「スマホは私たちの最新のドラッグである」
ベストセラーになった『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著 久山葉子訳 新潮新書 2020年 以下同)にはそう記されている。精神科医の著者によれば、スマホは一種の薬物であり、常用すると依存症を招くらしい。スマホを持つ人は「1日に2600回以上スマホを触り、平均して10分に一度」スマホを手に取るそうで、たとえ寝ていても3人に1人が夜中に目覚め、「少なくても1回はスマホをチェックする」とのこと。もはや「手放すことができない」状態なのだそうだ。
なぜそうなったのかというと、私たち人類の脳は長い間、狩猟採集の集団生活に適応してきた。つまり周囲の状況を常に警戒し、注意をあちらこちらに散らしておく必要があり、そのために「何かが起こるかも」と予期すると脳からドーパミンという快楽物質が分泌されるシステムになっているらしい。起きた結果ではなく「起こるかも」という予期に対して快楽物質を得る。このシステムを利用したのがスマホなのだという。スマホは持ち運びできるので常に「何かが起こるかも」という情報が提供されるし、スマホが手元になければ「何かが起きているかも」と不安になるわけで、四六時中ドーパミンがピュッピュッと分泌され、ドーパミン中毒のようになる。つまりスマホは脳のシステムを「ハッキング」しているそうなのだ。
そうかもしれん。
私はうなずいた。街に出ると、人々はスマホを見ながら歩いている。電車に乗れば、誰も彼もがスマホに釘付けになっている。まるで映画『マトリックス』のようなオンライン状態で意識はどこかにつながれている。車内でオフラインなのは私ひとりで、たとえ満員電車でもひとりで乗っているような気分になるのである。喫茶店やレストランでもオンラインのようだし、国の大事を審議する国会ですら議員たちはスマホを手放せない。見かねた衆議院の赤松広隆前副議長が「質問がつまらないから(映画やニュースを)見ていようというのはとんでもないこと」(2021年10月14日、衆議院解散後の会見)だと苦言を呈し、改善に向けた議論の必要性を訴えたくらいなのである。
そういえば以前、編集者が「スマホが壊れた」と言って取材に来なかった。スマホが壊れると仕事にならないそうで、修理店に行ったとのこと。つまり取材は仕事ではなく、取材よりスマホのほうが大事なのである。まさに「スマホがないと、その人の世界は崩壊する」(前出『スマホ脳』)という様相で、スマホ依存は病気としても認定されている。例えば東邦大学医療センター大森病院は「スマホ依存」をこう定義している。
スマートフォンの使用を続けることで昼夜逆転する、成績が著しく下がるなど様々な問題が起きているにも関わ らず、使用がやめられず、スマートフォンが使用できない状態が続くと、イライラし落ち着かなくなるなど精神的に依存してしまう状態
(同病院HP)
やめようとしてもやめられない。スマホの常用は生活のリズムや人間関係にも支障をきたすそうで、ひどくなると「深刻な引きこもり」(同前)に陥ったり、脳の萎縮も見られるそうなのである。依存症以外にも、スマホは長時間の前屈み姿勢による「スマホ首」や視力の低下、睡眠不足などをもたらし、「スマホ脳疲労」、記憶力が低下する「スマホ認知症」を発症する可能性もあるらしい。さらには「歩きスマホ」や「ながらスマホ」が様々な事故を引き起こすという異常事態に至っているわけで、いっそのことスマホ自体を禁止したほうがよさそうなのだが、スマホの保有(世帯)率は今や86・8%(『令和2年通信利用動向調査』総務省)にも達している。世帯の約9割がスマホを持っており、そこまで占めると逆に持っていないほうが異常な人になる。スマホがドラッグだとすると、ワクチンのようにほぼ全員が接種しているのだ。あらためて調べてみると、厚生労働省もかつては「スマホ依存」を警告していたが、今はスマホによる感染症対策を講じており、スマホがなければ生き残れないといわんばかりである。スマホ依存症が問題であることに変わりはないようだが、依存症を治すためにスマホ使用を管理するアプリが開発されており、スマホがなければスマホ依存症も治せないらしい。
もはやスマホは必要というより物事の前提になっている。大事なことはスマホでQRコードを読み取らないと知らされず、スマホがないと物事の圏外に置かれてしまう。かつて私も「スマホを持っていない」と言うと面白がられたものだが、今では相手の目が点になる。視界から私の存在が消えたかのようで、おそらくオンラインで接続されていなければ私は存在しないも同然なのだろう。最近、愛想のない人々が急増しているように思えたが、それも私が接続していないことが原因なのかもしれない。
「迷惑なのよ」
妻にもそう指摘された。スマホを使いこなす彼女には「歳をとったらスマホのほうがいい。画面が大きいし、タッチも軽い。それにガラケーのサービスは終わるでしょ」と言われていた。
——何が迷惑なんだろうか……。
私がつぶやくと、彼女は憤った。
「あなたはガラケーだって使いこなそうとしていないでしょ。電話さえできればいいと思っている。いまだに黒電話にこだわっているのよ」
――別にこだわっているわけじゃないけど……。
「そのくせ、いちいち私に訊くでしょ。『あのお店は何時までやってんのかな?』とか。営業時間も地図もチラシもポイントも私がスマホで細かくチェックしているのよ。その恩恵を受けているくせに、スマホを否定する。本当に迷惑というか、はっきり言ってウザい。こうやって説明するのもウザい」
恩知らずということか。スマホを否定すると人格も否定されるのである。
楽しむ器
かくして私はスマホを購入することになった。窓口で料金プランについての細かな説明があったのだが、私はまったく理解できず、丸ごと同行した妻に委任した。ほとんど放心状態で契約に至ったわけだが、最後に私が「取扱説明書をください」と口を開くと、担当者は驚いたような顔をして「ありません」と断った。スマホのことはスマホを使いながらスマホで調べろというのである。
ありえない。
私は憤慨した。料金プランは細々説明するのに、使い方の説明はないのか。スマホで調べるにしても、電源の入っていないスマホでは電源の入れ方を説明できないだろう。それに故障した場合、故障したスマホで故障の原因を調べるのか。せめて電源の入れ方くらいは説明すべきだろうと思ったところ、そういう方々のために「ドコモ スマホ教室」が開催されているという。2018年1月にスタートし、すでに累計900万人超が受講しているらしい。受講者のうち約9割が60歳以上とのことで、私も申し込むことにした。いよいよ私もスマホというか高齢者の仲間入りというわけである。
授業は毎日午前10時15分から始まる。1コマ1時間で内容は「入門編」「基本編」「応用編」「活用編」などと区分けされ、例えば「入門編」には「はじめてのスマートフォン」「文字入力をマスターしよう」「電話とメールをしよう」という具合に、それぞれ2~6種の講座が用意されている。そのシステムを知らずに私はいきなり「活用編」の「カメラをもっと使いこなそう」という講座に出てしまい、「すみません、そもそもこれどうやって押すんですか?」と質問したところ、「入門編の基本動作からきちんと学んでください」と注意されたのである。ちなみにその時、70代とおぼしき男性が「これは活用編というより応用編じゃないか」と質問していた。彼は「活用」と「応用」の違いについて議論したいようだったが、講師は明らかに困った顔をしていた。
迷惑な高齢者になってはいけない。
私は肝に銘じた。若い人の揚げ足を取ってはいけない。わからないからといって自分のわかることに引き込んで文句を言ってはいけない。『論語』にもあるように60歳になったら「耳順」。人の話を素直に聞くべきで、私は言われた通りに入門編から順次受講することにしたのである。
「それでは、足並み揃えてご案内いたします」
マスクをした女性講師はそう言って授業を始めた。その日の生徒は私も含めて3人。いずれも高齢でスマホ初心者だった。
「まずスマートフォンってなに~っていうことですね~」
思わず私はうなずいた。まさに私が知りたかったことだった。耳の遠い高齢者に教えるためだろうか、彼女は語尾を伸ばす。「スマホ」も「スマホ~」なのである。
「スマート~っていうのは、かしこい~っていうことです。フォンは電話ですから、スマートフォンはかしこい電話~っていうことです。どれくらいかしこいか~っていうと、頭のよさはパソコン並みなんです~」
――そうだったんですか。
私はつい返事をした。なるほど、スマホとは日本語でいうと「賢い電話」だったのだ。
「さらにスマートフォンは携帯電話と違ってボタンがないんです。その代わりタッチパネル~っていうものがあるんです」
スマホの画面を眺める私たち。
「じゃあ、スマートフォンで何ができるか~っていうと、さまざまなアプリで毎日がもっと楽しくなる~っていうことなんです」
この「楽しくなる~」の部分で軽く身をよじらす講師。先日の「活用編」の講座でも、別の講師が「(スマホで)毎日をもっと楽しく快適に過ごしましょうね」と言っていた。スマホは楽しむもの。スマホ使用は足並み揃えて楽しむこと。「楽しむ」の連呼を聞いているうちに私は小学校の「道徳」の教科書を思い出した。「道徳」でも学校を楽しむことがテーマになっていた。物事を楽しむことが道徳であり、それゆえ講師の皆さんも何やら楽しげなのだ。
「じゃあアプリ~って何か~っていうと……」
私が質問されたようで首を傾げると、彼女が続けた。
「機能のことなんです。機能のことをアプリ~っていうんです」
――えっそうなんですか?
私は軽く驚いた。「アプリ」はよく耳にするが、てっきり「おまけ」のサービスのことかと思っていたのである。
「電話もメールもカメラもみんな機能ですから、どれもアプリ~と言うんです」
――電話もアプリなんですか?
「おっしゃる通りで~す。ただ、ここで大切なのは機能の追加~っていうことです。スマートフォンはあとから機能を追加できる。追加できる~っていうのがスマホなんです」
スマホとは電話も含めた機能を追加できる器。スマホに機能があるのではなく、機能を追加できる器のことを「スマホ」と呼ぶのだ。
どんどんタップ
大袈裟にいえば土器がここまで進化したということか。人類の長い歴史を振り返ると、私たちはつい最近まで生の声で通信していた。19世紀末にようやく電話が発明され、私なども20歳代まではダイヤル式の黒電話を使っていた。ところが1990年頃に超小型携帯電話(mova)が発売されると、電話は一気に携帯するものになった。その頃にパソコンも急速に普及し、私などは遅れてようやくパソコンに馴染めるようになったのも束の間、パソコンを凌駕する機能を搭載できる「スマホ」が発売された。ただの流行物かと思っていたら、あっと言う間に標準的な必需品になっていたのだ。技術開発のスピードにも驚かされるが、その普及スピードというか生活の様変わりも驚異的であり、人類が「まるで壮大な実験をしているみたいだ」(前出『スマホ脳』)と言いたくもなるのである。
「私は携帯に戻りたい」
スマホ教室でよく顔を合わせる女性がそうぼやいていた。彼女は察するに70代くらいだろうか。娘さんに「もう携帯は終わりだから」と言われ、スマホに買い替えられてしまったという。
「機能があるのはわかります。あれもできるこれもできるって言いますけど、じゃあどうやってやるんですか」
それを習うためにこうして教室に通っているわけだが、彼女の気持ちはわかる。スマホは機能ばかりが先行しており、使用が追いついていかないのだ。
「大体、私なんか新しい言葉が入らないんです」
――新しい言葉?
「単語です。アプリだとか単語がいっぱいあるでしょ。単語が頭に入らない」
スマホは機能を追加できるが、頭のほうは追加できないのだ。実際、スマホまわりの単語は英語ばかりである。機能のことを「アプリ」といい、組み込むことを「インストール」、機能を組み込むことを「アプリをインストールする」などという。考えてみれば「機能を組み込む」のであれば、いったん組み込まれたものは外せず、たとえ外してもどこかに痕跡が残るはずなので慎重になる。しかし「アプリをインストールする」のほうは語感も軽やかで、必要なければ「アンインストールすればいいんです」などと言われる。アンインストールで簡単に帳消しになるようだが、「インストール」「アンインストール」の履歴はどこかに記録されており、知らずのうちに何かを掠め取られるように思えるのだ。先日の授業でもメールを送る際に「CC」と「BCC」という方法があり、「CC」は「カーボン・コピー」、「BCC」は「ブラインド・カーボン・コピー」の略だと教えられた。思わず私は手を挙げ、「なぜカーボンと言うのですか?」と質問したところ、講師はあっさりと「わかりません」と答えた。わからなくてもいいんです、「CC」と「BCC」があることを知ってくださいということだった。いずれにしても教室では「なぜ?」と訊くことは憚られる。操作方法についても全般的に「なぜ、そんなことをしなくてはいけないのか」と問いたいのだが、それを問うことはスマホ自体の存在を否定することになるのだろう。
「今日覚えてほしいのは、タップ~という言葉です」
女性講師はそう呼びかけた。「タップ」ではなく「タップ~」だ。
「指の真ん中の部分で軽くポンっと叩きます。これをタップ~って言います。これは非常によく使う言葉なので、是非覚えてくださいね。タップ~です」
――タップ~。
思わず私は唱和した。何をタップするかというと画面上のマークで、このマークを「アイコン」と呼ぶ。メニューを表示させたりする時はアイコンなどを2秒ぐらい長押しするそうで、その動作を「ロングタッチ」という。指を触れたまま画面を動かす動作が「スライド(スワイプ)」で、項目を移動させるのが「ドラッグ」、画面に触れたまま2本の指で広げて拡大させるのが「ピンチアウト」で、逆に狭めて縮小させるのが「ピンチイン」。いずれもできる画面とできない画面があるので要注意とのことだった。
「できないわ」
受講生のひとりがつぶやいた。見ればタップしているのに、まったく反応がない。「ほら」と何度もタップしても画面が動かない。講師によると、これはタップの位置がズレているらしい。スマホのタッチパネルは画面上の位置より少し下のあたりで反応するように設計されているそうで、ちょっと下をタップするような心持ちでお願いします、それが難しいようでしたらタッチペンを使ってくださいとアドバイスされた。
「皆さん、バッチリですね~」
何やらうれしそうな女性講師。随時「ここまで大丈夫ですか? 何かご質問はありますか?」と確認されるのだが、思いつく疑問はこの先に説明があるか、別の授業に分類されている。下手に質問するのは授業の流れを阻害するだけなので、「バッチリ」というより疑問を保留しながら進行に従うしかないのだ。先日の講座でも私が画面上に出てきた注意書きを読んでいると、講師が振り払うように「『同意』や『許可する』をどんどん押してサクサク進んでください」と促され、しまいには講師が私のスマホをどんどんタップしていた。理解することより使うことを優先するのが「スマート」なのだろうか。
「もうひとつ是非是非、覚えてほしいのが『ホームボタン』です」
講師が力説したのが、画面下の中央にある「ホームボタン」だった。ここをタップすれば元のホーム画面に戻るという。
「ウチの母もそうなんですが、突然見たこともない画面に変わってびっくりすることがあるかと思います~。そんな時はこのホームボタン。困った時はホームボタン。必ず戻ってこれるのがホームボタン。メールを書いている途中にホームボタンを押しても大丈夫です。メールは消えずに残っていますから。操作の途中でもホームボタン。困った時はホームボタン。非常に大事なことですから、是非、覚えてください」
困った時はホームボタン。
私はひとり唱和した。怪しげなページが開いたり、おかしな広告が来た時も慌てずにホームボタン。ホームボタンで安心を得るようで、家に帰るということか。私などはずっとホームボタンのままでよいのではないかと思った。そういえば受講生の80代らしき男性が「毎晩、寝る時に電源を落としています」と言っていた。電気代の節約をしているそうなのだが、それでは電話が通じなくなるだろう。電源を落とすとホームボタンにも戻れないので、電源は落とさないほうがよいのではないだろうか。
何でもかんでもアプリ化
スマホ教室には「受講履歴スタンプカード」という出席簿のようなものがあり、受講するたびに講師のスタンプをもらう。カードは登山に見立てられており、スタンプをためて「山頂を目指しましょう」とのことで、私はかれこれ1カ月をかけて全講座の修了を迎えようとしていた。基本動作はマスターし、居合わせた受講生に指導することすらあったのである。
「図書館の予約ができないんです」
ある女性にそう相談され、私は「図書館のホームページにアクセスすればいいんじゃないですか」と答えた。彼女は「そうなんですけど」とつぶやき、スマホに向かって「〇〇図書館、予約」と声をかけた。音声による検索はできるらしい。「でも、ほら」と彼女が画面を差し出した。そこに図書館のホームページは表示されていない。そこで私が「こうすればいんですよ」と画面をスライドした。「ええええっ」と目を丸くする彼女。「それでここをタップです」とタップするとホームページが開き、もう一度タップして予約画面に到達した。実に簡単なことだが、一昔前の電話予約からすれば手品のような展開といえる。
「す、すごい。あ、ありがとうございます」
女性に感謝され、私は得意気に「スライドしてタップです」と言った。すっかりデジタルデバイド(情報格差)を脱したかのようで、講師からも「髙橋さんはもう講師みたいですね」と太鼓判を押されたのだが、スマホのスマホたる本質にはまだ触れていない。アプリを使えてこそのスマホであり、最後に私は「応用編」の「スマートフォンでアプリを楽しもう」を受講したのである。
ホーム画面にある「Playストア」のアイコンをタップすると、アプリの検索画面に切り替わる。これはGoogleが運営しているショップのような画面で、ここでアプリを選んでインストールするそうなのだ。有料無料の区別、悪質な広告に注意する。アイコンの下に表示される評価やダウンロード数などを目安に安全性を確認するらしい。
「アプリは360万種以上あります」
講師はさらりとそう言い、私は「そんなに!」と奇声をあげた。
——そ、そんなにアプリがあるんですか?
「そうなんです。昔は登録の認可がなかなか下りなかったんですが、今は簡単に登録できるようになりました。ですからアプリは日増しに増えているんです」
日増しに増殖するアプリ。それゆえ検索が必要になるのだ。
「例えば、おじいちゃん思いのお子さんがいまして。毎日決まった時間にお薬を飲まなきゃいけないおじいちゃんのために時間を知らせるアプリをつくったんです。そういうアプリも登録されていますから大変な数になるんです。ちなみに私も毎年1回だけ使うアプリがあります。毎年2月にインストールします。使ったらすぐアンインストールするんですけど、さて、何のアプリでしょうか?」
私たちは首を傾げた。「もしかしてバレンタインデーの何かですか?」と私がたずねると、彼女は「惜しい」と言った。
「方位磁石のアプリです。恵方巻を食べる時に方角を調べるんです」
——……。
一同沈黙。他の方法があるのではないかと私は思った。何もアプリをインストールしなくてもいいんじゃないかと。実際、画面に表示された「人気のアプリ」「おすすめ」「最近の操作に基づくおすすめ」などのアプリ類を眺めてみても、ニュースや通販関係、漫画やゲームばかりで、私はまったく興味を惹かれなかった。
「目的がないんです」
唐突に受講生の高齢女性がつぶやき、私は彼女のほうを見た。
「私には目的がない」
彼女は切実に訴えた。生きる目的を失ったかのような発言だが、気持ちはわかる。
——特にやりたいアプリがないんです。
彼女を代弁するつもりで私も発言した。たとえ360万種のアプリがあっても、特にやりたいものがないのだ。講師によると、もし野球が好きなら「野球 アプリ」というキーワードでアプリを検索すればよいとのこと。好きなことをアプリ化するということか。これまでは調べたいことがあった時は、その言葉を入力して検索したが、今はその言葉でアプリを検索するそうなのだ。
間主観性のツール
そういえばイギリスでは約500万人近くが「アイサイドウィズ(iSideWith)」というアプリを利用しているという。これは選挙の際に「自分の意見と好みを入力すると、コンピュータがかわりに政党を選んでくれる」(ジェイミー・バートレット著『操られる民主主義』秋山勝訳 草思社 2018年)というアプリ。候補者や政党について調べる手間が省ける「便利なアプリ」(同前)らしいのだが、これは判断のアプリ化である。判断をアプリに委ねるわけで、もしかするとスマホの普及によって、あらゆることがアプリ化されようとしているのではないだろうか。自分で判断するのではなく、判断するアプリを選ぶ。しかもダウンロード数と世間の評価に基づいてそれを選ぶのだから、それはちょうど小学校の「道徳」に似ている。アプリはまるで「一般に承認されている規範の総体」(『広辞苑 第四版』岩波書店 1991年/第2回参照)のようで、それを自身にインストールするのである。富岡先生が言っていたカントの「道徳」もまるでスマホだ。
君の格律がいついかなる場合でも同時に法則として普遍性をもち得るような格律に従って行為せよ
(カント著『道徳形而上学原論』篠田英雄訳 岩波文庫 1976年)
カントは自分の行為が普遍性を持つ規則に従うようにせよ、と命じていたのだが、この「格律(行為の規則)」とはまさに「アプリ」ではないだろうか。アプリは物事を規則的に処理する。カントの命令は、君のスマホに人々の支持を受けているアプリをインストールせよ、ということだったのだ。
スマホは道徳のツールだったのか。
ようやく私は気がついた。人気のアプリとされるフェイスブックやインスタグラムも、なぜわざわざ自分の生活ぶりを公表するのか不思議でならなかったのだが、これも「一定の間主観性(社会的現実に関する認識の共有にもとづく主観性)を創り出すコミュニケーション手段」(木村忠正著『デジタルネイティブの時代』平凡社新書 2012年)らしい。つまり小学校の「道徳」で身につける「間主観性」を実践するメディアなのだ。主観的に生きるのではなく、「〇〇をする自分」「〇〇した自分」をアップし、その〇〇を共有することで間主観的につながるという仕組み。〇〇は物事でもあるし、賛同や糾弾などの感情でもある。スマホは「道徳」をつくり出すツール。いやツールというより、カントなど西洋の「道徳」がこうしたデジタル技術を生み出したのかもしれない。
画面を見ると、スマホの画面にはニュースが表示されている。なぜか決まって芸能関係のニュースで、誰某が「SNSに苦情を晒し波紋」とか、誰某が「批判受け投稿削除し謝罪」、誰某が「同期から恫喝された」やら「夫との別居を語り号泣」等々。よく読むと、これらはニュースというより、今日も誰かが世間の顰蹙を買っているというお知らせであり、それはすなわち道徳的な規範の教示である。
「やってみなければわかりませんよ」
講師にそう言われたので、私も試みにすでにインストールされているフェイスブックに登録した。自己紹介として出身校を入力しようとしたのだが、なぜか「一致する学校がない」との表示。何度試しても入力できず、一旦停止してグーグルで検索して調べても解決法はわからず、疎外感に見舞われて登録を削除した。ならば他のアプリをと「人気のアプリ」などを眺めてみたが、どれもこれも無駄な営みのような気がして、やがて猛烈な睡魔に襲われた。アプリの催眠作用というべきか。対象を得るには得るためのアプリが必要で、そのアプリを探すアプリもあり、探すアプリを選ぶアプリもある……という具合に対象からどんどん遠ざかり、気が遠くなるのである
そう、私にとってスマホは眠い。画面を見ていると眠くなるし、スマホの話を聞いているだけで眠くなる。スマホがドラッグだとするなら一種の副反応なのだろうか。ドーパミンがまったく分泌されないようで、次第に朦朧としてくるのである。
スマホは必要ないのではないだろうか。
うつろな頭で私は考える。自分で持たなくても、何か調べる必要があればスマホを持っている人に訊けばいいのではないだろうか。
おそらく私はスマホではなく人に依存しているのだろう。スマホ依存ならぬ人依存。人類は長い間、狩猟採集の集団生活を続け、常に周囲を警戒し注意を散らして生きてきたことに脳は適応してきたそうだが、いつの時代も警戒を人任せにするタイプはいたはずである。そもそも脳は人それぞれ。「脳がハッキングされている」などという一括りな発想こそが、脳のハッキングを招くともいえる。脳を「脳」だと分別するのは脳なわけで、それはスマホのことをスマホで調べるのと同じ。調べても自家中毒を招くだけで、もう考えるのはやめよう。スマホがつながる先にいるのも「人」なわけで、スマホ依存も人依存の隠蔽にすぎないのではないだろうか。
profile
髙橋秀実(たかはし・ひでみね)
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。