定年入門

髙橋秀実

定年入門

17

夕日に向かって走れ!

 青木和之さん(64歳)は都立高校の元教諭である。科目は機械科。それゆえ工業高校を歴任してきたのだそうだ。
「僕は子供の頃から自動車が好きで、将来就きたい仕事も自動車関連しか思いつかなかったんです。それで工業高校に進学して機械科の教員になったわけです。何しろ自分はバカですからね」
 いきなりそう自己紹介を始めた青木さん。ことさら語るほどの経歴ではないと言わんばかりなので、あらためて確認してみると、彼は工業高校卒業後、自動車メーカーに就職。3年で退職して工業高校で助手を務めながら夜間の工業大学に通い、卒業後に25歳で機械科の教員として採用されたらしい。
「辞めたのは定年のちょうど1年前。59歳の時です」
 潑剌と答える青木さん。教職員の定年退職は60歳になった年の年度末(3月31日)。彼はその前年の3月31日に退職したそうである。
――なぜ、そうされたんですか?
 私がたずねると、彼は即答した。
「体の具合が悪くなっちゃいましてね。ウチの奥さんにも『辞めちゃいなさい』と言われまして。無理して働かなくていいって言うもんですから、それに甘えました。彼女には『あなたが頑張っている場合じゃないでしょ』とも言われましたし」
――それはどういう意味なんですか?
「機械科の教員は枠が少ないから、僕がいると若い子が教員になれないんですよ。だから彼女は『後進に席を譲りなさい』と。実はその頃、教え子で優秀な子がいましてね。ずっと助手だったんで僕としても早く正式な教職に就けさせたかった。彼女にそう言われて、確かにそうだね、と思って辞めることにしたんです」
 早期の退職を決めたのはどうやら奥様のようなのである。ちなみに当時の「勧奨退職制度」では50歳で退職すると退職金は2割増し。51歳で辞めるとそこから2%減、52歳だと4%減、という具合に1歳ごとに2%減ってゆき、60歳で割り増し分がゼロになるシステム。定年前に辞めるなら早めのほうが退職金はお得ということで、1年前に辞めるのは微妙な選択ともいえる。
「お金のことはまったくわかりません」
 きっぱり言い切る青木さん。退職金の損得はおろか、老後の資金なども「まったくわからない」のだと。
――まったく、なんですか?
「僕はキャッシュカードもクレジットカードも使ったことがないんです」
――ATMでお金を引き出したことも......。
「1回もないです。僕は現金のみ。現金でなければ何もしません」
――ガソリンスタンドでも?
「スタンドではカードを出しますが、あれはポイントカードです」
――しかし、出先などで必要にならないんですか?
「僕に出先はありませんから」
 青木さんは真剣な面持ちで否定した。聞けば、彼は完全な「小遣い制」。教員時代は月5万円で、現在は月2万円。奥様から現金で渡され、それを封筒に入れてタンスにしまう。「これまで足りなかったことは一度もない」とのこと。封筒の中で貯金して旅行に行ったりするそうで、「根がケチなんですよ」と笑った。
――退職されて、どういう生活を始めたんですか?
 教員の定年後は4月1日にスタートする。新学期を迎えないということはどういう心境なのだろうか。
「忙しいんですよ、これが」
さらりと答える青木さん。
――お忙しいんですか?
「はい。とても忙しい。忙しくてしょうがない」
――どういうことで忙しいんですか?
「だって朝起きるでしょ。まずゴミを捨てに行って、帰ってきたら掃除する。それで朝ごはんの支度をして洗濯して風呂掃除して。昼前になったら昼ごはんの支度です。それから洗い物をしてちょっと昼寝して、パソコンでメールのチェック。洗濯物を取り込んで夕方になると夕食の支度。クックパッドとか見て僕がつくるんです。一日がすぐに終わっちゃう。本当に短くて、なんで? という感じなんです」
 彼は現在、奥様と息子さん2人、奥様のお母さん(92歳)との5人暮らし。定年後の時間つぶしに悩まされる人が多い中、彼は逆に時間に追われる日々のようなのだ。
「母の入れ歯のこともあるかもしれません」
――入れ歯ですか?
「しょっちゅう入れ歯をなくしてしまうんです。だから探さなきゃいけない。この前もプランターの土の中に埋めてありましてね。母は体がいたって元気なんで、そのケアが大変なんです。それと僕は家電も修理するし」
――ご自身で修理されるんですか?
「僕は機械科ですから。オーブントースターも直しますし、エアコンの修理もします。バイクや自動車などは、部品を自分でつくって整備してます。直せるものはなんでも直す。直したいんですね」
 生き生きと語る青木さん。機械科は定年後に大活躍するようなのである。
「忙しく感じる原因は、おそらく僕自身の動きがのろくなっていることだと思います。すべての動きがのろいから時間が早く経っているように感じるんです」
 物理学である。歳をとると年々時の経つのが早くなるが、それは動きの遅滞化によるもの。相対性原理みたいな現象なのだ。確かに私なども1日3食の支度をすると、慣れないせいかそれだけで1日が終わってしまう。仕事と違って家事は遅滞化が顕著に現われるのである。
――お休みはないんですか?
 私がたずねると、彼はにっこり微笑んだ。
「週末は海に行きます」
 彼は20代の頃から「海が好き」なのだという。「バカな話になりますが」と断った上で、こう続けた。
「昔から僕は青春小僧でしてね」
――青春小僧って何ですか?
「夕日です」
 生真面目に答える青木さん。
――夕日?
「夕日を眺めるんです。10代の頃は自転車で多摩川まで行って、そこで夕日をじっと眺めていました」
――それで?
「それでって、それが青春なんです。ただ夕日を眺めて、夕日が落ちたら家に帰る。22歳で結婚してからは江の島まで足を延ばして、砂浜に寝っ転がって夕日を眺めました。すると夕日を前にヨットが水面を走っている。『ああ、金持ちしかできないことだな』としみじみ感じていたんですが、ヨットの専門誌を見ると1人用ディンギーの中古なら10万円くらいで買えることがわかった。意外に安いんだと気がついて、早速、奥さんに相談したところOKがもらえたんで、お金を借りて買いました」
 青春小僧というだけあって何やら子供みたいである。以来、彼は週末になると家族も同行して海へ。その影響で息子さんはふたりとも水産高校に進学し、卒業後は船舶関係の仕事に就いているという。
「それで結局、伊豆に別荘を買いました。モーターボートも買っちゃいまして。退職金で全部払ったんです」
――退職金で、ですか?
「はい。だから退職金は一銭も残ってません」
 晴れ晴れと語る青木さん。
――蓄えなどの不安はないんですか?
 不躾ながらそうたずねると、彼はこう断言した。
「だって人間は死んじゃいますから」
――死んじゃう?
「ここ数年で仲間たちも次々亡くなっちゃったんです。人一倍元気で空手の達人だった親友も亡くなったし、同僚もパタパタといなくなった。ちょうど60歳くらいでみんな死んじゃうんですよ。だから遊ばないといけない。子供たちともできる限り遊ばないと。はっきり言って、働いている場合じゃないんです」
 仕事より遊び。私も父とキャッチボールをして遊んだことはなぜか鮮明に覚えている。親子の絆は仕事ではなく遊びで結ばれるのかもしれない。
――奥様も海がお好きなんでしょうか?
 退職金を別荘や船で使い切る、というのも最終的には奥様の決断だろう。おそらく同好の士ではないだろうか。
「あんまり好きじゃないみたいです」
 小首を傾げる青木さん。
――お好きじゃないんですか?
「好きじゃないのに一緒に行くんです」
――そうなんですか......。
 奥様の趣味は映画と園芸だとか。彼は映画にはまったく関心がなく、「僕は車で送っていくだけ」だと微笑んだ。どうやら趣味は合わないようで、大丈夫なのかと一瞬思ったのだが、よくよく考えてみれば、趣味が合って行動を共にするより、合わないのに「一緒に行く」ほうが愛情深いような気がする。海が好きでないなら、おそらく青木さんのことが好きなのだろう。若干不公平な感じもするが、愛に不公平はつきものである。
 聞けばふたりは恋愛結婚。小学校からの同級生で成人式の時に再会したのだという。「久しぶりに会って話したら、こんなに面白い人だったのかと思いまして」(青木さん)交際をスタートさせたとのこと。
「冬のある日、彼女とデートの約束をしたんです。ところがその日は大雪になって車が渋滞。僕は約束に2時間も遅れちゃったんです。その頃は携帯電話なんかないから連絡の取りようもなくて『さすがにもう帰っただろう』と思ったら、約束した場所に彼女が震えながら立ってた。雪の中で僕を待っててくれたんです。その瞬間、僕はこの人と結婚しようと決めました」
 昨日のことのように涙目で述懐する青木さん。
――それでどうされたんですか?
「すぐに『結婚してくれる?』とプロポーズしました。早く確保しなきゃと思いまして」
――それで?
「断られました」
――断られちゃったんですか?
「その頃、僕はまだ大学に通ってまして。将来のことがぜんぜんわからなかったんで、正確には『25歳になったら結婚してくれる?』と言ったんです。そしたら『それまで待てない』と断られて。待てないなら『じゃあ来年結婚しよう』ということになったんです。来年の3月16日に結婚しようと。神の声っていうんでしょうか、頭の中に突然3月16日という日付が降ってきたんです。それで調べてみたら、その日はなんと大安だった」
 青木さんは奇跡体験のように語り、さらにこう続けた。
「ただ、彼女のご両親には反対されました。まだ早いと。なにしろ僕は無職みたいなものですからね。でも僕はご両親にこう宣言したんです。『そこらの21歳と一緒にしないでください。俺に任せてください』とね。なんでそんなに自信があったんでしょうかね。それもかなり不思議なことですが......」
 実にうれしそうに語る青木さん。きっとその約束を忘れずに奥様のお母さんの介護にも奔走しているのだろう。
 生涯青春ということか。定年後はまさに夕日に向かって全力疾走なのである。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

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