早朝5時、いきなり男女が声を揃えて挨拶する。
「おはようございます!」
まどろんでいた私はびっくりして目を覚ます。「おはようございます」と囁くのではなく、勢いをつけて「おはようございます!」。朝から元気いっぱいの様相で、私も「早くしなさい!」と急かされるようなのである。
NHKのニュース番組『おはよう日本』。彼らはまず「〇月〇日、〇時になりました」などと日付と時刻を伝える。まるで日本の時間軸を統率するかのようで、これが毎朝5時、6時、7時に繰り返される。ニュース番組なので新しい情報が伝えられそうなのだが、朝の5時からずっと見ていると、同じニュースが反復されており、内容より規則性が印象に残る。何かが起きているというより、道路交通情報の決まり文句のように今日も「おおむね通常通り」と言いたげなのだ。
遅まきながら気づいたことだが、NHK(日本放送協会)こそ日本の「道徳」ではないだろうか。日本人に規則性をもたらすという点でも道徳の宣伝機関といえるし、NHKはその存在自体が道徳的である。1950年(昭和25年)に放送法に基づいて設立された特殊法人で、その使命は「健全な民主主義の発達」や「公共の福祉」と規定されている。財源は広告収入ではなく受信機を備えた世帯から徴収される受信料(年間6714億円/令和3年度)でまかなわれており、公平な負担で公正な番組づくり。法律に基づいて受信料を徴収し、国会で経営委員会の委員や予算が承認されるので、国営放送といってよさそうなのだが、NHKは「政府の仕事を代行しているわけではありません」(NHKのHP 以下同)と念を押す。政府や「特定の利益や視聴率に左右されず、まさに自主的、自律的にニュース・番組を制作し、編成することができます」とのことで、NHKは「公平」「公正」「自主」「自律」の事業体。その「番組基準」を眺めてみると、「世界平和の理想の実現に寄与」したり「人類の幸福に貢献する」と宣言している。国民に対しては「人格の向上」を図って「合理的精神を養う」。「生活を安らかにする」ことにつとめて「相互扶助の精神を高める」。さらには「家庭を明るく」「家庭生活を尊重する」そうで、「地域の多様性を尊重」「地域文化の創造」「わが国の過去のすぐれた文化の保存」「豊かな情操」「健全な精神」……。まるで学習指導要領にあった「道徳」の徳目が列挙されているようで、NHKとはすなわち道徳放送だったのだ。
見える道徳。視聴できる道徳というべきか。NHKを流せば茶の間も道徳教室に早変わりするわけで、私は早朝5時からどっぷりNHKに浸かってみることにしたのである。
いい人、いいことづくめ
つらい……。
観始めて1時間も経たないうちに私はそう感じた。これまで断片的にニュースなどを見ることはあったが、こうして真剣に凝視することはなかった。初めてNHKと向き合っているようで、向き合っていると何やら言い知れぬ圧迫感を覚える。
この感覚は何なのかと考えながら観ているうちに、出演者たちが「みんないい人」だということに気がついた。それぞれが「いい人」というのではなく、「みんないい人」。「いい人」が集まって「みんないい人」ではなく、「みんないい人」だから「いい人」でなければいけないという同調圧力が画面からひしひしと伝わってくるのだ。
ニュースのキャスターは与えられた原稿を丁寧に読む「いい人」で、ゲストやVTRの素材に対しても「へぇー」「ほう」「ステキです」などとこまめに反応する。スタッフたちとも「いい人」同士で労い合っているようで、「相互扶助」(「番組基準」)を体現しているのだ。特に驚かされたのは朝8時から始まる連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』に続く『あさイチ』という番組。いきなり同局制作の『カムカムエヴリバディ』を褒めることからスタートするのだ。その日のゲストはこれまた同局制作の大河ドラマ『青天を衝け』の脚本を担当している大森美香さん。開始早々、彼女は同番組の司会をつとめる博多華丸さんが西郷隆盛役に「いい」と思って大河ドラマに起用したと打ち明けた。大森さんは華丸さんが「いい」と褒め、華丸さんたちも大森さんの脚本が「いい」と讃える。番組には彼女の夫や娘も登場し、彼女が仕事も家事も子育ても両立している「いい母親」であることが明らかにされ、出演者全員から称賛を浴びる。かつて同じドラマで仕事していたという女優も彼女のことを「上の人には厳しく、下の人には優しい」と証言した。権力にのまれず、庶民感覚を忘れないそうで、まるで国家権力からの自主自律をテーゼにしているNHKそのものではないか。みんなに「いい人」と讃えられる大森さんは、みんなを「いい人」にする。連続テレビ小説や大河ドラマの登場人物たちも「みんないい人」。「いい人」が逆境にも負けずに頑張り、それを「いい人」たちが支えている。「NHK歳末たすけあい」のPR映像でもお笑い芸人の阿佐ヶ谷姉妹が視聴者にこう語りかけていた。
時には家族のように、時には友のように、
自分を支えてくれる人がいること、
そんな存在がいるだけで、
私たちは、笑顔で毎日を過ごせています。
彼女たちも「いい人」で、「いい人」が「あなたはいい人ですか?」と問いかけているようなのだ。その日に放送されていた各種番組も「みんないい人」だった。東京の小金井市の井戸(水汲み場)に集まる人々を取材した『ドキュメント72時間』では家族のために水を汲みに来る人々が紹介され、中には取材スタッフを労ってスープをつくって運んでくれる人まで登場した。『未来スイッチ』という番組では脚が不自由な曾祖母のために「杖に変形するシルバーカー(手押し車)」を発明した中学3年生が取り上げられ、福祉用具メーカーの取締役が「応援します!」と絶賛した。『逆転人生』という番組では口蹄疫の被害から立ち直った畜産農家が紹介された。出演者たちは過剰なまでに「どん底からの大逆転劇!」「大、大、大逆転!」「素晴らしい!」などと「逆転」という言葉をなぞり合い、農家の方も逆転劇に合わせて生活設計しているようだった。『地元を愛する人 ロコだけが知っている』でも地域に貢献する人々が次々と紹介され、最後にゲストの細川たかしさんがこう絶叫した。
「いい人ばっかりだ」
NHKはまさにいい人づくめ。夜10時から放送されていたドラマ『群青領域』などではそうでないような行為をする人も登場するが、見るからに本当は「いい人」であり、そうでないようなことをする理由がちゃんと用意されているのである。
みんな観てるNHK
「毎日、欠かさず観てますよ」
意気揚々と語ったのは藤堂さん(仮名/50代男性)だ。彼は十数年来、連続テレビ小説のみならず、大河ドラマも欠かさず観ているという。
——面白いんですか?
単刀直入にたずねると、彼は「う~ん」と唸った。
「面白いものもありますね」
——面白くないものもあるんですか?
「あります」
——面白くなくても観るんですか?
「観ますね」
即答する藤堂さん。
——なぜ、なんでしょうか?
「面白くなるかも、と思って観るんです」
今後に期待しながら観るということか。いずれにしても面白いから観るのではなく、欠かさず観ることが前提になっている。ちなみに彼は会社も無遅刻無欠勤らしい。
「毎日15分というのがちょうどいいんです」
藤堂さんが続けた。連続テレビ小説は15分の番組。この長さのドラマは「他にはない」とのことである。
——飽きないということですか?
「っていうか、以前、1週間分を週末にまとめて見ていたことがあるんです。そうするとやっぱりちょっと違うんですね」
——どう違うんですか?
「1週間分を一気に観るのはつらい。週末は録りだめた他のドラマも観たりするんで、あんまり時間をとられたくないし。だから分散させておきたいんです」
——分散?
「そう、毎日に分散されていたほうが楽なんです」
——楽なんですか……。
視聴は一種の義務なのだろうか。「楽」ということは、彼も本当はつらいのではないだろうか。
「つらくはないですよ」
きっぱり断言する藤堂さん。
「今やってる『カムカムエヴリバディ』などは毎回、ホロッとさせられます。観ながら泣いたりすることもありますしね」
——毎回ホロッとするんですか?
まったく無感動な私が驚くと、彼は深くうなずいた。
「毎回あります。毎日観ていると毎日1回はホロッとする。それでハマるのかもしれません。泣くっていうのは体にもいいらしいじゃないですか」
連続テレビ小説はラジオ体操みたいなもの。毎日の新陳代謝を促す習慣ということなのだろうか。
——すみません、何にホロッとするんでしょうか?
念のために確認すると、彼は力説した。
「家族の話ですね。子を思う父とか父を思う子とか。そういえばNHKのドラマはどれも家族がテーマですね」
NHKの「番組基準」にも「家庭生活を尊重する」と規定されている。ちなみに結婚については「まじめに取り扱」うと決められており、結婚以外の関係については「不健全な男女関係を魅力的に取り扱ったり、肯定するような表現はしない」と固く禁じている。それゆえ男女の情愛表現は制限され、ドラマはおのずと家族関係が中心になるのである。
「大河ドラマもそうですが、NHKは主人公を生い立ちから描くでしょう。それがいい」
思い出したように讃える藤堂さん。
——生い立ちのどこが、ですか?
「生い立ちから説明してくれれば、よくわかるじゃないですか、その人がどうしてそうなったのか、わかりやすいじゃないですか」
つまりは必然性ということか。ドラマに求められているのは物事の必然性であり、生い立ちから描くことで必然の連鎖として人生を理解できるのだ。確かにNHKは必然性を重んじる。公共放送は必然的に生まれたかのように説明されていたし、報道やドラマ、情報番組もそれぞれ時節に必然的な企画として構成されている。道徳放送とは必然的な放送。人生を偶然の連続と考えている私などからすると、必然の鎖に縛られるようで、だから圧迫感を覚えるのだろうか。
「でも実際、NHKのドラマに出ている俳優さんたちは熱演してるじゃないですか。皆さん気合いが入っていると思いますよ。そう思いません?」
首を傾げる私に藤堂さんが言う。
——そ、そうですね……。
「NHKはみんな観ているからです。他局のドラマと違ってNHKのドラマはみんな観てる。みんな観てるから気合いが入って、みんな熱演になるんです」
藤堂さんは力説した。みんな観てるNHK。みんな観てるからみんな熱演と「みんな」の連打になっているが、この「みんな」とは全員という意味ではないだろう。「みんな」とは「みな」であり、その語根は「充つる意」(大島正健著『國語の語根と其の分類』第一書房 昭和6年)らしい。「みのる」「みちる」「みたされる」などと同根で充実感を表わしている。「みんな観てる」というのは、コップに水が満たされるように「観てる」を感じるということ。番組自体に「観ている」「観られている」ことが充ちているのだ。この充実感は何に由来するのかというと、放送法に次のように規定されている。
豊かで、かつ、良い放送番組の放送を行うことによつて公衆の要望を満たすとともに文化水準の向上に寄与するように、最大の努力を払うこと。
(放送法第81条一)
NHKは「公衆の要望」、つまりみんなの要望を満たそうとしている。NHKのキャッチフレーズである「みなさまのNHK」とは、みんなの受信料でみんなの要望に応える番組をみんなに提供しているということを意味している。みんなのみんなによるみんなのためのNHKというわけで、これは民主主義の原理に通じている。NHKの使命の中にも「健全な民主主義の発達」(放送法第1条)と記されているくらいで、実は民主主義こそNHK道徳の根幹だったのだ。
一般意志の支配
その日の午後の放送は国会中継(参議院の代表質問)だった。議場では「国民の生命と財産を守る」「国民が納得しない」「国民の理解が得られない」などという決まり文句が繰り返され、聞いているうちに私は睡魔に襲われた。
民意の反映という点で国会とNHKはよく似ている。道徳の根幹は民主主義であり、民主主義には一種の催眠効果があるということか。ちなみに近代民主主義の祖とされるジャン=ジャック・ルソーが民主主義をこう定義していた。
われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとるのだ。
(『社会契約論』桑原武夫、前川貞次郎訳 岩波文庫 1954年 以下同)
ルソーによれば、私たちは共同生活を送るべく契約を結んでいる。自分の力を共同体に提供し、共同体から権利を与えられる。私たちの意志には自分の利益を考える「特殊意志」と公共の利益を目指す「一般意志」があるが、共同体では「一般意志」が私たちを支配する。自ら一般意志の支配下に入るわけで、それこそが構成員の義務であり、その代わりに権利も受け取る。それぞれの特殊意志と一般意志の合致こそが「きずな」となるわけで、それが民主主義の精神なのだ。
受信契約とはこのことか。
と私は思った。「一般意志」は言い換えれば、放送法でいう「公衆の要望」ではないだろうか。それぞれの人の特殊な要望ではなく「みんなの要望」であり、NHKを観ることで私たちは「みんなの要望」を目にすることになる。「みんな」という虚像を「全体の不可分の一部として、ひとまとめとして」感じ取るのだ。実際、私たちは番組を見てつまらないと思った時に「つまらない」とは言わず、「こんなものを誰が見るのか」「誰もこんなものは観ない」などと言う。無意識のうちに「みんなの要望」、すなわち「一般意志」を想定しているのである。
NHKを観る人は、みんな観てるから観るのだろうか。観ることでみんなを観るのか。みんなが「みんな観てる」を観るとみんながみんな自身を観ることになるのか、などと考えると、ますます眠くなった。夢うつつで眺める国会中継。そういえばルソーもこう警告していた。
もし神々からなる人民があれば、その人民は民主政をとるであろう。これほどに完全な政府は人間には適しない。
(前出『社会契約論』以下同)
民主主義は人間の理解を超えているのである。民主主義において私たちは自分を「すべての人に与え」、「失うすべてのものと同じ価値のもの」を手に入れる。つまり与える人であり、受け取る人でもある。主権者であり、同時に契約に服従する奴隷でもある。主権者が服従する。服従する主権者というのは明らかに矛盾しており、何やら騙されているようでもある。人間には不可解な民主主義。アメリカの詩人であるW・ホイットマンなどは民主主義を「一流の人物を作る『訓練学校』」(ウォールト・ホイットマン著『民主主義の展望』佐渡谷重信訳 講談社学術文庫 1992年)だと指摘した。人々は民主主義という訓練学校で修行しながら、「すべての人びとを一つの兄弟に、一つの家族に結合し、また絶えず結合することを希求する」(同前)そうなのだ。民主主義が目指すのは一流の人物たちによる一体感。言い換えれば「みんないい人」のようなのだが、具体的にどうすればその境地に到達できるのだろうか。
聖徳太子の心
ふと思い出したのが「憲法十七条」だった。推古12年(604年)に聖徳太子が制定した憲法十七条。あらためて読み返してみると、これこそ民主主義の作法のようなのだ。まず第一条にこうある。
和を以ちて貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ。
(『日本書紀② 新編日本古典文学全集3』小学館 1996年)
カントの道徳命法と違って大変わかりやすい。大切にすべきは「和」。和やかに和らぐという関係性を重視するわけで、決して逆らったり背いたりしてはいけないという。
なるほど。
思わず私は膝を打った。これは「いい人」の定義なのだ。「いい人」と「よい人」は違う。「よい人」は善人で、これは本人の性格を表わしている。しかし「いい人」の「いい」とは「いい顔をする」「いい子」「人がいい」「いい調子」「都合がいい」などの「いい」であって、本人というより潤滑な関係性を意味している。「よい人」は善きサマリア人のように善い行為をする人であり、時として周囲に逆らうこともある。しかし「いい人」は行為の善悪より周囲との調和を重んじる。調和すること自体を「いい人」と呼ぶわけで、つまりは一種の処世術なのだ。善人はなかなか「いい人」になれず、「いい人」になれる人は悪事も働ける。迷ったら「和を以ちて貴しとす」と呪文のように唱えれば「人がいい」と思われる判断ができるのだ。ルソーも「国家には、ただ一つの契約しかない。それは結合の契約だ」(前出『社会契約論』)と指摘していたくらいで、東西を問わず、民主主義の基本は「和」。「和」のために「いい人」になるのだ。では、どうすれば「いい人」になれるかというと、第十条にこうある。
忿を絶ち瞋を棄てて、人と違ふことを怒らざれ。
(前出『日本書紀② 新編日本古典文学全集3』)
「忿」とは文字通り、心が分裂することで「いかる」「かっとなる」(『学研漢和大字典』学習研究社 昭和53年)ことを意味する。「瞋」もまた「いかる」だが、こちらは「かっと目をむく」(同前)こと。つまり「忿」は心中の怒りで、「瞋」は顔など表面に現われる怒り。どちらも捨てなさいということで、さらには人が自分と違っているからといって怒ってはいけないと戒めている。とにかく怒ってはいけない。決して怒らず、怒ったようにも見せない人が「いい人」なのである。どうすればそうなれるかというと、
人皆心有り、心各執有り。彼是なれば我は非なり、我是なれば彼は非なり。我必ず聖に非ず、彼必ず愚に非ず。共に是凡夫ならくのみ。
(前出『日本書紀② 新編日本古典文学全集3』以下同)
人にはそれぞれ心があり、それぞれに思うことがある、と多様性を認めるのだ。そして相手が正しいと思っていることが、私には間違っていると思えることもあるし、私が正しいと思うことが、相手からすれば間違っていることもある。私は聖人ではないし、相手も愚人であるわけでもない。つまりは共に凡人なのだ、と自覚するのである。「いい人」とはすなわち凡人。凡人は「是非」に執着せず、「相共に賢愚」、つまりお互いに賢くもあり愚かでもあると心得ている。「是を以ちて(それゆえに)」と条文は続く。
彼人瞋ると雖も、還りて我が失を恐れよ、我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙へと。
相手が怒った場合、反撃するのではなく、まず自分の過失を恐れなさい、ということ。自分がよいと思っていることでも、「独断すべからず」(第十七条)。自分ひとりで決めず、「必ず衆と論ふべし」(同前)とのことで、衆人の考えに従って同じように行動せよ、というのである。大衆に迎合する衆愚政治と批判されそうだが、そう批判する人もまず自分の愚を省みよということだろう。私たちはお互いに凡人。凡人として共同体を生きているわけで、それゆえに「礼を以ちて本とせよ」(第四条)と礼儀を重んじ、「人各任有り」(第七条)と分をわきまえるべし。
まさに「みんないい人」ではないだろうか。みんなは「いい人」というより、みんなで「いい人」というべきか。第九条に「信は是義の本なり」とあるように、そう信じることで共同生活は成り立つ。ルソーの「一般意志」と同じように、民主主義とは「みんないい人」という約束事なのだ。
主語の暴走
そう考えると、先日NHKで放送された小室眞子さんと小室圭さんの結婚会見(2021年10月26日)は衝撃的な番組だった。「日本国民統合の象徴」(日本国憲法第一条)である天皇に連なる皇族だった眞子さんの結婚。「国民の総意に基く」(同前)地位にいたはずの彼女がいきなり「みんないい人」を否定したのである。
番組の冒頭で国民の声が紹介された。「いろいろ意見はあると思いますが、結果的にしあわせになってほしいです」「私は歳も近いので、しあわせを願っています」などと「みんないい人」というお膳立てがあり、記者会見場の中継映像へ。小室夫妻が現われ、揃って礼。顔を見合わせ、声を揃えて、
「どうぞよろしくお願い申し上げます」
と挨拶し、交互に話してお互いを「いい人」だと讃え合う形式は『おはよう日本』と同じだったのだが、小室眞子さんの発言がじわじわと「みんないい人」を崩していった。
彼女はしきりに「感謝」を繰り返していたのだが、その相手が「私たちの結婚を心配し、応援してくださった方々」「私と一緒に仕事をしてくださった方々」「私にあたたかい気持ちを向けてくださった全ての方々」「厳しい状況の中でも、圭さんを信じ続けてくださった方々」などと限定されていた。自分たちの味方についている人だけに感謝しているようで、さらには念を押すように「私のことを思い静かに心配してくださった方々や事実に基づかない情報に惑わされず、私と圭さんを変わらずに応援してくださった方々に感謝しております」とのこと。つまり彼女の言う「事実に基づかない情報」に惑わされた国民や結婚を応援しない国民をはっきりと除外したのだ。
喧嘩を売っているのか。
私はそう思った。日本国民を分断しているのか、と。彼女自身が「様々な考え方があることは承知しております」と認めているように、ふたりの結婚に賛成していない人がいる。小室圭さんの母親の金銭トラブル、その解決を巡るいざこざに対して実に多くの人が議論を繰り広げている。彼女はそれらを「一方的な憶測」に基づくと批判し、「誤った情報がなぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂れのない物語となって広がっていくことに恐怖心を覚えるとともに、辛く、悲しい思いをいたしました」と糾弾した。まるで国民の中には「いい人」でない人がいると言わんばかりなのだ。
勉強していないのか。
私は呆れた。察するに彼女は「いい人」と「よい人」の区別がついていない。悪意を糾弾しているようなのだが、この世に悪意があるのは当たり前だろう。私たちは悪意や善意を胸に「和」を貴び、「みんないい人」という約束事で結ばれている。たとえそれを破る人がいても、自分が破ってはいけないのだ。「事実に基づかない情報」「間違いのない事実」などと、あたかも事実はひとつであるかのように発言していたが、事実もまた人それぞれである。自分の事実だけが正しいというのはまさに独善であって、彼女の先祖である聖徳太子の言葉を借りれば、人の事実と違うからといって、「怒らざれ」(第十条/前出)、むしろ「我が失を恐れよ」(同前)と心得るべきなのだ。状況についても自分はよからぬ人に誹謗中傷されているのではなく、「いい人」たちから叱咤激励されていると解釈すべきではないだろうか。さらに私が瞠目したのは次のような発言。
一部の方はご存知のように、婚約に関する報道が出て以降、圭さんが独断で動いたことはありませんでした。例えば、圭さんのお母様の元婚約者の方への対応は、私がお願いした方向で進めていただきました。圭さんの留学については、圭さんが将来計画していた留学を前倒しして、海外に拠点を作って欲しいと私がお願いしました。
あなたがやったのか。
私はびっくりした。圭さんが独断で動いていたのではないと反論したかったのだろうが、反論するために彼女が独断で決めたと宣言している。万事は「独断すべからず」(同前)ではないのか。しかも「海外に拠点をつくる」とは日本国からの離脱。皇室に在籍しながら独断で皇室のみならず日本国からの離脱も企てていたことになる。
一体、どういうつもりなのだろうか。
もしかすると彼女は現在の日本国憲法に則しているのかもしれない。彼女は小室圭さんと結婚することで「皇族女子」(皇室典範第十二条)から国民になった。となると日本国憲法第十三条にあるように、「すべて国民は、個人として尊重される」はずと考えたのではないだろうか。さらに「すべて国民は、法の下に平等」(第十四条)であって、第二十二条にあるように「居住、移転及び職業選択の自由」や「外国に移住」の自由も認められるはずだと。
しかしよく読めばわかるが、これらの条文は日本語としてヘンなのである。
すべて国民は、個人として尊重される。
そう言われると、まず思うのは「誰に?」という疑問だ。誰に個人として尊重されるのか。この条文の「すべて国民は」という一節は主語のようだが、主語ではない。意味としては「国家権力はすべての国民を個人として尊重する」ということであり、主語は国家権力であって「国民」は目的語なのである。それゆえ国民同士の人間関係については個人として尊重されようがされまいが知ったことではないのだ。そういえば彼女の父親の秋篠宮皇嗣殿下も「憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります」(令和2年11月20日の記者会見)と発言していた。日本国憲法に則してふたりが「結婚することを認めるということです」(同前)ということだったのだが、この条文も正確には、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」(第二十四条)という文章である。まるで「婚姻」が主語のような位置にあるのだが、婚姻が結婚するわけではない。国民が結婚するわけで、憲法は目的語として婚姻を定めている。あくまで制度として定めているだけなので、現実に結婚する時は両性のみならず家族や親戚縁者の合意があったほうがよいに決まっているのだ。
日本国憲法の「○○は」という文体は翻訳から生まれたもので「西洋語に特有の、名詞中心、主語中心の『論理』」(柳父章著『近代日本語の思想』法政大学出版局 2004年)にすぎない。西洋の言語は主語が先頭に立って文章全体を支配するが、日本語では「○○は」「○○が」は「○○に」「○○を」とまったくの同列で順序を入れ替えても文意は変わらない。さらに人と話している時は主体は本人に決まっているので、わざわざ「私は」「私が」などと主語を明示しないのである。眞子さんは圭さんの元婚約者への対応や留学の前倒しなどを「私がお願いしました」などと明言していたが、「私が」などと主語を入れるから問題発言になるわけで、これも主語を置かずに「元婚約者への対応も留学の前倒しもふたりで話し合って決めたことです」と言えばよかったのだ。ひたすら繰り返していた「感謝」も、「私は」「私たちは」感謝していると強調したいがために相手を限定することになってしまったわけで、主語抜きで「皆様に支えられてここまで来ることができました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と言えば「いい人」になれたのではないだろうか。
そう、「いい人」は主語を置かない。私たちはお互いに似たような「凡夫」なので、「私は」「私が」などと主語を置くと、独自性を打ち出すことになって角が立つのである。日本国憲法は法典として遵守すべきだが、文体に則してはいけない。日本国の「みんないい人」とは主語を置かず、述語でやりとりする関係性なのだ。
昼間の国会中継で眠ったせいか、夜中になると頭が冴えてしまった。
NHKは深夜2時30分あたりから延々と空撮映像を流している。「知られざるヨーロッパの遺跡」と題して、紀元前2000年頃に築かれたクノッソス宮殿などを上空から眺めていく。ナレーションもなく、静かに淡々と遺跡を巡っていくのだ。
私は身を乗り出すように画面に見入った。若い頃なら退屈な映像に思えたかもしれないが、60歳を過ぎると遺跡の墓石のような佇まいに妙な親近感を覚えるのである。
これは高齢者向けの企画なのだろうか。
遺跡を眺めているうちに、私は両親も含め、大切な人々の多くがすでに遺跡側に移っていることに気がついた。これまでに生まれてきた人々の大多数はすでに遺跡側に行ってしまっているわけで、こうして生きていることがとても不自然に思える。自然の流れに逆らっているようで、チェスタトンが言っていた「死者の民主主義」も身に沁みるように理解できた。
単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間だけが投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。
(G・K・チェスタトン著『正統とは何か』安西徹雄訳 春秋社 1995年)
民主主義は死者も参加すべきだと彼は言う。「あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級」(同前)、つまりご先祖様たちに投票権を与えることこそが本当の民主主義なのだと。確かに聖徳太子の教えは今も生きており、「いい人」を生み出している。死んだ人を「仏様」などと呼ぶのも、「いい人」だということだろう。私たちはかつて生きていた「いい人」たちにも見守られて生きているのである。
小室眞子さんは結婚してニューヨークに渡り、「自由を手に入れた」「プライベートな生活ぶり」などと報じられているが、果たしてそうだろうか。
民主主義の観点からすると、好きなように生きるというのは欲求に支配されることなので、自由とは言えない。自由とは自らに由ること。自律することであり、ひいては自らの意志で公共の福祉に参加すること。民主主義の世界では、みんな「自由であるように強制される」(前出『社会契約論』)わけで、生きていること自体公務なのである。ちなみに「プライベート(privative)」とは、もともと「奪われている(deprived)」状態を意味したらしい。本来の自由を奪われた状態にいるということで、かつては奴隷や野蛮人のことを指していたのである。
秋篠宮皇嗣殿下は結婚を「私的なこと」(令和3年11月25日の記者会見)と発言していたが、婚姻は国に登録することなので、国民としてはこれも公務である。小室眞子さんは「私たちにとって結婚は、自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択でした」(前出・結婚記者会見)とのことだったが、まるで自分たちの心を守る必要がなくなれば離婚すると言わんばかりで、公務としての覚悟が足りないのではないだろうか。
道徳をなめてはいけない、と私は思った。そして大変遅ればせながら、道徳、すなわち徳(得)るべき道が少し見えたような気がしたのである。
*「道徳入門」連載は、今回が最終回です。長い間ご愛読ありがとうございました!
この連載を加筆、再構成して、3月にポプラ社より刊行予定です。
profile
髙橋秀実(たかはし・ひでみね)
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』など。近著に『悩む人 人生相談のフィロソフィー』がある。