定年入門

髙橋秀実

定年入門

20

ずーーっとやっていられる

 定年退職したその日、夫は家に帰らず、行方不明になる......。
 松本清張の短編小説『駅路』はそのように始まる。「定年後サスペンス」ともいえる作品で、確かに「定年後」は行方不明にならずとも「サスペンス(未定、不安、宙ぶらりんの意)」が漂う。
 夫は真面目に会社に勤続し、浮気もせず、これといった趣味もない。唯一の手がかりは応接間に飾ってあるゴーガンの複製画。刑事のひとり(この人も定年間近)がそれに着目し、芸術家の生き様に憧れていたのではないかと推理する。曰く、

「人間だれしも、長い苦労の末、人生の終点に近い駅路に来たとき、はじめて自分の自由というものを取り戻したいのではないかね」
(松本清張著『駅路 傑作短編集(六)』新潮文庫 昭和40年)

 ゴーガンは家庭も仕事も捨て、南洋タヒチに移住した。彼もゴーガンに倣い、自由を求めて行方をくらましたのではないか。刑事は「気持ちはぼくなんかにはよく分かる」としみじみ言い、彼のことを「羨ましい」とつぶやき、「(僕には)何も無い」と嘆いたりするのである。
 なんでゴーガン?
 私などは違和感を覚えるのだが、おそらく世の中には「芸術家=自由」という固定観念があり、それゆえ「定年後」のイメージとも重なりやすいのかもしれない。

「定年で大切なのはソフト・ランディングすることです。だって突然、毎日が日曜日になるんですよ。定年になってからではもう遅い。事前に少しずつ、かじったり、試しておかないとしんどいですよ」
 そうアドバイスするのは肌着メーカーを退職した船木太郎さん(76歳)である。60歳で定年を迎え、関連の財団に2年間勤務した後に退職。退職からすでに14年経っており、「定年後」のキャリアも長いのである。
 聞けば、彼の会社では55歳の時に定年後に備えるセミナーが開かれ、退職したOBたちの「会」も完備されている。その会では「写真部」「手芸部」「歩く会」「名所旧跡めぐり」などのクラブ活動も盛んで、年に1回、文化祭も開催されるという。OBたちの「写真展」をはじめ、水彩画、木彫、陶芸などの展覧会も行なわれるそうで、いってみれば彼らは退職後にアーティストになるのである。
「自分が何に向いているのか。それを早めに考えるべきです」
 熱く語る船木さん。無趣味な私が「そうなんですか」とうなずくと、こう続けた。
「僕はもともと趣味がないんです。普通のサラリーマンはゴルフ、酒、麻雀ですが、僕はそれもやらない。でもたまたま仕事で文化事業にかかわることもあったんで、そこで刺激を受けたんですね」
 彼は関西の出身で、大学時代は広告研究会に所属していたという。ちょうど学生運動が華やかなりし頃で、「資本主義の手先!」などと後ろ指をさされながらも広告を研究し、その縁で肌着メーカーに就職。周囲の空気に惑わされず、広告のグラフィックデザインなどには興味を持ち続けていたらしい。
――それで、船木さんは何に向いていたんですか?
「まず水彩画をやってみました。清里に住んでいる親戚がいるんで、そこに行ってスケッチを描いたり。でもなんか、合わない」
――合わないんですか?
「そう、続かないんですよ。それで他に何かないかな、と思って陶芸教室に行ってみたところ、これがハマりました。陶芸はハマる。間違いないです」
 断言する船木さん。陶芸教室は家から車で約1時間。58歳の頃にハマり、現在も週3回通っているのだそうだ。
「実は『筋がいい』と先生にほめられまして」
 はにかむ船木さん。初心者はまず茶碗をつくる。そして皿、取っ手のついたマグカップ、とっくり、急須、という具合にステップアップしていく。
「僕の場合、生意気ですからいきなり鉢をつくりました。なにしろもう58歳でしたからね。やってみるとこれが本当にハマる」
「ハマる」ばかりではよくわからないので、あらためて陶芸の工程をたずねてみると、まず土を練る。含まれている空気を押し出す要領で、「100回、裏返して100回」。30分ほど練ると菊の花のような紋様が現われる。それを紐状に成型してとぐろを巻くように積み上げていく、あるいは板状に伸ばして組み立てる。「作品ごとにどの手法にするか考える」そうで、その後、1日かけて素焼きし、釉薬をかけて、本焼きする。焼く作業は先生がやってくれるそうで、船木さんは「練る」「つくる」「釉薬をかける」ことに没頭するらしい。
「ず――っとやっていられるんです」
 船木さんはうれしそうにそう言った。
――ず――っとですか?
「朝10時から夕方4時まで。途中、30分ほど弁当を食べますが、それ以外はず――っと。時間を気にせず、苦にならず、ず――っとできる。水彩画の時は途中でイヤになりましたが、陶芸はず――っとできるんです」
 趣味の向き不向きは、この「ず――っとできる」か否からしい。
――他にず――っとできることはなかったんですか?
 念のために訊いてみると、彼はうなずいた。
「僕の人生で他にはなかったですね。陶芸で初めて味わったんです」
 土いじりには時間を忘れさせる魔力があるのだろうか。陶器の蓋などもピッタリとハマることが重要で、陶芸は「ハマる」芸術なのかもしれない。
「ただ、問題はたくさんできちゃうっていうことですね」
 さらりと付け加える船木さん。ず――っとやっているので、その結果、大量の作品が生まれることになるのだ。
――それが問題なんですか?
「だって収納場所がないですから」
 大皿などは場所をとるし、重い。教室にも納まりきらないそうである。
「だから売らなきゃいけないわけですが、そうそう売れるものでもありません。教室の皆さんもこれには困っていましてね」
 つくる喜びは片付ける苦しみを伴うらしい。
「だから僕も家に持って帰ります。我が家は急須から、湯飲み、ご飯茶碗、皿、小鉢まで、全部僕がつくったものなんです」
――それなら奥様にも喜ばれているんじゃないですか?
 私がたずねると彼は小さく首を振った。
「『大きすぎる』『小さすぎる』『重い』『色がきつい』『洗いにくい』......。イヤなことばっかり言われます。本当に夫婦っていうのは......」
 いきなりぼやき始める船木さん。かれこれ14年間つくり続けているが、「一度もほめられたことがない」そうなのである。
――リクエストをちゃんと聞いて、つくればいいんじゃないですか?
「それは違う」
 きっぱり言い切る船木さん。
「陶芸っていうのは注文されてつくるものじゃない」
――そうなんですか?
「頭の中にあるイメージを形にする。それこそが陶芸なんです」
 船木さんはあくまでアーティストなのである。注文通りにつくるとそこには「自由」がないということか。彼は街を歩きながら、広告やガラス食器などからインスピレーションを得てイメージを膨らませているそうで、日常的に創作活動に励んでいるという。
「そうやってつくっているのに......」
 ポツリとつぶやく船木さん。
「家に持って帰ると、『気に入らない』と言われる」
――そうなんですか......。
 アーティストの苦悩というべきか。アートに欠かせないのは鑑賞者であり、鑑賞されることで人はアーティストになるのである。厳しい批判を受けるのも、精進の余地がまだまだあるという証拠。実際、彼は収納スペースの要らない、壁掛けの「陶板」など装飾品の製作にも取り組んでおり、年1回は個展を開いているのだ。ちなみに彼の作品の銘は「豚木」。豚もおだてりゃ木に登るという諺に由来するそうで、要するに彼はほめられたいのである。
 参考までに自由を求めて南洋タヒチに渡ったゴーガンは、現地の感想をこう綴っていた。

 こんなに遠くきながら、こんなものを、自分の逃げ出してきたと同じものを、またここに見出そうとは!
(ポール・ゴーガン著『ノア・ノア』前川堅市訳 岩波文庫 1932年)

 彼はタヒチにヨーロッパを見る。遠くまで逃げたつもりが、同じところに戻っていたのである。そして現地妻に去られ、母国フランスの妻からの便りもなくなり、帰国を願いながら現地で息を引きとったという。やはり「定年後」のモデルとしては適切ではなく、奥様と向き合う船木さんのほうがよほどアーティスティックではないかと私は思った。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

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