東京老舗ごはん 大正の味

森まゆみ

東京老舗ごはん 大正の味

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深川「みや古」

 深川はその名の通り水路に囲まれた古い町である。深川は木場といった木材の集積所もあったし、それに付随して木やりや角乗りの文化も栄えた。幾つかの川は埋め立てられたが、今もまだ水が見え、橋が架かる。都営新宿線、そして大江戸線ができ、森下や清澄白河へはとても便利になった。
 東京にはさしてこれといった郷土料理がない。20年ほど前、根津や谷中で、よく作る家庭の味はなんですか、と聞くと、「お芋の煮ころがし」「なすといんげんの煮物」というような、野菜の煮物が多かった。これもおいしいには違いない。
 でも、いかにも東京と言える味はないものだろうか。と思いついたのが深川飯。家でも深川飯を作ることはあったのだが、その場合は、剥きあさりと油揚、小松菜をやや甘辛く煮て、炊きたてのご飯にかけるぶっかけ飯であった。本家深川飯を名乗る「みや古」の女将・谷口栄子さんは言う。
「先代の父春義は、それは働く者の常食だからと嫌がりましてね。お客様に出してお金いただくなら、もう少し上品な、優雅なものをとあさりの炊き込みごはんにしたんです。そして主人の3代目信義が新潟の「田舎家」さんに修行に行っているときに出会った竹のわっぱを使うことを考えたんです」
 みや古は大正13年の創業のときからこの場所にあるという。食堂でも居酒屋でもない。割烹である。お店はビルなのだが、1階だけを見ると、きれいに植栽された入り口、引き戸を開けると中に下足、そこから上がると籐の敷物、ずらりと並んだ卓、入れ込みの感じが庶民的で、気がおけない。品書きを見て迷っていると「まずは深川飯セットを召し上がっていただいて、もしまだ何か気になるようなものがあれば......」と栄子さんはいった。
 運ばれてきたのはお膳に乗ったわっぱ飯、すまし汁、青柳のぬた、とろろ、きゅうりと大根の浅漬けである。わあ、これで十分だ。1500円。

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 わっぱの蓋を取るとプウンと三つ葉の香り、醤油とあさりの香りがたつ。あさりと油揚とネギを昆布出汁と酒とみりんと醤油で煮込み、中身をざるにあけ、残った汁でお米を炊く。炊き上がったら、そこに中身を戻して合わせ、最後に青のりと三つ葉を散らす。栄子さんは惜しげもなく、レシピを披露してくれた。
「生姜ですよ。これをたっぷり入れて、あさりの磯臭さを消すの。生姜って大変な威力ですねえ」
 ぬたもおいしい。酢味噌が甘くないのが江戸前だ。小鉢も漬物も満足だった。
 少し、お店の歴史を聞いてみよう。
「うちは代々の深川っ子のようです。店を始めたのは曽祖父の谷口宮治といってもとは大工でした。男の子も1人いたようなんですが、戦死したりして、娘3人になっちゃったものですから、大工より食べ物屋の方が賑やかでいいだろうって、天ぷら屋になっちゃいました。戦後の復興は早かったですよ。なにせ木場は近いし、大工ですからね」
 そりゃもう、下町らしい気楽なお話ですね。
「2代目が春義と言って、この人が深川飯を流行らせたんです。といっても、この人も天ぷらを揚げるのが好きでね。その頃はまだ木造の2階建てで、店の表で天ぷらを揚げてまして、私なんか嫁に来た頃、お義父さんの揚げるメゴチやキスを1つずつ皿に盛って、土間と座敷を行ったり来たりしていました」
 ほお、栄子さん、どこからお嫁に来たんです。
「あのね、そこの道の向こうの常盤1丁目から2丁目に来たんです。うちは蕎麦屋でね。そっちも古い店ですが、今はありません。おじいさんと、私の主人の信義がよくお風呂で一緒で、おたくの孫を俺にくれよ、というので来たの。9つも年上だったんですよ」
 栄子さんは昭和24年生まれ、商売やだからそろばんや帳面付けもできなくちゃと飯田橋にあった嘉悦の中学高校に通い、23歳で嫁入りした。ご商売のあり方も時代とともに変わったんじゃないですか?
「昔は夜しか営業してなかったんです。世の中が全体にのんびりしていましたね。宴会がいっぱいあったんですよ。この辺は職人の街ですから、印刷や製本の組合、麺類の組合の方々の宴会が多くて、土曜は法事や結納、町の皆様に便利に使っていただいていました。2代目の春義の時に、鉄筋コンクリートに建て替えまして、2階3階は大宴会場です。木場の旦那衆と知り合いなのでいい材が入りました。先見の明があったというか、3階は洋間の椅子席で、今もよくバス旅行などの団体の方に使っていただいています。もちろんエレベーターで上がっていただいて」
 2代目の春義さんてどんな方だったんですか。
「粋な人で、麻のダボシャツに、頭なんかシュッと角刈りにして。週1回は床屋さんに行ってたんじゃないですか。夕方は毎日4時になると、栄子さん、しゃぼんくれや、と言って銭湯に行きました。常盤湯といって、そこのおじいちゃまももう100歳近いですけどお元気ですよ」
 この方たちの通ったころは六間堀小学校、栄子さんのころは柳川小学校といった。お姑さんは?
「益子さんといって、よく気がつく厳しい人でした。どっしり座って構えているから、私の方は座ってもいられないわね。気性は荒いけど根がナイーブでね、叱った後で、それを気にするような人でしたからどうにかやってこられたんですね」
 ご主人の信義さんは?
「それが50そこそこで亡くなっちゃったんです。早実の出身で私が言うのもなんですが、男前でした。仲間からはとても信用され頼られていた人です。平成に入ってすぐ、舅の春義がなくなり、平成3年に主人の信義がなくなり。2人ともお酒が好きでしたからね。立て続けに葬式を出し、お店は休めないし。まだ子供たちは中学生でした」
 長年の常連客には「店をダンナと思って頑張ってください」と言われた。それを支えてくれたのが、飯田重保という料理長。2人で魚河岸に仕入れに行き、車に乗せて帰った。
「飯田さんが今厨房を任されている次男を仕込んでくれたんですよ。経営の方は長男が見ています。その頃は、見習いは掃除や皿洗い、それから1つずつ上がっていく。料理長と言ったら、みんな一挙手一投足に注目してピリピリしていました。顎をシャくるだけで、さっと履物を揃える。今はみんな平等になったけど、かえって物を覚えないような気がしますね」
 今は息子さん2人に店を任せて、悠々自適のはずですが。
「その頃の癖が抜けないの。今もこの辺チョロチョロして、布巾を洗ったり、器の糸じりをこすったり、清潔でないのが嫌なんですよ。とにかく夢中で働きました。まあ、この40数年、夢のようね。今は個人客が多いですし、深川の芭蕉記念館、深川資料館や清澄庭園などを散歩の帰りに寄って昼ごはんを召し上がる方が多いんです」
 あさりは昔は江戸前のものを使っていたが、今はその時期時期で、一番良い国内産を仲買いの店が届けてくれる。見渡せば、「あさりの酒蒸し」「あさりのぬた」「あさり鍋」など、そそられる張り紙がある。「鴨の治部煮」「白魚の天ぷら」もいいなあ。
「あれ、みんな私が書いているの。池波正太郎さんの鬼平に出てくるでしょ。あさりの小鍋仕立て。それをつつきながらお酒を召し上がって、2人で深川飯を1つ、なんて粋なお客様もいらっしゃいますよ」

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 帰りにせっかくだからと深川の芭蕉記念館に足を伸ばした。入り口には大きな芭蕉の樹が生えている。芭蕉は伊賀上野の生まれだが、51年の生涯のうち、1680年から1689年まで14年間を深川で過ごした。館の人に聞くと「3ヶ所に住んでいますが、場所ははっきりわからないんです。でも今の常盤1丁目付近だとのことで」その時に芭蕉を後援したのが、鯉屋こと杉山杉風。芭蕉は彼の持つ採荼庵から隅田川をさかのぼり千住で上陸して「奥の細道」の旅に出た。
 行く春や鳥啼き魚の目は泪

★みや古
大正13年(1924)創業
〒135-0006江東区常盤2-7-1
03-3633-0385

Profile

森まゆみ

もり・まゆみ。1954年、東京生まれ。84年、友人と地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。東京の下町を歩き回り、庶民的な店での一杯を口福とする。著書は『鷗外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜」の冒険』(紫式部文学賞)など多数。近著に『子規の音』『暗い時代の人々』などがある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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