定年入門

髙橋秀実

定年入門

13

プライドの行方

 現在、日本政府が目指しているのは「一億総活躍社会」である。
 老若男女、誰もが活躍する社会。閣議決定(平成28年6月2日)によれば、それは「国民みんながそれぞれの人生を豊かにしていく」社会であり、「誰もがもう一歩前に踏み出すことのできる」社会だそうで、定年後の人々にも活躍が期待されている。
 活躍したくない人もいるのではないだろうか。
 私などはついそう思ってしまうのだが、厚生労働省の統計によると、「65歳を超えても働きたい」と希望する人が65・9%もいるらしい。しかし実際の就業率は21・7 % (65歳以上 2015年)。本当は働きたいのに働いていない、ということになるので、その解決策のひとつとして政府は「就業意識向上研修」を実施している。独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構が各企業にアドバイザーを派遣し、社員の就業意識を向上させる。定年前、定年後の心構えを指南するそうで、私も特別に許可をとり、ある会社で受講してみることにしたのである。
 午後1時。社内の会議室に集まったのは55~65歳の社員たち。同社の定年は60歳で、60歳以上は再雇用された人々である。年齢のせいか重役会議のような雰囲気の中、アドバイザーがいきなり「皆さんになってほしくないのは......」と次の2つを挙げた。

 ・定年前OB化
 ・定年後腰掛け社員

 定年前にやる気を失ってOBのようになること。定年後に再雇用されたのに会社に貢献する気がないこと。「これらはダメです」ときっぱり断言し、さらにこう続けた。
「政府としても生涯現役を目指しているんです」
 表情を変えず、聞き入る参加者たち。私などは政府から「生涯現役」などと言われると重苦しい感じがする。もともと「現役」とは軍隊の言葉で、一生兵役を課せられるようなものではないだろうか。アドバイザーはホワイトボードを使い、ある計算を始めた。
 人生を80年とすると、その「持ち時間」は約70万時間になる。そのうち睡眠や食事などの「生活必要時間」(約30万時間)を引くと、活躍できるのは約40万時間しかない。そのうち20歳から60歳までの「就業時間」(1日10時間×250日×40年)は10万時間。60歳から80歳までの「自由時間」(〈24時間―生活必要時間〉×20年)も約10万時間で、「就業時間」と「自由時間」はちょうど同じくらいだというのである。
 だから何?
 にわかにその意味が理解できず、首を傾げているとアドバイザーがこう呼びかけた。
「もったいないでしょ」
 定年後の自由時間は定年までの就業時間と同じくらいあるのだから充実させないと「もったいない」とのことなのである。
 老後と呼ぶには確かに長い。
 私はうなずき、ふと源信の『往生要集』を思い出した。同書は人が陥る地獄の数々について解説しているのだが、最も恐ろしいこととして各地獄の滞在年数を記していた。長く生きるというのはそれだけ地獄に長くいるということで、長寿は一種の天罰なのである。実際、その日の研修も定年後の年金額の少なさ、収入を得る必要性などを確認していく展開となり、すでに高齢者(労働法上は55歳以上を「高年齢労働者」と呼ぶ)になってしまっている私も聞いているうちに暗澹たる気持ちになった。
「不安になりました」
 参加していた女性社員たちはそう口を揃えた。就業意識の向上というより先行き不安感が高まったようである。貯金が足りない。これで親の介護ができるのか。再雇用の契約が切れたら生活できるのか。男性社員たちは「OB化しないように、会社に貢献していきたい」「自分の能力を見直すきっかけになった」などとアドバイザーの定型句をひたすらなぞっていたが、女性たちはリアル。そのまま会社に対して待遇改善を求めそうな勢いだったのである。
 休憩を挟んで5時間余りの研修で、私が最も気になったのは定年後の再就職だった。アドバイザーは定年後に「知識、技能、経験等を活かせる再就職で生涯現役を目指す」のもひとつのライフプランだと言っていた。再就職することで「新しい自分に生まれ変わることもある」そうなのだ。
――どういう仕事があるんでしょうか?
 研修終了後に私がたずねると、アドバイザーは「う~ん」と唸った。
「事務職の場合は厳しいですね。再就職の場合、専門的な能力が求められますが、『何が専門ですか?』と訊くと、大抵の人は答えられないんです。『支店長ならできます』『部長ができます』と答える人もいるくらいでして」
――しかし実際に能力のある人もいるのでは......。
「そういう人は会社に残りますから」
 さらりと否定するアドバイザー。
――未経験でもできる仕事はないんでしょうか?
 自分の就職相談も兼ねて私はたずねた。「新しい自分に生まれ変わる」というくらいだから未経験の分野のほうがむしろよいのではないかと思ったのである。
「建設業界にはニーズがあります。これからオリンピックもあるのでビルの解体などで人手不足ですからね。......ただ65歳を過ぎると危険ですよ」
 実際にハローワークで求職した定年退職者によると、未経験でも可能な仕事は「マンション管理人」や「清掃員」などに限られるという。
「それらも確かにニーズはあります。しかしマンション管理人などは時給は1000~1100円。月に20万円にもなりません。前職の地位からすると、できないんです」
――なぜ、できないんですか?
 私などからすると20万円は有り難い。なんとか生活できそうではないか。
「プライドですね」
 ぽつりと明言するアドバイザー。
――プライド?
「シルバー人材センターに行けば、草むしりなどの仕事もあります。でもプライドがある人は申し込みません。前職が部長だったりすると、プライドが許さないんです」
 長きにわたる「就業時間」で培ったプライドが就業意識の邪魔をする。定年後の「自由時間」を不自由にしてしまうのだろうか。

 ハンチング帽をかぶり、軽快な足取りで私の前に現われたのは佐久間吉彦さん(63歳)だった。彼は60歳で商業施設の運営会社を定年退職。再雇用も断り、「しばらくのんびり」した後、ハローワークで紹介された「マンション管理人」の仕事に就いたという。週3日の勤務。時給は1000円に満たないそうだが、「自分には合っています」と何やらうれしそうに語るのである。
 彼がかつて勤務していた会社は社員が20人ほどの中小企業。50代になると役職に就かされ、天下りの上司とテナントとの間に立たされ、かなりのストレスに苛まれたらしい。
「さっさと辞めたいなと考えていました。ストレスで体が持たない。ウチの会社は売り上げオンリーでしたからね。朝、会社に行くのもイヤでイヤでしかたがありませんでした。定年まではなんとか我慢する。そう決めてようやく定年を迎えた感じなんです」
 イヤでも会社に行く。考えてみれば、好きで行くより、就業意識は高いといえるのではないだろうか。
――定年後はどうされたんですか?
 私がたずねると、佐久間さんはにっこりと微笑んだ。
「辞めた途端に血圧が下がりました。血糖値も下がって、体が軽くなったんです。露骨に体調がよくなったんですよ」
 会社を辞めただけで、早くも生まれ変わったかのようなのである。
「それで1週間くらいはほっとしていましたね」
――たった1週間ですか?
「1週間くらい経ったら、なんか、こう、ちょっと寂しくなってくる。退職金で家のローンも完済したんですが、借金がなくなると安心はしますけど、なんか寂しい。通帳を見てもいつもの引き落としがないですから。もうちょっとあたためておけばよかったかな、と思ったりして」
――それで、どうされたんですか?
「航空自衛隊の基地に行きました」
 即答する佐久間さん。自衛隊の基地は自宅から4キロほどの距離にあり、ウオーキングするにはちょうどよかったそうである。
「そこで練習機などの写真を撮るんです」
――写真がご趣味なんですか?
「私らの年齢は写真なんですね。そういうものなんです」
――そういうものなんですか......。
「定年後は写真」というのはひとつの決まり事のようだ。
「ところが現場に行くと、私は一匹狼。まわりはグループで来ているんですね。彼らはそれこそ重装備で、いい撮影ポジションを確保している。皆さん真剣で目がこわいんです。はっきり言って異様ですよ。私も他の人から見たら異様かもしれませんけど。通っているうちにその人たちとも顔見知りになるんで、帰る時は『お先に失礼します』と挨拶したりして。でも私はあんまりつるみたくないもんで、1年ほどで辞めました」
――それで、何か別のことを?
「家事ですね。掃除と洗濯。掃除は以前からマメにしていたんですが、洗濯もすることにしました。もちろん、私がしてもいい洗濯ですけど。最初は家内のものも洗濯したんですが、仕分けだとかなんだとか、いろいろ叱られまして。家内のものはちゃんと許可を得てから洗濯します。あとは食器洗い。これも結構大変なんです。キチッと洗うのはもちろんですが、問題は洗った後の処理。私は自分なりにやろうとするんですが、家内に『小さい皿はカゴにささないで』と怒られたりして。小さい皿は下のパットに溜まった水についちゃうんですよ。大体、水をちゃんと切らないから水が溜まるわけで、洗った後の水切りが重要なんです」
 力説する佐久間さん。奥様はパートで働いている。朝から出かけるので留守中の家事になるそうだ。
「家事はやり過ぎに注意しないといけません。仕事もそうでしたけど、私は心配性で先回りするタイプ。ついついやり過ぎてしまうんで、最近は『今日はやっておくことある?』と聞いてから、やることにしています。それともうひとつ注意しているのは『負い目を感じて家事をしている』と思われないことですね。家内は『そこまで気を使わなくていいのよ』と言ってくれるんですが、私は働いてもいないのにご飯を食べているんだから、家事くらいしないと気が済まない。それに私は『俺がずっと家にいるのはイヤなんだろうな』『パートに行かせて悪いな』とも思っているわけで、私がそう思っていることも彼女は察していて、それがイヤみたいなんですね」
 佐久間さんは毎朝4時半に起床するという。会社に勤めていた時はなかなか起きられなかったそうだが、会社を辞めたら、なぜか4時半にパキッと目覚めてしまうそうだ。
「隣で家内が寝ているんで、すり足でダイニングに行くんです。フローリングが軋むものですから、ひっそりと。彼女にはその気遣いがかえって耳障りだと言われたんで、本当に無音で移動するようにしています」
 ほとんど忍者のようである。
――ダイニングで何をされるんですか?
「真っ暗な中でパソコンを開きます。撮った写真を加工したりなんかして。家内が8時半に家を出るので、コーヒーをいれておいてあげる。その繰り返しをしているうち、働かないとやっぱりマズいんじゃないかな、と思うようになりました」
――何がマズいんでしょうか?
「働いていないということ自体がマズい感じがするんです。例えば、昼間ブラブラしていると自宅のまわりで人に会っちゃう。ブラブラしているところを見られちゃうんです。だから散歩もなるべく早い時間に出かけるようにしていたんですが、そこでも定年後のおじさんとかに会っちゃう。あれ、同じようなことを考えているんじゃないでしょうか」
――その人が定年後だとわかるんですか?
「そりゃわかりますよ。ブラブラしている感じが体全体から滲み出てますから。我々はブラブラしていると思われることが耐えられない。妙なプライドがあるんです」
 俺はブラブラしていない、というプライド。それは働くことで確保できるようで、かくして彼はハローワークへ向かった。仕事を検索してみると「マンション管理人」しかなかったという。
「窓口で『本当にこんな仕事でいいんですか?』と訊かれました。何か他の目的でもあるんじゃないかとヘンに疑われましたけど、どんな仕事でも働いていないよりマシです。それに体を動かすほうが性に合っているんで、これに決めました」
 週3日で、朝8時半から午後5時半までの勤務。業務としては設備の点検、宅配便の受付、引っ越しやトラブルへの対応、共用部分の電球の交換......。
「1日、3万4000歩も歩けるんです」
 晴れやかに解説する佐久間さん。30階建て300戸のマンションは巡回するだけでも、それだけ稼げる。どうやらこの仕事はお金より歩数を稼げるらしい。
「足は棒のように疲れますけど、おかげで気持ちがすごく楽になりました。それまでは仕事もしないで酒飲んじゃマズいな、と遠慮していたんですが、仕事から帰ると今日はビールを飲んでもいいかなと思える。それでこれがまたおいしい。もう今までになかったくらいにおいしい」
――今までになかったほど、ですか?
「会社に勤めていた時は、家に帰っても仕事が頭から離れませんでしたから、ビールもおいしくなかった。ところが今はすっきり味わえる。そして何より『できるじゃん』という自信ですね」
――できるじゃん?
「体がついていくという自信です。このままダメになっちゃうじゃないかと不安だったんですが、自分は元気だと実感できる。何かやっているんだ、何かしているんだということだけで気が楽になったんです」
 彼にとっては働くというより「動く」ことが大事なのかもしれない。もしかすると厚生労働省の65・9%の「働きたい」という統計も、「動きたい」という願望だったのではないだろうか。
「ただ、管理人といっても私はまだサブなんですね。66歳の上司が正式には管理人でして。実はその人が仕事を教えてくれないんです」
――なぜ、なんですか?
「住民たちに『あの人がいないとダメ』と思わせたいからです。自分が頼りにされたいんですよ。管理人の契約は1年更新で、それは住民が理事会で決める。『この人はダメ』と言われたら、切られてしまうんですから」
 彼は住民に会うと必ず挨拶をする。昨今は玄関先に表札を出していないので相手がどこの誰なのかわからず、返事をしない人も多いそうだが、挨拶は欠かせない。何回も出入りする人に対しては、1回目は「おはようございます」などと言葉を発し、2回目以降はお辞儀だけにする。冷たい人と思われたくないが、かといって深入りすると「うざい」と思われる危険があるので、「人柄を肌で感じ、タイプを見極めて」対応するそうである。
「これもやり過ぎるといけませんね。でも、いずれ自分なりの色を出していきたい。この歳になっても、まだまだ未経験のことってたくさんあるんです」
 佐久間さんは生き生きと抱負を語った。
 63歳はまだまだ働きざかりということか。繰り返しになるが、65歳以上の就業率は21・7%(2015年)。政府はこれを低い数値だとしていたが、欧米諸国と比べてみると、アメリカは17・7%、イギリス9・5%、ドイツ5・4%、イタリア3・4%、フランス2・2%(2013年)という具合で、日本はかなり高い。「活躍」か否かはさておき、日本の高齢者は盛んに「活動」しようとしていることは間違いない。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。7月に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)を刊行予定。

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