定年入門

髙橋秀実

定年入門

7

公務員の定め

 年齢とともに給料が上がり、定年時には大きな退職金を受け取る――。
 という制度を今も確実に堅持しているのは公務員である。定年は原則的に60歳。給与は民間企業(同種・同等の年齢、学歴、役職段階、勤務地域)に準拠して支払われ、定年退職時には、退職手当(退職日の俸給月額×支給割合+調整額)が支給される。民間企業と違って倒産の心配もないので、約束された退職金。若い頃、私は公務員になることなど微塵も考えなかったのだが、60歳が近づくと、にわかに彼らがうらやましい、というか、うらめしく思えてきたりするのである。
 定年後についても、公務員にはアフターケアがある。そのひとつが人事院の「生涯設計総合情報提供システム」。読んでみると、次のようなアドバイスをしている。

自宅にいる時間が増えることにより、定年前まで知らなかった家族の姿や人間関係が否応なく見えてきます。家族の方も、皆さんの在宅時間が増えることにより、困惑することがあるかもしれません。

 この「否応なく」という表現がいかにも公務員らしい。さらには「定年前の肩書きは通用しなくなります」と当たり前のことを注意し、「職場の人間関係が徐々になくなっていきます」ので、「体験したことのない孤独感や寂りょう感にさいなまれることもあります」と警告。そして「生活の軸足」が地域にも移るので、「地域にいかにスムーズに溶け込めるかということが大切」になるとのことで、こうも勧告する。

定年前は、職場が、結果として家庭や居住地域での煩わしい事柄からの避難場所になっていたケースがあるかもしれません。しかし、定年後は、このような副次的な避難場所がなくなります。

 これまで「全力を挙げてこれに専念しなければならない」(国家公務員法 第九十六条)場所だった役所は、実は家庭からの「避難場所」だったという。「定年」とは仕事というより避難場所を失うこと。「あなたには逃げ場がもうありません」と厳重注意までするのだ。
 親切というべきか。隙のない官僚文書というべきか。いずれにしても役所は労働環境の見本でもあり、「定年」についてもひとつの理想と考えられるのである。

「定年なんて関係なかったんですよ」
 怒ったように語ったのはキャリア官僚の入矢信行さん(53歳)。彼は大学院を卒業後、中央官庁に入省。いうなれば社会のエリートだ。
――関係ない、というのは?
「以前は局長や事務次官でも55、56歳で辞めていました。要するに『定年』という制度は有名無実だったんです」
――なぜ、なんでしょうか。
「人事の基本原則は『同期一律昇進』だったからです。組織はピラミッドの形をしていますから、課長級より上になるとポストが減っていく。そこでポストのない人は淘汰されて天下りする。天下り先が用意されたんです」
 定年を待たずして、外に追い出されるというわけである。実際、『一般職の国家公務員の任用状況調査報告』(人事院/平成25年度)によると、離職者のうち定年退職者が占めるのは全体の23%。60%以上が単なる「辞職」なのだ。
「ところがご存じのように『天下り』はマスコミで袋叩きに遭い、その人事システムもどんどん後ろに延ばされていまして。同期一律昇進制も崩れ、下の年次の者に抜かれることも結構あるんです。僕はまだ抜かれていませんけど」
 ちなみに政府は「天下りのあっせんを根絶し、国家公務員が定年まで勤務できる環境を整備する」(『再就職に関する規制』内閣官房内閣人事局)ことを目標にしている。国家公務員は在職中に求職活動、情報提供することを禁じられ、さらには再就職者も在職者に働きかけてはならないのだ。
「それは建て前で、実際は役所の人事をやっているセクションがOBたちを団体にあっせんしているんです。公募という形にしたりして」
 経済官庁(財務省、経済産業省、農林水産省、国土交通省等)の場合は、基本的に業界団体へ。中でも「人材のハケがよい」のは業界が広い経済産業省だとか。業界のない警察庁などは所轄団体や企業の監査役や監事。外務省の場合は、天下りの代わりに各国の大使に任命され、国家公務員法の特例措置として65歳まで勤めるのだという。海外在任中は給与(在勤手当を含む)が2倍以上になるそうで、外務官僚の生涯賃金は他の官僚の2倍にもなるらしい。
「僕が入省した頃は、『渡り』もありました。天下った先を2年くらいで辞めて、また次の職場に行く。そのたびに退職金をもらっていたんです」
――さすがにそれは非難されますよ。
 私は思わず指摘した。
「でも、これを僕たちは『給与後払いシステム』と習ったんです。だって、同じ大学を卒業した同級生たちと昇給具合を比べると、国家公務員はかなり劣りますからね。例えば、財務省と銀行。銀行に入るより、財務省に入るほうが圧倒的に難しいのに、銀行のほうが圧倒的に給与がいいわけです。後払いされるということで納得していたりしたんですが、それがもう、なくなってしまいまして。今は途中で引き抜かれることも少ないし、実際、引き抜かれても実績を上げられないことも多いですから」
 結果として、やむをえず役所で「定年」を迎えるということのようなのである。
「僕はもともと、短期に駆け抜けて、早ければ50歳くらいで辞めて、第二の人生を適宜やっていくつもりでした。でもそれが10年ずれ、60歳でどこかの団体に行くことになるんでしょうね。個人的には寂しいかぎりです」
――でも定年まで、まだ7年ありますよ。
「何か面白いことでもないですかね」
――さあ......。
 私は首を傾げた。再就職はさておき、いち国民として彼には最後まで公務に励んでいただきたいのである。
「以前は辞めて国会議員になる人も多かったんですが、今は役所出身だと人気がなく、当選しませんからね。となると、60歳まで役所にしがみつき、どこかの団体で細々と余生を送るというのが関の山ということでしょうか」
――それでいいんじゃないでしょうか。
 細々と余生を送るのは理想的ともいえる。
「でも、定年後は生き生きする仕事がしたいですね」
――例えば?
「市長選に出るとか」
――地元の市長になるんですか?
「いや冗談です。でも時々、そういう妄想を抱いたりするんです」
 法律と前例に従うのが国家公務員。定年後も「全体の奉仕者」(国家公務員法第九十六条)であり続けたいのだろうか。

 大野和幸さん(62歳)は元地方公務員である。大学卒業後、福祉関係の専門職として市役所に就職。障がい者教育施設の指導員、園長、所長などを歴任し、59歳で退職。定年(60歳)まで1年を残して退職したそうである。
「自分でやろうとしていた仕事に区切りがついたんです。それまでは制度もない中、どうやって施設を発展させるかということに取り組んできたのですが、制度も整ったので僕のやることはもうないな、と。カッコイイとか思わないでくださいね」
――やり切った、という感じなんですね。
 私がうなずくと、彼は首を振った。
「いや、本当は気力の問題です。気力がなくなってしまいまして。気力がないとお子さんたちの責任も負えません。僕たちの仕事は命を預かっているわけですから責任も重いんです。仕事って気力でしょ?」
――気力ですか......。
 いきなり訊き返されて、私は返答に窮した。自分にさほど気力があるとは思えない。なくなった時に「気力」の存在に気がつくのだろうか。
「いや、強いて言えばの話ですよ。強いて言えば、気力なのかな、というだけです。ともあれ僕たちは公務員ですから、辞めたいと思えば、自分の意思で辞められるんです。民間企業の場合は、いろいろとしがらみもあるのでしょうが」
 微笑む大野さん。すべて「強いて言えば」の話なので、真に受けないでほしいと注意されたかのようである。
――それで退職されて......。
 私が言いかけると、彼はこう答えた。
「何もないです」
――何もない?
「何にも感じないですね」
――感じない? 退職してホッとしたとか、成し遂げたとか......。
「そういうのもないです。やっぱりこれも気力なんですかね」
 聞けば、彼は退職後、福祉関係の専門学校で臨時講師を務めたらしい。週1回の授業で2年間勤務したそうだが、それも今は辞めて無職だという。ちなみに公務員には「再任用」の制度がある。定年まで勤めて再任用されるという道もあったそうだが、再任用は役職を離れ、「一般職員」として「一般事務」を担当する。彼の場合は、施設長から平職員に降格されるようなもので、周囲への気遣いもあり、現実には難しいとのことだ。
――それで現在は毎日、何をされているんですか?
「住んでいる地区の自治会です」
 大野さんは自治会の副会長なのである。人事院のアドバイスにもあったように、地域にスムーズに溶け込んでいるようなのだ。
「いや、やる人がいないからと頼まれただけでしてね。自治会には15の班がありまして、班長が集まって役員を決めるんです。くじ引きかジャンケンで。負けた人が役員になるんですが、僕も負けて副会長になったんです」
 地域は新興住宅街で、彼自身はそれまで近所付き合いもほとんどなかったという。役員たちの間ではお互いに過去を詮索しないのがルール。そうなると素の人間としての付き合いのよさが問われることになるが、大野さんはあまり得意ではなさそうである。
「最近は回覧板も回らないんですよ。自分の家は回さないで飛ばしてくれという人もいるくらいでして」
――自治会の運動会などはあるんですか?
「ないです。昔からないんです」
――お祭りは?
「公園を提灯で飾って、出店が並ぶんです。出店といっても、この地区には商店街もないので老人会の人たちが焼きそばをつくったりするんです。そこで盆踊りをしたらどうかと提案してみたんですが、老人会で反対されまして」
――なぜ、ですか?
「年寄りだから踊りたくないと。焼きそばもつくるから両方できないと言われましてね。それで今年はみんなでハワイアンバンドを呼ぶことにしたんです。ところが雨で中止になりまして。感電するのがイヤだと」
――それで、結局......。
「けん玉大会をやりましたけど、子供たちの間でやっているだけで、まわりには波及しなかったですね。もう来年はお祭りを縮小する、あるいはやめるという声が出ているんです」
――御神輿を担げばいいんじゃないでしょうか?
 思わず私は提案した。新興住宅街や団地のお祭りに「御神輿」は重要だという話を聞いたことがある。「御神輿」があれば、そこに神様がいることになり、大切に保存したり次の年も担ぐことになって、継続性が生まれるのだ。
「実は今年はたまたま御神輿をつくったんですよ。若い人たちがダンボールで本物そっくりに。でも、もうやめようという人がいっぱいいますから。提灯を飾るにしても上に登れる人が、もういないんです」
――でも、防災の観点からも自治会は重要ですよね。
「そうなんです。だから、いざという時に避難する指定場所を皆さんに教えたりするんですが、指定場所より立派な避難場所があったりします。そっちのほうが近いし、建物も丈夫でして。そっちに逃げていいか、と訊かれたりするんですよ」
 困難な地域活動。大野さんは「所詮、自治会は市の孫請け機関にすぎない」とぼやき、任期が切れたら、役員は「もう二度とやらない」と断言したのだが、「と言ってもまたやっているかも」と付け加えた。聞いていると何やら話がどんどん沈んでいくようで、「ところでご趣味はあるのですか?」とたずねてみると、彼は即答した。
「篆刻(てんこく)を習っているんです」
 彫刻刀で印を彫る。好きな漢詩などを彫り込むのである。
「たまたま近所に篆刻の先生がいらっしゃいましてね。指導を受けて、自宅でもコツコツ、チマチマと彫っているんです」
 ようやく楽しそうに語り始めた大野さん。そこで「どんなところが面白いのですか?」と訊いてみると、彼はこう訊き返した。
「髙橋さんは趣味、あります?」
――えっ、ないです。
 私は明言した。これまで私はソバ打ち、ヨガ、ダンス、登山など様々な趣味を試してみたが、何ひとつ身につかず、無趣味を宣言するように『趣味は何ですか?』(角川文庫)という本まで出版したくらいなのである。
「そうなんですか。もし趣味があれば、『それと同じです』と答えようとしたのに」
 残念そうな大野さん。
――すみません。
「とにかく、たまたまなんですよ」
――たまたま?
「はい。たまたま僕は篆刻をやっているだけでして」
 もしかすると、大野さんはすべては「たまたま」だと言いたいのかもしれない。偶然起きたことを受け入れる。考えてみれば「全体の奉仕者」とは、あらゆる運命に従うということで、この問答もその象徴のように思えてきたのである。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

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