レディース・アンド・ガールズウィメン

王谷 晶

レディース・アンド・ガールズウィメン

©nao

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春江のトップギア

「社会の歯車」という決まり文句に、春江はいつも違和感を抱いていた。その言葉はおおむねマイナスな意味で使われる。けれど、歯車は他の歯車が動くとそれに合わせて動き、自分が動くことでまた他の歯車を動かす。
(立派なことよね)
 小さな歯車ひとつひとつの動きが、大きな機械を動かす。どれかが欠けたら、機械は動かない。春江はとうの昔に死んだ祖父の趣味だったバイクいじりを思い出す。
『どんな小さなパーツでも、一つ無くなったら全部台無しになるんだ』
 何度もそう言われた。
 午後の五時半になると春江は給湯室を掃除して退勤する。と言っても帰る場所は会社と同じ敷地にある、家族五人で暮らす自宅だ。家業である小さなゴム靴・作業靴製造会社の事務員として働き始めてもう十三年になる。春江はいま三十一歳。実家以外の場所で暮らしたことはなく、その家の建つ町からもほとんど出たことはない。

 春江は自分を「歯車」と感じたことがなかった。家でも、学校でも、会社でも、春江の存在や行動はつるりとしてどこにも引っかからず、誰にも回されず、誰も回さなかった。嫌われず、好かれず、嫌わず、好かず、何をしても平均か少し下の成績をおさめ、目立たず、目立とうと思ったこともない。
 噛み合ってギシギシグルグルと忙しく動く歯車たちの足元でぽつんと転がる、どこにも組み込まれない小さなボール。春江は自分の人生をそう認識していた。
 
 給湯室はいつも通りたいして片付けるものは無かった。純粋な内勤は母と自分だけで、今日は来客もなし。営業の男性社員は直行直帰だし、あとは父も含めみな車で十分ほど離れた所にある工場で仕事をしている。
「本社」と呼ばれているこのプレハブ平屋の中でする作業は、とても少ない。経理や事務仕事の大半は商業高校を卒業した母がこなしているし、営業もたまにカタログの発送や伝票の整理を頼んでくるくらい。狭いプレハブは小一時間もあれば掃除も整頓も済んでしまうし、たまにあるクレーム対応は母か、昔サポートセンターの社員をしていたという工場勤務の村井さんに振り分けられる。つまり春江のやることは、ほぼ無かった。
 今この瞬間から仕事を辞めると言っても、両親も従業員も誰も困りはしないだろう。春江は月に一回ほどそんなことを考える。給料はかなり少なかったが、実家暮らしで使うあてもなく預金はそこそこ貯まっていた。それを元にどこかに旅行に行ったり別の町で暮らすことも、月に二回ほど想像した。
 でも、春江はそれを一度も実行に移さなかった。歯車でない自分の暮らしにもやもやとした気持ちを抱きながら、それを変えるための具体的な行動や計画は、妄想すらもしたことがなかった。

 そんなある日の昼下がり。春江が本社で電話番をしていると来客があった。町内会役員の真柴さんだ。同じく役員である母はちょうど工場の方に出向いていた。それを伝えると真柴さんはじゃあこれお母さんに渡してねと日帰りバスツアーのパンフレットを差し出し、それからふと思いついたように表情を変え、声を一段低くして春江に近付いた。
「春江ちゃん、四丁目にある一戸建ての家分かる? やなぎ歯科の看板が近くにある、赤い屋根の」
 数秒考えて、はいと答えた。高校のときの通学路にあった家だ。
「あそこがねえ、ちょっと困ってるのよ。二年くらい前にご主人が亡くなって、どうも今は娘さんが一人で暮らしてるらしいんだけど。その娘さんがねえ......キコーをするの」
 真柴さんの声はどんどん小さくなりながらも、口調はたかぶっていく。
「キコー、ですか」
「そう。奇行キコー
 ゆっくり頷いてから、真柴さんはさらに声をひそめた。
「ゴミ屋敷っていうの? 最初は家の中だけに溜めといたんだろうけど、それが玄関やら窓からボンボン外に出すようになって、なんかもう、凄いのよ」
「凄いんですか」
「すんごいの。ニオイとか、カラスが寄ってきちゃって。気持ち悪い張り紙がそこらじゅうにベタベタ貼ってあったり。役場の人が行ってるらしいんだけどね、わめいたり立てこもったりで話にならないって。どうすればいいのかしらねえ、ああいうの」
 家の中や外に大量にゴミを溜め込んでしまうゴミ屋敷の話は、ワイドショーで何回か目にしていた。テレビの中ではその惨状にモザイクが掛けられることすらあって、きれい好きの母は必ず文句を言いながら最後までじっくりと、そういう特集が流れるたびに熱意をこめて視聴している。
「あの娘さん、たぶん春江ちゃんと同い年くらいだわ。学校同じだったんじゃない?」
 真柴さんが言ったそのお宅の名前に、春江はおぼえがなかった。もっともクラスメイトの名前すらほとんど覚えていないのだけれど。
 その後いかにそのゴミ屋敷が迷惑か恐ろしいかということを十分ほど話してから、真柴さんは帰っていった。
 それから少しして母が戻り、五時半になり、春江はいつも通り小さな給湯室に向かった。
 出涸らしたお茶っ葉が一日ぶん、三角コーナーに溜まっており、ゴミ箱の中には母のお気に入りのおやつであるアーモンドフィッシュの小袋や数日前の昼に食べたカップ麺、みかんの皮、割り箸などが捨ててある。
 こういうものが、外に溢れ出るくらいに溜め込んである家。
 テレビ画面の、モザイクの下にあるもの。
 春江の胸の奥がざわざわした。
 それはめったに起こらない情動。春江の好奇心の蠢きだった。


 本社の玄関から出てそのまま左に曲がり建物の裏に回るとすぐそこに自宅がある。だが今日は、春江は真っすぐ進んだ。会社と家の敷地を出て、卒業以来一度も歩いていない高校時代の通学路を行く。
 ぴゅう、と冷たい風が春江の無防備な襟元をかすめた。ふと周りを見ると数少ない通行人はみなコートか暖かそうな上着を着込んでいる。マフラーを巻いている人もいる。通勤距離がほとんど無いからとカットソーにカーディガンだけ羽織って「出勤」していた春江は、町がいつのまにか冬を迎えようとしているのに初めて気付いた。
 震えながら十分ほど歩くと、その家はあった。色あせたやなぎ歯科の看板の隣、高さ一メートルほどの低いブロック塀に囲まれた赤い屋根の二階建て住宅。
 電信柱二本分離れた距離でも、そこが異様な雰囲気をかもしているのは分かった。真柴さんの言う通り、一階部分の窓の下には全て半透明のゴミ袋が山型に積み上がっていた。ブロック塀の外、つまり公道には何か黒っぽい液体がたっぷり入った魚屋の発泡スチロール箱がきっちりと隙間なく家を取り囲むように並べられており、さらにその液の中に浸すように電動泡立て器やDVDプレイヤーなどが突っ込まれている。ブロック塀の上部はブルーシートと赤いビニールテープで覆われ、その上に等間隔にA4サイズの白い紙が茶色いガムテープで貼られている。
 そこに何が書いてあるのか知りたくて、春江は歩調を落としながらさらに電柱一本分、近付いた。
 家の中は暗く、周囲は街灯で明るい。玄関の前は人一人通れる隙間を空けて左右にゴミ袋や段ボール箱が積み重なっており、その通路様の地面には敷石のように卵の殻が撒かれていた。通り過ぎるふりをして一生懸命横目で張り紙を見ると、そこにはボールペンのような細い字で、紙いっぱいに大きく「和合」と書かれていた。

 自宅に戻ってからも、春江の胸のざわめきは止まらなかった。昼間に行けば、きっともっとはっきりとゴミが溢れ出している様子やスチロール箱の中に満たされている何かを見ることができるだろう。あのゴミはいつ外に出しているのだろう。昼間だろうか。それとも夜中だろうか。中身は普通の生活ゴミなのだろうか。「和合」とは何だろう、どうしてああいうことをしているのだろう......。

 翌朝、春江は熱を出した。身体は丈夫な方なので母が珍しいわねと首をかしげた。考え事をたくさんしたからかも、と言うと、知恵熱なんて赤ん坊じゃないんだからと呆れられてしまった。
 結局仕事を休み、パジャマのまま布団の中でじっとしている間も、春江の頭の中に浮かんでくるのはあの家のことばかりだった。
 外は気持ちよく晴れているようだった。明るい日差しが街中に降り注いでいる。

 心臓を口から吐き出しそうになりながら、春江はマフラーの中にマスクをした顔をうずめた。家の敷地から出るには本社の前を通らないといけない。母はパソコンに向かっているが、見つかったら当然何をしているのか問い質されるだろう。母に行き先を言わないで出かけるのは生まれて初めてだった。血液が首から頭の血管をぎゅるぎゅると音を立てて巡っているのが分かる。
 春江は中腰になり、足元の砂利を鳴らさないように鳴らさないように気をつけながら本社の前を通り過ぎた。そして表の道路に出たら、一気にダッシュした。走るのなんて数年ぶりだったので、熱もあいまって本当に死にそうになり、三十メートルほどで立ち止まり、ひとしきりぜえぜえ言ってからゆっくり歩きだした。

 あの家は同じ場所に建っていた。当たり前のことだが、その当たり前さに春江はほっとした。様子も昨日と変わっていないようだった。
 陽の光の下で見ると、家の不気味さは少し薄れた。スチロール箱の中の液体が日を受けてきらきらと輝き、それはまるで黒い絹の布のように美しかったがやはり何の液なのかは分からなかった。昨日は寒さと緊張で気付かなかったが生臭いような異臭も漂っていた。「和合」の貼り紙もそのままで、全ての紙に同じ言葉が書いてあるようだった。
 それらを見ながら春江の胸はまるで電流を流されたようにびりびりと痺れ、はね、踊り狂っていた。初めて感じる気持ちだった。家を取り囲むゴミや異様な要素に眼の焦点を合わせるたびに皮膚の表面がぞわぞわと粟立った。
 ぴったりと閉ざされているガラス窓や玄関扉の向こうはどうなっているのだろう。今も中に人は居るのだろうか。どんな人物だろう。本当に一人で暮らしているのだろうか。この大量のゴミは全てその人が作ったものなのだろうか。疑問がどんどん湧いてくる。
 電柱の影に隠れるようにしながら、春江はじっと家を見つめた。
 すると、二階の窓のカーテンが、わずかに揺れた。
(人が居る!)
 磨りガラスの窓が、弾けるような勢いでばしっと開いた。そして次の瞬間そこから白い半透明のゴミ袋がひとつ、ビーチボールのようにふわっと放り出され、庭に堆積するゴミ袋の上にほとんど音もなく着地した。
 窓はふたたび勢い良く閉じられた。ほんの一瞬、春江は白く細い腕を見た。

 それからほぼ毎日、春江は仕事が終わると真っ直ぐに「家」に向かい、ゴミの出具合や貼り紙の様子を見続けた。二週間目、いつも同じ格好では近所の人に怪しまれると思い、高校時代から着続けていたダッフルコートとローファーを捨て、近所のベイシアで新しいダウンコートと歩きやすそうなスニーカーを買った。服や靴を買ったのは四年ぶりだった。
 季節は本格的に冬になった。日が落ちるのが早まり、どんどん家の様子が見辛くなってきた。春江は週に二、三回、五時に早退するようになった。母もさすがにおかしいと思ったのか何をしているのか問い詰めてきたが、ダイエットと健康のためにウォーキングを始めたと言ってごまかした。母に嘘をつくのは、初めてだった。
 ゴミを捨てる現場や、家の中の人物の手や顔を見られるのはとても貴重な一瞬だった。しかしこれだけ大量のゴミを出すのは食料を買ったり配達してもらったりしなければ不可能なはず。それはおそらく春江のいない平日の昼間に行われているのだろう。
 春江ははっきりと「家」の住人の姿を見たくなってきた。どうしても。

 ある日。ついに春江は同級生の出産祝いに行くと嘘を言って平日に会社を休み、朝から家を出た。母にそれらしく見せるようにやはりベイシアで新調したワンピースを着込みヒールのないパンプスをぎこちなく鳴らしながら、冠婚葬祭の時以外したことのない化粧の下の頬を紅潮させ「家」へと急いだ。
 今やゴミは恐ろしい勢いでどんどん増え続けており、玄関に役場からの封書が挟み込まれているのも何度か目撃した。スチロール箱の中の液体は近付くのも辛いくらいの悪臭を放ちはじめ、「和合」の貼り紙は雨が降るたびに新たに上に重ねて貼られパイ生地のようにごわごわに膨らんでいる。
 朝早くからやなぎ歯科の看板の影に隠れ、春江はいつも通り家の観察を始めた。だが予想に反して動きは何もなく、昼を過ぎても何の変化も起こらなかった。
 飲まず食わずで立ち尽くし、午後三時。春江はとうとう我慢の限界を迎えた。
 会おう。あの家の人に。
 膝をがくがくとさせながら「家」に近付き、地面に撒かれた卵の殻を踏み、左右に迫るゴミ袋の間で肩を強張らせながら、玄関の前に立った。
 そして、震える指でインターフォンを押した瞬間。
 玄関のドアが勢いよく開いた。
 目の前に、長い髪の毛を一房ずつ輪ゴムやビニールテープで縛った、真っ白な顔の女が立っていた。春江は自分の顔が自然と笑顔になっているのに気付いた。何か言わなければ。そう思った瞬間女は目を破けそうなくらい大きく見開き手にしていたバケツの中に入っていた真っ黒い液体を無言で春江の頭から浴びせかけた。そのとき、春江は巨大な歯車が自分にがっちりと嵌まり込み、轟音を立てて回転させたのを、はっきりと感じた。

                                       終

Profile

王谷 晶

東京都生まれ。小説家。著書に『探偵小説(ミステリー)には向かない探偵』『あやかしリストランテ 奇妙な客人のためのアラカルト』(ともに集英社オレンジ文庫)などがある。@tori7810

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Cov_Kuko_R.jpg『最高の空港の歩き方』の刊行を記念してトークイベント「夏休み、空の玄関で逢いましょう。」を7月23日(日)にジュンク堂書店大阪本店で開催いたします。いま空港がアミューズメントパーク化しています。ご当地グルメ、空港限定グッズ、お風呂、空港アート、飛行機撮影、工場見学ーー飛行機に乗る人も、乗らない人も楽しめる「空の玄関」の遊び方と、その背景にある「進化の理由」を『最高の空港の歩き方』の著者・齊藤成人さんと空港ファンであるイラストレーターの綱本武雄のふたりが熱く語ります。入場無料(先着40名)です。

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978-4-591-15498-4.jpgのサムネイル画像ポプラ文庫ピュアフル7月新刊『英国幻視の少年たち5 ブラッド・オーヴァ・ウォーター』発売を記念して、著者深沢仁さんから読者の皆さんに、抽選で、キーホルダーやコンパクトミラーなどの英国土産をプレゼントいたします。新刊オビの応募券にてご応募ください。詳細と英国旅行のミニレポートをこちらでご紹介しています。

『あざみ野高校女子送球部! 』(ポプラ文庫ピュアフル、680円+税)の刊行を記念して、小瀬木麻美さん トーク&サイン会を開催いたします。

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達人たちの仕事場にお邪魔したら、楽しい驚きがいっぱい。まさに大人の社会科見学!ふむふむ、へーと読んでいるうちに、むくむくとやる気が湧いてくるお仕事エッセイです。

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