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第3回

幸せの国殺人事件

 かつて火竜の住処となっていた広い洞窟には、橙色に輝くマグマが、あたかも地底湖のように満ちていた。洞窟の岩肌の上方にぽっかりと空いた横穴から、黒いローブをまとった隠者が顔を覗かせる。隠者は誰かを待っているように、その場に腰を下ろした。

 どれくらいそうしていただろうか。やがて洞窟の天井から垂れ下がる鍾乳石を縫うようにして、黒い大きな影がこちらへと近づいてきた。翼を広げ、悠々と飛翔する、光る鱗に覆われた黒竜。その背にまたがるのは、竜の角から作られた漆黒の鎧と槍を装備した竜騎士だった。黒竜は竜騎士を横穴へと降ろすと、もと来た方角へと飛び去っていく。

「あいつ、まだ来てないの?」

 竜騎士が問うと、隠者が横穴の奥の暗闇を振り返った。

「悪い。帰り際に、社長から面倒な案件振られちまって」

 言いわけしながら走り出てきたのは、黒い覆面で顔を隠した盗賊だった。腰には建物に侵入する際にロープ代わりとしても使える鞭を提げている。

「集合時間は守ってよね」と竜騎士が小言を言う。その竜騎士も、たった今着いたばかりだったが、隠者は黙っていた。

「お前らお気楽な大学生と違って、こっちは働いてるんだよ」

 盗賊は開き直ると、「それより、来る途中で面白い奴らを見つけた」と笑いを含んだ声で言った。

「面白い奴らって?」と不思議そうに尋ねた竜騎士に、盗賊は告げる。

「そいつら、WoNのフィールドに《ハピネスランド》を再現しようとしているみたいなんだ」

 ハピネスランドの敷地内で、女性の遺体が発見されたというニュースが流れたその日。僕と未夢と太市はグループLINEで相談した上で、約束どおり太市の家に集まることは断念した。

 僕ら三人は五日前に、そのハピネスランドに侵入したばかりだ。充分注意したつもりだが、何か痕跡を残したり、誰かに目撃されたりといった可能性がある以上、今、怪しい動きをすることは危険だと考えた。それで代わりに、その晩にWoNのチャットで話すことになった。

 いつもならゲームの前に済ませてしまう宿題も今日は手につかず、僕は約束の時間の三十分前にログインした。待ち合わせ場所の広場で、落ち着かない気持ちで町の方角を眺めていると、ほどなくして大柄な人影がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。その後ろから、腰の辺りまである長い金髪をなびかせた小柄な影がついてくる。

「酒場で太市と会えたから、一緒に来たの」

 岩のような巨体の戦士を操作する未夢が、そう言って戦闘モードを解除すると、装備していた大剣を鞘に納めた。

「川を越えたところで、岩亀の群れに囲まれちゃってさ。未夢がいたからなんとかなったけど、俺一人だったらヤバかったよ」

 緑色のマントにミニスカート姿のエルフが構えていた弓を下ろす。太市は小学生の頃から、なぜかこの金髪のエルフを自分のキャラクターとして使っていた。

「遺体が発見された場所、《恐怖の館》じゃなくて良かったよな。俺たち、池の方には行かなかったし」

 前置きなく太市が今日の本題を切り出した。女性の遺体が見つかったのは、僕らが侵入した《恐怖の館》とは反対の南側にある、《探検わくわく島》の島の一つだった。

 太市が「池」と呼んだ《探検わくわく島》は、人工池に造られた三つの島をボートで巡るというアトラクションだ。人工池と言っても、大きさは学校のグラウンドほどもあり、鯉やメダカも住んでいる。見た目はほとんど自然の池にしか見えなかった。島は浮島ではなく土を盛ったもので、どれも直径五メートル程度だったと記憶している。

 自然豊かな土地に造られた遊園地ということで、ハピネスランドの敷地内にはテーマパークには珍しく、藤沢市を縦断する引地川の支流が川として流れている。その水源を利用することができたので、こうした大量の水が必要となるアトラクションを作ることができたのだ。

「ブルーシートが掛かってたの、池の北側の端にある島だよね。スカイサイクルのレールが近くに映ってたし。島の地面はだいぶ雑草が伸びてたから、遺体があったとしても、岸からじゃ見えなかったんだと思う」

 ヘリコプターから撮影されたニュース映像を思い出しながらといった調子で未夢が言った。僕には島の位置までは分からなかったが、未夢が言うなら間違いないだろう。

 そんな見つかりにくい場所に隠されていた遺体が発見されることになったのは、匿名の通報があったからだとニュースでは言っていた。

「きっと面白半分で閉鎖された遊園地に入り込んだ何者かが遺体を見つけたものの、自分が建造物侵入で逮捕されることを恐れて、匿名で知らせたんでしょう」

 コメンテーターの元捜査一課の刑事は、そんなふうに推理していた。その匿名の通報者についても、警察は捜査中とのことだった。

「遺体は十代から三十代の女性のもので、頭部に外傷があったってニュースでは言ってたけど、死後数年が経過してるなら、あの動画とは関係ないよな。だって、撮影されたのは今年の一月なんだから」

 太市はわざとそうしているふうに気楽な口調で言うと、エルフを操作してピンクのベンチに座らせた。「そうとは限らないよ」と言いながら、僕はゴブリンをエルフの向かいへと移動させる。

「あの日付は、ファイルが作成された日付だろ? 撮影したのはもっと前で、動画を編集してあのファイルにまとめたのが一月だったのかもしれない」

 本当なら、面と向かって尋ねたかったことだが、そうも言っていられない。僕はイヤホンから聞こえる音に意識を集中しながら、強い口調で太市に問いただした。

「大事なことだから、ちゃんと答えてほしい。あの動画は、本当は誰にもらったの?」

 ふうっと小さく息を吐く音。かりかりと体のどこかを掻くような音。沈黙――。やがて聞こえた、低く唸るような声のあと、太市は「ごめん」と言った。

「嘘ついて悪かった。もらったんじゃなく、見つけたんだ。知り合いのパソコンに保存されてた」

「知り合いっていうのは、冬美真璃さん?」

 本当のことを話し始めた太市を逃すまいと、追いかけるように質問を継いだ。僕の問いかけに、「違う」と太市は即答した。

「真璃の兄貴の、真崇(まさたか)のパソコンだよ。使わなくなったからってもらったんだ」

 太市が明かした事実に、僕も未夢も、何も言えず黙り込んでしまった。

 冬美真崇――真璃の五歳上の兄は現在二十一歳。専門学校を卒業したあと、横浜の会社で働いているということだけは聞いていた。

 なぜ真崇とまるで接点のない僕がそんなことを知っているかというと、姉の茜が話していたからだ。真崇は高校時代に川崎から遠征してきた暴走族グループをたった一人で蹴散らしたという伝説まである、地元では有名な不良だった。

「真崇とはここしばらく会ってないけど、昔、真璃の家に遊びに行った時に飯作ってくれたりとか、結構良くしてもらったんだ」

「じゃあ太市は今まで、真崇さんを庇って本当のことが言えなかったの? あの動画で女の人に乱暴してたのが、真崇さんだと思ったから」

 それまで無言だった未夢が、確かめるように聞いた。エルフが不意に立ち上がって、すぐにまたベンチに座る。何か動揺することでもあったのか、操作を間違えたようだ。

「そうじゃない。だって真崇が今働いてる会社って、ライバー事務所だぜ?」

 慌てたような言い方で答える。「ライバー事務所って?」と僕が聞くと、太市は簡単に説明してくれた。ライバー事務所はライブ配信事務所とも呼ばれていて、YouTubeなどでライブ配信を行う人たちのマネジメントをする会社なのだそうだ。要はライブ配信者たちを束ねる芸能事務所のようなものらしい。

「ライバーのサポートをするだけじゃなく、会社の方でどんな動画を配信するか、企画を立てたりもするらしいんだ。真崇の会社にはホラー系のライバーなんかもいるから、あれはきっと企画のために撮ったんだと思ってた。でも、あんまりあの動画がリアルだったから、真崇が変なことに巻き込まれたんじゃないかって心配になって」

 それでハピネスランドに、何か痕跡がないか調べにいこうと考えたのだという。

 真崇は、今は真面目に働いているのかもしれないし、太市には優しく振る舞っているのかもしれないが、僕は決して近づきたくないような人物だった。そんな真崇のことを心配して、ハピネスランドに侵入するような危ないことまでした太市が、僕には痛々しいと思えた。

 太市が真崇を慕っているのは、仲の良い冬美真璃の兄だからというだけではない。きっと未夢も同じことを考えているのではないだろうか。未夢の操る戦士はグラフィックの夜空を見上げるように顔を上に向け、じっとその場に立っていた。

「恐怖の館には、確かに血の跡みたいなのが残ってたよね。その上、敷地内で本物の遺体が見つかった」

 言い聞かせるように告げて、画面の中のエルフを見つめた。そして太市に確かめる。

「遺体の頭部には損傷があった。もしかしたら、あの動画の女の人かもしれない。ここまでのことを踏まえた上で、太市はどうしたいと思ってるの?」

 僕だったら、すぐに両親に打ち明けて、警察に通報してもらうだろう。自分の近しい人間が関わっているかもしれないとしても、人が殺されているのだ。知っていて黙っているなんてとてもできない。

 太市はすぐには答えなかった。エルフは金髪を風になびかせながら、どこか遠くを見ているように、ベンチの上でじっとしている。

「――三日だけ、待ってくんない?」

 長い沈黙のあと、太市は絞り出すように言った。

「正直、考えがまとまんないんだ。このことは、真崇ときちんと話してから、どうするか決めたい。けど何回メッセージ送っても、返信が来なくて」

 それはきっと、真崇の方に話したくない理由があるのだろう。僕は太市が真崇とこの件について話すこと自体、危険ではないかと思っていた。だがそれを言い出す前に、太市が言葉を継いだ。

「だからあと三日経っても真崇の返事がなかったら、諦めて母親に相談するよ。それまでは、海斗も未夢も、あの動画を見たってことは黙っててくんないかな。その方がお前らにも迷惑が掛からないと思うし」

 弱々しい声で、太市は僕らに訴える。戦士の方を見るが、さっきと同じ姿勢のまま、動く様子はない。

「いいよ、それで」

 ややあって、先に返事をしたのは未夢だった。僕も続けて「分かった」と答える。太市はほっとしたように息を吐くと、「ありがとな」と言った。

「母親には、ハピネスランドに入り込んだっていうのは隠しとく。ただ、変な動画があったってことだけ言うよ」

 太市は僕らにそう説明した。母親には、真崇からもらったパソコンの中に動画を見つけたことと、ずっとフェイク動画だと思っていたが、ハピネスランドで遺体が発見されたというニュースを聞いて不安になったことだけを伝えるとのことだった。確かにそれだったら、僕らや太市が叱られるということはなさそうだ。

 こうして今後の方針が決まったところで、いくらか気持ちは落ち着いた。けれど、今日はゲームをプレイする気分にはなれなかった。最初に未夢が、次に太市がログアウトすると、僕はゲームの電源を切って部屋を出た。

「お姉ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 隣の姉の部屋をノックすると、「はーい」と機嫌のいい返事が聞こえた。ドアを開けると、姉はベッドに寝転んで、スマホでお気に入りの育成ゲームをしているところだった。一日に二回引けるガチャで、目当てのキャラクターが出たらしい。

「冬美真崇って人が働いてる会社のこと知らない? 横浜にあるライブ配信事務所らしいんだけど」

「え? なんで海斗、冬美先輩のことなんか調べてるの」

 姉の茜は怪訝な顔になった。地味で真面目なだけが取り柄の弟が、地元でも有名な伝説の不良に興味を持ったことを意外に思ったのだろう。

「太市が、その真崇って人の会社で配信してるゲーム実況動画が面白いって教えてくれたんだけど、タイトル忘れちゃったんだ。会社のホームページとか見れば、載ってるんじゃないかと思って」

 僕以上に母親の嘘に騙されがちな姉は、弟の嘘に気づく様子もなくベッドから起き上がると、「ちょっと待ってね」と机の上のノートパソコンを開いた。そして《横浜》《ライブ配信事務所》でワード検索すると、出てきたいくつかのリンクのうちの一つをクリックする。アルファベットの社名のロゴの横に、よく日焼けしたTシャツ姿の社長らしき若い男性が笑顔で写っている《ドリームライブカンパニー》という会社のホームページが表示された。

「前に自分でも配信とかやってるクラスメイトから聞いたんだ。ここが冬美先輩が勤めてる会社だけど、登録してる配信者はどこに載ってるのかな」

 言いながら、姉が「会社紹介」のタブをクリックする。すると社内の様子やスタッフの写真とともに、事業内容を説明するページが現れた。スーツを着ている人はおらず、みんな社長と同じようなラフな格好だ。そのうちの黒い長袖Tシャツ姿の男を姉は指差した。

「この人が冬美先輩。専門学校時代は金髪だったけど、社会人になってさすがに染めたみたいだね」

 名前は何度も聞いたことがあったが、顔を見たのはこれが初めてだった。黒の短髪をつんつんと立てた髪型の冬美真崇は、カメラに向かってぎこちない笑顔を作り、隣の同年代の若者の肩に手を置いている。

 真崇の目は、三白眼と呼ぶのだろうか。黒目が小さくつり目気味で、この目で睨まれたら相当怖そうだ。隣の青年はTシャツに緑色のチェックのシャツを羽織り、四角いフレームの眼鏡をかけている。眼鏡の奥の小さな目でカメラを見たまま、直立不動の姿勢でいる様子は、かなり生真面目な印象だった。

「あ、(かじ)先輩だ。今も冬美先輩と仲良いんだ」

 そんな声を上げた姉に「この眼鏡の人のこと?」と確認する。

「そう。梶謙弥(けんや)先輩。冬美先輩と中学で同じクラスだったんだけど、冬美先輩とは全然タイプが違うのに、よく一緒にいたんだよね。友達って言うよりは、子分って感じ? 今は大学生のはずだけど、冬美先輩の会社でバイトしてるのかな」

 姉は言いながら、スタッフ紹介のページを開いた。そして「ああ、やっぱり」と呟く。

「『アルバイトスタッフ 梶謙弥 鎌倉芸術大学三回生 映像研究会所属』って書いてある。私の高校時代の友達もここの大学に通ってるの。オープンキャンパスがあるせいで、夏休みも大学行かなきゃいけないって愚痴ってたよ」

「オープンキャンパスって何?」

 耳慣れない言葉に、思わず聞き返すと、姉が説明してくれた。

「その大学を志望する高校生に向けて、大学の施設を公開して、自由に見て回れるようにしてるの。講義室で模擬授業を受けたり、サークルがそれぞれ展示や発表してるのを見学できたりもするんだ。私も高校生の時、色んな大学に見に行ったよ」

 冬美真崇と同じ会社でアルバイトをしている、映像研究のサークルに入っている大学生の梶謙弥。彼は中学時代、真崇の子分のような存在だったという。もしかしたらあの動画に関して、何か知っているのではないだろうか。

 その梶謙弥の在籍する大学では、夏休みに高校生が自由に構内を見学できるイベントをやっていて、サークルの展示もあるらしい。

 僕はパソコンを操作する姉の茜を横目で見た。僕より背が低いこの姉が、オープンキャンパスに入れたのなら、僕が行っても怪しまれないのではないだろうか。

「ありがとう、お姉ちゃん。じゃあ配信者のことは、自分で調べるから」

 姉が再びベッドに寝転んでゲームを始めたところで、僕はパソコンを操作して検索画面に戻ると、鎌倉芸術大学のホームページを調べた。

 翌日、午前中に水泳部の練習を終えた僕は、家には帰らず藤沢駅に向かった。

 母親には、夕方くらいまで図書館で宿題をすると言ってあった。駅のトイレで、中学のジャージからリュックに詰めてきたTシャツとジーンズに着替える。それから江ノ島電鉄線で、鎌倉芸術大学の最寄駅である鎌倉駅へと向かった。

 三十分ほどで古風な造りの鎌倉駅に着き、すぐ目の前のロータリーから、昨日姉のパソコンで調べておいた路線のバスに乗る。街のあちこちにやたらとお寺が建っているのを眺めながら、六国見山の方角へ十五分ほど登ったところで、目的の鎌倉芸術大学前のバス停に到着した。

 バスを降りた通りの向こうが大学の正門だった。一緒に降りた大学生や、高校生らしい一団とともに、信号が青になるのを待つ。高校生たちは制服を着た生徒もいれば私服の生徒もいて、そして親と一緒に来ている子もいれば、友達同士で来ているような子や、一人の子もいた。僕が一人で入っても、特に怪しまれることはなさそうだった。

 横断歩道を渡ると、高校生たちに交じって門を抜ける。事前の申し込みなどは必要なかったが、入ってすぐのところに受付の机が置かれていて、そこで女子学生からオープンキャンパスのパンフレットを手渡された。裏表紙の一面が大学の案内図になっていて、どの建物でどんな授業や展示をしているかが親切に記されている。地図を確認すると、僕はまず門のすぐ右手にある学生会館に向かった。

 学生会館の中には、学生食堂があると案内に書かれていた。部活のあとに何も食べずにここまで来てしまったので、物凄くお腹が空いていた。お昼ご飯時をとっくに過ぎていたからか、広いカフェテリアはそれほど混んでいなかった。

 母親から昼食代にと持たされた五百円玉を握り締め、食券の販売機の前に立つ。『学生一番人気』のシールが貼られたデミグラスオムライスを、自分の財布から百円を足して大盛りサイズにした。

 出てきた券を周りの人の真似をしてカウンターに出し、そばにある棚に重ねてあったトレイにスプーンや水を並べて待つ。少しして「デミオム大盛りの方ー」と呼ばれて前に進むと、きのこたっぷりのデミグラスソースの海に、こんもりと巨大な半熟オムライスの島が浮かぶ、魅惑の一皿が出てきた。

 ひっくり返さないよう慎重にトレイを運び、テーブルに着いた。隣の椅子にリュックを降ろし、紙おしぼりで手を拭いてスプーンを取ると、まずはソースのついていない部分をすくって口に運ぶ。ウスターソースと胡椒こしょうが効いた少し辛めのチキンライスに、バターの香りがする甘くとろっとした卵が合わさって、とにかくめちゃくちゃしい。

 続けてデミグラスソースの掛かったところも食べてみる。ソースが熱々で火傷やけどするかと思ったが、見た目は母親が作るハヤシライスに似ているのにそれとは段違いの、いつだったか横浜のレストランで食べたビーフシチューみたいな味がした。

 高校生のふりをして大学に潜り込み、さらには一人で外食なんてほぼしたことがないのに学食に入ったことに、実はかなり緊張していたのだが、この食べたこともないオムライスを前に、そんなものは吹っ飛んでしまった。今は美味しいということしか考えられず、僕は一心にスプーンを動かし続けた。

 そうして絶品のオムライスを夢中で頬張っていた時だった。僕のテーブルと通路を挟んだ隣のテーブルに、誰かがトレイを置いた。椅子を引くその人物に、見るとはなしに目を向けた。そして僕はスプーンを取り落としそうになった。

 テーブルに着いたのは、白のシャツに丈の短いジーンズを穿いた、ショートカットの女の人だった。大きな切れ長の目で辺りを見回し、長いまつ毛をまたたかせると、頬杖を突く。抜けるように肌が白く、どこか透明感のあるその顔立ちは、あの動画に映っていた女の人にそっくりに見えた。

 トレイの上にはクリームたっぷりのロールケーキとコーヒーが載っているが、手をつけようとしない。誰かと待ち合わせをしているようだ。この大学の学生らしく、椅子の足元にカメラの三脚らしきものがはみ出した大きなトートバッグを置いている。退屈そうに腕時計に目をやる、泰然としたその態度は、過去に誰かに暴行を受けたことがあるようには見えなかった。

 しばし呆然としていたが、我に返ってリュックのポケットからスマホを取り出した。そして半分ほど食べてしまったオムライスを写真に収めた。パシャリとシャッター音がしたが、隣のテーブルの女の人がこちらを気にしている素振りはない。それを確認してから、別の角度でオムライスを撮るふりをしながら、こっそりスマホのカメラを女の人の方に向けた。息を詰めてシャッターボタンを押す。なんとか顔が写るように撮れていることを確かめると、スマホを伏せてテーブルに置いた。

 完全に肖像権の侵害にあたる行為だが、やるべきことを終えたところで不自然に思われないように、オムライスの続きに取り掛かる。せっかくの美味しいオムライスだったけれど、動揺のあまり、味わうどころではなかった。

 太市から送られてきた動画は、《恐怖の館》の薄暗い室内で撮影されていて、被害者の女性の顔は、そこまではっきりとは見えなかった。体形もごく標準的だということしか分からず、特徴と言えば白いワンピースと、ショートカットの髪型だけだ。

 この隣のテーブルの女の人が、あの動画の人物だと言い切ることはできない。だけど僕には、この人の佇まいや雰囲気までもが、あの動画の女の人に似ていると感じられた。

 オムライスを食べ終わり、いつまでもそこにいると怪しまれそうなので、席を立った。椅子に置いていたリュックを背負い、トレイを持つと食器の返却カウンターへと足を向ける。その時、「安堂(あんどう)先輩!」と、女の人の高い声が響いた。

 思わず声のした方を振り返ると、大学生らしい女の人の二人組が、ショートカットの女の人の方へ通路をまっすぐに向かってくるところだった。それぞれカップとケーキのお皿の載ったトレイをテーブルに置くと、二人のうちの背の高い方が「篤子(あつこ)、内定出たんだって?」と話しかけた。もう一人が「あそこの映像制作会社って、業界でもかなり大手ですよね。凄いです、安堂先輩」と尊敬の眼差しを向ける。

 あのショートカットの女の人は、安堂篤子という名前のようだ。そして就活をしているらしい会話の内容からすると、四回生なのだろう。安堂篤子はコーヒーのカップに口をつけながら「まだ入社するか、決めてないけどね」と、のんびりした調子で言った。

 そこで立ち止まるわけにもいかず、食器の載ったトレイをカウンターに返した僕は、安堂篤子の方をそれとなく窺いながら、彼女たちのテーブルのそばを通ってカフェテリアの出口に向かった。

「確かに篤子だったら、他の会社でもすぐ内定もらえそうだよね。あれだけの実績があるわけだし」

「でも私、まだ就職するかどうかも決めてないんだ」

「安堂先輩、フリーランスでも充分やっていけそうですもんね」

 三人の女子大生たちはそれぞれケーキを口に運びながら、そんな会話をしている。

 安堂篤子という人は、なんの分野を専攻しているのか分からないが、ずいぶん優秀な学生のようだ。そうして二人に持ち上げられながらも、彼女はどこかつまらなそうな顔で、フォークの先で白いケーキを小さく切り分けている。

 安堂篤子のことは気になったが、いつまでも聞き耳を立てていることはできない。カフェテリアを出ると、まずはさっき撮影した彼女の画像を、未夢にLINEした。三人のグループLINEに送ることも考えたが、昨日のWoNでのやり取りがあったので、真崇のことで思い悩んでいる太市を巻き込むのは悪い気がした。太市は三日で結論を出すと言ったのだから、そのあとに教えるのでもいいだろう。

 余計な先入観を持たせたくなかったので、未夢に送った画像には、「他の人には見せないで」という注意書き以外、メッセージはつけなかった。すぐには既読にならないところを見ると、塾か何かの用事で出掛けているのかもしれない。スマホをリュックに仕舞い、代わりに取り出したパンフレットの案内図を見る。

 オープンキャンパスでは高校生に向けて、絵を描いたり、彫刻を作ったりといった様々なワークショップが開かれているようだ。木材を使って小物を手作りできるクラフトワークショップが少しだけ気になったが、今日の目的はそんなことではない。案内図の下に並んだサークル展示の一覧を確認する。《映像研究会》の展示は、共通科目棟というところにあるようだ。

 学生会館を出ると、丸い池を囲うように花壇やベンチが配置された中庭を突っ切って敷地の北側に向かう。炎天下だというのに、ベンチではカップルらしい男女が、飲み物のペットボトルを手におしゃべりしていた。そういう課題のためなのか、片方がモデルになってポーズを取り、もう一人が写真を撮っているという学生たちもいた。中庭を抜けた左手の方にグラウンドと、体育館と思われるかまぼこ屋根の建物が見えた。芸術大学でも、体育の授業があるのだろうか。

 体育館の反対側にそれらしき建物を見つけ、入口の横のプレートを確認する。《共通科目棟》と彫られているのを認めて中に入った。中学校と違って下駄箱などはなく、土足で歩いて大丈夫なようだ。もう一度パンフレットを見る。《映像研究会》は二〇二号研究室で展示をしているとあるので、廊下の案内板に従って、サークルのポスターや学生新聞などが貼られた階段を上った。

 二階の長い廊下の、奥から二つ目の教室が目的の二〇二号研究室だった。開け放たれた教室のドアには《映像研究会》と色画用紙にマジックで手書きしたものが画鋲がびょうで留められている。昼の校内放送で何度か耳にしたことのある、流行はやりの音楽が聞こえていた。

 中を覗くと、暗幕で窓を覆った室内の中央に白い大きなスクリーンが下がっている。そこに音楽に合わせて綺麗に揃ったダンスをする、二人組の女の人の映像が、プロジェクターで映し出されていた。画面が縦長なので、スマホで撮影したものらしい。

 スクリーンの横に長机が一台置かれていて、そちらにはノートパソコンが開いた状態で置いてあった。パソコン画面には人のいない海辺の風景が映し出されている。なんとなく見たことのある場所のような気がして、思わず近寄って画面を覗き込んだ。海に浮かぶ平らな島から突き出た、ろうそくのような形の展望台。間違いない。江の島だ。

「君、もしかして中学生?」

 突然、近い位置から男の人の声がして、僕は飛び上がりそうになった。リュックの肩紐を掴み締めたまま、薄暗い教室に目を凝らす。よく見るとノートパソコンの向こうのパイプ椅子に、眼鏡をかけた男子学生が座っていた。その顔を見て、もう一度息を呑む。

 そこにいたのは昨日、冬美真崇の会社のホームページで見たばかりの、この鎌倉芸術大学の三回生――梶謙弥だった。

「あの、すみません。僕――」

 思わず謝ってしまった。もう高校生だと嘘をつくことはできない。どうして僕が中学生だとバレたのだろう。服装が子供っぽかったのだろうか、などと考えながら、どう言いわけしようかと言葉を探していたその時――。

 パソコンのモニターを見つめたまま、僕はその場に固まってしまった。

 そこには気だるげに砂浜を歩く、白いワンピースを着た安堂篤子が映し出されていた。

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