定年入門

髙橋秀実

定年入門

9

テイスト・オブ・定年

 定年後の話となると、とかく趣味のことになりがちである。「毎日、何をされているんですか?」という問いも趣味をたずねているようなニュアンスを帯びているのだが、この「趣味」という言葉は明治時代につくられた翻訳語である。
 もともとは英語の「taste」。つまり「味わう」「味わい」という一種の味覚のようなもので、決して「hobby(余技)」や「amusement(娯楽)」ではない。実際、明治時代の本や雑誌を読んでみると、「趣味は○○」ではなく、「○○に趣味を覚える」という言い方をしていた。○○を味わうというのが趣味の本来のあり方で、コレクターの人々も何を集めるかではなく、集めてどう味わうかが趣味になる。数を増やすこと自体に燃える人もいれば、人になんと言われようと自慢しまくる、あるいは仲間をつくることに趣味を覚える人もいる。対象物より本人の感覚。定年後は「何もない」と嘆く人もいるが、娯楽が何もないなら「何もない」ことを味わうことが趣味になる。「ぼんやり過ごす」のも趣味だし、退屈を極めるのも趣味。「定年後の趣味」というのもこれまで培ってきた味わいを深める、人生をじっくり味わうと解釈したほうがよいのかもしれない。

「30歳の頃、会社で釣り同好会をつくったんです」
 いきなりそう語り始めたのは化学系メーカーを65歳で定年退職した津坂康之さん(70歳)だった。会社でどんな仕事をされていたのかたずねようとしたのだが、仕事より「釣り」のほうが本業だったかのようなのである。そもそも就職の際に同社を選んだのも「土日が休みで、車も貸与されたから」とのこと。「とにかくやりたいことがいっぱいあった」そうで、いうなれば道楽者らしい。ちなみにその「釣り同好会」のモットーは次の通り。

 会社には定年があるが、釣りに定年なし。

「釣りは娯楽の王です。季節感を楽しむ、道具を楽しむ、釣って楽しむ、おいしく食べる、そして近所の人にあげる。5つの楽しみ。五楽、すなわち娯楽」
 意気揚々と解説する津坂さん。会社員時代は毎月のように海に出かけ、釣り船を借りる。毎年12月には年間の成果発表会があり、優勝者にはトロフィー、珍しい魚を釣った人には「特別賞」を贈呈する。3回優勝すると「名人」に認定されるそうで、彼自身も名人。「キジハタを釣ったのはいまだに僕だけです」と自慢するのである。
「みんなが釣れて、僕も釣れる」
 彼がつぶやいたので、「それが楽しいんですね」と相槌を打つと、彼は「それじゃうれしくない」と否定した。
「みんなが釣れたら、『釣り』じゃなくて『漁』でしょ」
――となると釣りとは......。
「みんなが釣れないのに、僕だけ釣れる。それが面白いわけですよ」
 釣りの醍醐味は、「出し抜く」ことらしい。
「釣れるとみんなに『今日はツイてますね。調子いいですね』とか言われますけど、とんでもない。僕は前の晩から針や餌も入念に準備してますからね。潮の具合を予測しながら針の大きさ、糸の太さ、針と糸の距離、餌を何にするか、徹底的に考え抜きます。それに竿も自分でつくるんです。市販のファイバー製より竹のほうがコシが出る。もう忙しくてしょうがない」
――忙しいんですか?
「忙しいですよ。糸に針をつけて巻きつける作業で手も頭もどっぷり疲れます。でも、それがいいんですね。まさに『無』になる」
――無?
「一定時間、そのことだけに専念する。あっと言う間に時が過ぎる。そして終わった時の心地よさ。これこそが『無』。そう、実は僕はお坊さんなんですよ」
――お坊さんなんですか?
 彼は密教の寺で得度を受け、修験道の修行もしているという。山伏となって山道を歩く時も、歩くことに専念すると「無」になる。集中作業こそが「無」への道なのだそうだ。
「それに鉄砲の手入れもあるし。鉄砲は......」
――て、鉄砲?
 矢継ぎ早の展開に私は「ちょっと待ってください」と制止した。聞けば、彼は20歳の頃から「銃が好き」。現在も5丁の銃(ウィンチェスター銃、スプリングフィールド銃、メルケル銃など)を所有し、定期的に鹿狩りなどの狩猟に出かけるという。「はあ」「ほう」と感心していると彼は上着のボタンを外し、ベルトのバックルを私に見せた。そこには銃弾が埋め込まれており、何やら野性味があふれている。
――実際に撃つわけですか?
「撃ちますよ。もちろん実弾で。銃の免許は3年ごとに更新されますが、射撃場での練習が義務付けられていますし、技能試験もあります。50m離れたところから20発中5発的中させなければいけない。僕はずっと更新しているんです」
 誇らしげに語る津坂さん。釣り、修験道、銃。一体、どういう関連があるのだろうか。
「狂いなくカチッと作動する。そのカチッとするところが好きなんです」
 確かに銃も釣りの道具も「カチッと」している。
「そう。カチッと。カチッとすると身も引き締まる。カメラもそうです」
――カメラもお好きなんですか?
「カメラはライカとコンタックス。もちろんフィルムですよ。デジタルと違ってカチッとするじゃないですか」
 彼は「カチッとする」ことを味わう。カチッとすることが「趣味」なのである。
「車もBMWです」
 続ける津坂さん。
――カチッとするんですか?
「BMWはハンドルに遊びがないんです。少し動かしただけでもカチッと連動する。ドイツ魂っていうんですかね」
 彼はミニチュア模型やドールハウスもつくるという。鉛製の部品をカチッカチッと組み立てて色を塗る。彼の作品は完成度が高く、売れたこともあるらしい。模型についての詳しい解説が始まりそうだったので、私は遮った。
――ところで、あの、定年なんですが......。
 彼の話には定年前と定年後の区別がない。すべて若い頃から継続してやっていることで、境目がないのである。私はふと編集者の鏑木さんを思い出した。彼は仕事の打ち合わせの時も好きな「ボート」の話しかしなかった。いかに速く漕ぐか、出身大学のボート部の近況や国際大会の現況を延々と講釈し、仕事については帰り際に「じゃあ〆切よろしく」と言うだけだった。定年退職後に会った時も、変わらずボートの話ばかりで、私は退職したことに気がつかなかったくらいなのである。
「僕の転機は定年の5年前、60歳の時ですね」
 津坂さんがしみじみと語った。
「会社で会議中に突然パソコンが動かなくなりまして。『こんな時に勘弁してくれよ』と思った途端に、体がパタッと動かなくなって。くも膜下出血です。頭痛もなくて意識もあるんですが、体がまったく動かない。同僚が救急車を呼んでくれて病院で問診を受け、すぐ手術でした」
――問診を受けられたんですか?
「話はできたんです。その時に僕は医者に『やり残したことがあるから手術は絶対に失敗しないでください』とお願いしました」
――やり残したこととは?
 すかさずたずねると、彼は即答した。
「2人の娘がまだ片付いていない。それと鉄砲と模型の始末。このままでは鉄クズとして捨てられてしまう」
 死を目前に案じたのは、未婚の娘さんたちと銃と模型の行く末。仕事が眼中にないあたりはさすが道楽者というべきか。
「おかげさまで手術は無事成功しました。でもその3日後、明け方の4時くらいに夢のようなものを見たんです。ベッドの向こうから50代くらいの男性の声がする。よく通るすっきりした声でしてね。『お前は何してる?』と私に訊くんですよ。ヘンなことを言うなあと思いまして。主治医じゃないし、病院の関係者でもない。でもとにかくこわくて。真面目に答えなきゃいけないと思って、『もし元気になれたら、人のよろこぶことがしたいと思います』と返事したんです。すると『それでいいのか?』と訊くので『そうします』と。目が覚めると枕のあたりは汗でビッショリでしてね。自分で言っておきながら、なんだかよくわからない。模範回答みたいですけど、僕はそう約束しちゃったんです」
 これからは人のよろこぶことをする。「今までさんざん道楽してきたことを家族にも反映させる」と決意したのだという。
 道楽の反映。これまたカチッと切り替えたようなのである。
 津坂さんは奥様と海外のクルージング旅行に出かけた。クイーン・エリザベス号(エーゲ海周遊、16泊)をはじめとして、クイーン・メリー号(ニューヨーク~バンクーバー)、クイーン・ヴィクトリア号(ロンドン~リバプール)など。もともと彼は帆船模型もつくっており、船には詳しい。奥様も旅行好きなので、自分の道楽を反映しつつ奥様をよろこばすこともできるというわけだ。旅にはもちろん釣り竿も持参。豪華客船でカサゴを釣り上げたこともあるという。
「客船のクルージングはおすすめ。元気なうちに行ったほうが絶対いい」
 津坂さんが力説した。
――何がいいんでしょうか?
「まず、荷物を持たなくていい」
――荷物?
「普通、海外旅行だと荷物を持ってあちこち行かなきゃいけないでしょ。ところが船旅は荷物を船に置きっぱなしにできます。朝、起きると次の港に着いているから、貴重品だけ持って下りればいいだけ。朝食はバイキングで頼めば部屋に持ってきてくれるし、夕食は盛装してディナーです」
――盛装しなきゃいけないんですか?
「ネクタイ着用。でも一着だけ持っていけばいいんですよ。船の中でクリーニングも出せるし、コインランドリーもあります。なんといってもこのディナーショーが最高で......」
 満面の笑みを浮かべる津坂さん。
「歌手がね。それが、あなた、金髪なんですよ」
――金髪?
「そう。グレース・ケリーに似ている。いや、グレース・ケリーよりきれいだった。それで歌いながら客の一人ひとりに目線を送るんです。『あなたのために歌っているのよ』と言わんばかりに。歌はもちろん、その息遣いまで感じる。この人と同じ空気を吸っているという満足感。至福ですよ」
 単なるブロンド好きか、とも思ったのだが、彼のうれしそうな顔を見ていると、つられて私もニンマリしてくる。船客たちは上機嫌になり、振る舞いもジェントルマンになる。その「奥ゆかしさはクルージングならでは」なのだそうだ。
――失礼ですが、料金はどれぐらいなんでしょうか?
「クイーン・エリザベス号で約60万円。日本から出港すると高くなりますが、現地で乗れば、案外お得なんですよ」
 津坂さんは年金で「慎ましやかに暮らしている」とのこと。10年ほど会社に勤続していた奥様の年金はすべて貯金して旅行費用に当てているのだそうだ。
「娘たちが喧嘩してはいけないので、お金は妻とふたりで全部使い切ることにしています。貯まったらふたりで旅行。この前も能登まで車で行ってきましたよ」
 夫婦円満。旅行中の写真を拝見すると、船上でドレスアップされた奥様は輝かしいまでの笑顔だった。理想のシニアライフのようで、あらためてその秘訣をたずねると、彼は3箇条をあげた。

 1、おいしいものを食べる。
 2、規則正しい生活をする。
 3、酒も食事も適量。

 食事が重なっているので、「食べることが大事なんですね」と確認すると、彼は毎日欠かさず家族の食事をつくっているのだという。朝はコーヒーをいれ、ハム・トーストと果物。昼は麺類。夕食は魚、鶏肉、牛肉を日替わりで料理し、サラダを添える。
――毎日なんですか?
 私がたずねると、彼は大きくうなずいた。
「はい。料理本を読んだり、昔行ったレストランのレシピを再現してみたり」
 釣った魚はもちろんのこと、鹿狩りの鹿肉も挽き肉にして牛の挽き肉、ニンニクと混ぜてハンバーグにする。鶏肉は買ってきたらビニール袋に入れ、大量の塩で揉んで水で流してから調理する。「このひと手間が大事なんです」と私にアドバイスもしてくれた。
「家内や娘たちがよろんで食べるのを見ると、本当に満足感を覚えます。自分が食べている以上の満足感です。おいしそうなところを『お前たちが食えよ』と言ったりしてね。人のよろこぶことをするとはこのことだと思いますね」
――奥様も満足されているんですか?
 私がたずねると、彼ははにかんだ。
「僕が食事で、女房は洗濯と掃除。それとヨガですから」
――ヨガ?
「スポーツクラブでヨガをやってる。これが変わった女でね」
――変わっているんですか?
「例えば、買い物でどっちを買うか悩むことがあるでしょ。僕は悩んだ時は両方買うけど、女房は1時間くらい迷った挙げ句、結局両方買わないんだよね」
――それは賢明なんじゃないでしょうか?
 どちらかというと両方買う津坂さんのほうがヘンである。
「いや、ケチなんだよね。でもケチなくせに旅行のお金はポンと出してくれる。僕が魚を釣ってくるとお駄賃くれたりしてさ」
 要するに、彼は賢明な奥様に愛されているのである。彼は手術の後、釣り仲間に誘われてキリスト教会に出かけ、讃美歌を聞いて感動。その勢いで洗礼を受けて「アンドレ」という洗礼名を授かったという。「得度も洗礼も受けちゃった」とのことだが、付き添っていた奥様まで洗礼を受けて「ロザンナ」になってしまったそうである。奇跡というか奇特な夫婦愛というべきか。
「女房は女じゃないですから」
――女じゃない?
 私が首を傾げると、彼はきっぱり断言した。
「彼女は戦友です。日々の生活を戦っている友です」
――何と戦っているんでしょうか?
「まわりから、いやみ、ひがみ、そねみ、次々と飛んでくるでしょ。それと戦っているんですよ。一緒にね」
 もしかして鉄砲はその象徴だったのか。いずれにしても道楽を反映させて考えると、すべては楽しいことに変わるようである。人生の楽しみとは与えられるものではなく、自ら見いだすもの。見いだす能力のことなのだろう。会社に定年はあるが、道楽者には定年なし、ということか。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。7月に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)を刊行予定。

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