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第8回

幸せの国殺人事件

 社員旅行で出かけた沖縄で、溺れた海水浴客を助けようとしたらしい――と太市は続けた。僕は無意識に息を止めていた。苦しくなって、そのことに気づく。心臓が激しく脈を打ち始めた。

 水難事故で亡くなる人は、年間七百人から八百人もいるのだとOWSのコーチは言っていた。だから事故のないように、各自の技量によって無理のないコースでトレーニングするのだと。でもこれまで僕自身、海を泳いでいて危険を感じたこともないし、身近で事故があったという話も聞いたことがなかった。まさか太市の父親が、そんな亡くなり方をしていたなんて思いもしなかった。

「だけどさ、事故じゃなかったって言われたんだ」

 動揺のあまり何も言えずにいると、太市がおかしなことを言い出した。話の行き先が分からず、困惑しながら、どういうこと、と尋ねる。

「父親の栃木の実家で葬式に出たんだけど、ばあちゃんとかおばちゃんが、あれは事故じゃない、自殺だったって言、、、、、、、、うんだ、、、。嫁と息子に捨てられて、自殺したんだって」

 語尾が震えていた。太市は口元を歪ませてうつむいた。僕は太市の顔を見ないように、少しだけ目を逸らす。

「――父親は、そんなに泳ぎが得意なわけでもなくて、なのに溺れている人を助けにいったのはおかしいって。死んでもいいって、自暴自棄になってたんだろうって父親の親戚は言ってた」

「そんなの、その人たちには分かんないだろ」

 思わず反論する。確かに、訓練を受けたことのない人が救命胴衣もなしに溺れている人を救助するのは、しがみつかれて一緒に溺れてしまう可能性が高く、危険だとは知っている。でも太市の父親に、そこまでの知識があったのかは分からない。自暴自棄というより、とにかく助けなければと、そのことで頭がいっぱいだったのかもしれない。

 僕がそう訴えると、太市は「そうだよな」と力なくつぶやいた。

「結局、父親がどうして死ぬことになったのか、俺には分かんなくて――分かんないままにした。父親の顔も、結局思い出せないままだし」

 太市はTシャツの肩のところで涙を拭い、顔を上げた。そして黒く濡れた目で僕を見つめて言った。

「でも、父親は本当に自殺したのかもって考えると、俺は、消えてしまいたいような気持ちになる」

 絞り出された言葉が、僕を撃ち抜き、大きく揺さぶった。何かを考える間もなく、突き上げるような強い感情が声となってあふれる。

 消えるなよ。

 そんなの嫌だよ。

 僕は子供みたいに泣き出してしまった。そんな僕につられたのか、太市の目にもまた涙がにじむ。卒業式でも泣かなかった僕らだけれど、恥ずかしいくらい、涙が止まらなかった。

 冬美真崇の家のリビングにあったティッシュを勝手に使い、涙と鼻水を拭いた僕と太市は、勝手にリビングの掃き出し窓を開けるとベランダに出た。窓を閉め切っていた部屋は蒸し暑くて、でもさすがに勝手にエアコンをつけるのは悪いだろうと思ったのだ。

 団地の四階に吹く風は、地上のそれより涼しく感じられた。僕は手すりに肘をかけ、太市は背中を預けてそれぞれ寄りかかる。

 西の方の空は、赤く染まった綿雲に覆われていた。その雲に空いた穴から覗く澄んだ色の空が、雨上がりの水たまりみたいに見えた。

「未夢が今、凄く困ってるんだ」

 僕はそう切り出した。そして未夢と一緒に冬美真崇の家で『幸せの国殺人事件』のゲームソフトを見つけ、持ち出したこと。未夢がすべてのルートをクリアしたけれど、それで手に入ったパスワードを入れてもおまけのシナリオをプレイできず、どうやらソフトにバグがあったらしいことなど、これまでの経緯を説明した。

「お前ら、それ完全に犯罪じゃね? ていうかどうやって真崇の部屋に入ったんだよ」

 太市は心底驚き、若干引いた様子で眉をひそめている。まったく反論の余地はなかったが、それでも僕はなんとか言いわけをした。

「元々は行方不明になった真璃さんのことが心配で、何か手がかりがないかと思って部屋に行ったんだ。そしたら偶然、合鍵を見つけちゃって。それで中に入ったら、未夢が真崇さんの部屋を見たことがあるって気づいたんだよ。前に『幸せの国殺人事件』のソフトが三万円でフリマアプリに出品されてたって言ってただろ。その写真に写ってた部屋だって」

「ちょっと待てよ。真崇は、そのソフトを三万円で売ろうとしてたのか」

 変なところに食いついた太市は、なぜか神妙な顔で考え込んでいる。そして少しして、確信した様子で告げた。

「そのソフト、多分バグはないと思う、、、、、、、、、、。真崇って悪いやつに見られがちだけど、本当は凄い義理堅くて、筋の通らないことが嫌いなんだ。返す必要のない親の借金返そうとして、めっちゃ働いてるし。だからあいつが三万円で売ろうとしたのなら、少なくともちゃんとした製品だよ」

 真崇と同じ団地に住み、昔から彼を知っている太市は、そう断言した。僕は太市ほど真崇のことを信じてはいない。けれど太市がそこまで言うなら、返すつもりでリュックの中に入れてきた『幸せの国殺人事件』は、未夢の元へ戻しておく方が良いのかもしれない。

「だけどもう、ゲームの中にパスワードのヒントはないと思うんだ。だって全部のルートをクリアして、手掛かりも集め終わってるんだよ。正直、これ以上は何をしたらいいのか分からない」

「待てよ。ていうかお前ら、なんでそのゲームの隠しシナリオをプレイするのにこだわってるんだっけ?」

 太市が戸惑った様子で口を挟んだ。そう言えば、太市にはその辺りを説明していなかった。

「元々は、太市が真崇さんのパソコンから見つけた例の動画が、ゲームのムービーとして作られたものだったのかを確認したくて『幸せの国殺人事件』のソフトを探していたんだよ。それで、実際に手に入れて未夢がプレイしてみたけど、ゲームのムービーは全部アニメーションで、実写の映像が使われている場面はなかった」

 ハピネスランドの《恐怖の館》で撮影されていた例の動画が、ゲームのムービーとして作られたものだと確認できれば、先日発見された身元不明の遺体と真崇は無関係だと分かる。最初の目的はそれだったのだ。

 だが、加えて判明したいくつかの事実によって、僕らは新たな謎に直面している。

 僕は未夢が『幸せの国殺人事件』をプレイして分かったこと、また梶謙弥や姉の茜を通じて得た情報、そして安堂篤子の自宅を訪ねて見聞きしたことについて、改めて太市に説明した。聞き終えた太市は、納得いかなそうな顔になる。

「あの動画が、安堂篤子がなんかの作品に使うために自分で撮ったものだっていうのは確かなんだよな。だったらもう、それ以上調べる必要なくね?」

 あくまでも太市は、あまりこの件に深入りしたくないようだ。

「でも、安堂さんがまだ何かを隠してるのは間違いないよ。だってあの動画は、ハピネスランドが閉鎖されたあとに《恐怖の館》で撮影されてる。そんな映像を使った作品を、どこかで発表することはできない。彼女はコンクールで入賞したシナリオがドラマになったこともある有名人なんだ」

「まあ確かに、炎上系のライバーみたいに、どっかに不法侵入した動画を公開して視聴回数を稼ぐ必要なんてないもんな」

 僕の疑念に同意すると、太市は腕組みをする。動画が撮られた目的が分からず、安堂篤子がそれを明かさない以上、あれが殺人事件とは完全に無関係だと言い切ることはできない。

「海斗は、ハピネスランドで見つかった遺体が、國友咲良のものだって考えてるんだよな」

 太市が確かめるように尋ねる。さっきの真崇とのやり取りから推察したのだろう。

「うん。だって行方不明になった時期も合ってるし、その人は安堂さんにストーカー行為をしてトラブルになってた」

「もしそうだとしたら、國友咲良を殺したのは、誰だと思ってる?」

 その問いかけに、僕は答えようとして口ごもる。最初は、真崇が金で頼まれて何かしたのだと信じていた。けれど先ほど話した時の様子では、彼は國友咲良を本当に知らないようだった。襟首を掴まれた時は泣きたいほど怖かったけれど、真崇は人を殺すような人物には見えなかった。

 自信はないけれど、と前置きをして、僕は現時点での考えを話す。

「真崇さんが関わっていないのなら、安堂さんか梶さん――または二人が協力してっていう可能性もある。それか、もしかしたら安堂さんのファンが、安堂さんを守ろうとして殺したのかもしれない」

「つまり、犯人は絞れないってことか」

 太市が落胆したようにため息をついたので、僕は慌てて言葉を継いだ。

「でも、國友咲良が行方不明になったことに、安堂さんと梶さんが関わってるのは確かなんだ。だって彼らは國友咲良が帰ってこないって分かってて、彼女の家に真璃さんを住まわせてたんだろ?」

 それを聞いて太市ははっとした顔になる。さらにもう一つ、僕には気になっていることがあった。

「『幸せの国殺人事件』は、安堂さんが作ったゲームだ。そしてあのゲームは國友咲良がストーカー行為を行なっていた三年前に発表されてる」

 加えて、未夢によれば『幸せの国殺人事件』は、ミステリー小説家がストーカーと化したファンに殺されるという内容のノベルゲームだという。

「もしかしたら安堂さんは、ゲームを通じて國友咲良に自分がされたことを伝えようとした――そうでなければ國友咲良への個人的なメッセージを隠したんじゃないかな。おまけのシナリオの内容は、國友咲良が行方不明になったことと関係しているのかもしれない」

「どっちにしても、それを知るにはゲームのパスワードを解くしかないのか。安堂篤子が親切に教えてくれるってことはなさそうだもんな」

 太市は唇を尖らせると、頭を反らして茜色の空を見上げる。確かにこの状況では、安堂篤子に接触するのは危険だし、聞いても何も答えてはくれないだろう。

 途方に暮れそうになりながらも、どうにか別の方面からヒントを得られないか考えていた時、太市が思いついたように言った。

「安堂篤子が駄目なら、國友咲良の方から調べればいんじゃね?」

 どういう意味かと首を傾げる僕に、太市がじれったそうに説明する。

「國友咲良のブログはまだ残ってるんだろ? それを調べれば、少なくとも國友咲良が安堂篤子にどんなことをしたかは分かる。もしかしたらパスワードを解くヒントになるような情報が見つかるかもしれない」

 太市の提案に、その手があったかと目を見張った。國友咲良のブログが今もあることは確認していたが、詳しい内容まではきちんと読めていなかった。

 國友咲良はそのブログで、安堂篤子がシナリオコンクールに応募して入選し、ドラマ化された『夢の箱庭にて』は、自分の作品を盗作して書かれたものだと主張していたらしい。そして該当する自身の過去の作品を掲載していたという。未夢の話では『夢の箱庭にて』も『幸せの国殺人事件』と同じく遊園地が舞台の話らしいので、何か繋がりがあるかもしれない。

 そのことを話すと、太市は「それ、いい線じゃね?」と同意を示した。

「あとお前の姉ちゃんからも、なんか新しい話聞けるかもな。まずは國友咲良について、もっと調べてみようぜ」

 方針が決まったところで、僕らは真崇に言われたとおり、きちんとドアに鍵を掛けて部屋を出た。時刻はもう六時半を過ぎていて、青みがかった空が暗くなってきていた。団地のどこからか、カレーや焼肉といった夕飯の匂いが漂ってきて、急にお腹が空いてくる。

 合鍵を元あったポストに戻すと、すぐ目の前にある自転車置き場に向かう。

「太市、今日はありがとう。何か分かったことがあれば連絡する」

 母親には夕方には戻ると伝えてあった。早く帰らなければと自転車にまたがった時、道の手前まで見送りにきた太市が、海斗、と僕を呼び止めた。

「俺、お前みたいに、背が高くなりたかった」

 片足をついて振り返った僕に、太市は静かな表情で告げた。

「母親のこと、文句言ってても、毎日弁当作ってもらって、いいなって思ってたよ」

 藤沢市の中学校は、家で作った弁当か業者が作った給食弁当を選択できる。給食弁当を頼んでいるのは大体クラスの三割くらいで、太市も学校に来ていた時は給食側だった。

「WoNの中でハピネスランドを作るとか、俺は絶対に思いつかなかったし、海であんな遠くまで泳げんのも凄いと思ってた。だけど――どうしてか、俺も分かんないけど」

 言葉を切ると、自分の内側を覗き込もうとするように、太市は胸元に目線を落とす。沈黙のあと、多分、父親が死んでから、と、ささやくような声で続けた。

「俺と海斗は、なんでこんなに違うんだろうと思えてきて、その考えが止まらなくて、苦しくて、一緒にいられなくなった」

 太市は、「ごめん」も「悪かった」も言わなかった。ただ本当のことを言っていた。だから僕も、本当のことを言う。

「僕は四年生の時、太市がWoNを一緒にやろうって誘ってくれて、めちゃくちゃ嬉しかった。二人で初めてクエストクリアした時も嬉しかったし、『薗村』って呼んでたのを『海斗』って呼んでくれるようになったのも嬉しかった。ハピネスランドは太市が言ったとおり、あまり考えずに作り始めちゃったし、池を作る方法も、今は全然思いつかないけど、太市と未夢が一緒なら絶対に――絶対に完成すると思ってる」

 だからまた遊ぼう、とは言わなかった。太市が呆れたように笑ったのに、僕も笑い返すと、「じゃあまた」と言ってペダルを漕ぎ出した。

「例のブログ、メール送ってみたけど、やっぱり返信はなかったよ」

 前を走る太市に届くように、声を張り上げて報告する。白いTシャツの裾をはためかせた太市は、ハンドルを左に切って交差点を曲がると、「まあ、そうだよな。管理人が行方不明だし」と振り返らずに応じた。

 太市と笑って別れた二日後の午後二時。僕らは藤沢駅前で待ち合わせて、自転車で十五分の距離にある國友咲良の家へと向かっていた。太市が冬美真璃に頼んで、家の中を見せてもらえることになったのだ。この日は塾の夏期講習に参加するという未夢には昨日、『幸せの国殺人事件』のソフトを渡しに行った時に「私も行きたかった」と散々文句を言われた。

 バス通りから住宅街の路地に入ると、太市と交代して僕が先を走る。前に一度来ているので道は覚えていた。

「海斗は《ラスク》のブログの小説、どこまで読んだ?」

 走りながら太市が尋ねる。《ラスク》というのは國友咲良のハンドルネームで、ブログのタイトルもそのまま『RUSK』となっていた。調べたところ、あの薄く切ったパンを焼いたお菓子のラスクのことらしい。アルファベットのつづりが同じだった。

「一応、掲載してあった分は全部読んだよ。確かに前に未夢から聞いたストーリーとよく似てた」

 そう答えて、太市に止まると合図する。すぐ先に覚えのあるオレンジの外壁の二階建ての家が見えていた。

「けど、やっぱりあれだけじゃ盗作だなんて判断つかないよな。なんで國友咲良は、一部しか読めないようにしてたんだろう」

 自転車を降りた太市が首を傾げる。僕にもその理由は分からなかった。

 あれから改めて國友咲良のブログ『RUSK』を確認したところ、安堂篤子の『夢の箱庭にて』が自分の小説の盗作だったとする三年前の記事には、確かに國友咲良が過去に書いたという『箱庭の二人』というタイトルの小説の本文が掲載されていた。

 だが、掲載されていたのは第一節にあたる部分だけで、第二節以降にはブロックが掛かっていた。続きを読むにはブログの管理者の《ラスク》――つまり國友咲良にメッセージを送り、専用のパスワードを教えてもらってブロックを解除するという仕組みだった。

「面白半分に騒ぐ人に目をつけられるのが嫌だったのかもね。信頼できそうな人にだけ読んでもらおうとしたとか」

 音を立てないように注意して門扉を開けながら、推測を語ってみる。太市は素早く自転車を敷地の塀の陰に隠すと、「まあ、『箱庭の二人』の残りの部分を見つければ分かんじゃね?」と雨戸の閉じられた二階の窓を見上げた。僕らは國友咲良が盗作されたと主張していた小説の全文がどこかに残されているのではないかと考えて、彼女が住んでいたこの家までやってきたのだった。

「真璃は今日はバイトがあるから、鍵は郵便受けに入れておくってさ」

 門扉を元どおり閉めた太市が、錆の浮いた郵便受けの中を探り、WoNのノベルティタグ付きの鍵を取り出す。不法侵入した側が言うことではないが、真崇も真璃も、兄妹揃って防犯意識が低すぎるんじゃないだろうか。

 黒い金属製のドアを開けると、広々とした三和土に靴は一足もなかった。玄関右側の靴箱の上には、森の小道を描いた風景画と、木彫りの小鳥の置物が飾られている。

 お邪魔します、と誰にともなく言って、靴を脱いで揃える。真璃が掃除しているのか、玄関から続く廊下はゴミも埃もなく綺麗だった。奥のガラスドアを開けた先のリビングもよく片づいている。ダイニングテーブルの上にも、ソファーやガラステーブルの上にも、ものは置かれていない。

「リビングよりは、國友咲良が使ってた部屋の方にありそうだな」

 一応、カウンターの下の棚を確認してから太市が言った。

「うん。やっぱり一番考えられるのは、パソコンの中だよね」

 リビングを出ると、僕たちは廊下の階段を上った。二階にはドアが二つあり、太市が事前に真璃に聞いたところによると、奥はベッドが二つある広い洋室で、手前が子供部屋らしいとのことだった。

 國友咲良の部屋と思われる、手前のドアを開ける。薄暗い室内に、湿っぽい臭いが漂っていた。片手で口元を覆いながら、反対の手でドア横のスイッチを押して部屋の明かりをつける。

「うっわ、すげえ」と、僕の後ろから部屋の中を覗き込んだ太市が、驚きの声を漏らす。

 まず僕の目に入ったのは、葉っぱの柄のプリントのカーテンが掛かった窓だった。雨戸が閉じられていて日が入らず、外の様子も分からない。窓の右手にベッドが置かれ、そのすぐ横にシンプルな木製の机がある。

 だが、この部屋で際立った存在感を放っているのは、左手の壁一面に造りつけられた巨大な本棚だった。

 床から天井まで、壁の手前から奥までを、何千冊という本が埋め尽くしている。ちょっとだけ数えてみようと思ったが、目がチカチカしてきてすぐ諦めた。下段の方は百科事典や画集などの背の高い本。中段は小説やノンフィクションなどの単行本、それより上が文庫本で、さらに上には漫画本が分類されて並んでいた。

「マジか、これ。図書館並みじゃね?」

 太市は本棚の方へと近づくと、圧倒されたようにつぶやいた。

 安堂篤子のマンションにも、同じように大きな本棚があったけれど、ここまでじゃなかった。安堂篤子に執着するあまり、彼女のことを真似るようになったのだとしても、こんなの普通じゃない。僕は会ったこともない國友咲良に対して、だんだん恐怖を抱き始めていた。

「海斗、机の上にあったぞ。ノートパソコン」

 太市の声で我に返る。異様な本棚に目を奪われていて、机の上に閉じて置かれたノートパソコンを完全に見落としていた。太市がさっそく開くと、キーボードの電源マークのついたボタンを押した。起動音が鳴り、ファンが回り出す。

 太市と頭を並べ、真っ黒な画面を緊張しながら見守った。パソコンメーカーのロゴが映し出されたあと、背景が水色に変わり、白い横長のボックスが現れる。

「ああ、やっぱパスワード必要だったわ」

 ため息まじりに言うと、太市はハーフパンツのポケットからスマホを取り出した。

「未夢が予想してくれたやつ、当たってるといいんだけどな」

 國友咲良のパソコンには、パスワードのロックが掛かっている可能性が高い。そう考えた未夢は、今日来られない代わりにと、國友咲良のブログやSNSを調べ、パスワードとして使われていそうな文字列を五十個近くも予想して送ってくれたのだ。

「まずはハンドルネームと誕生日の組み合わせだな」

 太市はそう言って一番上の《rusk1128》を打ち込む。國友咲良の誕生日が十一月二十八日だというのは、ブログのプロフィールで公開されていた。

 太市は打ち間違いがないことを確認すると、そっとエンターキーを押した。画面が瞬き、まさか一つ目で――と喜びかけたが、すぐに「パスワードが違います」のメッセージが表示されてしまった。

「まあ、そう上手くいくはずないよな」と太市は先ほどのパスワードを、今度は一文字目を大文字にして打ち込む。だがそれも外れだった。

「何回か間違うとロックが掛かる場合もあるから、そうじゃなくて良かったよ。疲れたら僕が代わるから、気長に頑張ろう」

 そう励まして、僕は未夢の作ったリストを読み上げる係になった。十三個もあるハンドルネームを使った分のリストを消化すると、次は本名を使ったリストに移る。

「未夢は苗字よりは名前の方がありそうって言ってたけど、どうかな」

 やや疲れた声でつぶやきながら、太市は《sakura1128》と打ち込んだ。すぐにエンターキーを押すかと思いきや、なぜかその文字列をじっと見つめている。

「《ラスク》ってハンドルネーム、ラスクが好きなのかと思ったけど、もしかしたら自分の名前から取ったのかもな」

 振り返った太市がパスワードを指差しながら、そんなことを言ってくる。確かに《ラスク》と《サクラ》は、なんとなく語感が似ているかもしれない――などとぼんやり考えていると、「あーっ!」と太市の大声が響いた。驚いて飛び上がりそうになりながら、パソコン画面に目をやる。先ほどまでのパスワード入力画面が、草原の背景にファイルやアプリのアイコンが並んだ画面に切り替わっていた。

「十四個目で当たったぞ。未夢に感謝だな。あいつ、ハッカーなれるんじゃね?」

 太市が心から感心した様子で僕に笑いかける。

 パスワード入力を始めて、まだ十分も経っていなかった。名前と誕生日の組み合わせだから、ありがちと言えばありがちなのかもしれないけれど、それでも未夢が予想してくれなかったら、こんなに早く解けることはなかっただろう。

「これだよな。『箱庭の二人』」

 太市はいくつかある文書ファイルのアイコンのうちの、一番上のアイコンを指差した。《hakoniwa》のファイル名に続けて、文書ファイルの拡張子がついている。間違いないだろう。僕がうなずくと、太市はアイコンをダブルクリックした。

 ほどなく、縦書きで「『箱庭の二人』 國友咲良」とタイトルと作者名が表示された文書ファイルが開いた。太市が画面をスクロールする。「日記帳の十月二十日のページに、私はチケットの半券を挟んだ」という一文から始まる小説。國友咲良のブログ『RUSK』に掲載されていたものと同じだった。

「全部で二十ページあるみたいだな」と太市がファイルの左下のページ数を指差す。

「四十字×四十行でレイアウトされてるから、ええと――原稿用紙八十枚くらいか」

 太市は昔から計算が速い。いまだ呆然と画面を眺めていた僕を振り返ると、「全部読むには、結構掛かりそうだな。どうする?」と意見を求める。

「うーん……文書をコピーして持っていくのは難しいから、スマホで一ページずつ写真に撮ろうか。それなら未夢にもLINEで送ってあげられるし」

 悩んだ末にそう提案すると、太市もそれが良さそうだなと同意してくれた。蛍光灯の光が反射しないように画面の角度を調整し、太市がスクロールした画面を一ページ一ページ、僕のスマホで撮影する。最後のページまで写し終えたところで、他に手がかりがないかと、念のため別の文書ファイルも開いてみた。

「――こっちも全部小説みたいだな。ざっと見たところ、遊園地が出てくる話は他になさそうだ。日記かなんかがあればと思ったんだけど」

 残念そうに言うと、太市は開いたファイルを閉じていく。机の引き出しの中も調べてみたけれど、日記やノートの類はなかった。ベッドの下の衣装ケースには洋服とタオル、シーツ類が入っているだけだった。

「とりあえず目的だった『箱庭の二人』は手に入ったし、今日のところはこれで充分じゃね?」

 気が済んだ様子で太市が言ったのを潮に、僕たちはノートパソコンの電源を落とすと、侵入の痕跡を残していないか確認し、部屋の照明を消した。それから一応、廊下やリビングも見回っておく。玄関を出て施錠し、鍵を郵便受けに戻した上で自転車にまたがると、来た時と同じように、素早くその場をあとにした。

 未夢が僕と太市を自分の家に呼び出したのは、僕から未夢に國友咲良の『箱庭の二人』の原稿の画像を送信した翌日のことだった。

 正直、昨日のこともあって疲れていたし、二日連続で図書館で宿題をやると言って母親を騙すのは気が引けたが、夜中の一時に三人のグループLINEに届いた未夢のメッセージを見たら、行かないわけにはいかなくなった。

「『箱庭の二人』読んだ。『幸せの国殺人事件』のおまけシナリオのパスワードが分かったから、今日午後二時にうちに集合して」

 未夢に原稿の画像を送ったのは、昨日の夕方近くだった。そこから小説を読み終え、深夜まで掛けて一人でパスワードの謎を解いてしまったのだ。普段から小説を読み慣れない僕は、半分ちょっと読んだところで眠くなって寝てしまったので、あの小説の何がパスワードのヒントになったのか、まったく見当がつかなかった。

 約束の二時に未夢の家に着くと、ちょうど太市が自転車で向こうからやってきたところだった。玄関脇に自転車を停め、インターホンを押すと、いつになく難しい顔をした未夢が出迎えてくれる。

「上がって。お母さん、今日はもう仕事に行ってるから」

 そっけなく言うと、未夢は先に立って階段を上っていく。

 あれだけ頭を悩ませてきたパスワードが判明して、ついにおまけシナリオをプレイできるというのに、なぜか未夢は元気がなかった。昨日、遅くまでパスワードを解くのに取り組んでいて、寝不足なのだろうか。

 未夢の部屋のテーブルには、今日はレモンの薄切りが乗ったパウンドケーキが用意されていた。

「これ、母親が持って行けって」

 太市がビニール袋の中から、ペットボトルの冷たいミルクティーと大袋のチョコレート菓子を取り出す。僕は途中のコンビニで買ってきたチョコビスケットの箱を未夢に渡した。

「ありがとう。じゃあ、分かったことを説明するね」

 甘いものを前にしても、未夢は浮かない顔のままだった。コップに注いだミルクティーに口をつけると、「『箱庭の二人』はもう読んだ?」と切り出す。

「僕はまだ、半分くらいまで」「俺は第二節までは読んだ」と、僕らは正直に申告した。

「まずストーリーに関して言うと、『箱庭の二人』は安堂さんの『夢の箱庭にて』と、ほぼ同じ話だった」

 未夢はきっぱりと断言した。僕は当然そうだろうと思っていた。國友咲良は、『夢の箱庭にて』は自分が書いた小説を盗作したものだと主張していた。その証拠としてブログに掲載した『箱庭の二人』はおそらく、『夢の箱庭にて』を真似て書いたもののはずだ。

「でも、問題はそこじゃないんだ。二人はまだ、ここは読んでないよね」

 そう言うと未夢はテーブルの上のマウスを操作する。未夢のノートパソコンに昨日僕が送った原稿の画像が大きく映し出された。

「スマホだと読みづらいから、パソコンに取り込んだの。見てほしいのは、この十五ページにある描写なんだけど」

 未夢はそう言って原稿の中央辺りの一行を指し、書いてある文章を読み上げた。

「『観覧車から見下ろす《どきどき探検ボート》の池には、色とりどりの小舟が浮かんでいる。その向こうに《絶叫の館》の赤く尖った屋根が覗いていた』――」

 ゆっくりした調子で読み終えると、未夢は僕の顔をじっと見た。聞いた限りでは、ただ観覧車から見た光景が描写されているだけで、何も不思議なところはない。隣に座る太市に視線を移すが、こちらも怪訝そうに首をひねっている。

「太市は『幸せの国殺人事件』のゲームを見てないから無理だと思うけど、海斗は分かるんじゃないかな。アトラクションの名前、違和感ない?」

 未夢に言われて、そういうことかと気づいた。『幸せの国殺人事件』の事件の舞台となる遊園地は、ハピネスランドをモデルにしていた。そしてアトラクションの名称も、《恐怖の館》が《絶叫の館》となっていたりと、それぞれ似せてあったのだ。

「つまり『箱庭の二人』の遊園地も、ハピネスランドがモデルになってるってこと?」

 そう未夢に確かめると、未夢は微妙に納得していない顔をしながらもうなずいた。そして「多分、そうなんだけど――」と言葉を濁す。

「國友咲良が盗作されたって言ってた『夢の箱庭にて』の方はどうなんだ? そのドラマも遊園地が舞台なんだよな。やっぱハピネスランドと似てんのか?」

 太市の問いかけに、未夢は首を横に振った。

「『夢の箱庭にて』には、そんな特徴的なアトラクションは登場しなくて、ハピネスランドをモデルにしてる感じはなかった。権利関係とかもあるからかな。シナリオの段階ではどうだったか、分かんないけど――それより、海斗はこれ、覚えてるよね」

 未夢がそう言ってノートパソコンの裏から、前にも見せてくれたルーズリーフを取り出した。番号つきで並べられたアトラクションの一番下に、未夢がペンで赤い線を引く。

「『幸せの国殺人事件』では、ボートで池を探検するアトラクション――ハピネスランドの《探検わくわく島》をモデルにしたアトラクションは、《わくわく探検ボート》って名前だった」

 未夢の言葉に、僕はもう一度パソコン画面を見る。『箱庭の二人』の原稿に記された名称は《どきどき探検ボート》だ。《絶叫の館》はたまたまなのか、『幸せの国殺人事件』と同じだけど、こちらは違っている。でも、それがなんだというのだろう。

「じゃあ、本題に入るね。前回私が入力したパスワードは、クリアしたルートのエンディングで登場するアトラクションの最初の一文字を順番に入力した『めぜすこわ』だった」

 疑問に包まれている僕を置いてきぼりにして、未夢はパソコンの画面に表示された原稿の画像を閉じた。同時に起動していたらしい『幸せの国殺人事件』のスタート画面が表示される。未夢は画面をスクロールすると、シナリオ選択のずっと下の方にある《おまけ》のアイコンをクリックした。

 前に見たのと同じ「か」の文字だけが入力された、横長のボックスが現れる。未夢はそこに「めぜすこど」と入力した。

「なんでこのアトラクションだけ名前が違うのか気になって、なんとなく試すくらいのつもりで《わくわく探検ボート》の『わ』を『ど』に変えてみたんだよね。そしたら――」

 未夢の細い指がエンターキーを押し込む。前回はなんの変化も起こらなかった画面が、真っ暗になる。

「ここから先は、私も見てない。ねえ、どういうことだと思う? どうして間違ったパスワードでシナリオが開く、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、?」

 硬い声で未夢が尋ねる。それでパスワードを解いても不審に思っていたのだろう。僕だって何が起きているのか分からなかった。混乱しながら凝視していた真っ暗な画面が突然、僕らの見覚えのある部屋の画像に切り替わる。

「ちょっと待って! なんで――」

 未夢が悲鳴のような声を上げる。画面に映し出されているのは、ハピネスランドの《恐怖の館》の、あの暖炉のある洋室だった。

 画面の左側で激しく動く影。やがて白いワンピース姿の安堂篤子が現れ、倒れ込む。黒いレインコートをまとった人物が、彼女を黒い棒で殴りつける。

 太市が冬美真崇のパソコンから見つけたという、あの動画だった。作り物の映像だと分かっていても、体が強張り、呼吸が浅くなる。太市も未夢も、無言で画面を見つめていた。やがて安堂篤子が動かなくなる。レインコートの人物がこちらへ向かってきて手を伸ばす――。

「え――?」

 僕は目をまたたかせた。本来なら、そこで映像が終わるはずだった。けれどレインコートの人物は、手にしたカメラを覗き込むようにしたまま、もう片方の手でレインコートのフードを脱いだ。

「嘘でしょ……この人――」

 正体をあらわにしたその人物を、僕たちは食い入るように見つめた。彼女、、が振り返ると、倒れていた安堂篤子が体を起こす。そこで映像は途切れた。

 安堂篤子とともに映っていたレインコートの人物――。

 会ったことはなかったが、姉の茜から借りた文集の写真の彼女に間違いなかった。

 あの暴行の動画を撮影した人物は――國友咲良だった、、、、、、、

「國友咲良は、安堂さんのストーカーだったんだよね? なんでこの映像を撮るのに協力してるんだろう。ていうかどうしてこの動画が、『幸せの国殺人事件』のおまけシナリオに入ってるの?」

 矢継ぎ早に未夢が質問を重ねる。國友咲良が安堂篤子の動画撮影を手伝った理由は、僕にも分からない。でも冬美真崇の家にあったこのソフトは、発売前に作られたテスト版だった。

「やっぱりこのソフト、バグがあったんだよ。おまけシナリオのところに、間違ってこの動画を入れちゃったんじゃないかな」

 太市は真崇がフリマアプリに出品したソフトに、バグはないはずだと主張していた。けれどおまけシナリオにバグがあるなんて、真崇も気づかなかったんじゃないだろうか。

「――そっか。《RUSK》は、やっぱり名前からつけたんだ」

 僕の推測など聞いていなかったように、不意に太市が、まるでこの場にそぐわない話を始めた。「なんのこと?」と未夢が首を傾げる。

「國友咲良は、自分の名前の《サクラ》をもとにして《ラスク》ってハンドルネームと、もう一つの名前をつけた」

 言いながら、太市はテーブルの上のルーズリーフに手を伸ばした。そういえば國友咲良のパソコンにパスワードを打ち込んでいた時、そんな話をしていたと思い出す。太市はルーズリーフを裏返すと、そこに赤ペンで《SAKURA》と書いた。その左下に斜めに矢印を引っ張り《RUSK》と書く。

「《SAKURA》から《RUSK》を引いた残りは――」

 太市は右斜め下にもう一つの矢印を書くと、残った二つのアルファベットを記した。そして重い表情で告げる。

「《AA》――『幸せの国殺人事件』を作ったのは、國友咲良だったんだ、、、、、、、、 、、、、、、 、、、、、、、、、

【続く】

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