レディース・アンド・ガールズウィメン

王谷 晶

レディース・アンド・ガールズウィメン

©nao

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ときめきと私の肺を

 お金が必要だったのはもちろんだけど、動機の三割くらいは好奇心だった。それでもキラキラしたスタイルのいい世慣れた子たちがたくさん居る、お客も若いサラリーマンが多そうな流行りのキャバクラに行くのは気後れがして怖かったので、私は巣鴨にあるその小さなカラオケスナックのドアをおそるおそる開けたのだった。
 アルバイト募集の貼り紙にあった番号にまず電話したとき、ガラガラ声の男性に『日本の人?』と訊かれた。ハイと答えると『いいね! じゃ面接に来てください』とワントーン明るい声で返された。私はその意味がまだよく分かっていなかった。十九歳。苦い記憶の多すぎる北関東の田舎から出てきて、二年目の晩秋だった。

 眼鏡を外しコンタクトをつけ化粧をし、持っている服の中で一番派手な黒いベロア風のミニスカートとジャケットのツーピースを着て面接に出かけた。スナックという場所に足を踏み入れるのはそれが初めてだった。カウンターと小さなテーブル席が四つあるだけの狭い店の中、紫のワンピースを着た中森明菜を疲れさせたような女性と、三つ揃えのスーツを着た田中邦衛そっくりな男性が絨毯に掃除機をかけたりカウンターの中で洗い物をしたりしていた。
「あの」
 声をあげると、田中さん(仮)が顔をあげた。
「面接のお約束してた、大滝です」
 次の一瞬、田中さんの顔に浮かんだ「がっかり」としか言いようのない表情は今も忘れられない。
 一番奥のボックス席に座り、面接が始まった。年齢、本名、出身。それくらい。
「カラオケはできる? 一曲何か歌ってもらえるかな」
 通信式ではない、レーザーディスクのカラオケだった。歌本からあらかじめ考えていた天童よしみの『夜明け』を選んで、立ち上がってマイクを握った。
 歌はうまくない。けど私は笑顔で、身振り手振り芝居っ気たっぷりに動き回り一曲歌いきった。席に戻るといつのまにか明菜さん(仮)が居て
「いーじゃない、明るくて。若いし」
 と言いながらバージニア・スリムに火を付けた。田中さんはまだ納得していないような顔だったが、
「ちょっと、ジャケット脱いでみてくれる」
 と言って、私がその通りにしたらぱっと顔を明るくさせて
「じゃ、採用しようか。ママもご推薦だし」
 と片手を差し出し握手を求めてきた。私はその手を握った。

 週に三日。夜の八時から午前一時まで。私とママ以外の女の子は、フィリピンとブラジルと中国から来た人たちだった。
「マスター、またずいぶん素朴な子入れたね」
「いやでも見てくださいよこの、オッパイ! もうね、これ見た瞬間採用決めましたから」
 初日は客が来るたびに田中さんに呼ばれこんな感じのやりとりが繰り返され、私の「お披露目」は滞りなく進んでいった。覚悟はしてたが、こりゃけっこうキツいぞ。初仕事二時間目くらいで私の頬は笑いっぱなしの筋肉痛でギシギシと痛んできた。
 十七から本格的に飲み始めた私は、遺伝なのか体質なのかそこそこ酒が強かった。十一時を過ぎると客も酒が回ってきて遠慮がなくなり、「素朴な子」が「ブス」や「デブ」や「カッペ」という言葉に置き換えられはじめた。私は木偶のようににこにこ笑ってその席のボトルを片っ端からぐいぐい飲みまくった。
 日付を回ったあたりで、記憶をなくした。
 
 目が覚めると自分の部屋で、服も化粧もコンタクトもそのまま、フローリングの床によだれを垂らして寝ていた。寒くて全身が震えて、身体を起こすと即座に吐き気が襲ってきた。トイレに這っていって吐く。液体しか出なかった。ということは、昨夜のうちにどこかで質量のあるゲロを吐いたのだ。
 バイトに持っていったハンドバッグの中には、財布も携帯もちゃんと入っていた。それと、ポケットティッシュ。
 普通は消費者金融やテレクラの広告が入っているところに、見慣れない文字が書かれた不思議な紙が入っていた。簡体字。中国の言葉。たぶん、中国人向けネットカフェか何かの広告だ。こんなの貰った記憶がない。
 頭痛と吐き気がまた押し寄せてきたので、ティッシュの事は忘れて私はユニットバスの中で呻きながら吐き続けた。
 
 その日の夕方までにはなんとか復活して二度目の出勤。服は膝丈の灰色のワンピース。地味かなと思ったので高校時代に地元のファッションビルで買ったペンダントをつけた。店に行く道すがら、ゲロをどこで吐いたのかだけが心配だった。
 店の中におずおずと入ると、明菜さんだけが開店の準備をしていた。
「昨日だいじょぶだった? ちゃんと帰れたの」
「はい......すいません、何かやっちゃいましたか」
「いや、トイレで吐いただけだよ。あんまり無理して飲まなくていいからね」
 私はぺこりと頭を下げて控室に入った。化粧も服も済ませてきているので、スニーカーからパンプスに履き替えるだけで支度は終わる。
 控室の中では、一人の女性が淡いオレンジのミニワンピースに着替えている途中だった。
「あ、す、いません」
「おはよございます」
 無表情でそれだけ言われる。背がすらっと高くて髪の長い、モデルみたいなプロポーションのその人は、この小さなスナックの「ナンバーワン」で、マリさんという源氏名を昨夜紹介された。
 狭い控室はバッグや靴やコートやぺらぺらのドレスやダンボール箱で溢れかえっている。マリさんは鏡を見ながらヘアピンをたくさん使って髪をアップにしていた。目の前に置かれた化粧ポーチの中から見覚えのあるポケットティッシュがのぞいている。
「あ」
 思わず声を出すと鏡越しに視線が合った。
「昨日、あの、すいません、私」
 たぶん吐いたときマリさんが近くにいたのだ。それでティッシュをくれたのだ。服とか汚してたら大変だと思った。
 けれどマリさんはすぐに私から視線を外して、
「あー」
 とだけ言うと、やはり無表情で髪のセットを続けた。それ以上は話しかけることができなかった。
 その日は金曜日で、昨日より客数が多かった。
「新入り? これが? 勘弁してよマスター、いくら日本人でもこれはねえよ。俺の席にはかわいい子だけつけてよ」
「部長そんなこと言っちゃダメですって! かわいそうじゃないですか。ねえ」
「なんだお前、ブス専か?」
「またそういう~。これくらいの子なら俺ぜんぜんイケますよ。おっぱいドーンだし、癒し系じゃないすか?」
「デブなだけだろ。俺はダメだな。これは無理。勃たない。お前、若いなあ」
 というような会話を目前で交わされながら、またひたすらに、飲んで、飲んで、飲んだ。
 共学だった中学校の粗暴でバカな男子児童とまるで変わらない話を、金も地位もある四十、五十、六十歳の男が楽しそうにしている。
 プライドをずたずたにされながら、でも脳みその片隅に築城している、そこには誰も入れない鈍色に輝く城塞の中の私が、「これを見に来たんだ」と囁く。これを見に来たんだ。この屈辱を味わいに来たんだ。いつかこれも全て文字にして金に変えてやる。だから何を言われたって平気だ。もっと私を侮辱してみろよ。やれるもんならやってみろ、このクソどもが。
 
 干からびた犬のうんこの上に黄色いゲロが降り注ぐ。
 仕事を終え、店から出て数歩歩いただけで吐き気のリミットが来て私はすぐ近くの路地に入り中腰になって思いきり吐いた。一足しかないパンプスにてんてんと飛沫が散る。くそ。くそ。くそったれめ。
「キョーコ」
 後ろから女の人の声が聞こえた。
「キョーコ」
 二回言われて、それが自分の源氏名なのを思い出した。田中さんが深田恭子から取って命名した私の夜の名前だ。
 振り返ると、マリさんが居た。
「だいじょぶ?」
 髪をおろしてジャージに着替えたマリさんは、店の中よりずっと若く見えた。
「だいじです......」
 カスカスの声でなんとかそう答えると、マリさんは眉間にしわを寄せて首をかしげた。しまった、これは方言だった。大丈夫です、とちゃんと言おうとする前にまた吐き気が来て私はふたたびマリさんに背を向けた。
 膝をガクガクさせながらもう何も出ないというところまで吐くと、後ろでカチッという音がした。
 口を拭って壁に手をついて立ち上がると、まだマリさんは居て、静かに煙草を吸っていた。
「キョーコいくつ?」
 頭がぐらぐらして、年齢を訊かれているのだと分かるのに三秒くらいかかった。
「十九です......」
「エライね」
 そう言うとマリさんは初めてにこっと笑って、ポケットティッシュを差し出して、私がそれを受け取るとくるりと身を翻してどこかへ去っていってしまった。

 次の日は二日酔いを引きずりながら九時に起き、最低の気分と体調で昼のバイトをなんとかこなした。昼間は週五でレンタルビデオ屋で働いていた。映画が好きだからという単純過ぎる動機で始めたバイトだが、都内に実家がある大学生バイトと木村拓哉とそっくり同じ髪型をした嫌味ったらしいバイトチーフの間で働くのはカラオケスナックとはまた違った屈辱感があった。
 この世の全てが糞の塊に見えるときと、何もかもが輝いて見えるときがあって、どっちにしろその世界で自分はいちばんみじめな存在だと思っていた。脳みその中の鈍色の城に映画と本と味も分からない酒を詰め込んで、こんなところで終わる人間じゃないんだと毎日自分に言い聞かせていた。つまり私は、どこにでもいる普通の十九歳だった。
 
 洗って乾いたベロアのツーピースをまた着て、三回目の出勤。ドラクエの話題から「スライム!」と叫ばれ胸を掴まれる、「こういうタイプのブスは性格がいいから好きだ」と口説かれる、しつこく「十九? 嘘つけ三十過ぎだろ? 子供産んでんだろ? 俺は分かるんだ」と問い詰められる。全てを「やだあ~」と「もお~」で受け流し、飲んで、飲んで、飲む。
 隣の席をふと見てみると、マリさんが煙草を吸おうとした客に向かって「たばこだめ! マリたばこきらい!」と怒っていて、客も「しょうがないなあ」と笑って言う通りにする、という光景が繰り広げられていた。
 私は仕事中は自分の心をずっと鈍色の城に鎮座させておくことにした。胸を掴まれ、ブス、田舎者と罵られているのは私の下僕のゴーレムだ。誰にも尊重されないことで二千円の時給を稼ぐ、この木偶は私の使い魔なのだ。

 体調の都合か、店の酒に慣れたのか、その日は大して酔わずに仕事を終えられた。日本人と結婚して小さな子供のいるフィリピーナのユミさんはみんなより二時間早く帰り、ブラジル人(本当はハーフだと言われた)のナツコさんは常連客とラーメンを食べに行った。控室に入ると、着替え終わったマリさんが一人で三ツ矢サイダーを飲みながら煙草を吸っていた。
「お疲れ様です」
「あー」
 帰ってきたのはそれだけだったけど、マリさんは笑いかけてくれた。
「キョーコみて、これ」
 ふいに手招きされて、私はおずおずとマリさんに近付いた。マリさんはヴィトンのハンドバッグの中から手帳を取り出し、ぱっと開いた。写真が挟まっていた。
「......小さい、ですね」
「ちいさいよ。いまもうちょっとおおきくなったね」
 それはマリさんと、その膝に抱かれている黄色いロンパースを着た赤ん坊の写真だった。背景はなんとなく日本ではないように見えた。
「しーばらく、あってないよ。でんわするけど」
「可愛いですね」
 これは慌てて言った。子供に興味がないので、赤ん坊の写真を見せられてもつい「可愛い」とか「お母さんに似てる」とかの決まり文句を言うのを忘れてしまう。だけどマリさんは嬉しそうに笑って、
「かわいいよ!」
 と大きな声で言った。それから新しい煙草に火をつけた。
「キョーコたばこはすわない?」
「あんまり......」
 何回か試したけど、とくに自分に合っていると思わなかった。
「さけあんなにのむのに」
 ククッと笑って、マリさんはマイルドセブンをもう一本取り出し、私の口元に近づけた。それがあまりに自然な仕草だったので、私は白いフィルターをくわえ、マリさんが店の名前入りのライターで火をつけてくれるのをぼんやり見つめた。
 切っ先がオレンジ色に燃えた煙草を咥え少し吸い込むと、口の中に煙がたまった。肺に入れる。咳き込みはしなかった。安いウイスキーで熱っぽくなった身体に、それはなぜかとてもおいしく感じられた。
「つらいね」
 数回ふかした後に、マリさんがそう言った。
「つらいです」
 私は素直にそう返していた。心はいつの間にか鈍色の城の中から出ていた。
「つらいことたくさん」
 歌うような柔らかいマリさんの声でそう言われると、辛いことを辛いとそのまま受け止められそうな気がした。私はつらい。金が無いのがつらい。自分だけでなく実家も借金まみれなのがつらい。学歴がないのがつらい。醜い容姿がつらい。新人賞に何度も落選するのがつらい。尊敬されないのがつらい。この先どうなるのかさっぱり分からないのがつらい。とてもつらい。そう、つらいんだ。他の誰でもなく、私がつらい。
 マリさんは煙草を一本吸いきり、飲みかけの三ツ矢サイダーの蓋を締めてジャージのポケットに入れ、
「じゃね」
 と言って帰っていった。

 店を出て、私は近くのコンビニでマイルドセブンとライターを買った。その日は特に寒くて、その年初めて息が白くなるのを見た。
  煙草を取り出し、咥え、火をつけ、白い息と一緒に夜空に煙を吐き出す。
「つらいな」
 もう一度声に出して言ってみた。いつかこの気持ちを笑って書ける時がくればいいなと思いながら、十九歳。肺に深く煙を吸い込んだ。

Profile

王谷 晶

東京都生まれ。小説家。著書に『探偵小説(ミステリー)には向かない探偵』『あやかしリストランテ 奇妙な客人のためのアラカルト』(ともに集英社オレンジ文庫)などがある。@tori7810

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お知らせ

Cov_Kuko_R.jpg『最高の空港の歩き方』の刊行を記念してトークイベント「夏休み、空の玄関で逢いましょう。」を7月23日(日)にジュンク堂書店大阪本店で開催いたします。いま空港がアミューズメントパーク化しています。ご当地グルメ、空港限定グッズ、お風呂、空港アート、飛行機撮影、工場見学ーー飛行機に乗る人も、乗らない人も楽しめる「空の玄関」の遊び方と、その背景にある「進化の理由」を『最高の空港の歩き方』の著者・齊藤成人さんと空港ファンであるイラストレーターの綱本武雄のふたりが熱く語ります。入場無料(先着40名)です。

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978-4-591-15498-4.jpgのサムネイル画像ポプラ文庫ピュアフル7月新刊『英国幻視の少年たち5 ブラッド・オーヴァ・ウォーター』発売を記念して、著者深沢仁さんから読者の皆さんに、抽選で、キーホルダーやコンパクトミラーなどの英国土産をプレゼントいたします。新刊オビの応募券にてご応募ください。詳細と英国旅行のミニレポートをこちらでご紹介しています。

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達人たちの仕事場にお邪魔したら、楽しい驚きがいっぱい。まさに大人の社会科見学!ふむふむ、へーと読んでいるうちに、むくむくとやる気が湧いてくるお仕事エッセイです。

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