定年入門

髙橋秀実

定年入門

19

問題のない問題

 取材を続けていると、「リビング・ジャック」という言葉をよく耳にする。
 定年退職した夫がリビングを占拠すること。日がな一日テレビを眺め、時折、「水」「お茶」「めしは?」などと催促する人もいるらしく、たとえ催促しなくてもじっと食事を待っているようで、そこに居ること自体が迷惑なのである。
 しかしこれは今に始まった話ではない。1980年代から妻たちの間では「夫帰宅拒否症」や「主人在宅ストレス症候群」などと呼ばれる症状が現われており、「亭主元気で留守がいい」という流行語も生まれた。そして定年後の夫たちは「粗大ゴミ」「産業廃棄物」などと揶揄されるようになっていたのである。なんでも「濡れ落ち葉」や「恐怖のワシも族」という呼び名もあったそうで、それは定年退職後に「ワシも」「ワシも」と妻にぺったりと張りつくことを指すらしい。『定年後』(岩波書店 1999年)によると、夫たちは企業戦士からそのまま「家庭内戦士」に移行する傾向があるそうで、家事の効率性や合理性を追求したり、突如として家計管理に取り組んだりする。さらには家の電話番となり、妻宛ての電話にもエラそうな対応をして友人関係を壊したりするそうなのだ。
 持て余すエネルギーをあらぬ方向に発揮する。妻側のストレスは甚大なようで、大阪大学大学院准教授(当時)の石蔵文信さんなどはこう指摘していた。

 従来は更年期障害とされてきた中年女性の体調不良の原因は、実は夫にあるのではないか。
           (『妻の病気の9割は夫がつくる』マキノ出版 平成24年)

 頭痛、めまい、耳鳴り、動悸、胃痛、不眠、気分の落ち込みなどの不定愁訴、つまり「更年期障害」の原因は夫だという。重症化した場合は「プチ別居」「プチ入院」するなどして原因から離れるしかないそうなのである。
 夫は邪魔ということか。
 私は溜め息をついた。実際、ウチでも妻が常日頃、動悸や偏頭痛などの不定愁訴を起こしている。「本当に痛いの?」と訊くわけにもいかず、私は「大丈夫?」とやさしく声をかけたり、食事のメニューなどにも気を配っているのだが、私自身が原因だとすると症状はかえって悪化することになる。問題を解決しようとすることが問題の原因になるというのは、まさに悪循環ではないだろうか。

「ウチはそういう問題はないですね」
 背筋を伸ばし、きっぱりと語ったのは新井いづみさん(62歳)である。彼女の夫は現在66歳。メーカーに勤続して60歳で定年を迎え、1年間の再雇用の後に退職した。友人の間では夫の定年後に突然の発熱や関節の痛みを訴える人もいるそうなのだが、彼女は退職から5年経っても「まったく問題ない」らしい。
「夫は退職した翌日からランニングを始めたんです」
――翌日から、ですか?
 私が驚くと、彼女は淡々と答える。
「朝6時に家を出るんです。以来、マラソン大会にも出場していますし、他にも趣味がたくさんありまして」
 カメラの教室に通い、撮影にも出かける。そのために毎日天気予報をチェックし、撮影ポイントを地図で確認したりする。ゴルフやラグビー観戦も趣味だそうで、さらには自分で仕事を探し、月1、2回は出勤しているのだという。
――リビングに居座ったりしないんですか?
 そうたずねると、彼女は首を大きく振った。
「息子が使っていた2階の部屋を彼専用にしているんです。私は1階のリビングにいて、彼は2階にいる、っていう感じですね」
 夫婦別室ということか。食事は2人でリビングでとる。昼食は夫がつくることも多く、夕食後は彼が後片付けをするという。リビングにはピアノがあり、いづみさんが「ちょっとピアノを弾きたいんだけど」と言うと、夫は速やかに2階へ行く。彼は家事に関しても文句を一切言わず、頼めばなんでもやってくれるのだそうだ。
――掃除などは......。
「夫が2階を掃除します。2階にいるので洗濯物も取り込んでくれるんです」
――なるほど。
 どうやら理想的な「定年後」を送っているようなのである。
「なんて問題のない夫なんだろう、って思いますね」
 しみじみ語るいづみさん。聞けば、定年の5年前、彼らは勤務先の会社で開催された「定年後のための研修」に夫婦で参加したそうである。それぞれが趣味などを持ち、充実した日々を送るようにアドバイスされ、それを実践しているらしい。
 備えあれば問題なし、ということか。しかし「問題」がないと訊くこともなくなり、私が無闇にうなずいていると、彼女が続けた。
「実は私も5年前に仕事を辞めたんです」
 いづみさんは元日本語教師。大学卒業後、23歳で結婚し、息子さんが小学校6年生になった頃に「何か始めよう」と思い立ち、日本語教師の資格を取得。東京近辺の日本語教室で教鞭をふるってきたが、57歳の時に「きっぱり辞めた」のだという。
「仕事自体が減っていたということもあるんですが、老後に備えて早めに趣味を始めたほうがいいと思ったんです。ピアノを弾いたり、コーラスに参加したり、好きな本を読んだり。ところが私が辞めた4カ月後に、夫も会社を辞めてしまったんです」
 期せずして、ほぼ同時に「定年後」になったのだ。
「夫はしばらく再雇用を続けると思っていたんです。私は『自分だけの時間』をしばらく過ごすつもりだったんですが、突然辞めると。それが誤算でした」
――突然だったんですか?
「ある日、『来月の終わりで会社を辞めるから』と。普段の日常会話の中で、さらっと言ったんです」
――それで、どう答えたんですか?
「私は『あっそう』と言いました」
――あっそう、だけですか?
「とうとうその日が来たんだな、と思いました。いつか来るとは思っていたんで、ついにその日が来た、と」
――でも事前に相談があってもよさそうですよね。
「男の人は家で仕事の話はしないでしょ。夫は私の仕事にも一切、文句を言ったりしませんからね」
――しかし、自分だけの時間を過ごす予定だったわけで......。
 思わずそうつぶやくと、彼女は否定した。
「こうして口に出してみると、それほどの問題じゃないです」
――そうなんですか?
「夫が会社員だった頃、ゴールデンウィークや年末年始などに長い休みがありますよね。その間、彼を大事にしてあげようとするんですが、心の中で『あと2日』『あと1日』とカウントして、会社に行ったらホッとする。そのホッとする感覚が、おそらく私にとっての『自分だけの時間』なんだと思います」
 彼女のいう「自分だけの時間」とは、物理的な時間ではなく、解放感なのだろうか。
「私はひとりでリビングにいるわけですけど、夫は2階にいる」
――......。
 だから? と私は思った。
「時々、イラッとするんです」
さらっと打ち明けるいづみさん。
――それはどういう時にイラッとするんですか?
「う~ん」
 彼女が首を傾げるので、「2階にいるからですか?」とたずねると、「そうではない」という。
「夫はとても生き生きとしているんです。趣味を楽しんでいて、本当にしあわせな人だなあと思います。でも、なんか、こう、私ももっと楽しまなきゃいけないと焦らされる感じがするんです」
 定年後は充実した人生を送るべきだが、夫婦の場合、ひとりが先行すると、もうひとりは後れをとることになる。「自分ばかりが楽しんでいる」ように映るわけで、足並みを揃えることも重要なのかもしれない。
――それでイラッとされるわけですね。
 念のために確認すると、彼女は「そうじゃありません」と首を振った。
「これから先、ふたりとも元気でいられたら、こんなしあわせなことはないでしょ。夫を亡くされた友人のことを考えると、本当にありがたいことです」
――そうですね。
「夫のおかげでこれまで暮らしてきたわけですから。そう自分に言い聞かせているんですが、それでもイラッとする」
 彼女はそう言って、しばらく押し黙った。
――それでもイラッとする......。
「ちょっとした苛立ちですけどね」
――何なんでしょうか、その苛立ちは。
 いづみさんは遠くを見つめた。もしかすると夫に「問題がない」ことが原因ではないだろうか。問題があれば文句も言えるし、解決策も考えられる。しかし「問題がない」と苛立ちも自分に原因があることになってしまう。私の経験からすると、夫婦生活はある程度、相手のせいにしたほうが気楽である。もっと言ってしまえば、様々な問題を相手のせいにするために結婚するのではないだろうか。
「夫は『ありがとう』って言わないんです」
 唐突に彼女が言った。まるでずっと我慢していたかのように。
――まったく言わないんですか。
「言わないです。『おいしかった』『ごめんなさい』も言わない」
――何かしてもらったら、旦那さんは何と言うんですか?
「『悪いね』とか」
――食事の時は?
「料理をたくさんつくっても黙々と食べるだけ。それで『どう?』って訊くと、『いいんじゃない』と答えます。それでコーヒーをいれて持っていくと、『ほっ』と言うんです」
――ほっ?
「スマホを見ながら『ほっ』」
――それは何なんでしょうか?
 私がたずねると、彼女は旦那さんの真似をしてみせた。コーヒーカップをテーブルに置いた瞬間に「ほっ」。デザートを置く時も「ほっ」。着地に対して「ほっ」と安堵しているかのようなのである。
「なんで『ありがとう』と言えないんですか」
 彼女にそう問われ、私が「いづみさんは言っているんですか?」と問い返すと、「言ってます」「私はいつも褒めています」と語気を荒げた。
「『ありがとうと言ってほしい』と何度もお願いしたんですが、それでも言わない。だから私もわざと『ほっ』と言ってやりました。彼がお風呂を沸かした時に『ほっ』と」
 彼女の「ほっ」に対して彼は「ほっ」と返してきたとのことで、日本語教師の彼女は「ほっ」を「家庭内言語」として納得するしかないと嘆いた。
「『ありがとう』とだけ言ってくれれば、穏やかになれるのに......」
 つぶやくいづみさん。問題はこの「ほっ」だったのか。「ちょっとした苛立ち」かもしれないが、日本語の「ちょっと」は「かなり」ということも意味する。旦那さんは彼女が日本語教師であることを忘れずに、言い方をちょっと変える努力をすべきなのかもしれない。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

お知らせ

papakue17821.jpg ご愛読いただいていた「お父さんクエスト」(小山健)がついに本になります!連載された29本のマンガとともに以下のような豪華描きおろしが満載!「お父さんのためのワンポイントアドバイス!」幸せな家庭を築くために、お父さんが知っておかなければならない心構えやテクニックを11のイラストコラムにして解説。日本中のお父さん必読!「さち子さん、特別インタビュー」いつもダンナさんに描かれっぱなしのさち子さんの単独インタビューに成功。二人の出会いから、結婚、出産にいたるまで小山家の知られざる日常を語ります。And more...

170713_img.jpgポプラ文庫ピュアフルの人気シリーズ、「ばんぱいやのパフェ屋さん」(佐々木禎子 著)の1巻が、コミックスになりました! 漫画はやぎさん、このたび新創刊したレーベル「アニメージュコミックスmiere」(発行:ティーダワークス 発売:徳間書店)にて、7月5日発売です。文庫もコミックスも、よろしくお願いいたします!

978-4-591-15498-4.jpgのサムネイル画像ポプラ文庫ピュアフル7月新刊『英国幻視の少年たち5 ブラッド・オーヴァ・ウォーター』発売を記念して、著者深沢仁さんから読者の皆さんに、抽選で、キーホルダーやコンパクトミラーなどの英国土産をプレゼントいたします。新刊オビの応募券にてご応募ください。詳細と英国旅行のミニレポートをこちらでご紹介しています。

『あざみ野高校女子送球部! 』(ポプラ文庫ピュアフル、680円+税)の刊行を記念して、小瀬木麻美さん トーク&サイン会を開催いたします。

場所 :リブロ港北東急SC店特設会場  日時 : 2017年7月16日(日) 午後2時~

参加特典として、小瀬木麻美さんが今回のイベントのために書き下ろした「『あざみ野高校女子送球部!』番外編」をもれなくプレゼント!センター南が舞台になった短編小説です。

Cov_shigotoba_R.jpg佐藤ジュンコさんのコミックエッセイ『仕事場のちょっと奥までよろしいですか?』が刊行になりました。作家・伊坂幸太郎さん、漫画家・いがらしみきおさんから伝統工芸の職人さんまで「作ること」のプロ15名の仕事術をイラストでルポ!

達人たちの仕事場にお邪魔したら、楽しい驚きがいっぱい。まさに大人の社会科見学!ふむふむ、へーと読んでいるうちに、むくむくとやる気が湧いてくるお仕事エッセイです。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ