レディース・アンド・ガールズウィメン

王谷 晶

レディース・アンド・ガールズウィメン

©nao

10

タイム・アフター・タイム

 鏡台の前に座って、さて、と独り言を言ったあとに、悦子の手は一瞬止まった。化粧をする手順を思い出すのに、ほんの少し時間がかかった。
 義母の嫁入り道具である大きな鏡台には柿渋色のレースが掛けられていて、それを捲ると線香と古い化粧品の混ざったにおいがふっとした。悦子はこの漆塗りの重厚な鏡台が苦手だった。一番大きな和室にでんと据えられているその姿は、ここで八年間寝たきりで過ごした義母の姿を思い出させる。でも、家の中に他に化粧に使えるような鏡はない。鏡だけでなく、悦子が使うためにあつらえたものは、洗濯機や調理道具以外はこの家には無かった。
 服はもう着替えていた。一ヶ月半まるまる悩み、二駅先の街の駅ビルまで出向き、ショウウィンドウに花やオブジェが飾られているきらびやかな婦人服売り場の前をうろうろし、店員に声を掛けられて曖昧に笑って慌ててその場を離れ、結局地元のファッションセンターしまむらで買ったツイード風のツーピースだ。暗い灰色に少し明るい灰色が織り交ぜられたそのツーピースの中に、白いブラウスを着る。十年前、町内のコーラスグループに誘ってもらった時に買ったもの。その後すぐに義母が風呂場で転倒し介護生活が始まり、結局一度も外で着ることなく箪笥の中に仕舞いっぱなしになっていた。
 化粧を、どの程度していけばああいう場では失礼にならないのか、分からなかった。でも娘が三年前に韓国旅行のおみやげにくれたBBクリームを塗り、眉を描き足し、薬局で買ったちふれの口紅をひくと、それだけでも、曇った鏡の中の悦子の顔は普段とまるで違って見えた。
(私の普段の顔)
 鏡の中自分と視線を合わせながら、ぽつりと思った。
(どんなんだったかしら......)
 台所で物音がした。慌てて化粧道具を片付ける。
「もう、夕飯にするんですか」
 開け放たれた冷蔵庫の前に、夫の俊一の大きな背中があった。中腰になり無言で、手も動かさず冷蔵庫の中をただ睨みつけ、何も取らずにばたんと扉を閉める。
「奈良漬どこやった」
(冷蔵庫の中にありますよ、ちゃんと探して)
 普段なら悦子はその程度には言い返す。でも、今日は違った。黙って冷蔵庫を開け、タッパーに入った奈良漬を取り出し、それから皿に盛ろうと食器棚に近付く。
「いい、そのままで」
 まるで部下のミスを責めるかのような口ぶりで、俊一はタッパーを引ったくるとそのまま台所を出ていった。
 コンロの上にはおでんの大鍋が掛かっている。朝から仕込み、温め直せばすぐに食べられるようになっている。だが俊一は一人ではコンロのスイッチをひねることすらしない。以前例のコーラスグループの練習に出かけたとき、帰宅したら用意しておいた夕飯はそっくりそのまま手付かずで、俊一はカップ麺を食べ義母は勝手に寿司を取っていたことがあった。その寿司について言い合いをしている二人を見て、悦子はふっとわけもなく死んでしまおうかと思ったのをよく覚えている。
 仕事が終わったら家に寄るよう娘の雪美には頼んであったが、それもやや不安だった。雪美は俊一ともう何年もまともに会話をしていない。俊一の夕飯の世話を頼むと電話したときも早口で、はあ? 何それ? いい大人なんだから食事の支度くらい自分でやらせなさいよバッカじゃないのお母さんはどうしてそう言いなりになっちゃうのもうお祖母ちゃんもいないんだから何の遠慮もいらないでしょそんなんだからあの人もいつまで経ってもガキで家の中で不機嫌撒き散らして偉そうにしてるんだよほっといて出てっちゃえばいいんだよなんで? どうしてお母さんあれの面倒をそんなにマメにみるの? 何の得があんのよ! つけあがらせるだけでしょ! バッカじゃないのほんと! と、俊一への不満がいつの間にか悦子を責める言葉になりそれをえんえんと捲し立てられて終わった。
(でも、根は優しい子だから)
 雪美の口の悪さは社会人になっても治らなかったけれど、それは今の若い娘らしい強さや自立心の表れなのだろうと悦子は思っていた。
 バッグと靴まで揃える余裕はなかったので、いつ買ったのかも忘れた古いものを納戸から引っ張り出した。玄関先の姿見に映る自分の格好はひどくちぐはぐに思えたけれど、悦子に他に選択肢はない。黒い小さなハンドバッグを持ち白いパンプスを履いて、家を出た。

 バスの中で、ハンドバッグから三回、同窓会の案内状を取り出した。高校卒業から、三十年。
(さんじゅう、ねん)
 その言葉を口の中に含んで湿らすようにそっと呟いてみる。十八歳で地元の公立高校を卒業し、悦子はそのまま町内の工務店で事務員として三年働いた。三年目の秋に社長の紹介で六歳年上の俊一に出会い、次の年に結婚し仕事を辞め、雪美を産み、それからずっと自宅で主婦をしている。
(恵まれているわね)
 と、悦子は自分の三十年を振り返って思った。俊一は無口で無愛想だが派手な遊びや博打はせず、暮らしていけるだけの給料を毎月稼いできてくれる。子供は一人しか出来なかったが、雪美は東京で契約社員として働き自立している。義母の介護は大変だったが、それももう終わった。テレビで日々目にする悲惨な事件やドロドロした人間関係にも縁はなく、平穏に、無事に、静かに四十八歳まで生きてこれた。
(恵まれているわ)
 もう一度心の中で呟く。
 土曜のバスは平日より混みがちで、停留所でこまめに停まった。大きなヘッドフォンを着けた高校生くらいの男の子が斜向いに座る。コードの先はスマートフォンに繋がっていた。
(あれで、音楽も聞けるんだ)
 悦子の胸が小さく痛んだ。

 時間よりも少し早く会場に着いた。街に一軒だけの旅館の宴会場。仲居さんに案内され薄暗い廊下を進むと、その奥にぽっと障子越しの蛍光灯の白い光が溢れている。心臓がどきどきした。同窓会に出るのは初めてだ。今まで案内が来ても、自分の出産や雪美の受験、介護などでタイミングが合わなくて出席にマルを付けることができなかった。
(みんな、覚えててくれてるかな)
 前の夜、悦子は俊一が寝てからこっそり卒業アルバムを開いてクラスメイトの顔と名前を復習した。女の子は、もうほとんど苗字が変わってしまっているだろう。地元にずっと残っているのは悦子を含め十人ほどだ。そのみんなとも付き合いはほとんど無い。
 襖を開けると、広い部屋の片隅に小さな人の輪ができていた。
「あっ」
 思わず小さな声が口をついて出た。輪の中心に居る、真っ黒いおしゃれなスーツを着てきれいなマニキュアをしている細身の女性。
(桐野さん)
 丁寧に化粧を施した顔でも、すぐに分かった。トレードマークだったショートカットは変わっていない。
(桐野直美さん)
 悦子の心は、ひといきで三十年前に飛んだ。襟に紺のラインが入ったセーラー服。桐野直美はスカートを長くおろして短い髪にパーマをかけていて、よく教師に怒られていた。口紅を学校に持ってきたのが見つかって、往復びんたをされていた。そしていつも、当時の流行だったカセットテープを聞くウォークマンを持ち歩いていた。
「あれっ」
 人の輪の中から、長い睫毛と濃いアイシャドウに縁取られた目線が悦子を見据えた。
「もしかして......」
 直美以外の元クラスメイトたちは、悦子を見て曖昧な笑みを浮かべている。
「山口さんでしょ。山口悦子さん」
 悦子は内心驚きながら、はにかみ笑い、頷いた。周りのみんなもほっとした顔で、山口さん久しぶり、と最初から覚えていたように声をあげる。
 直美は三十年前と違い、社交的な雰囲気で、柔らかく明るい表情でにこにこと笑っていた。
「あの」
 言いかけたとたん、後ろの廊下からどやどやと足音と大声が聞こえてきた。がらっと障子が開いて、副委員長だった奈良さんや人気者の川本君、そのほか大勢の人たちが会場に入ってくる。おーっという男の人たちの大声、きゃあっという女の人たちの弾ける声、広い会場にいっぱいになってあっという間に二人組、三人組の小さな塊が出来上がっていく。直美もまた人に囲まれ、悦子のことはもう忘れてしまったように歓談を始めた。
 少しするとみんなお膳の前の座布団に座り、同窓会の幹事でこの旅館の主人でもある枝元くんが乾杯の音頭をとり、宴が始まった。悦子は右隣のバレー部の毛利さんと、左隣の数学が得意だった吉田くんと当たり障りのない近況報告をした。毛利さんは現在嫁ぎ先の新潟で暮らし、吉田くんは東京で独身貴族を満喫しているという。二回失敗しちゃったからねと結婚指輪のない手で禿頭をくるりと撫でるその顔は晴れやかだった。
 やがて毛利さんも吉田くんも誰かに呼ばれて席を立ってしまい、悦子は手持ち無沙汰に、黙々と目の前の料理を口に運んだ。
(おいしい。こういう食事、久しぶり)
 悦子は酒が飲めない。乾杯用に三センチくらい注いだコップの中のビールをお膳の隅に置き、ちまちまと刺し身や焼き魚、つくね団子を食べる。そうしていると、自分の咀嚼の音だけが耳の中に響いて、周りのざわめきがふっと消えてしまったような気がした。
「山口さん」
 ぽん、と軽く肩を叩かれた。驚いて顔を上げると、直美がいた。
「久しぶり。元気してた?」
 口の中にまだつくねが入っていた悦子は、無言でこくりと頷いた。それを見て直美が吹き出す。
「変わってないね」
 細い指で前髪を軽く掻き上げる直美は洗練されていて若々しく、悦子は急に気まずいような恥ずかしいような気持ちになった。何より、三十年の間、直美には言わなければいけないことを言っていなかった。
「山口さん、ずっとこっちなんだって? 私、同窓会出るの初めてでさ」
「私も......初めてです」
「そうなの?」
「はい......」
 もっとちゃんと喋らなければ、と焦れば焦るほど言葉が出てこなかった。昔からそうだ。その時、大向うから直美を呼ぶ声がして、直美は
「ちょっとごめんね、また後でね」
 と礼儀正しく一言告げてから立ち上がり、行ってしまった。
(ばかね、ちゃんと謝るチャンスだったのに)
 箸をお膳の上に置き、悦子は俯いた。高校時代もこんな風に、うまく会話が続かないことばかりだった。
 直美と初めて話したのも、卒業間近の冬だった。不良っぽくていつも男子に囲まれていた直美と地味で目立たなかった悦子は、それまで一言も喋ったことがなかった。

『助かった。お礼にこれ、あげる』

 あの時の直美の表情、声の抑揚までが鮮やかに蘇って、悦子は一瞬目眩を感じた。三十年。
(そんなに、昔のことだったんだ)
 あの頃の教室でもこんな風に、直美や、他のみんなの声を聴きながら自分の席に座っていた。いじめられたりした記憶は一切無いけれど、なぜかいつも一人で静かに過ごしていた。中学校でも、小学校でも、それから就職した工務店でも。結婚して家庭に入っても。
 キンキン、とコップを鳴らす音がした。お喋りのざわめきが止んでみんなが注目する。枝元くんが一次会のお開きを宣言し、二次会は松前さんがママをしている近くのカラオケスナックで行われると案内した。
 みながほろよいの足取りで三々五々立ち上がり、宴会場を出て行く。ほとんど全員が二次会に流れていくようだった。
 悦子は一番最後に会場を出、そのまましずしずと廊下を進み、靴を履いて旅館を出た。二次会に向かう集団が少し先に固まって歩いていた。なんだか不思議な気持ちだった。三十年前も文化祭や体育祭でこんな光景を見た気がする。誰もがいつの間にか悦子を置いて先に進んでいく。
「山口さん」
 慌てて振り向いた。すぐ後ろに、直美がいた。
「桐野さん......」
「トイレ行ってたらみんないなくなっちゃってた。山口さん二次会行くの?」
 少し迷って、首を左右に振る。
「桐野さんは......?」
「私も行かない」
 はっきりそう言われて、悦子は驚いた。直美は同窓会のあいだじゅう話題の中心だったし、二次会には絶対参加するのだろうと思っていたから。
「私が居ないほうが盛り上がるよ、二次会」
「どうして......?」
「好きなだけ噂話ができるでしょ」
 近くにあった自動販売機に寄りかかり、直美はバッグの中から煙草を取り出した。
「私、こっちに帰ってきたんだ」
「そうなの......」
 赤いマニキュアをした指が細い煙草を挟む。直美は確か、卒業後東京のデザイン専門学校に進学したはずだった。おしゃれでクラスの他の誰も知らない映画や洋楽の歌手をよく知っていた直美は、きっと東京でかっこいいデザイナーになって二度とこの街には戻らないのだろうと思っていた。
「あの、私、桐野さんにずっと言おうと思ってたことがあって......あの、カセットテープの事なんだけど」
 チャンスは今しかない。悦子はハンドバッグの持ち手をぎゅっと握った。

 高校三年の冬。昼休みが終わる直前にクラスの中がざわめき出した。抜き打ちの持ち物検査があるという。禁止されているマンガや化粧道具を持ってきていた生徒たちが慌てだした。
 その時、直美が突然悦子の肩を叩いた。
『ねえ、悪いけどこいつ匿ってやってくんない。山口さんならヤノセンも大して調べないっしょ』
 それまで遠目に見ているだけだった直美に突然話しかけられ悦子はとても驚いたが、差し出されたウォークマンとカセットケースを受け取り、咄嗟に弁当袋の中に隠した。直美が言うとおり、担任の矢野先生は悦子には型通り鞄と机の中を見る検査をしただけで、弁当袋の中までは調べなかった。
『助かった。お礼にこれ、あげる』
 放課後、直美は悦子の手に「匿った」カセットケースを押し付けてきた。真っ赤な髪をし派手な化粧をした外国の女の人の写真が入っていて、タイトルを書く所にはカラフルなサインペンの文字で「Cyndi Lauper my best」と入っていた。

「あのカセットテープ、せっかく貰ったのに......すぐ、その、なくしちゃって。だから、申し訳ないって思ってずっと言おうとしてたんだけど......」

 悦子は家に帰ってどきどきしながらそのカセットをラジカセにセットしてかけてみた。
 シンセサイザーの音に乗せて、どこか切なげな女の人の歌声が流れてきた。初めて聞く音楽。歌詞は英語で、何を言っているのか分からなかったけれど、それがとてもいい曲なのは分かった。曲は静かに盛り上がり、どこか寂しさを感じるメロディーが続く。知らないうちに、悦子は涙ぐんでいた。
 その時、ふいに音が途切れた。枯れ枝のような手がラジカセのコンセントを引っこ抜いていた。びっくりして硬直していると、悦子の祖母が無言で掌を差し出していた。悦子が黙ってカセットを取り出すと、祖母はそれをひったくり、それからカセットケースの中の写真を見ると激しく顔を歪ませ、両方ともどこかへ持ち去っていってしまった。

「いいよ、山口さんにあげたものなんだから」
 直美は笑い、煙草を吸って、吐いた。
「ウォークマンか。懐かしいな」
「桐野さんは、いつも洋楽とか、かっこいいの聞いてたよね」
「やだ、恥ずかしいからやめてよ」
 恥ずかしい? どうしてだろう。悦子は首をかしげる。
「みんな兄貴の受け売りだったから。クラスじゃ物知りぶってたけど、センスとかそんなの、私自身にはなんにもないから」
「でも......デザイン学校に行ったんでしょう?」
「他にこの街を出る方法がなかったもの。勉強できなかったし。名前が書けて入学金さえ払えば入れる専門学校だよ」
 直美は苦笑いしながら悦子をちらりと見て、それから自分の靴先を見つめた。
「その挙句が、こう」
「こうって......」
「聞いてないの? みんなから」
 直美はびっくりしたような顔をした。
「私、自己破産したの」
 今度は悦子がびっくりする番だった。
「自己、破産」
「うん。上京してすぐ学校行かなくなっちゃって、もちろん就職もできなくて、ずーっと水商売してたんだけどこの年齢でしょ。稼げなくなってきてさ。それでお水仲間に誘われてサプリの販売員始めたんだけどそこがいわゆるマルチでね。ちょっと前になんとか法違反で摘発されちゃって、三十年間でこさえた人脈ごとパアになって、借金抱えてハイおしまい」
 一気にそれだけ話すと、直美は煙草を吸い、そしてまだ充分長いそれを地面に捨てた。
「体壊して生活保護も受けようとしたんだけど、親がまだ生きてるからダメって言われてさ。勘当状態だったんだけど、親父の介護するなら戻ってきていいって言われて」
 硬直する悦子の前で、直美はまた笑顔になった。
「何もかも失ったって、よく言うじゃない」
 混乱した頭でその言葉を受け止めて数秒、同意を求められているのだと気付いて悦子はこくりと頷いた。
「それね、案外難しいんだよね。必要なものはどんどん失くなってくけど、嫌なものとかいらないものは最後までべったりこびりついたまんま。全て失くして身軽にきれいになんて、なれないね。なかなか」
 自動販売機の白い光に照らされて、直美の笑顔は紙に描いたようにのっぺりとして見えた。また新しい煙草を取り出して、火をつける。
「そう、なの......大変だったのね......」
「どうだろう。いいかげんに生きてた報いじゃないかな。まあ十分好き勝手やったし、あとはここで噂話にまみれて生活するよ」
 宴会場で直美を囲んでいたクラスメイトたちの顔が過ぎった。みな親しげに笑い、直美もにこやかに応えていたけれど。
「山口さんは元気そうでよかった」
「うん......」
「幸せにやってる?」
「うん......たぶん......」
 どうしてこんな、実のない受け答えしかできないのだろう。悦子は自分の口下手を呪った。何か、何かを言わなければ。直美にもっと言いたいことがあるはずなのに、何も思い浮かばない。
 そうこうしているうちに、やはりまだ長い煙草を地面に落として高いヒールの靴で踏みにじり、直美は悦子に向き直った。
「じゃあね。話せてよかった。バイバイ」
 昔と同じようなちょっとひねたような笑みで、小さく手を振り直美は踵を返して悦子に背を向けて歩き出した。
(あっ)
 その後姿を見た瞬間、悦子は雷に打たれたような直感を受けた。考える前に走り出していた。
「だめ!」
 直美が振り返る。
「だめよ、桐野さん!」
 駆け寄って、慣れないパンプスでけつまづきそうになりながら、直美の腕を取る。
「えっ、何、どうしたの」
 振り返った直美の顔は、なぜかまるで知らない人のように見えた。
「......死んじゃだめ! だめよ!」
 剥げかけた口紅を乗せた直美の唇が、ぽかんと大きく開いた。
「はあ? ちょっと、何言ってんの」
「だって、桐野さん......だって......」
 ほんのちょっと走っただけなのに、心臓がひっくり返りそうになって、悦子はぜえぜえと息をきらせながら言葉にならない言葉を続ける。
「ちょっとやめてよ、死んだりなんかしないよ、何考えてんの」
「だって、だって桐野さん......」
 悦子ははっとした。直美の、荒れた肌に刷いたオレンジ色のチークの上に、水滴が流れる。
「桐野さん、泣いてる......」
 ぽたぽたと、静かに、顔も歪めず声もあげず直美は涙を流していた。すぐ横の携帯電話ショップの店先でチラシ配りをしている男の子が、中年女二人をいぶかしげな顔で見ている。
「......バカだって思ってんでしょう、山口さんも」
 悦子は必死に頭を横に振った。
「嘘」
「嘘なんかじゃ......」
 だって、直美はずっと憧れの女の子だった。あのカセットテープだって、とても嬉しかったのに。
「いいよ。ほんとにバカだもの。でも、死んだりしない。そんな勇気あるならとっくに東京で死んでたよ。わざわざこんなクソみたいな街で死ぬもんか」
 鼻を啜る直美に、悦子は慌ててハンドバッグからポケットティッシュを出した。直美はそれを受け取らず、鼻で笑って手の甲で乱暴に顔をぬぐった。涙と混ざった化粧が痩せた頬に汚れた模様を描いた。
「桐野さん」
 悦子は、直美に一番言いたいことをやっと思いついた。
「桐野さん、お友達になって。私、この街に誰も友達がいないの。三十年......生まれてからずっと」
 直美は瞬きしたあと、呆れたように小さく笑った。
「バカみたい。山口さん、私よりバカね」
 もう一度鼻を啜って、直美は空気が漏れるような声で笑い続けた。
「この歳で友達なんて。だいたい、悪い噂になるよ、私なんかとつるんだら」
 それは高校時代にも聞いたおぼえのある言葉だった。教師からも、親からも祖母からも、直美と友達になるなと何度も言われた。あのとき悦子は、それを素直に聞き入れた。聞き入れてしまった。
「かまわない。噂なんて。怖くない」
 その時、携帯ショップから大きな音で音楽が流れ始めた。
「だってもう、高校生じゃないもの。私、大人になったの......本当よ」
 それは三十年前、たった一回、一曲しか聴けなかったカセットテープに入っていたあのメロディだった。
 悦子と直美の目と目が合う。
 お互いの過ぎた月日が、お互いの瞳の中に映し出される。なんて遠いところまで来てしまったんだろう。生まれてからずっと同じ街に住み続けているのに、悦子は自分がまるで外国か別の星にでも立っているような気持ちになっていた。ここはどこなのだろう。直美も自分も、一体どうしてこんな場所までやってきてしまったのだろう。
 わけもわからぬまま時間に流されて、他人ひとに流されて、漂流して。そしてまた、巡りあって。
 やがてスピーカーから溢れだしたひび割れたシンディ・ローパーの歌声に合わせるように、悦子の手に直美の手が、初めてそっと重なった。

                                     終

Profile

王谷 晶

東京都生まれ。小説家。著書に『探偵小説(ミステリー)には向かない探偵』『あやかしリストランテ 奇妙な客人のためのアラカルト』(ともに集英社オレンジ文庫)などがある。@tori7810

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978-4-591-15498-4.jpgのサムネイル画像ポプラ文庫ピュアフル7月新刊『英国幻視の少年たち5 ブラッド・オーヴァ・ウォーター』発売を記念して、著者深沢仁さんから読者の皆さんに、抽選で、キーホルダーやコンパクトミラーなどの英国土産をプレゼントいたします。新刊オビの応募券にてご応募ください。詳細と英国旅行のミニレポートをこちらでご紹介しています。

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達人たちの仕事場にお邪魔したら、楽しい驚きがいっぱい。まさに大人の社会科見学!ふむふむ、へーと読んでいるうちに、むくむくとやる気が湧いてくるお仕事エッセイです。

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