定年入門

髙橋秀実

定年入門

3

引っ越せばいいんです

――定年後はどうされているんですか?
 そうたずねると、中には憮然とする人もいる。怒ってはいないのだろうが、怒っているようにも見えるのである。化学メーカーに勤務していたという佐竹さんなどは、私の名刺をじっと見つめ、いきなり私のメモ帳にこう書きつけた。
「たった一度の人生だから」
 だから何? と待っていると、改行して「かっと怒りを自制して」「波乱万丈 人の世の」「幸せ心が決めるもの」「広い心と強い信念」と続けた。俳句? と思いきや、私の名前「たかはしひでみね」の各字を折句にして人生訓を詠みあげていた。
「わかるでしょ」
――わ、わかります。
 私はうなずき、「それで、あの、定年なんですが......」と話を戻そうとすると、「赤ちゃんを見習いなさい」と叱られた。赤ん坊は1日200回笑って8回怒る。大人は200回怒って8回笑う。怒ると友達や仕事、健康を失う、とのこと。「思い煩いは重い患い。胃ガンになって依願退職」ということで、オヤジギャグを交えながら会社員の心得を訓じているようで、結局定年のこともわからずじまいだった。
「会社には最近、行ってないね」
 と答える人もいる。「辞めた」ではなく「行ってない」と言うのである。OB組織のある会社は定年後も会社に行く用事があるらしく、それに最近行っていないということなのだ。「いつ定年になったんですか?」とたずねても、会社の役職制度を延々と解説したり、業界事情を嘆いたりして煙に巻かれる。再雇用もあったのかなかったのか今ひとつ判然とせず、何か話したくない事情でもあるようで問い質すのも気が引けるのである。そういえば、定年退職後も「ウチの会社では......」という言い方が抜けない人もいる。新幹線の利便性について話していると「それなら午後の会議にも間に合う」などと意気揚々と語ったり、ニュースを観ていても逐一「ウチの会社の場合は......」と解説したりする。会社を辞めたことを認めたくないのだろうか。長年会社に勤めていると、たとえ辞めても辞めた気がしないのかもしれない。
 会社人間とはこのことか。
 私は思った。会社にどっぷり浸かる人のことを「会社人間」と揶揄したりするが、会社に勤めている時は仕事熱心ということでもある。しかし定年退職して仕事もなくなると、人間性だけが会社に浸かっており、純粋な「会社人間」になるのではないだろうか。

「雇用って契約だと私は考えています。ずっと海外で雇用側の責任者でしたから、それはよくわかっています。会社員といってもあくまで契約ですから、ここで辞めようと判断したんです」
 理路整然と語ったのは60歳で建設会社を定年退職した佐久間博也さん(61歳)である。
 確かに、会社法における「社員」とは株主のことを指す。いわゆる「会社員」は法的には「使用人」であり、会社と雇用契約を結んでいる人にすぎない。「会社員」というと会社の一部のように思えるが、株主でない限り会社の外側の人。「ウチでは」という言い方は間違っているし、「会社を辞める」というのも正確ではなく、会社との「雇用契約の終了」と呼ぶべきなのかもしれない。
 佐久間さんは定年退職後、東京から宇都宮に移住した。正確にいうと、定年退職する1カ月前に「とにかく早く行きたくて」、夫婦で引っ越してしまったそうである。
 JR宇都宮駅から車で約10分。周囲は住宅街で「田舎暮らし」というより郊外の瀟洒な一軒家という風情である。
「まずは、これを」
 広々としたリビングに腰掛けると、彼は自らの履歴書を私に差し出した。生年月日から学歴、建設会社での職歴が事細かに列記されている。さらに「これも」と見せられたのは会社に提出したという「再雇用辞退申出書」。間違いなく契約が終わっているということで、なにやら再就職の面接が始まるような気配である。聞けば、失業保険を取得するためにハローワークに通う必要があり、その際に履歴書も作成したそうだ。
「パスポートもないのに、いきなり『海外に行ってこい』と言われましてね」
 佐久間さんはおもむろに語り始めた。入社まもなく海外勤務。以来、30年間にわたってアフリカを中心に様々な土木事業に携わってきたという。彼は世界地図や地球儀を持ってきて赴任地について順次解説する。現地の状況、事業の内容、会社での人間関係。プロジェクトのプレゼンテーションのようで、「杭の地盤反力の試験」などについても土木の基礎から私にも理解できるように説明してくれる。
「海外事業ではとにかくお金を払ってもらう、ということが大事なんです。向こうでは建設を終えても検査官が厳しかったりしてなかなか支払ってもらえない。利益に関しても、結局、為替レートの問題ですからね。私は工事も工務も担当していたんで、それはもう大変でした」
 彼はマラリアにもかかり、現地政府のクーデターもあり、聞いていると30年間トラブルの連続。先日、日本政府がアフリカ開発会議で「官民挙げて支援する」と宣言したばかりなので大変貴重なお話でもあり、なかなか「定年」について切り出せない。
「仕事自体は面白かったんです。ところが時代の移り変わりでしょうか。国際事業は徐々に縮小され、事業も随時報告を求められるようになりました。56歳の時に本社に戻され、内勤になって張り合いもなくなりまして。会社に通っている時に、都心のビル街が墓石に見えたんです」
――墓石ですか?
「60歳になったら辞めたい。とにかく1年は何もしたくない。ずっとやってきたんだから1回休ませてくれ、という気持ちでした」
 墓石に象徴されるように東京は空気が淀んでいるので、空気のよいところへ。「これまで会社の命令で各地に引っ越しさせられてきたので、1回くらい自分の都合で引っ越してみたかった」とのことで宇都宮に移住を決めたそうなのだが、奥様の紗代子さん(59歳)がこう付け加えた。
「当時、サラリーマン川柳でこんなのがあったんです。『ああ定年 これから妻が わが上司』。すごくイヤな気持ちになりました。それだけはイヤだなと思ったんです」
――どこが、イヤだったんでしょうか?
 私がたずねると、紗代子さんが即答した。
「それまで単身赴任が続いていますから、彼は家のどこに何があるのかまったくわかっていないわけです。となると私が一から教えなくちゃいけない。とにかく家の中は完全に私仕様ですから」
――教えればいいんじゃないでしょうか。
「教えればおそらく彼はできると思います。でも私は経験を積む中で、自分なりの合理性を持って生活しているわけです。彼のやることに対して『そうじゃないでしょ』と思うのもイライラするし、『こうやって』『ああやって』といちいち指導するのも不愉快です。要するに、家のことに関しては私ばっかり知っていて、彼は知らない。ゴミ出しの日だって私が教えなきゃいけないわけでしょ。知識のバランスが悪いわけで、だったら引っ越しすればいいと思ったんです。引っ越しして新しい場所でスタートすれば、お互いゼロですから。一緒にゼロからスタートできるじゃないですか」
 引っ越しは不均衡の解消。実に明快な解決策なのだ。ふたりには子供がいないということもあり、新婚生活を始めるようなものなのである。それまで住んでいた都内のマンションを人に貸し、その家賃収入で宇都宮の一軒家を借りる。約21万円の収入で約12万円の支出。マンションの管理費などを含めると、「だいたいトントン」になるのだそうだ。
――でも、なぜ宇都宮に?
「まずは図書館ですね。図書館だけは譲れない」
 すかさず博也さんが答えた。東京近郊の水戸、前橋、甲府などの市立図書館を巡ってみたところ、宇都宮市立図書館が最もよかったという。蔵書も充実しており、スペースも広い。「いつもガラガラでどこにでも座れる。ゆったりできて、しあわせ感を味わえるんです」とのこと。「何もしたくない」と決めた彼にとって、図書館は憩いの象徴らしい。
「私の場合はゴルフ場ですね。宇都宮はゴルフ場の料金が安いんです。それに宇都宮は食べ物もおいしいんですよ。博也さんのお母様が都内に住んでいるのですが、宇都宮からなら新幹線ですぐに駆けつけられます。私はずっと低い所に住んでいたんで、『丘の上の家』に憧れていました。丘の上で風が通る家。ネットで探していたら、ちょうどいい物件があったんでここに決めたんです」
 と紗代子さん。結局、奥様が決めたかのようである。聞けば、彼女は元銀行員。大学卒業後に都市銀行に入行したが、結婚すると退職を迫られたという。「私は辞めたくありません」と主張したが、仕事のない部署に配置転換され、やむなく29歳で退職した。しかし退職後も建築事務所で働いて、2級建築士の資格を取得。夫の海外駐在の関係で、翻訳の仕事もこなし、日本語教師も務めた。スイミングスクールに通っていた時は公認スポーツ指導者・水泳指導員の資格も取得。表向きは専業主婦だが、彼女は着実にキャリアを積んでおり、さらには3級ファイナンシャル・プランニング技能士でもある。
――ファイナンシャル・プランナー、なんですか?
「たまたま自分たちの年金を計算していたら、そうなったんです。どの時点で生命保険を解約するか、などきちんと計算するにはちゃんと勉強しなきゃいけませんから。彼が95歳で私が93歳というところまで表もつくりましたよ。今のところこの歳まではOK。一応、年金は予定額の80%で計算していますし」
 自信満々に断言する紗代子さん。計算をさらに緻密にすべく、今は2級取得に向けて勉強中なのだという。
 頼もしい......。
 私は感心した。持つべきは賢き妻というべきか。リビングにあるカレンダーには日程がぎっしりと書き込まれているが、それらもすべて彼女の日程だった。アマチュア選手としてゴルフやテニスの大会に出場しており、練習にも余念がないのである。その影響もあるのか、「何もしたくない」と決めた博也さんも、何もしないわけにもいかないと毎朝、NHKの英語講座を聞き、たまにゴルフに出かけたりするという。
――今後はどうされる予定なんでしょうか?
 新生活は始まったばかりなのだが、現在借りている家は3年間の契約。3年後には出ていかなければいけないらしい。
「ここにずっといてもいいんですがね」
 博也さんがつぶやいた。なにやら頼りないので紗代子さんにたずねると、彼女は潑剌とこう答えた。
「先のことはわかりません。あっちこっち行ってみようかな。まっ、なんとかなると思います」
 緻密な人生設計も正確にいえば、「先のことはわからない」わけで、人生はわからずとも前進あるのみなのである。
 そういえばかつて「会社員」は「終身雇用」などと呼ばれていた。保険ではあるまいし死ぬまで契約が続くわけがなく、もしかするとこれは会社員として人生を終わらせたいという願いの表われだったのかもしれない。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

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