定年入門

髙橋秀実

定年入門

16

先生たちの卒業

 20年程前、私は都内に266カ所(当時)あるラジオ体操会場を巡ってみたことがある。
 早朝6時30分。NHKのラジオ放送に合わせ、人々が近隣の公園や神社などに集まってくる。そのほとんどが定年後、自営業者の場合は現役引退後の方々。いずれの会場も年中無休で体操しており、妙な緊張感に包まれていた。
「おはようございます!」
 彼らは元気よく挨拶を交わし、ラジオ体操を始める。そして10分間の体操を終えると、「おつかれさまでした!」と労い合って速やかに会場を去っていく。私などからするとあっと言う間の出来事で、一体、何が面白いのかと疑問を覚えたものだが、通っているうちにやがて気がついた。これは「ラジオ体操だけ」だからよいのである。会場に残って世間話に興じたりするとプライバシーに立ち入ることになり、しがらみに巻き込まれる。趣味や習い事などになると上手い下手が露呈し、そこに上下関係が生まれてしまう。「ラジオ体操だけ」なら10分間のお付き合い。誰もが平等で、誰にでも気持ちよく、さわやかに朝の挨拶を交わせるのだ。
「存在感のないことが大切です」
 会場に通うある老人はそう言っていた。会場のレギュラーメンバーになるには「いるのかいないのかわからない。そういえば最近見ないな、と思っていたら死んでた、くらいがちょうどよい」そうなのだ。まるで幽霊のようだが、よくよく考えてみると、彼らは病気を避け、元気なまま幽霊に移行するために体操しているともいえるのである。
「最も向かないのは元教師ですね」
 いくつかの会場で私はそう耳にした。元教師はすぐに「教えたがる」らしい。人に対して「違うでしょ」「もっと指先を伸ばして」などと指導したり、会場を学校の教室のように仕切ろうとする。存在感が鬱陶しいそうなのである。ちなみに各会場には会長がおり、その人がお立ち台でラジオ体操をする。メンバーたちはそれと向き合いながらラジオ体操する形になるのだが、会長は最も高齢であることが多く、大抵は体の自由がきかない。見本として「違う」体操をしているわけで、元教師は会長の面子も潰しかねないのである。
 おそらく、これはラジオ体操に限った話ではない。茶道や大正琴などの習い事の世界でも、それぞれ指導者がいる。免状などを持った年長者で、彼らは「先生」と呼ばれている。「先生」だからといって上手いわけではなく、むしろ下手な場合が多い。生徒たちは話を適当に聞き流して「学び」を楽しんでいるのだが、そこへ真剣に指導したがる元教師などが現われると、秩序が乱れる。巷の「先生」は「先生と言われるほどのバカでなし」に近い存在だが、本物の先生は人をバカにしそうで疎ましいのである。
 実際、学校の教師は新人の頃から「先生」と呼ばれ、教えることが仕事。「教える」という情熱がなければ務まらないわけで、長年勤続すれば定年になったからといってすぐに切り替えることも難しいのではないだろうか。

「定年で辞める、なんて考えたこともありません。私のまわりでも辞める人はほとんどいませんからね」
 都立高校教員(国語科)の小沢重雄さん(64歳)はそう言って微笑んだ。公立学校教職員の定年は60歳だが、多くの人がそのまま再任用されるらしい。東京都の場合、再任用には大きく3種類のコースが用意されているという。

1、フルタイム
2、短時間
3、非常勤教員(日勤講師)

 1のフルタイムは、現役時代とまったく同じ勤務で、給料が2割減額(ボーナスあり)される。2はクラス担任を受け持たずに教科のみの指導となり、給料は4割減(ボーナスあり)となる。3は文字通り非常勤の教員。勤務日数は年間192日で月給は20万円弱(ボーナスなし)になるとか。小沢さんは3の非常勤教員として再任用されたそうだ。
「本当は2を希望したんですが、担任を持たないので、学校側としてはプラスにならない。だから校長からも『それはやめてくれ』と言われてしまいまして。フルタイムのほうは希望すれば採用されるんですが、1年ごとの更新で、最近は更新されないことも多いんです。校長が拒否すればそれで終わりですからね」
――校長が決めるんですか?
 私が確認すると、彼は顔をしかめた。
「校長がA、B、C、Dの4段階で教員を評価して教育委員会に報告します。実質的に校長が権限を持っている」
――小沢さん自身は校長になろうとは思わなかったんですか?
 不躾ながらそうたずねると、彼は小さく首を振った。
「校長にはなりたくないですよ。そもそも学校の管理職というのは教室で勝負できない人が就くんです。いうなれば教室からの逃げ口です」
 きっぱり言い切る小沢さん。教員の階級は上から「統括校長」「校長」「副校長」「主幹」「主任教諭」「教諭」。昇進試験を受けて上っていくそうだが、「事務処理の仕事が増えるばっかり」なので、昇進した後に自ら降格を希望する人もいるそうである。
――もう辞めたいと思ったことはないんでしょうか?
 かねがね教員は激務だと聞いている。残業は長いし、土日も部活動などのために出勤する。「校内暴力」や「学級崩壊」が問題になった時期もあり、ストレスから退職を余儀なくされた人も多い。子供たちの命を預かる「聖職」でありながら、その待遇は劣悪らしく、中には「ブラック企業だ」と嘆く人もいるくらいだ。
「あんまり思いませんね」
 さらりと答える小沢さん。
――そうなんですか......。
 定年後の人々に訊くと、大抵は「辞めたくて仕方がなかった」「定年までだと思って我慢した」などとぼやきが入るものだが、やはり先生は違うようである。
「大体、私が入った頃は定年制度なんてなかったと思いますよ。おじいさん、おばあさんになってもずっと先生でしたけどね......」
 言われてみれば私も学校時代の恩師はおじいさんだった。もしかすると老けていただけかもしれないが、イメージとしては先生は生涯ずっと先生のようだった。
――それにしても、お若いですね。
 私は小沢さんにそう声をかけた。彼は背筋もすっと伸びているし、肌艶もよく、皺もない。40代だと言われても、なんら違和感がないのである。
「やっぱり気持ちが若いからですかね。20代であろうが60代であろうが、仕事は同じですから。私も20代の頃からずっと同じような動きをしていますからね」
 動きが人をつくる。先生としての立ち居振舞いが人を「先生」にする。その動きがずっと同じであれば、若い先生のままなのである。
 聞けば、彼は夜間定時制高校の教員を歴任してきたらしい。都立高校の場合、教員は一定期間勤めると「強制異動」させられる。その中で必ず一度は離島の高校か夜間定時制高校での勤務を義務づけられていたそうだが、彼は夜間定時制高校に強制異動になった後、自ら希望して歴任したそうなのである。
「最初に赴任した時はとにかく荒れていました。生徒がバイクで廊下を走ったり、トイレに放火するとか。でも、厳しい指導ではダメなんです。頭ごなしに叱りつけてもダメ。授業で席につかず、ウロウロしていても『座れ!』などと言わず、好きにさせる。もともと彼らは不信感でいっぱいですから。社会不信、学校不信、家庭不信、大人不信、先生不信......。そこで私は『なんでも受け入れる』と決めたんです。彼らにとって『受け入れてもらえる』という雰囲気が大事なんじゃないかと」
――それで、どうなったんですか?
「不思議なことに人が変わるんです。入学した時に『てめえなんか死ね!』とか暴れていた子が、卒業する頃にはきちんとコミュニケーションができる大人になる。それが教師としては面白いんです」
――指導の成果ですね。
 私が感心すると、彼は「そうではありません」と否定した。
「彼らの多くは昼間に仕事をしています。おそらく職場で育てられているんです。子供は学校ではなく社会が育ててくれる。教室には障害のある子もいれば、定年後に学び直したいという会社の重役もいたりします。彼らと一緒に給食も食べるわけです。同じ釜の飯を食う。クラスはひとつのファミリーなんですよ」
――なるほど......。
 まさに「聖職」。小沢さんの教育者としての志に私はいたく感銘を受けた。
 彼が定年後に再任用されたのも、都内にある「チャレンジスクール」のひとつ。クラスの約8割が不登校経験者で、「ハートにトラブルを抱えている」子供たちだという。毎朝9時に家を出て、午後8時に帰宅する。行きも帰りも決まった時刻の電車に乗るとのことで、本当にこの道一筋のようなのである。
「実は女房も小学校の教員なんです」
 彼がうなずきながら付け加えた。
「私が朝起きる時に女房はもういません。彼女は8時前に家を出て、帰ってくるのは夜10時過ぎ。休日出勤もありますし、そりゃあもう、とんでもなく長い時間働いている。本当によくやるなあ、としみじみ感心させられますよ。彼女はパーフェクトでないと気が済まない。責任感が強いし、理想も高い。私のように手抜きしないんです」
――手抜き?
「小学校の教員は、内容をいかにうまく伝えるか、ということが大事なんです。要するにテクニックが求められるんですね。高校の教員と違って」
 熱弁をふるう小沢さん。奥様を労うために「晩御飯は毎日私がつくって待っています」とのこと。彼は大学2年生の時に母を亡くし、それ以来の料理歴。子供たちの離乳食も彼がつくっていたそうなのである。
「定年になったからって、教員は生活もあんまり変わらないんじゃないでしょうか」
 小沢さんは首を傾げるが、教員の再任用は65歳で終了する。実質的な「定年後」は今から1年後に始まるのだ。
――何かご予定はあるんですか?
 私がたずねると、彼は「う~ん」と呻き、「特に何も決めてないですね」とつぶやいた。
――お仕事はされるんですか?
「私立高校や予備校の講師など教育関連の道はありますけど、たぶんしないと思います」
――他に何かやってみたいこととか......。
「う~ん、まあ、テニス? スキー? 釣り? 旅行?」
――それ、もうやっていることじゃないんでしょうか。
 さきほど小沢さんが趣味として話していたことばかりなのである。彼は「思い浮かぶのはそれくらいでして」とつぶやいて、しばらく考え込み、「あっそうだ」と思い出したようにこう言った。
「ひとりキャンプ」
――ひとりでキャンプ?
「そうです。テントを持っていって、山でキャンプを張る。星空を見ながら酒を飲む」
――ひとりで、ですか?
「はい。雑踏を離れて、1週間くらい過ごしてみたいです」
――テントで?
「一歩出ればすぐに自然。外気に触れるでしょ。それで地面に寝る」
――地面に寝る?
「そう。なんか、地面に寝てみたいんです」
 先生は地面に寝たことがないのだろうか。いずれにしても彼は先生でない人生については、まったく考えていないようである。考えてみれば、大学を出て学校の先生になった人はずっと学校の中にいる。小沢さん曰く「他業種とのかかわりがほとんどない」世界。彼らにとっては定年退職こそが本当に学校を卒業することなのかもしれない。

※登場人物は仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

お知らせ

papakue17821.jpg ご愛読いただいていた「お父さんクエスト」(小山健)がついに本になります!連載された29本のマンガとともに以下のような豪華描きおろしが満載!「お父さんのためのワンポイントアドバイス!」幸せな家庭を築くために、お父さんが知っておかなければならない心構えやテクニックを11のイラストコラムにして解説。日本中のお父さん必読!「さち子さん、特別インタビュー」いつもダンナさんに描かれっぱなしのさち子さんの単独インタビューに成功。二人の出会いから、結婚、出産にいたるまで小山家の知られざる日常を語ります。And more...

Cov_Kuko_R.jpg『最高の空港の歩き方』の刊行を記念してトークイベント「夏休み、空の玄関で逢いましょう。」を7月23日(日)にジュンク堂書店大阪本店で開催いたします。いま空港がアミューズメントパーク化しています。ご当地グルメ、空港限定グッズ、お風呂、空港アート、飛行機撮影、工場見学ーー飛行機に乗る人も、乗らない人も楽しめる「空の玄関」の遊び方と、その背景にある「進化の理由」を『最高の空港の歩き方』の著者・齊藤成人さんと空港ファンであるイラストレーターの綱本武雄のふたりが熱く語ります。入場無料(先着40名)です。

170713_img.jpgポプラ文庫ピュアフルの人気シリーズ、「ばんぱいやのパフェ屋さん」(佐々木禎子 著)の1巻が、コミックスになりました! 漫画はやぎさん、このたび新創刊したレーベル「アニメージュコミックスmiere」(発行:ティーダワークス 発売:徳間書店)にて、7月5日発売です。文庫もコミックスも、よろしくお願いいたします!

978-4-591-15498-4.jpgのサムネイル画像ポプラ文庫ピュアフル7月新刊『英国幻視の少年たち5 ブラッド・オーヴァ・ウォーター』発売を記念して、著者深沢仁さんから読者の皆さんに、抽選で、キーホルダーやコンパクトミラーなどの英国土産をプレゼントいたします。新刊オビの応募券にてご応募ください。詳細と英国旅行のミニレポートをこちらでご紹介しています。

『あざみ野高校女子送球部! 』(ポプラ文庫ピュアフル、680円+税)の刊行を記念して、小瀬木麻美さん トーク&サイン会を開催いたします。

場所 :リブロ港北東急SC店特設会場  日時 : 2017年7月16日(日) 午後2時~

参加特典として、小瀬木麻美さんが今回のイベントのために書き下ろした「『あざみ野高校女子送球部!』番外編」をもれなくプレゼント!センター南が舞台になった短編小説です。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ