に回ってくれた同級生がいましたが、彼らの気持ちが初めてわかった気がしました。いろいろな人を踏み台にさせてもらっていたことに気づいたんです」
 2002年には1軍で36試合に出場し打率271を記録するも、2006年引退。球団職員となった。


自分がプロになれたのは奇跡


 選手人口が多い野球において、自分よりも優れた選手もたくさんいた中で、プロ野球選手というひと握りの人しかつかめない夢をつかめたのはなぜか。逆に言えば、せっかく才能があっても夢をつかめない人には何が足りないのか。
 「ラッキーの要素はあったんだろうなと思うんですよね」
 「ラッキー」あるいは「運」これは多くの一流の人が口にする言葉だ。ただし、運が回ってくる確率を高められるか、運が回ってきたときに確実にものにすることができるかには違いがあるはずだ。
 「そうですね。一つ言えるのはあきらめなかったということですね。シニアリーグに行くときも迷ったし、高校から大学に行くときも迷いました。でもあえて厳しい道に進んだことは正解だったのでしょう。ただし、自分の子供が同じ道を歩むことは、親としては望みません。本当に厳しい道ですから。自分がプロになれたことだって奇跡のようなことだと思っています。そんな道に進ませようなんて、普通の親の心では思いません。本人が強く望むのならもちろん応援しますけど」
 プロの目から見て、「この子は才能あるな」というようなことはわかるのか。
 「それはわかります」
 スポーツをやっていた人なら、身体能力の高さや運動神経の良さはだいたいわかる。さらに野球という種目に独特のセンスがあるかどうかも、動きを見ればある程度わかるという。
 逆に、ものすごく野球のことを愛しているけれど、いかんせんセンスがないという子供もいるのではないか。
 「たしかにいます。でも、小学校の監督も中学校の監督も高校の監督も、僕がプロにまでなるなんて思っていなかったと思いますし、才能があるとかないとか、子供のころから判断するのは良くないなと思います。子供には本当にいろいろな可能性があって、いちばん大切なのは野球が好きかどうかだと思います。野球が好きならほっておいても練習するんです」
 幼少期からメディアの注目を集めるような野球エリートでは決してなかったが、「好き」の一心で野球を続けた結果、40歳になった今でもユニフォームに袖を通す幸せな人生を送っている福本さんの言葉には説得力がある。野球に限らず、スポーツに限らず、音楽でも勉強でも同じだろう。「好き」で続けていれば、成績はどうであれ、いつか幸せがついてくるのかもしれない。 



【元プロ野球選手・福本誠さんプロフィール】

1976年東京都生まれ。小学2年生から地元の少年野球団で野球を始め、法政二高から法政大学へ。東京六大学野球ではベストナイン選出と盗塁王にも輝いた。1998年ドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。2006年まで8シーズンプレーし、その後球団職員に。現在はバッティングピッチャー兼用具係を務める。


次回更新は11月30日予定!




Profile

おおたとしまさ

育児・教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。上智大学英語学科卒業。リクルート入社後、2005年に独立。育児・教育に関する執筆・講演活動をおこなう。心理カウンセラー、中高の教員免許を持ち、私立小学校の教員経験もある。著書に『男子御三家』(中公新書ラクレ)、『名門校とは何か?』(朝日新書)、『ルポ塾歴社会』(幻冬舎新書)、『ルポ父親たちの葛藤』(PHPビジネス新書)などがある。

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