レディース・アンド・ガールズウィメン

王谷 晶

レディース・アンド・ガールズウィメン

©nao

15

あなたのこと考えると無駄になる

 的場さんってきっちりしてるよね、とよく言われるけれど、それは違う。私は無駄と面倒が嫌いなだけ。可能な限り生活から余計なもの・ことを減らし、浮いた時間は全て自宅で寝ていたいだけ。その結果傍目から見るとストイックな生活をしているように見えるだけで、几帳面な性格でも丁寧な暮らしをしているわけでもぜんぜんない。むしろ真逆で、怠けるためならどんな努力も厭わないくらいの怠け好き。とにかく無駄なことは一切したくない。シンプル、合理的、堅実確実なものが一番。趣味? いらない。友だち? 不要。娯楽費交際費? もったいない。その分貯金して早期リタイアしてどこか暖かい土地で余生を寝て過ごすのが唯一の夢。恋愛とかセックス? ありえないありえない。それこそ無駄の極地でしょ。うっかりときめきや人肌が恋しくなってしまったら湯たんぽ抱いて百円レンタルで恋愛映画観ればいいし、どんなにムラムラしたって自分の右手ひとつと時間が三十分もあれば嘘みたいにすっきり解消できてしまう。そんなことのために多大なる心身リソースを割く気はない。せいぜい贅沢して五百円くらいのローター買う程度です。それで充足するし、ムダがないことそのものが私を気持ちよくもしてくれる。
 
「......説明してください」
 状況を認識してから十分以上経過して、やっと言えたのがその一言だった。
「説明ったってなあ......ほんとに憶えてないの?」
 全体的にベージュで統一され、フェイクの観葉植物とニトリあたりで売っていそうなオシャレもどきフロアランプが飾られている狭い部屋。当然私のアパートじゃない。
「そんなに酔ってたように見えなかったんだけどなあ......マジかあ」
 床に脱ぎ散らかされた服。胃の中にまだ充満しているアルコールの気配。顔全体がパリパリ引きつったような感じなのは、化粧を落とさないまま寝たからだ。
「いろは坂は憶えてる?」
「はぁ?」
「飲み屋だよ。『いなか味亭 いろは坂』。すごい機嫌悪そうな顔で入ってきて、カウンター座るなり『一番安いお酒ください!』って頼んだ」
「あー......」
 うすぼんやりと、狭くて小汚い居酒屋の内装が脳裏に浮かんでくる。
「あそこサービスデーだと三杯以上呑むなら眞露のボトルセットが一番安いんだよね。で、お姉さんもそれ頼んで」
「飲んだんですか、眞露。一本」
「いい飲みっぷりだったよお。顔色あんまり変わらないし、お酒強いんですねって声かけたの......そこも憶えてない?」
「ぜんぜん......」
「荒れてるみたいだったからなんかあったんすかって訊いたら、会社のクソな飲み会に無理やり参加させられて、クソ上司のクソ話をクソほど聞かされたって」
「そんな、クソを連呼してたんですか......」
「や、実際はうんちって言ってたけど」
「余計ひどい......」
「隣の席のよしみで一緒にカンパイして、いろいろ盛り上がったのになあ。秋田出身、仕事はインフラ系の事務。お母さんが大阪人だから家では一回も納豆食べたことがない。中学のときのあだ名はマット。昔レオって名前の雑種犬を飼ってた。でしょ?」
 溜息をついて顔を覆う。俯くと胸のあたりがごそごそした。ブラのホックが外れている。下半身が楽なのは、ストッキングを脱いでいるから。
「あの」
 絞り出した声は我ながらおかしいくらい震えていた。
「何か......したんですか、私に」
「何かとは?」
「何かって......」
 私の足元にはビニール袋が掛けられたゴミ箱があり、その中に、丸めたティッシュと封を切られた白い正方形のパッケージが捨ててある。私だってそれが何なのかは知っている。
「コンドーム......使うようなこと」
「うん、ちゃんと使ったよお。マナーマナー」
「私のこと......無理やり......?」
「ちょっとちょっと待って、それはないでしょ。今憶えてないかもしれないけど、ちゃあんと『セックスしませんか?』『いいですねやりましょう』ってやり取りしましたからね。やってる最中も無茶なことは一切しなかったよ。お互い楽しんで、お姉さんは終わったらそのままグーグー背中向けて寝ちゃったんだよ」
 私は深呼吸しようとしたが、失敗した口笛のような空気が唇から漏れただけだった。
「......なんで、あなたと、そんなことに」
 見たくないけど、おそるおそるベッドの上に視線を移動させた。ぐちゃぐちゃのシーツの上であぐらをかいている、グレーのタンクトップとボクサータイプの下着を穿いている若い......女の子。
「なんでって言われてもお」
 何故か頬を赤くして頭を掻きながら、女の子はあぐらのまま両膝を鳥が羽ばたくみたいにバタバタ動かした。
「飲んでるうちに、話がちょっとスケベな方向に行ってね。お姉さん彼氏いないし欲しくないって言うから、じゃーセックスもしたくない人?って訊いたら、正直たまにしたいときもあるけど、絶対めんどくさいし何より死んでも妊娠したくない、妊娠の可能性が一ミクロンでもある行為は絶対しねーって言って」
 女の子はごろんとベッドに横になった。
「じゃあ絶対妊娠しないセックスならしてみたい?って訊いたの。あたしとすれば、天地がひっくり返ったって妊娠しないよおって」
 ベッドに腹ばいになって上目遣いでこっちを見ながら、女の子は厚い唇の間から、べろんと真っ赤な舌を出した。それを見た瞬間、胃の奥から間欠泉のようにすっぱいものがこみ上げてきて私は即座にゴミ箱を掴むと中に吐いた。ほとんど液体しか出なかった。
「あらら。大丈夫?」
 女の子はベッドを降りるとどこかに消え、またすぐ戻ってきた。手には濡れたフェイスタオルが握られていた。
「お風呂お湯張ろうか。あったまったらすっきりするよ」
「触るな!」
 がらがらの声で、なんとかそれだけ言うことができた。
 ゴミ箱を抱えて俯いたままでいると、やがて小さな溜息と、ごそごそとした音が聞こえた。やがてまっピンクの靴下の足が飴色の革の古そうな、でも手入れされたショートブーツを履くのが視界の隅に見えた。
「あたし、帰るね」
 嫌味でもなく、傷ついてる風でもない軽い声で女の子はそう言い、ブーツの足を出口に向けた。
「あ、そうだ。お姉さん、一度靴、ちゃんとフィッティングしてもらったほうがいいよ。いま履いてるやつ、足に合ってないと思う」

 胃が落ち着いてからシャワーを浴び、すっぴんのまま昨日の服をそのまま着て(ストッキングは派手に伝線していたのでゴミ箱に突っ込んだ)ふらふらになりながら明るい土曜の朝に彷徨い出た。
 嫌だけど必死に記憶をほじくり返して、断片的に浮かんでくるそれをつなぎ合わせる。その結果、認めたくないけれど、確かに私は、あの女の子と性的な事をした。それがいわゆるセックスなのかは分からないけど、とりあえず、した。してしまったのだ。
(めんっっっどくせえ......)
 面倒の極みだ。飲み屋で隣に座った名前も知らない、たぶんけっこう年下の女の子とその日のうちにラブホテル。ただほんと、妊娠の可能性がないことだけは心底ほっとした。
「あ」
 そういえば、飲み代とかホテル代とかどうしたんだ。
 慌ててバッグの中から財布を出した。外側のポケットに斜めに折られたレシートが挟まっている。『毎度ありがとうございます いろは坂 ¥2,690―』そこに書かれた金額と財布の中の残金を照らし合わせる。余計なお金は一円も使っていないことが判明し、まずは胸を撫で下ろす。というか、ホテル代、全部あの子が払ったのか。
(当然だ。こっちはそのケはないのに連れ込まれたんだから)
 どうやってあのホテルに入ったのかは憶えてなかったけれど、たぶんそういう流れだったんだろう。自分から誰かを積極的にそういうことに誘ったことなんて、今までの人生ただの一度も無いんだから。
 そのとき、外ポケットにもう一枚、見覚えのない紙が挟まっているのに気付いた。名刺だ。
『靴工房シロタ堂 代田縫 Shirota Nui』
 まったく見覚えのないその名刺には、ここからそう遠くない住所が書かれていた。
 私は道端に立ちすくみしばらくその名刺を見つめ、それから衝動的に地面に投げ捨て、その場を立ち去り、五分後に戻って拾い上げそれをスケジュール帳の一番最後のページに挟んだ。

 それから一週間。私は毎日びくびくしながら仕事するはめになった。記憶にないけどこっちの電話番号やLINEを教えてる可能性がある。連絡が来るんじゃないか。職場に来られたらどうしよう。ホテル代出せとか言われたり、それならまだしも変な写真を撮られてたら? あらゆる不安が私の脳のリソースを食い、睡眠時間は短くなり仕事も凡ミスを連発した。
(めんどくさい......)
 酔った勢いでラブホへ、なんて、私の人生には大イレギュラーだけど世間じゃよく聞く話ではある。みんな、こんな不安で面倒な思いをそんなしょっちゅうしてるんだろうか? 世間様、パワフル過ぎる。
 一年中同じ、食パン二枚に目玉焼きとマヨあえ千切りキャベツを挟んだ手作りサンドイッチの昼食を自分の席でもそもそかじりつつ、午前中のルーチンワークだけで疲れ切った私はぼーっとヤフーのトップページを見ていた。
(............)
 そして、ふと、魔が差したとしか言いようのない衝動に駆られ、検索窓にカーソルを合わせてしまった。
『靴工房 シロタ堂』
 ホームページはすぐに出てきた。オーダーメイドの革靴製作、メンテナンスや修理請負、手作り靴教室を開いている店。トップページをスクロールすると、小さく悲鳴をあげそうになった。あの女の子が笑顔で、なんとなく似た雰囲気の老人と並んで革靴を持っている写真が載っていた。
『初代店主と現在修行中の三代目。みなさまに愛されたシロタの靴作りを未来に繋げます』
 靴職人?だったのか......。
『お姉さん、一度靴、ちゃんとフィッティングしてもらったほうがいいよ。いま履いてるやつ、足に合ってないと思う』
 去り際に言ったあの唐突な言葉にも、納得がいった。
 緊張しながらサイトのあちこちをクリックする。足を細かく計測し、木型を作り、その人だけがぴったり履けるオーダーメイドの靴。現在完成まで一年待ちとの表示が出ている。気が長い。値段も余裕で私の家賃の倍くらいする。靴なんて、通勤用とスニーカーと冠婚葬祭用があればいいのに。安くて丈夫で流行に左右されないシンプルなものなら、それでいい。
 三年履いてる黒いパンプスの中で、痛む小指がもぞもぞと動いた。

 何を考えてるんだろう。
 膝が笑いそうになった。一刻も早くこの場から立ち去ってさっさと家に帰るべきだって理性も本能も告げているのに、私は立っていた。『靴工房 シロタ堂』の前に。
 短い商店街の一角にある小さな店で、革製の「OPEN」という札がドアに掛けられ、ショウウィンドウには男物のタッセルの付いた革靴と、艶やかなキャメル色のシンプルなパンプスが並べられている。
 こんな所に来て一体何をどうするつもりなの? 自分自身にまったく合理的な説明ができない。むしろ避けて、一生半径一キロメートル以内に近づかないくらいの対処をしたほうがいい場所なのに......。
「あれっ」
 ぽん、といきなり肩を叩かれ、首を絞められたみたいな悲鳴が出た。
「うわっ、え、どうしたのゴメン痛かった?」
 黒いエプロンをしてコンビニ袋を下げたあの女の子が、びっくりした顔で立っていた。驚いたのはこっちだ。
「あの」
「もしかして会いに来てくれたのお? うーれしい。脈ナシだと思ってた」
「そうじゃなくて、あの」
 言葉が出ない。だって、私にも分からないんだもの。どうして自分がここに居るのか。
 女の子はそんな私の顔を見つめて、ぽりぽりとほっぺたを指で掻くと、立ち話もなんだから、と、「OPEN」の札を指し示した。

「せんせー、友だちがお客さんに来てくれたから、接客してまーす」
 店の中は意外と広く、嗅いだことのない不思議な匂いがしていた。あちこちにハンドルが付いた用途不明の機械や大小のテーブルが置かれ、壁の棚にはカレンダーみたいに丸められた黒や茶色の布......たぶん革、がぎちぎちに詰め込まれている。部屋の奥、ひときわごちゃごちゃといろんな機械や革が集められている一角の中から、ホームページで見たあの老人が顔をあげ無言で頷いた。
「どぞどぞ、まずはそこ座って。計測から始めまあす」
 スツールの前に何かの台やメジャーを持ってきたのを見て、慌てる。
「待って、その、靴買いにきたわけじゃなくて」
「じゃ何しに来てくれたの?」
 目線で座れ、ともう一度やられて、逆らえなくてスツールに座ってしまう。すると女の子が私の足元に跪き、当然のような仕草で踵を持ってすぽんとパンプスを脱がせてしまった。
「ちょっと!」
「小指、痛いでしょ。この前も痛そうだなって思ってたんだ」
 女の子の手は冷たく、締め付けられていた足の小指に触れるとひんやりと心地よかった。
「私は、その、お金とか......払ってないのを清算したくて」
「そんなのいいのに」
「借りを作りたくないんです」
 なるべくはっきり聞こえるようにそう言うと、女の子はちょっと黙ってから肩をすくめた。
「いいよ、あのホテル、メンバーズカード価格で安いから」
「......」
「あ、今ヤリマンって思ったでしょ」
 へらへら笑いながら、女の子は細いメジャーを勝手に私の足に巻きつけたり、金属の棒みたいなもので挟んだりしはじめる。
「不安になっちゃった? 強請られたりするって思っちゃった? あたし、そんなにガラ悪く見えたかな」
 ぎくりとする。その通りだけど、本人にずばり指摘されると気まずくて、俯いてしまう。
「まー、何も憶えてないんなら、そりゃ不安だよね。悲しいけど」
 小さなメモ帳にえんじ色の万年筆でさらさらと何か書き付けながら、女の子は私の足を手早く測り続ける。
「信用してもらえないかもしれないけど、あたし悪いヤリマンじゃないよ。二度とかまうなって言われたらお姉さんのことはかまわない。ご縁が無かったってことだよね。悲しいけど」
 悲しいけど。二回繰り返された言葉が耳の奥でがさがさと引っかかり、右から左へと出ていってくれない。
 悲しい、なんて、しばらく感じていない気がした。悲しみって、不合理な行動の結果生まれてくる気持ちだから。
「......余計なことは、したくないんです」
「ん? どういうこと」
「生活から、無駄を、省きたくて」
「あー、そんなような話もしてたね。シンプルに生きたいのに、結婚しろ子供産めってうんち上司がクソうるさいって」
 冷たい指先が、私のくるぶしの骨にそっと触れた。
「セックスも恋愛も無駄?」
「......の最たるもの、と思うんだけど」
「あたしもそう思う。あたしは無駄なこととか意味のないこと、大好きだから」
 女の子は立ち上がり、大きな木製のキャビネットの扉を開けた。色んなデザインの革靴が並んでいる。
「これあたり、近いかな。どう? どこか当たるとこある?」
 真っ赤な色の柔らかい革のパンプスをすっと履かされ、目線で立ってと言われて何故か私はその通りにスツールから立ち上がってしまった。
「......楽」
「ん。ヒールはもうちょっと高い方がいいかな。そのほうが足がきれいに見える」
「そういうのは必要ない」
「履き心地優先ね」
「うん......いや、待って。買わない。靴は買わないから」
「あはは。ノせそこねた。でも、その履いてきたパンプスはほんとやめたほうがいいよ。足、おかしくしちゃう。それにここでは靴は買うっていうか......まあ買うんだけど、作るんだよ。お客さんとあたしが一緒になって」
 メモ帳と万年筆とメジャーや道具をてきぱき片付けて、女の子はもう一度私の足元にしゃがみこんだ。
「いくらでも安い既製品が売ってるし、その中にはぴったり合うものもあるだろうけど、でもオーダーの履き心地は最高だよ。お姉さんとじっくり話し合って触れ合って何度も何度も付き合って、馴染んで寄り添ってくれる世界に一足だけの靴だよ。それはね、無駄を超えた無駄だと思うの。生きていくのに必要な無駄。壊れて直してを繰り返しながら、ずっと側に居てくれる愛しい無駄だよ」
 上目遣いの大きな瞳が、じっと私を見据えている。きらきら光るその眼がその位置から私を見つめているの、デジャヴを感じて、背筋がぞくっとした。恐怖とか嫌悪ではない、なんだかよくわからない、ぞくっ。
「......ヤリマンにそんなこと言われても」
「あっはっは。ねー、ほんと。でも、無駄にも可愛い無駄とか楽しい無駄があるよ。その気になったら、いつでも来てね」
 そしてあっけなく、バイバイ、と手を振られて、私は元の、小指の当たって痛い、ぎしぎしした合皮の、ちっとも気に入った色じゃない、ヒールに傷のあるパンプスを履いて狐につままれたような気持ちで靴工房を後にしたのだった。

 自分のアパートに帰って、靴箱を開けた。作り付けになっているもので、中には数足しか入っていない。どれもコストパフォーマンスと用途の面から検討し、納得できるものだけを買っている。それから部屋に入って、食器の仕舞ってある棚と、クローゼットも開けた。どれも同じく、合理的な判断で買った「納得できるもの」ばかりが入っている。
 でも、どれも、好きじゃない。
 納得できるから使ってる。それが「嬉しい」と思ってたのに。
 ぎゅっ、と下っ腹が苦しくなって、私は着替えもせず即座にお湯を沸かし湯たんぽを作り、それを抱いてベッドに潜り込んで枕元の衣装ケースの中に突っ込んである巾着からローターを取り出してパンツの中に突っ込んだ。目盛りを最大にして、三十秒もかからず達した。けれどまったく、すっきりしなかった。湯たんぽはただの湯たんぽで、ローターはただのローターだ。湯たんぽもローターもそれぞれが出来る最大最高の働きをしてくれるけど、何かの代わりじゃないんだ。私の要求が湯たんぽやローターのできることを上回ってしまったら、どっちも私を満足させてはくれない。なのに湯たんぽやローターに頼り続けるの、それって、ほんとに合理的って言えるのだろうか。

 次の土曜。私は近所のイトーヨーカドーに出かけた。靴売り場に真っ直ぐ向かい、棚を端から端まで見た。値段や履いて行く先は考えず、それ以外の部分で惹かれる靴を探す。
 一時間程度悩みぬいて、光沢のあるネイビーの、平たい黒いリボンが付いた靴を選んだ。三千九百円で、高くはなかったけれど、完全に無駄な出費をすることに心臓がどきどきした。履き替えていきますと言い値札を取ってもらって、ここまで歩いてきたスニーカーをヨーカドーの袋に入れ、新しい靴でそろそろと歩きだした。
 婦人服売り場の鏡の前に立つ。上から下まで三年以上着ている服の中、新品の靴は明らかに浮いて見えた。けれどそこだけ、発光しているようにも見えた。
 不思議な高揚に包まれ、ヨーカドーの中を歩き回った。そして外に出て、ただのさびれた住宅街である見慣れた近所を歩き回った。そんな行為そのものも、無駄だ。
 自分がわくわくしているのに気付いた。楽しいんだ。嘘みたい。新しい、デザインが気に入っただけの、合う服も持ってない靴を履いて歩くのが、ただ楽しい。こんなに無駄な、どうでもいい時間を過ごしてることに、興奮してる。
 けれどその楽しさは長くは続かなかった。
 三十分も歩かないうちに、まずいつも通り小指が痛み始め、それから踵、履き口がこすれる甲が痛くなってきた。いつもより高いヒールなせいで、すぐに足全体が焼けたみたいに熱く、強烈に痛みだしてくる。
 慌ててアパートに戻って玄関で靴を脱ぎ、その場に座り込んで手に取ってそれを見つめた。惹かれて買ってきたのに、私を痛め付ける靴。それを見ているうちに悲しくて、悲しくて悲しくてしょうがなくなって、私は靴を胸に抱いて泣き始めた。涙を流したのは、かなり久しぶりだった。

 小雨の降る中、私は実家の母がくじ引きで当てた腐ったほうれん草のような色の折り畳み傘を広げ、立っていた。『靴工房 シロタ堂』の前に。この前と同じ、説明できない気持ちのままで。
 ショウウィンドウの向こうで、女の子がテーブルの前に立ち何かの作業をしているのが見えた。それをじっと見つめているうちに、ふいに女の子が顔を上げ、私とばちっと視線が合った。
 女の子は動かなかった。目線でドアの方を示し、また作業に戻る。私はネイビーのパンプスでふらふらになりながら、びっくりするくらい時間をかけてドアの前までたどり着き、それを開けた。
 女の子が、手を止めて私を見る。
「いらっしゃい」
 その手の中には、誰かが注文したんだろう、誰かのためだけの、世界に一つだけの靴が掴まれていた。
「靴を......」
 私の声は笑っちゃうほど震えてた。きっと、あのホテルの朝よりひどい顔をしているはず。
「靴を、作りたくて......」
 私が愛せて、私の足を痛めつけずに包んでくれて、一緒に何時間でも歩いてくれる靴がほしい。そう言いたかったけれど、うまく声が出なかった。
「いいよ。じゃあまず、話をしよっか」
 女の子は作っている途中の靴をテーブルに優しく置くと、私の目の前までやってきて、口を両側ににぃーっと引っ張るようにして笑った。
「話......?」
「そう。座って、その可愛くてヒドい靴脱いで、せんせーの淹れたうまいコーヒー飲んで、シラフでお菓子食べながらおしゃべりするの」
「それ、靴作るのに必要......?」
「別にい。まったくの無駄。でも、そうやって始めたいんだ」
 いい?と訊かれ、私は頷いた。女の子が、代田縫が、もっと目がなくなるくらいの笑顔になって、私の手を握って椅子まで引っ張っていく。そして、私たちは始まった。

                                      終

Profile

王谷 晶

東京都生まれ。小説家。著書に『探偵小説(ミステリー)には向かない探偵』『あやかしリストランテ 奇妙な客人のためのアラカルト』(ともに集英社オレンジ文庫)などがある。@tori7810

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

お知らせ

papakue17821.jpg ご愛読いただいていた「お父さんクエスト」(小山健)がついに本になります!連載された29本のマンガとともに以下のような豪華描きおろしが満載!「お父さんのためのワンポイントアドバイス!」幸せな家庭を築くために、お父さんが知っておかなければならない心構えやテクニックを11のイラストコラムにして解説。日本中のお父さん必読!「さち子さん、特別インタビュー」いつもダンナさんに描かれっぱなしのさち子さんの単独インタビューに成功。二人の出会いから、結婚、出産にいたるまで小山家の知られざる日常を語ります。And more...

170713_img.jpgポプラ文庫ピュアフルの人気シリーズ、「ばんぱいやのパフェ屋さん」(佐々木禎子 著)の1巻が、コミックスになりました! 漫画はやぎさん、このたび新創刊したレーベル「アニメージュコミックスmiere」(発行:ティーダワークス 発売:徳間書店)にて、7月5日発売です。文庫もコミックスも、よろしくお願いいたします!

978-4-591-15498-4.jpgのサムネイル画像ポプラ文庫ピュアフル7月新刊『英国幻視の少年たち5 ブラッド・オーヴァ・ウォーター』発売を記念して、著者深沢仁さんから読者の皆さんに、抽選で、キーホルダーやコンパクトミラーなどの英国土産をプレゼントいたします。新刊オビの応募券にてご応募ください。詳細と英国旅行のミニレポートをこちらでご紹介しています。

『あざみ野高校女子送球部! 』(ポプラ文庫ピュアフル、680円+税)の刊行を記念して、小瀬木麻美さん トーク&サイン会を開催いたします。

場所 :リブロ港北東急SC店特設会場  日時 : 2017年7月16日(日) 午後2時~

参加特典として、小瀬木麻美さんが今回のイベントのために書き下ろした「『あざみ野高校女子送球部!』番外編」をもれなくプレゼント!センター南が舞台になった短編小説です。

Cov_shigotoba_R.jpg佐藤ジュンコさんのコミックエッセイ『仕事場のちょっと奥までよろしいですか?』が刊行になりました。作家・伊坂幸太郎さん、漫画家・いがらしみきおさんから伝統工芸の職人さんまで「作ること」のプロ15名の仕事術をイラストでルポ!

達人たちの仕事場にお邪魔したら、楽しい驚きがいっぱい。まさに大人の社会科見学!ふむふむ、へーと読んでいるうちに、むくむくとやる気が湧いてくるお仕事エッセイです。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ