レディース・アンド・ガールズウィメン

王谷 晶

レディース・アンド・ガールズウィメン

©nao

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北口の女(ひと)

 この街がどういう街かというと、私がいま勤めているお弁当屋さんの一番人気が最も安いのり弁二百八十円、二番人気が中華ホルモン炒め弁当三百四十円、それを昼間から発泡酒かワンカップを手にしたお客さんが買っていく。そういう街です。
 坂に囲まれたボウルの底のような土地で、人と建物が妙に多くてごちゃごちゃしていて、食べ物がやたら安くて、というか高価なものは食べ物に限らずほとんど売っていなくて、一日中どこかから焼き鳥のような牛丼のような甘じょっぱい匂いが流れてくる。そういう街です。田舎じゃなくて、でも都会というのとも少し違って、騒々しくてのんびりしていて、不思議な街なのです。
 私は十ヶ月前にこの街に磐梯山ミヤコと一緒に移り住んできました。磐梯山ミヤコは昭和の時代にいくつもヒットを飛ばした演歌歌手で、その後もコンサートツアーや年に数回の旅番組のゲスト、CSの歌謡曲番組への出演などで活動してきましたが、一年前に大麻取締法違反で逮捕。初犯ということで不起訴処分となりその後所属事務所から解雇され、生まれ故郷のこの街に戻ってきたのでした。私はその付き人だった者です。
「演歌と大麻ってねえ、なんかしっくり来ないわよね。まだ覚醒剤(シャブ)のほうがハクが付いたんじゃないの」
 磐梯山ミヤコの姉である佐田美恵子さんはそういうとんでもないことをさらっと言うのですが、経営する『べんとう・お惣菜 みえちゃん』の二階の物置部屋に私たちを家賃も取らずに住まわせてくれている、とても優しい人です。でもそれまで店先に貼ってくれていた磐梯山ミヤコのポスターは逮捕と同時に剥がしたそうです。
 磐梯山ミヤコ......先生はこちらに来て以来、二階の部屋でずっと布団に入りニンテンドー3DSでモンスターハンタークロスをやり続けています。少しは外に出たほうがいいのではと思い同じゲームならとポケモンGOを勧めたりもしたのですが、まったく手を付けていないようで、この前こっそり立ち上げたらまだチュートリアルも終わっていませんでした。
 この街に来る前、先生は「自分の好きな所で暮らせ」と私に言いました。しかし私は先生の付き人です。事務所を解雇されてもそれは変わりません。たとえ表立って活動ができなくなっても、心からその歌声に惚れ込んだ歌手・磐梯山ミヤコを放っておくことは、私には出来ませんでした。
 私は『みえちゃん』にアルバイト店員として雇われ、仕込みから調理、片付け、販売まで一通り美恵子さんに仕事を教えてもらいました。以前から付き人として料理や家事はこなしていたので、仕事にはすぐ慣れました。何より販売で街の人たちとふれあえるのが刺激的です。
「おねえさんフリカケちょうだい、特別なやつ。気持ちよくなるやつ。ひっひゃははは」
 とか
「ね、ね、ね、磐梯山ミヤコの店ってここでしょ。ね、居るの? 中に。居るんでしょ? ちょっとさ、呼んできてよ。ね、ね。ファンなんだよね俺。ね、ね」
 とか、いろいろなお客さんが来ます。半年くらい前までは雑誌やワイドショーの記者の方などもよく来ていましたが、もう世間はほとんど先生の事を忘れたようです。お弁当も買わずにおかしな事を言ってくる人も、だいぶ少なくなりました。
 そういうわけで今日もたくさんののり弁と中華ホルモン炒め弁当を作り、詰め、売って、お昼のピークが少し過ぎたころ。通りの向こうから「一拍さん」がやってくるのが見えました。
 一拍さんというのは私が勝手につけたあだ名で、ほぼ毎日お弁当を買いに来る常連のお客さんです。二十代なかばくらいの若い女性で、近くにある『ドラッグストアしばた』のエプロンを着けています。常連さんは多いのですが、一拍さんが印象深いのはその注文の仕方です。うつむき加減で注文カウンターに近付いてきて、
「のり弁をひとつ......」
 と小さな小さな声で言い、それから
「......」
 一拍おいて、
「以上でお願いします......」
 と続けるのでした。
 その不思議なテンポが妙に気になってしまい、私はなんとはなしに一拍さんが来店するのを毎日気にかけるようになっていました。
一拍さんはどうやら週六日勤務でお休みの日はまちまち。服装はいつもジーンズと緑色のスニーカーと暗い色のネルシャツか濃紺にピンクの花模様の入ったトレーナーか焦げ茶のカットソーチュニック。ほんの少し若白髪の混ざった長い髪を黒いシュシュで縛っています。雨の日も、風の日も、寒い日も、暖かい日も、来る日も来る日ものり弁。ここで働いている私もまかないは主にのり弁ですが、週に二回くらいは麻婆豆腐弁当やハンバーグ弁当を選びます。でも一拍さんは、ずうっとずうっと、のり弁。正直、特別に美味しいわけじゃありません。若干硬いご飯にのりとおかか、業務用の白身魚フライと薄切りのカマボコとショッキングピンク色の大根のお漬物。以上です。栄養バランスも偏っていますし、フライは油っぽいしカマボコは味がしません。でも、一拍さんのお昼ごはんは、ずっとのり弁。
「ありがとうございましたー」
 のり弁を受け取りまた猫背気味の姿勢で来た道を戻っていく一拍さんの後ろ姿を、私はついつい眼で追ってしまうのでした。

「アキちゃん、悪いけど今日夜フミヤのとこ手伝い行ってくんない。バイトの子がチャリでコケて骨にヒビいっちゃったんだってさ」
 閉店前のお惣菜値下げ売りもあらかた片付いたところで、美恵子さんが言いました。フミヤさんというのは美恵子さんの旦那さんの弟さんで、この街で小さなカラオケボックス『浪漫飛行』を経営しています。以前一度手伝いに行っているので、私は快く引き受けました。

『みえちゃん』の店じまいを済ませてから、私は美恵子さんに譲って貰った自転車に乗って走り出しました。『浪漫飛行』へは五分もあれば着きます。
 今夜も、いつもと同じように、どこからか甘じょっぱいいい匂いが流れてきます。古いアパートの窓ガラス越しにちかちかと煌めいているテレビの光、あちこちへこんだアスファルトの上を素早く駆け抜けていくドブネズミ、一等星のように強く輝くコンビニとガールズバーの看板たち。光る窓それぞれに人の生活があり、その間を通り抜けていると、私もその光の中に受け入れられているような気持ちになります。それは地方と東京を行ったり来たりして絶えず移動していた一年前の生活では得られなかった、退屈な、でもどこかほっと安心する感覚でした。

『浪漫飛行』は最寄り駅の北口出てすぐ、三階建ての小さなビルの二階と三階で営業しています。着いたらすぐに店名入りのエプロンをして、ドリンクのコップを洗ったりフライドポテトを電子レンジにかけたり部屋の掃除をしたりと忙しく働きます。朝からあまり、座ったり休んだりしていなくて、四十近い身体には少ししんどい。でも、暇過ぎるよりはいいのかなと思っています。ふと、『みえちゃん』の二階に閉じこもりきりの先生の顔が浮かびます。
 夜の十時。11号室前の廊下にへばりついているガムの汚れを取るようにフミヤさんに言われたので金属のヘラを持って三階に行くと、すぐに様子がおかしいことに気付きました。
『浪漫飛行』はそんなに防音がよくありません。部屋の中で歌っているぶんにはいいのですが、廊下に出るとだいたいの部屋の歌がよく聞こえてきてしまいます。当たり前ですがみなさん、素人です。たまに少し歌えるお客さんもいますが、ここでの歌は友達や家族や同僚と盛り上がるための道具であり、歌を歌として歌っている人はほとんどいません。
 ですが、今、薄暗く狭い廊下に溢れてきているのは、間違いなく歌でした。
『おんな都(みやこ)酒(ざけ)』。昭和六十年に発売された磐梯山ミヤコ......先生のヒット曲です。

 いつも濡れてるこの袖を
 今日も誰かが噂する
 イヤね 違うの 涙じゃないわ
 ちょっとお酒がこぼれただけよ
 花の都で一人呑む
 おんなの酒がこぼれたの

 私は金属ヘラを持ったまま、その場に立ちすくんでいました。
 幼い時から何百何千何万回と聞いた歌です。本物の磐梯山ミヤコの声で繰り返し繰り返し聞いた歌です。本物を知っています。何もかも記憶しています。染み込んでいます。私の中に。
 その『おんな都酒』は、初めて聞く歌でした。
 同じ曲、同じ歌詞なのに、生まれて初めて聞く歌にしか思えませんでした。
 声量があり伸びのある、しかしちょっとつついたら掻き消えてしまいそうな薄い氷のような透明な声。こぶしのわななきが私の首の後ろをグッと掴み、袖を濡らす女の諦念が、恨みが、やぶれかぶれさが、そこから骨の髄に直接流れ込んできます。
 私は泣いていました。
 初めて、『おんな都酒』がどういう演歌か知りました。これが「本物」なのです。なんということなんでしょうか。磐梯山ミヤコの歌唱は「本物」ではなかった。凄まじい歌。凄まじい歌声。こんなものを聞いてしまうなんて。
 動くことが出来ないまま、その『おんな都酒』を最後まで聞きました。
 ややあって、歌が聞こえていた突き当りの部屋のドアがすっと開きました。
 中から俯いて伝票を持って出てきたのは、一拍さんでした。

「先生!」
 私は『みえちゃん』に戻るとすぐに二階に駆け上がりました。先生はやはり寝間着のまま布団の上に寝転がり3DSを握っています。
「先生、あの、凄い歌い手を見つけちゃったんです。いつもお弁当買いに来るお客さんなんですけど、今日フミヤさんのお店で歌ってるのを聞いて......とにかく凄くて。あんな声初めて聞きました。演歌ですよ。まだ若いけど、凄い演歌なんです」
 先生は視線を3DSから離さず、しばらく黙って手を動かしていました。
「先生、あの」
「だから何」
「何って、その......」
「だから何なの」
 私は口を半開きにして黙ってしまいました。確かにそうです。こんなことを今の先生に言ったところで、何にもなりません。かつては弟子筋の若い歌手をプロデュースしたりということも手がけていた先生ですが、今は引退している身なのですから。
 でも、言わずにおれないでしょう。ただの付き人とはいえ、私も物心ついたときから演歌を聞き続け、そして数十年、先生の側で仕事として歌に関わってきたのです。あの歌声の力を理解できるのは、きっとこの街には私と先生しかいません。

 次の日も、一拍さんはお昼にのり弁を買いに来ました。いつもと同じように俯いて、いつもと同じように一拍あけて注文して。その小さな声は、昨夜の伸びやかな発声とは一瞬まるで違って聞こえましたが、それでも確かに、耳に残る余韻はあの歌声と同じ音をしていました。
 その夜、私は自分から『浪漫飛行』の手伝いを申し出ました。フミヤさんから一拍さんが常連でほとんど毎日夜に一人カラオケをしに来るということを聞き出していたからです。
 期待通り、その日も一拍さんはやってきました。無言で会員カードを出し、無言でぺこりと頭を下げて伝票を挟んだプラスチックフォルダーを受け取り、俯いて足早に三階に上がります。
 頃合いを見て、私は掃除をすると言って三階に行きました。
「ああ......」
 思わず小さく声が漏れてしまいました。防音扉を突き破って響き渡る『おんな都酒』『会津人生終着駅』『ミヤコのけっぱれ節』......どれも磐梯山ミヤコの曲です。私の頭の中の音楽が、一拍さんの歌声によってしゅわしゅわと全て書き換えられていくような気持ちになりました。磐梯山ミヤコの曲だけでなく、この脳内に降り積もった全ての演歌が、全ての音楽が。
 ほとんど無意識に、私は自分の携帯電話で録音を始めていました。

『みえちゃん』の二階の扉を開けると、中は暗く、先生はすでに眠っているようでした。あるいは寝たふりをしているか。
「先生」
 膨らんだ布団の枕元ににじり寄り、小さく声をかけます。
「先生、聞いてください。これがその歌なんです」
 私は録音を再生しました。こんな機材とあんな環境でも、歌声の威力が衰えていないことに驚きながら、それを可能な限りの大きな音量で流しました。
 先生は身じろぎ一つしません。
 眠っているはずはありませんでした。この歌声を聞いて何も感じないなんて、ありえません。何を思っているのか。どう感じたのか。布団を剥がしてゆさぶり問いただしたい衝動にかられながら私はひたすら歌を流し続けます。
 無言の先生の枕元で夜明けまで繰り返し、繰り返し一拍さんの歌を再生しながら、私はいつしか気絶するように畳の上で眠ってしまっていました。

 翌朝。
 寒さと節々の痛みで目を覚ますと、きちんと畳まれた布団が目に入りました。
 畳の上には充電の切れた私の携帯が転がっています。
 しばらくぼんやりとそれを眺めてから、はっとして物置の襖を開けました。中には私たちがこの街に来たときのスーツケースや荷物が入っているはずです。
 そこには、私の私物のボストンバッグしか残っていませんでした。

「先生!」
 始発を待つ冷たいホームに、先生は立っていました。
ほぼ一年ぶりに見る美しく化粧した顔、茄子紺色のレースのスーツ、真紅のスーツケース、紫色のサングラス。先生は時間を巻き戻したように、昭和の大歌手、磐梯山ミヤコに戻っていました。
「先生......」
 私ははっとしました。先生の大柄な身体の影に隠れるようにして、一人の女性が立っていたのです。一拍さんでした。
 先生は、サングラス越しに私を一瞥するとわずかに顎を上げておごそかに言いました。
「この子と東京に戻る。お前は好きなように暮らしなさい」
 この街に来たときと同じ言葉でした。私は着の身着のまま、顔も洗っていないぐちゃぐちゃの姿のまま、美しく偉大な磐梯山ミヤコの前で膝を折り、地面にしゃがみこみました。
「どうして、私は連れて行かないんです。彼女を見つけたのは、私です」
 一拍さんは顔を上げ、初めて私の顔を見ました。きょとんとした、不安そうな表情。なのに頬だけは桃のように紅潮させて、白い息を細く吐きながら黙ってじっとしています。
「お前にはこの声は扱えない」
 先生はもはや私の方に顔も向けず、一拍さんの赤い頬を見つめていました。
「でも、付き人は。付き人は必要でしょう。先生の身の回りのことは。事務手続きなんかはどうするんです」
「そんなもの、他に誰でもやる人間はいる」
「でも私は先生のためにずっと――」
「私は頼んだ憶えはないよ」
 すうっと、まるで空間を切り取るように冷たいつむじ風が吹きました。
「演歌は鬼と悪魔の歌なんだ。鬼になって悪魔に魂を売らなきゃ演歌は歌えない。それの共連れも、一緒に地獄に行く覚悟が必要なんだよ。お前は鬼でも悪魔でもない。こんな糞みたいな街にもすぐ慣れた。お前はただの女だ。これからは普通の暮らしをしなさい」
 先生はそう言うと、自分が巻いていたディオールのマフラーを一拍さんの首に優しく巻きつけました。
「あんたはこれから私と一緒に地獄に行くんだ。いいね?」
 一拍さんは眼をしっかり見開き唇を引き結び、磐梯山ミヤコの瞳を見つめ、まったく躊躇のない表情で、ゆっくり大きく頷きました。
 始発電車がやってきました。
「先生!」
 スーツケースを引いて、二人は私の方を振り返りもせずがらがらの車内に進んでいきます。
「先生、どうして!」
 駅員さんが怯えたような顔で地面に這いつくばる私を見ていますが、見ているだけです。普段通りのアナウンスが流れ、電車のドアは閉じます。
「お母さん!」
 私の叫びは発車音にかき消されました。
「待って! お母さん!!」
二匹の鬼を乗せ、私鉄は朝日に向かって走り去っていきました。

 私はホームにへたりこんだまま、しばらく呆然としていました。
 そして太陽が昇りきった頃にやっと、自分が何もかもを失ったことと、完全に自由になったことを理解しました。
 冷たい風が吹き、四十間近の、何も持っていない、何者でもない私の身体から体温を奪っていきます。私はこれからどうすればいいのでしょうか。『みえちゃん』に戻ってのり弁を詰めるか、または押入れのボストンバッグを出すか、そのどちらかなのでしょうけど、今はただ、何もせず、このままここで眠ってしまいたいと、それだけを考え目を閉じました。

Profile

王谷 晶

東京都生まれ。小説家。著書に『探偵小説(ミステリー)には向かない探偵』『あやかしリストランテ 奇妙な客人のためのアラカルト』(ともに集英社オレンジ文庫)などがある。@tori7810

Pick Up Book

  • i
  • 私のスポットライト
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