定年入門

髙橋秀実

定年入門

11

出世よりハーモニー

 7年前に信託銀行を定年退職した村井敏夫さん(67歳)は、今もなお銀行員のような佇まいだった。シックなスーツ姿で落ち着いた身のこなし。静かに囁くように発声するのだが、私には明瞭に聴き取れる。周囲に聞かれないようにという配慮がされているようで、このまま融資の相談をしたくなるくらいである。
「定年を最初に意識したのは、中学生の頃でした」
 いきなり彼が切り出し、私は目を丸くした。自分の子供が中学校に入る頃に定年について考えた、という話はよく聞くが、自身が中学生というのは初めてである。
――ずいぶん早いんですね。
 私が感心すると、彼が淡々と続ける。
「ある日突然、父が母に定年を告げたんです。父は中小企業に勤める会社員で、当時は55歳が定年だったんです。その頃、男は家で仕事の話なんてしませんから、突然の通告になっちゃったんでしょう。母が台所でがっくりと肩を落としていましてね。ついに来たか、という感じで。その姿が今も忘れられません。もともと父は出世するタイプではなかった。私にもその気(け)がありますけど」
 突然の通告と落胆。中学生の彼に「定年」は絶望的な宣告として刻み込まれたらしい。村井さんは大学を卒業後、迷わず銀行に就職したという。その理由も会社案内の中に「定年後」が解説されていたからだそうだ。
「銀行は初任給こそ安かったんですが、福利厚生が充実していました。家賃がタダみたいな社宅もあるし、保養所もあるし、貯金もできるし貸付もある。さらに驚いたことに、辞めた後のことも書いてあったんです。退職金や年金をたくさんもらえる。銀行に就職すれば定年後にいい生活ができる、と思ったんです」
 就職時に定年後を考える。定年後を考えて就職する。その計画性、堅実ぶりはさすが銀行員というべきか。定年の歳が近づいてもいまだにその日暮らしを続けている私などからすると、生まれながらに気質が違うようにさえ思えた。
「ただし企業年金は10年以上勤めないともらえない。それだけが心配でした」
――それだけ?
 思わず反復する私。
「果たして10年勤められるか、と思ったんです」
――10年ですか......。
 10年で早くも定年後という計算なのか。
「実際、同期は70人いましたが、残ったのは40人くらいですから。途中で亡くなった人もいますし、故郷に帰って再就職した人もいます。とにかく仕事が厳しかったですからね。毎日、睡眠時間は3時間くらい。仕事を持って家に帰る。パワハラもあるし、セクハラもありました。さらにはバブルもはじけて、待遇もどんどん悪くなる。ボーナスも毎年、何十万円単位で減っていきましたからね」
 今でいう「過重労働」、あるいは「ブラック企業」のようである。彼が入行した当初、銀行業界は大蔵省指導による護送船団方式で安定企業の象徴だったが、バブル崩壊以降、公的資金(税金)が投入され、各社とも経営の立て直しと吸収合併の嵐にのみ込まれる。
「ある日、上司にこう訊かれたんです。『お前は上司につくのか、それともお客さんにつくのか』と」
――どう答えたんですか?
「お客さんにつくことにしました。上司につくと出世するのかもしれませんが、私はお客さんの側に立った。それが失敗でして。銀行は一回失敗すると、なかなかリカバリーできないんです」
 彼は平静に語った。左遷ということか。顧客側についた彼は55歳まで全国の支店を転々とすることになったらしい。支店では自分が失敗した経験を生かし、ダメな行員をあえて引き取って、リハビリさせたりしていたそうである。
「地方の支店で働いているうちに、私は人が好きになったんです」
 ぽつりとつぶやき、村井さんは微笑んだ。
「もともと私は口下手で、人と会っても話題にいつも困っていたんです。日経新聞を読んで経済動向の話をしようとしても、ぜんぜん盛り上がらない。だって自分でも面白いと思っていませんからね。でも地方の支店で不動産取引などをしていると、地元のおじいさんやおばあさんたちが気軽に話しかけてくれる。それがうれしくて、私のほうも自然に『何をよろこんでくれるかな?』と考えるようになりました。家にお邪魔すると、パイナップルの缶詰を開けてくれたりするんですが、それが古くてパンパンに膨れ上がっているんです。でも、せっかく用意してくれたんだからとおいしそうにいただいたりして。孫の結婚相手を探していると聞けば、他のお客さんに当たってみたり。私が釣り書きをつくって何組も仲人したんですよ」
 まさに信託銀行。彼は地元の信託を得ていたようである。
「九州の支店にいる時はコーラスもやりました」
――歌う、あのコーラスですか。
 聞けば、彼は学生時代からコーラス部に所属し、入行時にも社内のコーラス部で活躍していたという。男性が少ないので、おのずと活躍することになるのだそうだ。
「声をひとつに合わせる。あのハモった時の感激。体全体がとろけますよ」
――とろけるんですか。
「ジーンとして涙が出てきます」
 村井さんは目を潤ませて力説した。ちなみに私は学生時代、音痴のあまり合唱コンクールで「歌うな」と言われたことがある。以来、人前で歌うことを避けてきているのだが、村井さんは「歌ったほうが絶対いいですよ」と勧める。
「音痴な人でも何回も聴いているうちに必ず上手くなります。上手い人がいればその人についていけばいい。はっきり言って、コーラスをやる人に悪い人はいません。個人プレイじゃありませんから。銀行員にはもってこいなんです」
 コーラスは銀行員向きの嗜みなのだろうか。
「みんなでハーモニーをつくる。ハーモニーをつくるために歌う。そこには会社や家庭のグチもありません。ハモって気持ちよく楽しい時間を過ごす。歌っていると、みんな家族みたいな感じになるんです」
 体質的に酒の飲めない彼にとって、コーラスは唯一の娯楽だったという。気持ちがよくて安上がり。さらには「人に優しくなれる」そうで、九州の支店時代はコーラスグループの女性たちに「村井さんって何でも言う事を聞いてくれるのね」とほめられたそうである。
「大体、私は草食系ですから」
――草食系?
「草食男子」は現代の若者の特徴とされているが、彼はその先駆者のようなのである。実際、彼が入行した頃、行員の9割が社内結婚をしていたという。職場はある意味、婚活の現場だったのだが、彼は「女性にはあんまり関心がなくて」「奥手なものですから」と誰とも結ばれず、28歳の時に取引先の紹介でお見合い結婚をした。「会った時に抵抗感がなかった」「隣に座っていたお母さんを見て、将来こうなるのか、こうなるならいいなと思った」というのが結婚を決めた理由。将来をきちんと見据えて決断したのだ。
「これは正解でした」
 きっぱり明言する村井さん。
「私が体を壊さず、財政破綻もなく、無事でいられるのは全部、女房のおかげです」
――そうですね。
 定年後の男性は例外なく、そう言う。私自身もそう思っており、これはもう「真理」といっても過言ではないだろう。
「何しろ彼女は俺より頭もいいし、論理的です。俺が何か言っても『それはどういう根拠で?』とか訊かれますもん。旅行の計画だって彼女が立てたほうが万全だし、料理も手早くて、外食はほとんどしません。ディズニーランドに行く時もおにぎりつくっていきましたからね。それに子供が中学受験の時も女房が教えていました。俺なんか息子が就活している時に『銀行はどう?』と訊いて『やだ』と言われただけですから」
 なぜか自分を「俺」と呼び、堰を切ったように奥様を讃える。私が「素晴らしい奥様なんですね」と相槌を打つと、「こういう時はそういうふうに言っておいたほうがいいですよね」と私に確認した。
「そういえば、一回だけ女房にものすごく怒られたことがあるんです。仕事が忙しい時に家族でハイキングに行くことになりまして。私が『家族サービスしなきゃ』と言ったら、『家族サービスとは何だ!』とすごい剣幕で。なんでそんなに怒るのかよくわからなかったんですが、この言葉は言ってはいけない、と肝に銘じました」
 確かに「サービス」には業務のニュアンスがあり、愛が感じられない。しかし、たとえ理由がわからなくてもやめる、という彼の姿勢は正解である。
 村井さんは55歳で銀行の役職を離れ、関連会社への出向となる。銀行業界では55歳までに役員にならなかった人は皆そうなるというシステムらしい。そして関連会社に5年間勤務した後、今度は子会社の嘱託に。給料は銀行から関連会社に移ると半分になり、子会社でまたその半分。5、6年のうちに4分の1にまで減ったという。そこで彼は60歳で見切りをつけ、銀行時代の取引先のひとりが設立した不動産会社に再就職し、今日に至っている。なんでも給料は完全歩合制だそうで、待遇としてはかなり厳しそうだ。
「定年後にようやくやりたい仕事が見つかった感じなんです」
 晴れ晴れと語る村井さん。
――不動産会社が、ですか?
「そうです。私はもともと街歩きが好きなんです。このあたりがどうなるのか。どうやって人々が生活を送るのか、とか考えたりしながら」
 不動産会社で、彼は一介の営業マン。毎朝出勤してメールをチェックし、街に出かけ、地元のコーラスグループの練習に参加したり、他社の営業マンと喫茶店で話をして夕方に帰社するという日々だそうだ。
「おかげで毎日行くところがあるし、用事もある。こうやって昔と変わらず、定期を持ってスーツ着て。雇ってくれる今の会社には本当に感謝しています」
 いわゆる「きょういく」と「きょうよう」が満たされているということか。
 村井さんの話を聞きながら、私は都市銀行OBの森本さん(75歳)のことを思い出した。彼の場合は支店を転々としながら54歳で常務取締役にまで上りつめたが、そこで部下の巨額の損失が発覚。その後も不良債権の不祥事が続き、その責任を問われ続けて役員賞与を一度も受け取らないまま58歳で任期満了。関連会社に移ることになったが、そこでも損失事件を蒸し返されて61歳で退職を余儀なくされた。しかし、かつての取引先から声をかけられ、その会社の監査役に就任。銀行員は取引先に再就職というのが一般的なパターンのようなのである。森本さんはこう言っていた。
「銀行は人付き合いなんです。私は支店長時代、融資をお断りする時は必ず自分で足を運びました。『お前度胸あるな』とか脅されたこともありますが、それだけは欠かさなかった。銀行の取引って義理人情なんですよ。面と向かって話しているうちに、何かしら気が合うきっかけってあるものなんです」
 奇しくも森本さんもハワイアンバンドの一員だった。大阪に赴任していた時に「ヒマだったので」、ヤマハの音楽教室に通ってウクレレを習ったことがあり、定年後、東京の実家近くで結成されたアマチュアバンドに加入。彼はウクレレを担当し、歌も歌う。歌声を合わせることで「連帯感や目的意識が生まれる」とのこと。そしてメンバーが亡くなると「あいつの分まで頑張ろう」と気合いも入る。さらに楽器演奏は「指先が敏感になる」そうで、定年後の趣味としても最適らしい。
 銀行と歌声。一見関係がなさそうだが、定められた譜面に従って人と交わるという点がどこか共通しているのかもしれない。
「新しい会社では、若い人たちが敬意を払ってくれるんです」
 スーツ姿の村井さんがうれしそうにそう言った。「私は同じような話を繰り返しているだけだと思うんですが、それでもちゃんと聞いてくれる」とのことで、さらにこう付け加えた。
「彼らはね、私が外出する時に必ず『いってらっしゃい』と声をかけてくれるんです」
 それだけでもしあわせを感じる。考えてみれば、「いってらっしゃい」「いってきます」というのもさりげなく、ハーモニーである。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。7月に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)を刊行予定。

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