定年入門

髙橋秀実

定年入門

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はじめてのミス

「秘書」とはもともと漢語で「秘密の文書」のことである。やがてそれを取り扱う人のことも「秘書」と呼ぶようになり、明治時代には英語の「セクレタリー(secretary)」の訳語としてこの「秘書」が使われるようになった。しかし、「セクレタリー(secretary)」という言葉も、ラテン語の「secretum」、つまり「シークレット(secret)」から派生したもので、やはり「秘密を扱う人」のこと。そのせいか「秘書」にはミステリアスな響きが漂い、定年後もどこか謎めいているような気がしたのである。
 溝口泰子さん(60歳)は着席すると、おもむろに2枚の文書を差し出した。彼女自身が作成した覚書だそうで、タイトルは『秘書の資質のまとめ』。自己紹介を兼ねているらしく、早速読んでみると、こんな一節が目に留まった。

 一日一日を真剣に仕事に取り組んで経験を積んで、はじめて一流の秘書となりうる。

 秘書は「先を見越して仕事をしなくてはならない」ともあり、私の取材に対しても事前にきちんと準備してくれているようだった。
 溝口さんは東京生まれ。大学卒業後、総合商社に入社し、営業事務を経て、秘書となって約30年。同社では59歳になると1年間の「再就職準備休職」が与えられる。給料の75%が支給される有給休暇のようなもので、先頃彼女は休職を終え、60歳で定年退職となった。再雇用は辞退し、どこかに再就職もせず、晴れて自由の身になったらしい。
「とにかくスケジュールを真っ白にしたかったんです」 
 静かに語る溝口さん。彼女によると、30年間にわたり役員らのスケジュール管理をはじめ、「資料作成、相手方とのアポイント取り、お土産の準備、車の手配、お茶出し、出張や会議のアレンジ、営業プロジェクトの打ち合わせ、ゴルフをする時は案内状の作成からホテルの予約、ゴルフ道具の宅配便の手配、とにかく全部っていう感じ」の多忙な日々を送っていたので、それらを真っ白にしたかったそうである。
「秘書は『いつもそこにいる』仕事。席を外せないんです。気が休まる時がない。もちろん土日も出勤しますし」
 彼女の覚書にも「必要なときに、いつもそこにいて、処理できる能力」と書かれていた。あくまで「秘書の資質」なので、そうすべし、ではなく、それができてこそ秘書なのである。
――真っ白にするというのは......。
 私がつぶやくと、彼女が続けた。
「日常から離れる。そのために海外へ行こうと思いました。忙しくて海外旅行なんかできませんでしたからね。実は、会社にも定年退職後は海外にしばらく滞在したいという人が結構いるんですよ」
――そうなんですか。
「でもその前に体力をつけなきゃ、と思いまして」
 海外旅行に備えて体力づくり。「再就職準備休職」は海外での休暇の準備から始まったらしい。覚書にも「じっくり計画する力」が必須とされているのだ。
――具体的には、何をされたんですか?
 私がたずねると、彼女は申し送りのようにスラスラと答える。
「まず水中ウオーキングとポールウオーキング。ポールはスキーで使うストックのことで、それを持って歩くウオーキングです。これらは効率よく筋肉を鍛えられるんです。それからスポーツ吹き矢。テレビでたまたま見たんですが、体幹を鍛えられるそうだったんで。さらに英語教室でTOEICの勉強をして、別の教室ではジャズを英語で歌っています。日本モーツァルト協会にも入会したので年間10回のコンサートに出かけます」
――それだとスケジュールが......。
「埋まってますね。やっぱり性分なのかもしれません」
 苦笑いする溝口さん。彼女が真っ白にしたかったのは、自分のスケジュールではなく、人のスケジュールをスケジュールすることだったのかもしれない。ちなみに彼女は退職後も毎朝7時に起きるという。会社に勤めていた時とあまり変わらないのではないかと問うと、「ぜんぜん違いますよ」と語気を強めた。
「同じ7時でも、起きなければいけない7時と、起きなくてもいい7時ではまったく違うでしょ。休みの日って、早起きしたりするじゃないですか。そんな感じです。それに9時に起きたりしたら、すぐ昼になっちゃうでしょ」
――昼になると、何か問題でも......。
 昼過ぎに起きることも多い私はにわかに理解できなかった。
「お昼なのにお腹が空かないでしょう」
 当然の事のように言われ、私は押し黙った。午後3時くらいに昼食をとればよさそうだが、そういう選択肢はきっとない。おそらく体内時計が許さない。覚書にも「自己に対して厳しく」とあり、心身共に秘書の資質なのだ。
「私は最初から秘書だったわけでありません。営業部に庶務担当として入社したんですが、7年後にその部の秘書が異動になって急遽、私が抜擢されたんです。まわりの人たちから『秘書に向いている』と言われまして」
 同社の秘書はそのほとんどが、最初から秘書課に配属されていたという。秘書課には「見目麗しい」(溝口さん)女性たちが配属され、自分とはイメージが違うとのこと。テレビドラマなどの影響で、私も「秘書」と聞くと見目麗しい容姿を想像してしまうが、彼女によると「秘書になりたがる人は秘書にしたくない人で、秘書になりたくない人のほうが秘書に向いている」そうなのである。
「私の前任の秘書は、とてもこわい人だったんです。頭の回転も早くてスケジュールもどんどん詰めていく。ある意味、傲慢。部長よりエラそうだったので、結局、部長がキレてしまいまして。だから私はその人を反面教師にしたんです。秘書は威張ってはいけません。どんな人にも同じ態度。これが基本なんです」
 秘書に必要なのは「ホスピタリティ・マインド」。覚書にも「あらゆる人間関係において思いやり、公平さを持つ」ことが重要とされている。
――どんな人にも、ですか?
 私がつぶやくと、彼女は「どんな人にも」と復唱した。
「役員にもいろんな人がいます。全部やって、と私にスケジュールを丸投げする人もいれば、異常に細かい人もいます。フランスのレストランの電話番号を50軒くらい暗記していて自分で予約したり。中にはギリギリが好きという人もいました」
――ギリギリとは?
「いつも直前に着きたいんです。出張で新幹線に乗る時もギリギリで乗りたいと。乗った瞬間に後ろでドアが閉まるのが快感らしいんです。その人の場合は車もギリギリになるように手配しなきゃいけない。本人は待つことが嫌いなのかもしれませんが、遅刻させたら大変なので時間調整が難しいんです」
 秘書として担当すると、5年ほどその人と共に歩むことになる。仕事とはいえ、やはり人として合う合わないはあるのではないかとたずねてみると、彼女は毅然と答えた。
「ないです」
 定年後なので、「実は」という裏話を期待したのだが、あっさり否定された。
「私、仕事以外でも嫌いな人っていないんです」
――えっ?
「感情がないですから」
 私は目をしばたたかせた。まるでアンドロイドに告白されたかのようだった。聞けば、彼女は独身である。何度かお見合いもしたが「同じ人と4、5回会うと、だんだんイヤになってくる」そうで、「結婚したい」と思ったことも一度もないという。とはいえ、学生時代はずっとバレーボール部に所属。「みんなでやる球技」は好きで「みんなの役に立つ」「みんなを支える」ことは好きだそうで、あくまで個人に対して感情がないだけらしい。
「私、口も堅いんです」
 誇らしげに続ける溝口さん。これも秘書の適性らしい。覚書の中にも「多くの書類や秘書に話したことは、わざわざ機密と記していないため、秘書が自分で感知しなければならない」とある。
「役員の中には『これは秘密だからね』『これは人に言わないように』と釘を刺す人もいます。でもそういう話って、みんな知っているんですよね。みんなにそう言って触れ回っているんですから。だから秘密かどうかという問題じゃないんです」
――というと......。
「私はもともと興味がないんです」
 察するに、これは秘書に必要とされる「記憶力と健忘症」(覚書)かもしれない。秘書は「書類の場所、顧客の名前と顔、約束事項など些細なことでも覚えておくこと」が重要だが、同時に「取るに足らない雑事や中傷など、必要以外を忘れること」も求められる。忘れるためには「興味がない」のが一番なのだ。完璧な秘書ということか、と感心していると、彼女はさらにこう言い切った。
「私はミスしたことがありません」
 仕事でミスをしたことが一度もない、と。
――マジっすか?
 私は奇声をあげた。振り返れば私などはミスばかり。ミスしなかったことがないくらいで、全体がひとつの大きなミスという感じさえする。
「私は約束をドタキャンしたことも一度もないんですよ。行くと決めたら必ず行く。行かない時は最初から断る。そのせいか男性たちからも『謎めいてない』『わかりやすい』と言われています」
 彼女は急にカゼをひいたりもしないのだろうか。
「だってミスしたら終わりですから」
 お、終わりですか。あらためて調べてみたわけではないが、この世にミスしない人などいるのだろうか。そこで私が「役員がミスを溝口さんのせいにするとか、そういう責任転嫁のようなことはなかったんでしょうか」と突っ込んでみると、さらりとこう返された。
「まったくありません。大体、そういう人は出世しませんから。役員にまでなる人は他人のミスをかばうことはあっても、責任を人になすりつけたりしません」
 下衆(げす)な勘ぐりを咎められたようで私は「すみません」と頭を下げた。
 完璧というか鉄壁な対応。秘書に向いているどころか彼女の資質がそのまま秘書なのではないだろうか。
 私は質問に詰まり、「今後はどのようにされるご予定なんでしょうか?」と話題を変えると、彼女は少しはにかんだ。
「実は今、何もしていないんです」
――何もしていない?
 スケジュールが埋まったのは最初の数カ月だけで、かれこれ半年以上「何もしていない」のだという。
「帰宅途中、バスから降りる時に左足のくるぶしを骨折したんです。外果骨折というんですが、くるぶしの先がコンクリートにぶつかり、靭帯が伸びて剥離骨折。全治3カ月のはずが、なかなかくっつかなくて。私はもともと足の幅が狭くてひねりやすいんですね。だからただの捻挫だと思って、そのままその日の予定を3つこなしたんです。次の日も予定通りスポーツ吹き矢に行きました。ところが歩いていたらどんどんどんどん足が腫れてきまして......。すぐに病院に行けばよかったんです。無理して動いたから、こんなひどくなっちゃった。鍛えようとしたことが裏目に出た。まさに急いては事を仕損じる」
 なぜか熱弁をふるう溝口さん。定年後に初めてのミス、ということか。彼女は「おかげで何もできません。スケジュールも真っ白で本当に苦しいんです」と嘆くのだが、もともと「スケジュールを真っ白にしたい」と願っていたのだから、この際、ゆっくり休養を取ればよいのではないだろうか。
「その後、インフルエンザにもかかったんですよ。会社にいた頃はまわりがかかっても、私だけは大丈夫だったのに。ひとつ災いがあると次々起こるっていうじゃないですか。だから今は『また何か来るぞ』『来るぞ』と心配しているんです」
 彼女はどこかうれしそうだった。備え甲斐があるかのように。
「骨折して初めてわかったんですけど、世の中には私のように足の悪い人がたくさんいるんです。それに高齢者もすごく多いんですね。平日の昼間に町を歩いて、そのことに気がつきました」
 知らなかったのか、と私は驚いた。彼女は「秘密を扱う人」というより、世間を秘密にしており、定年後にそれが明かされたかのようである。
「失業保険のために今、ハローワークに通っているんですが、私たちの年代で就ける仕事って介護や保育の仕事ばっかりなんです。窓口で私が『未経験ですから』と言ったら、『そういう人のほうがいいんです。大歓迎です』なんて言われましてね。なんか、いいかなと思ってまして。事務の仕事ばっかりしてきましたけど、今度は体を動かしてみようかと。もう働きたくない、と決めていたんですが、働きたくなるかもしれません。やっぱり人の役に立っているというのがやる気につながりますもの」
 生き生きと語る溝口さん。計画変更ということか。覚書にも「どのような情況の変化にも慌てず対応する」とある。ともあれ、今は「スタートライン」だと彼女は言う。まず体力を回復させる。骨折を治して歩くことから始めたいとのことで、まさに定年からの第一歩である。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。7月に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)を刊行予定。

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