定年入門

髙橋秀実

定年入門

4

ヒマな人にはかなわない

 定年後の男性にとって、図書館は新たな勤務先のようである。
 ウチの近所の図書館でも開館前から行列ができており、開館と同時に席が埋まる。なにやら出勤風景のようで、新聞各紙をチェックする人もいれば、古ぼけたノートを取り出して何かをひたすら書き写している人もいる。腕組みをして深刻そうに考え込む人もおり、何を考えているのかと思えば、そのまま居眠りしたりするのである。おかげで私はいつも座る席がなく、立ったまま調べ物をしている。低い本棚の上に資料を広げて読み、必要な箇所があれば資料を抱えてコピーを取りにいくのだが、そこにも定年後らしき人がコピーを取っている。新聞記事をコピーしようと折り方を何度も変えたり、拡大・縮小の調整に手間取ったりしていつ終わるのかわからない。1台しかないので、私はじっと待つ。コピーしなくてもいいんじゃないか? 他に行くところはないのか? という疑問がよぎるが、それは私にも当てはまることで黙って待つしかないのである。
 しかし問題はクレームだ。サービスカウンターで文句を言う人々が絶えないのである。よほど不平不満がたまっているのか、中には「どうなってるんだ!」と怒鳴る人もいる。貸し出しの手続きや蔵書の有る無しをめぐるクレームのようで、窓口の人が懇切丁寧に説明しようとしても「そんなことはわかっている」「もういい」などと話を遮る。子供にもわかるような教え方が気に入らないのか、「あなたじゃ話にならない」と憤り、責任者を呼べ、と言わんばかりの剣幕なのである。
 上司か?
 私はふと思った。会社の上司が女子の新入社員、あるいは下請け業者を叱っているのか。定年後の人がますます増えると、図書館は昔ながらの会社になってしまうのではないだろうか。

「私は『暴走老人にならない』と決めたんです」
 そう宣言するのは小林昭夫さん(69歳)である。彼は58歳で製薬会社を定年退職。当時は58歳が定年だったらしく、その後、子会社で63歳まで勤めたという。
「一時期、私は総務部で苦情処理を担当していました。こっちは忙しいのに、苦情を言ってくる人は2時間3時間ずっと言い続けるわけです。これは暴力ですよ。ヒマな人には勝てませんから。ヒマな人はヒマだから延々と言ってきます。相手が音を上げるまで言う。まともに働いている人は必ず音を上げますから」
――自分はクレームを言わないと決めたわけですね。
 私がたずねると、彼は微笑んだ。
「いや、私も駅員相手に言ったことはありますよ。でも30分くらいで駅員が『やめてくれ』という顔をしました。なにしろこっちはヒマですからね。これに1日かけようと思えばかけられる。やっぱり絶対やっちゃいけないと自戒しましたね」
 高齢者は通常、「弱者」とされるが、ヒマという点では「強者」なのである。強者である自覚を持つべきだと小林さんは力説するのだ。
 ちなみに彼は和服姿である。定年退職後は着物と決めたそうで、外出時は必ず着物で雪駄を履いて出かける。これもヒマであることを明示するためなのだろうか。
――なぜ、着物なんですか?
「目立ちたいんです。他の人との差別化というか」
 即答する小林さん。
――目立ちたいんですか?
「いや、目立っても大丈夫と確認するためですかね」
 聞けば、彼は若い頃から「対人恐怖症」なのだという。初対面の相手には手が震える、汗が出る、顔が紅潮する、などの症状に悩まされてきた。「多くの人がそうなる」と知って克服できたそうだが、克服できているということを確認するために、今も目立つ着物を着用しているらしい。
「会社員の時も、私は『会社行きたくない病』でしてね」
 小林さんはしみじみと語る。
「会社の前に歩道橋があるんですが、その前でいつも躊躇していました。『行けばなんとかなる』『とりあえず行くだけ行って昼から休めばいいや』とか考えたりして。子供じゃないけど、頭痛に見舞われたり、お腹が痛くなったりして」
――行けばなんとかなったわけですね。
「そうなんですけど、『会社居たくない病』でもあるんです」
――居たくない?
「とにかくとっとと帰りたい。いつも早く帰ってくるので女房に心配されたくらいです。社交性もないし、上司にゴマもすらない。そういうことを一切しなかったんで出世はしませんでした」
――でも、勤め上げられたんですよね。
「どういうわけだか配属されるたびにその部署がつぶれていったんです。研究所に配属されると研究所が閉鎖され、工場の技術部門に移ったら、そこもなくなった。総務部を経て、余った人材を再教育する部門に異動したんですが、そこは人材プールのようなところで基本的には『何もしなくてもいい』という部署。そして最後は研究監査です。新薬などの研究を監査する部門で、そこでの仕事が私に大きく影響しています」
――どういう影響なんですか?
「論理的思考。その研究がきちんと証拠に基づいて結論を導き出しているか。厳密なデータ、再現性を持っているのか。とにかくチェックすることを覚えたんです」
 小林さんはそう言って、バッグからICレコーダーを取り出し「ほら」とつぶやいた。私が「録音されていたんですか?」と驚くと、「今日はしてません」とのこと。しかし常にICレコーダーを持ち歩き、いざという時には録音する。病院で診察を受ける時も医師の説明を録音する。きちんと証拠を取っておくそうなのだ。
 所持品といえば、彼は自身の名刺も持っている。肩書はなく、名前と連絡先、そして彼の趣味が列記されている。自己紹介のようだが、その名前は実名ではなく新たに自分に付けた名前。別人として社会にデビューしているということなのだろうか。
――定年後はどういう生活をされているのでしょうか?
「何をするにも体が大事ですから、とりあえずスポーツジムに通いました。でも半年も持たなかった。毎日変化はないし、義務的で面白くもなんともない。それでジムを辞めて定期を買ったんです」
――定期?
「電車の定期券です。6カ月分の定期券。ジム代を定期券にしたんです」
――どういうことですか?
「同じ運動をするなら、駅の階段をのぼればよいと気がついたんです。町に出れば変化もあるし、定期は使わないと損するので毎日出かけるようになる。定期がないと出不精になっちゃいますからね」
――それでどこまで行かれるんですか?
「ウチから6つ先の駅です。午前11時に立ち飲み屋に着いて、午後1時まで飲んで帰ってくる。週に5日行くので、やっぱり定期なんです」
 通勤ということか。会社には行きたくないが、通勤自体は体によいことだったのである。彼は国立博物館の年間パスポートも購入し、県立博物館の会員にもなって「お祭りクラブ」「街道クラブ」「浮世絵クラブ」に所属している。これらも一種の定期のようなもので定期的に行なわれるイベントに必ず参加するようにしているらしい。さらに彼は地元の「野鳥の会」の会員でもある。
――なんで、野鳥なんでしょうか?
 和服と野鳥は合わないような気がしたのである。
「いや、これはね、たまたま女房の散歩に付き合っていたら、橋の下にセキレイがいましてね。それで市の情報誌を見ていたら、探鳥会というのがあったんです。休みの日にみんなで集まって双眼鏡やフィールドスコープで野鳥を探す。どこに行けばどの鳥が見られるのかわかるっていうし、『あなたも入りなさいよ』と誘われたんで入ったんです」
 彼によると、野鳥は地元に50~100種、日本全体には650種。小林さんは毎朝、決まった場所で定点観測を続け、さらには「珍しい野鳥」を追い求めて、石川県輪島市の舳倉島や岐阜県の金華山などにも出かけるという。現場に行くとカメラを構えている同好の人が必ずいるので、その人に情報を教えてもらう。探鳥に必要なのは鳥を識別する能力だそうで、識別できる人から情報を入手して鳥を探す。ひとりで出かけると空振りになることが多いので、先日4人で車に乗って探鳥したところ、交通事故に遭って車をつぶしてしまった、などと彼は生き生きと語り、私が「野鳥って面白いんですね」と相槌を打つと、彼はこう答えた。
「野鳥は本当に時間がつぶれます」
――時間がつぶれるんですか?
「そうです。そこまで行って、そこで待ってる。この『待つ』というのが、一番時間をつぶせるんです」
 野鳥を探すのも時間をつぶすため。野鳥を待つことで時間をつぶすのである。通常、私たちは何かを待つ時に時間をつぶそうとする。本を読んだりゲームをしたりして待ち時間をつぶそうとするのだが、実は待つこと自体が時間をつぶすこと。あらためて辞書などを調べてみると「待つ」の「ま」は「間」であり、「待つ」とは次のような意味だった。

  マツ(待)は、時間を懸けて、事物の来るを望み居ることなり。
     (大島正健著『國語の語根と其の分類』第一書房 昭和6年)

 物事の到来を時間をかけて望むこと。今か今かと望むことに時間を費やすことを「待つ」というわけで、何かを待てば時間はおのずとつぶれるのだ。
 私はふとガルシア・マルケスの短編『大佐に手紙は来ない』を思い出した。75歳の大佐が恩給受給の手紙をひたすら待っている。定年後の生活を描写したような物語で、彼は56年間、「待つこと以外になにもしなかった」(内田吉彦訳『集英社版世界の文学28』集英社 1978年 所収)という。そんなに待てるものかと思ったのだが、待っているからこそそれだけの時間もつぶせるのだ。考えてみれば、仕事というのも「待つ」ことの連続である。誰かから仕事が来るのを待ち、素材を待ち、自分の中でもアイデアが浮かぶのを待ったりする。作業するのも早めに終わらせて「待つ」態勢になるため。みんなが待ちたくて仕事は成就していくわけで、仕事もヒマつぶしのトレーニングだったのかもしれない。
「ともあれ、話相手は絶対に必要ですね」
 唐突に切り出す小林さん。「社交性がない」と言う彼にとっては、これが最も切実な問題らしい。
「特に異性。女性の話相手が必要です」
――奥様とか?
「奥さんと仲良しであればそれに越したことはありませんが、そうでない場合も、誰か女性とお話をしないといけません」
――そういうものなんですか?
「だって潑剌としないじゃないですか。大体、男同士で話すことなんてあります?」
――ないですね。
 私は即答した。仕事や取材でない限り、男と話しても話が続かない。小林さんの言葉を借りるなら「とっとと帰りたい」と思うのである。
「女性はウインドーショッピングなんかするでしょ。あれ、買うためじゃないんです。買うという目的がないのにブラブラできる。これなんかヒマつぶしの極みです」
 定年後に見習うべきは女性ということか。
「着物にしても男物は色も柄も同じようになってしまいがちです。そこで私は女性の中古の着物を自分でつくり変えているんです」
 女性物の袖の脇を縫って、長さも縮める。彼は出かけた時には必ず着たものを記録している。定期的な会に参加しているので、同じ着物にならないように注意する。そうなると女性物のバリエーションが必要なのだ。
「女性の着物を直して着る。これは度胸です」
――度胸ですか......。
「一度着てしまえば、何とかなります」
 小林さんのモットーは「あるがままに」「なるようになる」「何とかなる」「中の上でOK」なのだとか。すでにご両親を見送り、子供たちも独立しており、現在は奥様とふたり暮らし。長らく悩まされた「会社行きたくない病」は会社に行かなければ完治するようで、会社に行きたい人より、定年後はむしろ健康的なようである。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

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