定年入門

髙橋秀実

定年入門

18

特に何も変わりません

 定年になって何が変わりましたか?
 基本的に私はそうたずね歩いているのだが、中には「特に何も変わりません」と答える人もいる。私としては何がどう変わり、それにどう対応しているのか知りたいわけで、変わらないのであれば訊くこともなくなってしまう。十分に備えているから変化を感じないというのだろうか。それとも自分にそう言い聞かせているのか。もしかすると答えたくないだけではないのか、などと邪推したくもなるのだが、新田憲治さん(67歳)の場合は服装のセンスがよいせいか、ライフスタイルもスマートに維持している印象だった。
「変わったといえば、朝、会社に行かない、ということくらいですね。あと、時々、曜日がわからなくなることかな」
 涼やかに微笑む新田さん。彼は60歳で百貨店を定年退職し、そのまま百貨店と顧問契約を結んだという。同社では定年になると再雇用で「嘱託」(時給制のアルバイト)になるのが通例らしいが、彼はそれを断り、「顧問」になったそうである。
「嘱託として残ると他の仕事と兼業できないんです。僕は他の会社からもいろいろ依頼を受けていたんで、それを断るわけにもいかず、だから顧問にしてもらったんです」
 会社の顧問をしながら、専門学校の講師や店舗のアドバイザーなどを務めることにしたのである。顧問の契約は5年間で終了し、現在はフリーの立場でコンサルティング業などを営んでいる。会社員でなくなっても、仕事や生活は「特に変わらない」ということなのだろうか。
――変わらないものなんですか......。
 私がつぶやくと、彼はうなずく。
「朝はちゃんとしないとダメですね。朝しっかり起きて何かしないとペースが崩れちゃう。生活がぐちゃくちゃになっちゃいますから」
 大切なのは毎日の「リズム」だという。リズムを保てば「変わらない」そうなのだ。
――他の会社からもいろいろ引き合いがあるということは、新田さんはなんというか、有能な方として認知されているんですね。
 念のために確認すると、彼は首を振った。
「僕自身は決して『できる』人間じゃありません。ただ、『できる』人を知っているというだけでして」
――人脈ということでしょうか?
「そんな感じですかね。僕はずっとコネですから」
――コネ?
「学校もコネだし会社もコネ。全部コネなんですよ」
 新田さんはそう言ってタバコに火をつけた。聞けば、彼の父親は商社マンで、彼は小学校時代をサンフランシスコで過ごしたという。ケネディが大統領だった頃の輝かしい時代。豪邸に住み、お手伝いさんや家庭教師もついた生活で、すっかり「甘やかされた」とのこと。当時スターだったエルヴィス・プレスリーの真似をしてリーゼントにGパンという出で立ちで帰国し、日本の公立中学に進学したところ「生意気だ」といじめられたため、父親のコネがある私立の中学校に転校。中高一貫校で大学も併設されていたので、そのまま大学まで進学し、卒業後も父親のコネで百貨店に入社したそうなのである。
「たまたま婦人服のほうに配属されましてね。それが定年までずーっと続いたんです」
――一筋だったんですね。
「いや、たまたまです。僕の座右の銘は『ケ・セラ・セラ』ですから」
 なるようになる。なるようになって今日に至っているらしい。
――会社では異動などもなかったんですか?
「通常は自己申告で異動するんですが、僕はそれもしなかったんで」
――そうなんですか......。
 どうやら「自分からは何もしない」というスタンスのようなのである。
「もちろん左遷されたことはありますよ。やることがないような部署に飛ばされて。でもサラリーマンですから左遷ってラッキーなんです」
――ラッキーなんですか?
「そうですよ。だって働かなくていいんですから」
 さらりと答える新田さん。
――そうかもしれませんが......。
「サラリーマンはクビにはならない。失敗しても『バカ』と言われるだけですし」
 飄然と語る姿を見ながら、私は1960年代に大ヒットした映画『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』を思い出した。主演は植木等らクレイジー・キャッツ。タイトル通り、サラリーマンは気楽で二日酔いでも寝ぼけていてもクビにならず、出世しなくても「定年まではたっぷりある」などとコミカルに歌われていた。当時の日本人にとって、サラリーマンこそは安定・安楽の象徴。谷啓のセリフを借りれば「サラリーマンは絶対です」だったのである。
「今にして思えば、ラッキーな時代でした。婦人服にしても、当時は売り場の半分で生地を売っていました。つまり既製服がそんなになかったんです。つくればガンガン売れる。実は百貨店の利益の源泉は婦人服でしてね。極端な話、100品目扱って99がダメでも1つ当たれば全部カバーできちゃう。要するに誰でも名バイヤーになれたんです」
 たまたま百貨店でたまたま婦人服。たまたまいい時代だったので彼は名バイヤーになったのだという。海外に買い付けに出かけ、次々と売りさばく。30歳にして仕入れから宣伝までの一切を任され、たとえ失敗しても「同じ失敗は二度するな」と注意されるだけで、それこそ「なんでもやらせてもらった」そうである。ちなみに今も続けているという趣味はヨットとスキューバダイビング。仕事の合間には海に出かけ、毎晩ワインを嗜む。聞いていると、本当に映画『サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ』のテーマソングのように「どんといこう」というノリなのであった。
 さすがにそれは変わったのではないか。
 私は訝った。百貨店業界も不況に陥って久しい。彼らが享受した高度成長やバブルの時代はとうに去っており、サラリーマンだからといって安定の保障もない。「定年までたっぷりある」どころか「定年まで会社がもつか」と心配する時代なのだ。
――今はそういうわけにもいかないような気もするのですが......。
 私が水を差すと、彼は「そうですね」とうなずき、こう続けた。
「でも、服は30年前より今のほうが売れているんですよ」
――えっ、そうなんですか?
「当時の40倍です。あくまで量の話ですけど、決して売れていないわけじゃないんです。ただ安いモノばかりが売れているというだけでして」
――ではどうすればいいんでしょうか?
 出版業の不振に悩む私は、思わずそうたずねた。
「誰が見ても売れそうなモノをつくってはダメなんです。売れそうなモノはお客さんが値段を比較しますから価格競争になり、安くつくった者勝ちになるだけですから」
――なるほど。
「今の人は本当に真面目です。何から何まで全部完璧にやろうとする。ビジネスも戦略や戦術の話ばっかり。それもディテールまで詰めようとする。会議やマーケティングばかりで確実に売れるモノを出そうとするから失敗するんです。僕らの頃はコンピュータもなかったから、『やれ!』『やります』だけ。適当といえば適当でしたけど、商売っていうのはもともと不確実なんです」
 熱弁をふるう新田さん。何やら植木等のようで、聞いていると気持ちが楽になる。
「間違ってもいい。全部じゃなくて1つでいい。それぞれが『これを売りたい』というものを持ってほしい」
 彼は顧問として会社でもそう訴え続けたらしい。定年後も「変わらない」というのは、この姿勢のことだったのか。
「今はチャンスなんです」
 きっぱり断言する新田さん。
――チャンスなんですか?
「売る側はみんな同じようなことをしているじゃないですか。違うことをするチャンスなんです。はっきり言ってしまえば、今のお客さんはオタクです。服は服オタク、メガネもメガネオタク。オタクはお金がなくても、いいものなら買います。だからピンポイントで深掘りする。人の意見を聞くより、人に『えっ?』と驚かれるもののほうが可能性はある。たとえひとりしか反応がなくても、その人の後ろに何百万人もいるはずです」
 売れそうなものを売るのではなく、売りたいものを売る。売れるものはきっと売れる。「なるようになる」と信じるべし、ということで、彼のいう「ケ・セラ・セラ」は意外にも不屈の精神に通じているような気がした。
「僕の人生は、すべて親のおかげなんです」
 新田さんがしみじみと語った。
「60歳で父が亡くなった時、その亡くなる当日に僕は説教されたんです。海外出張から帰ってきて『ああ疲れた』とかなんとか言ったら、いきなり怒られましてね。何もしないくせにエラそうにするなということだったんでしょう。その説教の後、父は突然死んじゃったんです。最期まで心配をかけてしまいまして」
 遠くを見つめる新田さん。
「とにかく厳しくてこわい父でした。子供の頃から、『始めたことはやめるな』とずっと言われましてね」
――それを守ってきたんですか。
「僕は学校もやめなかったし、会社も定年までやめなかった。こうして今も仕事を続けているわけだし。でも、始めたことをやめないというのは、楽といえば楽ですよね」
 そう言って新田さんは笑った。あらためてたずねてみると彼は「踏ん切りが悪いせいで」ずっと独身。現在、88歳になる母とふたり暮らしだという。
「年齢的には老老介護なんですが、母は僕より元気なんです。シャンソンを歌いに出かけて夜中に帰ってきたりする。だから親子ともども遊んでいます。そういう意味でも僕は本当にラッキーなんです」
 ラッキーな人生。状況が変わっても本人が変わらなければ、人生は変わらない。よいことなのか否かはよくわからないが、偶然に感謝できるということが、ラッキーな人のラッキーたるゆえんである。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

Pick Up Book

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