定年入門

髙橋秀実

定年入門

22

定年後の初恋

 横浜駅ビルにある朝日カルチャーセンターを訪れて、まず驚かされたのは講座の数だった。あらためて確認すると約1000講座。それぞれの案内が壁一面に掛けられており、読むだけでも1日かかりそうである。
 例えば、フランス語を学びたいとすると、「フランス語発音レッスン入門」「フランス語会話入門」「フランス語会話初級」「日曜フランス語会話初級」「話せるようになるフランス語」「ゆったり学ぶフランス語会話」などのやさしそうな講座から、「プルースト原典講読」やマラルメの詩を味わう「フランス詩を探す時間の旅」といった専門的な講座まで用意されている。定年後の男性に人気だという「古代史」にしても、「列島の古代史」「新講日本古代史」「古事記30講」などの総合的なものから、「古代の皇位継承と争乱」「古代日本の情報伝達」「古代水陸の道」「奇書『先代旧事本紀』を読む」等々と細分化されたものまである。他にも「アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む」や「謎の天体・ガンマ線バースト」などの学術的な講座も揃っており、その充実ぶりは下手な大学よりアカデミックな印象なのだ。
「もう一度学び直したい」
 定年を迎えたある女性がそう言っていた。大学で学びかけたことをカルチャーセンターや社会人講座でしっかり学び直す。仕事や家事に奪われた時間を取り戻すようで、いってみれば定年後に大学生に戻るのである。実際、ロビーでは女性たちが集い、授業の準備や復習をしながら、どこで食事するかなどと楽しそうに語り合っている。私も申し込んで授業を体験させていただいたのだが、生徒たちは熱心にノートを取り、時折「なるほど」とうなずいている。大学生の頃、居眠りばかりしていた私などからすると、懐かしいというよりこうあるべきだったと反省させられるのである。
「ゴールを見せるということが大事なんです」
 スタッフのひとりが、解説してくれた。
「昔は『〇〇を学ぶ』などというタイトルで講座を開いていたのですが、それだと3カ月ほどで辞めてしまうんですね。だからゴールを見せる。つまり『1年間で学ぶ○○』『○○10講』とか。ゴールが見えると『頑張ろう』という気持ちになれるんです」
 限られた時間で結果を出す。若い頃には考えもしなかった「人生のゴール」が講座にも反映しているのだろうか。

「私はカルチャーに通って、人生が180度変わりました」
 晴れやかにそう語るのは、石油関連会社を55歳で退職した谷本俊彦さん(67歳)だった。彼は東京大学大学院卒。会社の研究所に就職したものの、石油業界は吸収合併が続き、そのたびに「嫌味を言われた」らしく、いよいよ研究所が不要とされた時に早期退職を決めたという。割り増しの退職金で個人年金が受給できる60歳までつなげば、「なんとかやっていける」と判断したそうなのである。
「退職した後、60歳までは家に引きこもりでした」
――仕事などはしなかったんですか?
 私がたずねると、彼は静かにうなずく。
「母の介護もあるし、私も体調を崩しましてね。引きこもるしかなかったんですよ。それで60歳になった時、たまたまカルチャーセンターの新聞広告で『日本建築史』の講座があることを知って、『これだ』と申し込んだんです。60歳になって個人年金が入り、お金も使えるようになったので」
「定年」の歳に彼は引きこもりをやめて、外に出たそうなのだ。
――建築にご興味があったんですか?
「高校生の頃に、友達に誘われて奈良に遊びに行ったんです。東大寺、興福寺、薬師寺、室生寺などのお寺を見て、日本建築や仏像が好きになって。大学でも専攻科目とは別に日本建築史の授業には出ていましたし、『仏教美術研究会』にも入っていました。この分野は専門書を読むとますます好きになる。何年に建築されたのか。仏像もどこでつくられ、どこから移されたのか。昔から大論争もあって知れば知るほど謎は深まるばかりで、興味が尽きないんですよ」
 そう言って彼は、大学時代の「日本建築史」のノートを私に見せた。ページをめくると印字されたような文字。図表なども整然とレイアウトされ、まるで本である。
――すごいですね。
 私は感心した。ノートの完成度もさることながら、それを今も保管していることに驚いたのである。そのノートを携え、彼はカルチャーセンターの講座に臨んだらしい。
「教室の外で待っていたら、前の授業が終わって、生徒たちが出てきたんです。その後に講師の先生が出てきて。それがなんと大学の運動部の同期生だった。こっちは生徒なのに向こうは先生ですよ。同期はみんなエラくなっている。大企業の重役、大学教授、弁護士、高級官僚......。エラくなってないのは私だけなんです。まさに石川啄木の境地」
――石川啄木?
 彼はうなずいて、啄木の短歌を暗唱した。

  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
  花を買ひ来て
  妻としたしむ
   (『一握の砂・悲しき玩具 石川啄木歌集』新潮文庫 昭和27年)

 神童としてもてはやされ、20歳で天才歌人としてデビューしたものの、生活苦や病苦に苛まれながら夭折した石川啄木。奇しくも彼は最期までノートに短歌を綴り続けていた。
「私なんか、したしむ妻もいませんから」
 聞けば、谷本さんは未婚。「会社での地位がずっと不安定だったので」、なかなか結婚にも踏み切れなかったそうなのである。
――それでカルチャーセンターの授業のほうは......。
 私が話を戻すと、彼は顔を上げた。
「楽しいです。これはハマります」
――どういう点が楽しいんですか?
「授業の後に懇親会があるんですね。そこで友達ができる。それこそネズミ算のように増えていくんです」
――そんなに増えるんですか?
「仏像や建築好きの中心メンバーは決まっているんです。だからお寺で秘仏開帳などがあると、必ず顔を合わせます。他のカルチャーセンターに行っても会ったりする。みんな顔馴染みになるんですよ。トップ5なんかすごいですよ」
――トップ5?
「セミプロというか在野の研究家たちです。専門書も5000冊くらい持ってる。先生より詳しかったりする」
――谷本さんはトップ5じゃないんですか?
 私がたずねると、彼は目を丸くして「とんでもない。私なんかとても入れません!」と叫んだ。
「ただ私は学生時代にこの世界で超有名な先生2人に1年間ずつ、計2年間教わっている。仏教美術界のカリスマみたいな先生ですから、それが強みなんです。それに期間限定の秘仏開帳をいくつも見てきたし、奈良の有名な旅館『日吉館』に2回も泊まったこともある。そういった経歴でトップ5にも一目置かれる。過去のキャリアを認めてもらえるんです」
 彼は自分の持っている資料をトップ5にコピーしてあげたこともあるそうだ。察するに彼はトップ10あたりに位置しているのかもしれない。トップ5入りを目指して、他のカルチャーセンターでも学びつつ、全国の寺社を巡っており、その中でひとりの女性との出会いもあったらしい。
「法隆寺で池を眺めていたら、いきなり『何をしているんですか?』と声をかけられたんです。その池は『ヨルカの池』。聖徳太子がカエルの声がうるさいからと筆で目を突いたために、そこのカエルには片目がないという『法隆寺の七不思議』のひとつです。そんなことを話していたら彼女に名前を訊かれまして。訊かれたら相手の名前も訊かないとマズいでしょ。それで帰りにメールアドレスをもらって、一応メールを送ったら返事がきまして。次どこに行くのかと訊かれたんで、教えたら一緒に行くことになりまして。それ以来のお付き合いなんです」
――それは、もしかして恋ですか?
「恋なんでしょうか」
 首を傾げる谷本さん。
「この歳になってそんなことがあるなんて考えられないですよね。でもなんか、すごく気が合うんです。これまで仏教美術について話せる女性なんてひとりもいなかった。本当に出会ったことのないタイプなんです」
 ちなみにこの「ヨルカの池」は万葉集でも詠まれている。

  斑鳩(いかるが)の因可(ヨルカ)の池のよろしくも君を言はねば思ひぞ我がする
   (『新版 万葉集三』伊藤博訳注 角川ソフィア文庫 平成21年)

 ヨルカの池のように「よろしい」人なのに、あなたのことを誰もそう言ってくれない。世の中は認めないが、私にはそのよさがわかるという恋の歌。斟酌すれば定年後の初恋を歌ったかのようでもある。
「彼女は語学が堪能だし、物知りで花の名前や食べ物にも詳しいし、なんでも食べる。それに交渉事になると押しが強いんです。お寺に行っても住職に交渉して滅多に入れないところも見せてもらったり。台湾に旅行した時もそうでした。日本に帰る際、ツアー客の高齢者が体調を崩して空港で『2席あるいは3席使って、横になって帰ることはできないか』と訴えたんですが、空港の係員は無理だと断った。そしたら中国語を話せる彼女がものすごい剣幕で交渉しましてね。それを見て私は本当に惚れ直したんです。向こうはどう思っているか知りませんけど」
 谷本さんは熱くのろけた。
――おふたりで海外旅行もされるんですか?
「もちろん行きますよ。旅行の相棒としても最高ですから。インド、中国、台湾、ミャンマー、インドネシア......、来月はフランスに行きます」
――立ち入ったことで恐縮ですが、部屋はひとつなんでしょうか。
「ひとつです。でも男女という感じではないんです。あえていうなら彼女は年下なので妹。実際に私には妹がいるので新しい妹というか。頼りがいのある妹ですね」
――妹ですか......。
 私はつぶやき、「それでどんな容姿の方なんですか?」と参考までに確認すると、彼はきっぱりとこう言った。
「私は昔から容姿より頭のいい女性に惹かれるんです。自分が頭よくないから」
――東大まで卒業して、そんなことはないでしょう。
「東大でも会社でも落ちこぼれですから。自分より頭がよくないと話が合わないんです。話が合うってことが一番大事でしょ」
 確かに歳をとると、容姿より話が合わないことに腹が立つ。頭がよければ容姿も美しく見えてくるような気もするのである。
「ひとりは寂しいです。寂しい人だと見られているんじゃないかと思うと、なおさら寂しいですよ」
 谷本さんはしみじみとそう語った。
「彼女とふたりで出かけると、なんでも楽しい。ひとりだとレストランでもカウンター席に案内されるし、ツアーでも冷遇されます。ふたりならお寺を見たって、その後、感想を言い合えるじゃないですか。ひとりは気楽だけど、ふたりなら楽しい」
 彼女に出会うことで、ひとりでいることの寂しさにあらためて気づかされたらしい。
――ご結婚などは考えないんですか?
「向こうの両親は健在で家庭の事情もありますしね。ただ、夜ひとりで家にいると不安になりますよ。私は体も弱いから賊が入ってきたらどうしようかと。そう考えると、彼女と一緒にいたほうがいいと思うんです」
――そうなんですか......。
「実は彼女は声がデカいんです。彼女に一喝してもらえれば賊も退散します」
 そう言って谷本さんは大笑いした。
 彼の満面の笑みを見ながら、もしかするとこれもひとつの「出世」ではないかと私は思った。もともと「出世」とは仏教用語で出家を意味していた。俗世から出ることを「出世」と呼んでいたのである。ところがいつの間にか日本では「世に出る」、つまり俗世に認められることを意味するようになった。方向としては逆になるわけで、言語学的にも謎とされるのだが、「定年」こそ「出世」だったのではないだろうか。「定年」によって会社という俗世から出る。俗世から出て、あらためて俗世にデビューする。そこで誰かに認められればそれこそが本当の「出世」。谷本さんも出世した人のように私には思えたのであった。

※登場人物はすべて仮名です。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社、出版編集プロダクションを経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』など。近著に『日本男子♂余れるところ』(双葉社)。

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