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第1回

どうせあいつがやった

つきそい‐にん〔つきそひ‐〕【付添人】

1 人に付き添っていろいろな世話をする人。

2 家庭裁判所で審判を受ける少年の権利を擁護・代弁し、少年審判の手続きや処遇の決定が適正に行われるよう裁判所に協力する人。弁護士以外の人がなる場合は家庭裁判所の許可が必要。→国選付添人

(大辞泉)

 男のスーツは、見るからにくたびれていた。

 背広は襟のあたりがほつれ、黒地のスラックスは表面がつるつるに擦り減っている。実際、彼が着ているのは高級品とは言えない。量販店のセールで購入した上下二万円の代物だ。買う金がないわけではない。服は着られれば十分、という信条のせいである。髪型も無造作で、太い眉や剃り残した髭からも、身なりに気を遣っているようには見えない。

 ただ、胸元で光るバッジだけはよく磨かれている。ひまわりと天秤が象られたバッジは、照明を反射してきらめいていた。

 四十がらみの男の顔には微笑が浮かんでいる。目尻は細められ、口元は緩やかなカーブを描いていた。

 彼がいるのは小さな面会室だ。机を挟んで、ジャージ姿の少年がパイプ椅子に腰かけている。鑑別所で支給された衣類だった。身長は一七〇センチくらいか。やせ型で、頬が少しこけている。目つきは鋭く、唇は固く閉じられている。半端に伸びた短髪に染めた形跡はなかった。

 二人の他、室内には誰もいない。

「初めまして。弁護士のオボロです」

 差し出した名刺には〈(おぼろ)太一〉と記されている。少年はふてくされたような顔で、机上に置かれた名刺を眺めていた。

「斎藤(れん)さんですね。十七歳」

 話しかけても少年は答えない。予想していた反応ではあった。

「ぼくはあなたの付添人(つきそいにん)です。大人の場合は弁護人と言いますが、未成年を担当する時は付添人と呼びます。知っていましたか?」

 答えはない。

 ――初回なら、こんなものだよな。

 オボロは内心でひとりごち、淡々と話を進めていく。

部屋には留置場のようなアクリル板の仕切りはなかった。その代わり、オボロの手元には職員から渡されたブザーが置かれている。何かあればこれを使って人を呼べ、という意図だが、オボロはこれまで一度も使ったことがない。

「勾留中の先生から変わるけど、心配する必要はありませんよ。同じことをまた質問してしまうかもしれないけど、その点は許してください。午前中は心理検査だったでしょう。どうでした?」

 幾度呼びかけても蓮は微動だにしない。オボロは相手の顔から視線を外さない。目と目が合った瞬間、その顔から微笑みが消えた。

「ぼくは、蓮さんの味方です。あなたのパートナーとして、権利を守り、代弁する立場です」

 蓮の視線が揺れる。わずかに戸惑いが見えた。

「これから蓮さんが話してくれる内容について、ぼくが無断で他人に話すことはありません。調査官にも、裁判官にも、あなたのご家族にも。ただ、あなたの人生を考えるうえで、知ってもらったほうがいい場合もある。そう判断した時は、他の人に伝えてもいいか、確認させてもらいます」

 蓮は落ち着かない様子で、視線を左右にさまよわせている。オボロはささやかな手ごたえを感じた。本心は不明だが、とにかく反応を引き出すことができた。声は届いている。オボロの顔に微笑が戻った。

「ここがどこかはわかっていますか」

「……鑑別所」

 初めて蓮が言葉を発した。

 その返答の通り、二人が向き合っているのは少年鑑別所の一室である。

 逮捕された蓮は家庭裁判所へ送致後、観護措置が決定された。家裁が調査を行い、結論を出すまでの間、鑑別所で保護するよう指示されたのだ。運用上、原則四週間をここで過ごすことになる。

 この鑑別所では面会時の飲食が禁じられている。面会する少年にジュースを奢るのはオボロの常套手段だが、ここではその手が使えない。

「そう。鑑別所です。どうしてここにいるか、説明できますか」

 沈黙が流れた。蓮は気まずそうに押し黙っている。つい発言を催促したくなるが、ぐっと我慢する。この質問は、自分の意思で口を開かせるのが目的だ。無理に話をさせたところで、それは会話にならない。警察や検察と同じ取調べになるだけだ。

 少年との初めての面会前、予断を抱いてしまわぬよう、オボロはあえて事件記録に目を通さないことにしている。供述調書も結論だけ見ているが、経緯は読んでいない。つまり現時点では事件の全容がはっきりしない。

根気強く待っていると、唐突に蓮が口を開いた。

「人を、殴ったから」

 ちぎって捨てるような言い方だった。

「いつ頃ですか」

「先月。二、三週間前」

「相手は」

「ホームレスのおっさん」

 どこかで意識が切り替わったせいか、愛想のない口ぶりではあったが、蓮は質問に答えを返すようになった。オボロは要所でメモを取りながら質問を続ける。

「どうして殴ったの」

「ムカつくから。目につく場所に汚いやつらが住んでて、うっとうしい」

「腹が立ったから、殴ったんだ」

「そう言ってんじゃん」

 投げやりだった口調に憤りが混ざる。徐々に感情がこもってきた。

「どうやって殴った? 道具は」

「金槌で。なんか、おっさんの家に落ちてたから」

「用意していたわけではないんだ」

「当たり前だろ。そんな、わざわざ殴りに行く相手じゃない」

 苛立ちが露わになってくる。触れたくない話題に近づいている時、多くの少年は同じように、あからさまに不機嫌さを伝えようとする。仲間内ならともかく、警察官や裁判官、弁護士にそれは通用しない。

「時間は何時頃だったのかな」

「知らない。夜」

「わざわざ、夜に河川敷にいたのはどうして」

「普通に、ふらふらしてた。別に目的とかない」

 蓮は先ほど、わざわざ殴りに行く相手じゃない、と証言した。つまり〈ホームレスのおっさん〉を殴ったのは計画外のことであり、そのために河川敷へ出向いたわけではないということらしい。

 しかしそうなると、夜の河川敷に足を運ぶ目的がいよいよわからない。無目的に歩いて、たまたま河川敷に辿り着く可能性がどの程度あるのだろうか。

 ――まだ、整理できていないか。

 少年の発言に一貫性がないからといって、意図的に嘘をついているとは限らない。本人もまだ混乱している可能性がある。いきなり正面から矛盾を突けば、激昂して心を閉ざされてしまうかもしれない。

「では、殴った相手がどうなったか確認した?」

 質問の角度を変えてみる。

「血は出てなかった。殴ったらうつぶせに倒れて、動かなくなった」

 蓮は急に、噛みしめるような、ゆっくりとした口調になった。慎重に記憶を掘り起こしているようにも、失態を演じないため注意しているようにも聞こえる。

取調べで厳しい応対を受けたのが、ちょっとしたトラウマになっているのかもしれない。蓮には補導の過去もない。警察官とまともに話したのは、事件後が初めてだったはずだ。緊張も感じられる。

「ぼくは味方だから。失言を恐れる必要はないよ。正直に答えてくれればいい」

「もういいって。何回も話したから」

 懐柔するような言い方が余計気に障ったのか、蓮の姿勢は頑なになっていく。いったんは対話に向かいかけたが、再び殻にこもろうとしている。オボロが次の手を思案していると、蓮が舌打ちをした。

「ヘラヘラすんなよ。大人のくせに」

 なじられても、オボロの微笑は揺るがない。長年の訓練の賜物だ。

 この微笑みは、少年事件を扱っているうち自然と身に付いた。どんな少年少女でも、受け入れ、味方であることを態度で示すための武器。同時に、オボロの心を守るための鎧でもあった。どんな表情をすればいいかわからない時でも、微笑していれば心の余裕を保つのに少しは役立つ。

「悪いね。元からこういう顔で」

「バカだろ」

 吐き捨てた蓮はあさっての方角を見ている。

 その後もオボロは根気強く質問を重ねたが、まともな答えはほとんど返ってこなかった。

最初の面会でいきなり心を開いてくれることは少ない。言い訳をしたり、嘘をついたりするのはまだましだ。一応は対話の意思が感じられる。だからオボロにとっては、沈黙を決め込まれるのが一番つらい。

 ――これは骨が折れるな。

 一時間強の面会は、オボロの一方的な投げかけに終始した。

「また来るよ。これからよろしく」

 パイプ椅子から立ち上がったオボロに、蓮は「ねえ」と声をかけた。反応があったことに驚きつつ「どうしたの」と身を乗り出す。蓮はその目をじっと見て、噛んで含めるようにゆっくりと言う。

「何のためにここまで来たの」

 暗に、付添人など不要だと言わんばかりだった。オボロは笑みを深める。

「あなたと話すために」

 蓮はオボロの顔を凝視したまま、固まった。意外な切り返しだったらしい。いい意味か悪い意味かは読めないが、ともかく印象を残すことはできたようだ。

 室外にいる職員に面会終了を伝えると、蓮は部屋から連れ帰られた。

 選任の手続きを済ませ、鑑別所から出ると、晩秋の風が首筋を吹き抜けた。曇天の淡い灰色が、肌寒さをいや増す。歩きながらスケジュールを振り返る。

 家裁の審判期日まで残り三週間。それまでに、斎藤蓮のパートナーとして、彼の権利を代弁できるようにならないといけない。通常、期日までの面会は三回程度だが、もう少し頻度を上げたほうがよさそうだ。

 財布には、少年の心を開かせるための切り札が入っている。だが、この切り札は諸刃の剣だ。うまくいく時は効果絶大だが、相手によってはさらに心を閉ざしてしまう。使いどころは慎重に選ばないといけない。

 蓮との面会は上首尾に終わったとは言えない。だが、味方だと伝えた時、確かに蓮の視線は揺れた。少なからず心が動いたはずだ。

 大丈夫、対話の余地はある。

 オボロはそう自分を鼓舞して、事務所への帰路を歩いた。

「いやいや、ご無沙汰ですね。半年ぶりですか」

 家裁調査官の浦井(うらい)は小太りの身体を揺すって笑う。面白くて笑っているのではなく、とにかく笑顔を見せることが彼なりの処世術なのだろう。笑い方の派手さは違うが、要するにオボロと変わらない。

「浦井さんはお変わりないようで」

「それが太っちゃって。この間健診だったんだけど。一年で二キロ増えてました」

 裁判所の会議室に、浦井の笑い声が響く。

 少年事件では、成人事件と違い、原則として〈不起訴〉がない。すべての少年事件は家庭裁判所へと送られ、検察から家裁へとバトンタッチされる。成人のように公開裁判が開かれることもなく、非公開の審判が行われる。

 その審判で重要な役割を果たすのが、調査官だ。

 オボロの職務上、調査官は最も接する機会が多い職種の一つである。裁判所の職員である調査官は、少年事件など、家庭裁判所での審判に必要な調査を担当している。今回の事案については浦井が担当の調査官だった。

 調査官がまとめる調査報告やそこに付された意見は、家庭裁判所に提出される。また、付添人はそれとは別に意見書を提出する。家裁の裁判官はそれらの書類を吟味して審判を下すが、その結論が調査官と同一になるケースは少なくない。

そのため付添人のオボロとしては、処遇ができるだけ軽くなるよう下調べや準備をしつつ、蓮が納得できる結論を導くよう調査官に求める必要がある。

「えーと、斎藤蓮さん。ああ、はいはい。路上生活者への暴行事件だ」

 浦井は手元のファイルを繰りながら、改めて書面に目を通す。朗らかな表情から一転、厳しい顔つきになった。心証が顔に出ている。

「調査はもうはじめていますか」

「まだですが……でもこれ、どうせ逆送でしょ?」

 裁判官が刑事処分相当と認めた場合、事件は検察官に送致され、成人と同様に起訴、刑事裁判という流れが待っている。その場合は公判も開かれる。家裁に送られた事件が戻されることから、検察への送致は〈逆送致〉、略して逆送と呼ばれていた。特に重大事件については逆送となることが多い。

「それは調査結果にもよりますよ」

 オボロは反射的に反論していた。路上生活者への襲撃を認めている蓮はこのままいけば逆送となる可能性が高いが、決めつけるような口調は受け入れがたい。保護観察への道だって残されているはずだ。

「そうかなあ。いや、結論が決まっているからって手を抜くわけではないですよ。調査はきちんとやります。でもねえ。本人も認めているし、後追いになるだけじゃないかな。進行協議はやるんでしたっけ?」

「申し入れはしたんですが、必要性はないと」

「ならしょうがない」

 期日までの進行に関する裁判官との打合せを進行協議と呼ぶ。重大事件や、複数の期日を設定すべき事件では進行協議を行うことが多い。オボロとしては蓮に不利な心証を形成されないため、進行協議で裁判官に釘を刺しておきたかったが、裁判官の側から不要と判断された。

「高校は中退……学校への照会はかけてもいいですよね」

 オボロは頷く。

少年が学生の場合、在籍する学校への照会を避けてもらうこともある。照会によって非行事実が学校に知られてしまうせいだ。重大でない案件では、意外と、学校は非行事実を把握していない場合がある。裁判所から事実が知られ、事実確認の前に退学や停学などの処分が下るのは避けなければならない。

ただし蓮は昨年、高校を退学している。そのため学校照会を止める理由はなかった。

「保護者への聞き取りは、先生も同席しますか」

「いえ、こちらの予定はお構いなく。浦井さんもお忙しいでしょうから」

「そうしてもらえると助かるな」

蓮は母子家庭で育っている。父母は十三年前に離婚しており、父親との交流は皆無。きょうだいはいない。

「しかしまあ、金槌で殴るとはね」

 浦井は口をへの字に曲げ、供述調書に目を通している。少なくとも、同情の念を抱いているようには見えない。

「えー、被害者の男性は、当初は全治二週間程度の怪我と見られていたが、その後、殴打の影響で硬膜下血腫となったことが判明、手足の麻痺や記憶力の低下が見られる、と……この子も何を考えて、金槌で人の頭を殴ったのかね」

オボロは慌てて「待ってください」と割り込んだ。

「彼の単独犯と決まったわけではありません」

「いやいや、目撃者もいるしその線はしんどい」

 犯行時刻の前後、河川敷周辺の路上で蓮を見たという目撃証言があった。目撃者はアルバイト帰りの元同級生で、街灯の下の横顔まではっきり見えたという。何より、蓮自身が自分一人の犯行だと認めている。

 だが、オボロはその筋書きをすんなり飲み込むことができなかった。

とりわけ、河川敷にいた理由が気になる。

 蓮との面会後、改めて事件記録に目を通したが、当夜の行動については取調べでも「ふらふらしていた」とだけ証言していた。しかし事件現場は、蓮の自宅アパートから十五キロも離れている。徒歩で移動していた蓮が、偶然辿り着くにしては遠すぎる。それに、当該の河川敷には立ち寄る理由などない。あるものと言えば、路上生活者の段ボールハウスくらいだ。

「彼はまだ事実を話していない気がするんです」

 オボロが本音を漏らすと、浦井は露骨に顔をしかめた。

「まさか、非行事実を争うつもりですか」

「場合によっては」

「本人が認めているのに?」

「ですから、場合によっては」

 内心、今後の戦略についてはまったくの未知数だった。事実を争う余地があるかすらわからない。だが、全面降伏するつもりもなかった。

 納得しかねる、と言いたげに浦井は腕を組んで瞑目した。

「うーん……付添人として、少年に有利な情報を集めることは結構ですがね。でも先生、勘だけで意見書は書けませんよ」

 もっともである。現時点で、蓮の非行事実を争える材料は何一つない。根拠はオボロ個人の違和感だけであり、そんなものを裁判官が認めるはずがなかった。

「これは老婆心から言いますがね。裁判官が心証形成する前に、さっさと意見書出したほうがいいんじゃないですか」

「しかし……」

「ほら、ここ見てください」

 浦井が事件記録に記載された写真を指さす。凶器の金槌が写っていた。

「金槌の柄を拭った跡から斎藤蓮の指紋が検出されているんですよ。指紋を拭おうとして、そこにまた指紋を残したのは皮肉ですがね。とにかく斎藤蓮が証拠隠滅を図ったのは間違いないんですから。物的証拠も状況証拠も、彼の犯行だと示しているでしょう」

「共犯者がいたのかも」

「先生」

 浦井はうんざりした顔でオボロを見やる。

「あんまり入れ込みすぎないほうがいいですよ」

「少年が頼れるのは付添人しかいません」

 諭すような口調は浦井なりの心配の表れだろうが、オボロもすんなり引き下がることはできない。浦井はうつむき、人差し指で額を掻いた。

「……こういうこと、言っちゃいけないんでしょうけど。私たちがどれだけ奔走したところで、彼らが変わるとは限らないじゃないですか。先生も、それなりに経験あるんだしわかるでしょう? 家裁に送られた子のうち、何割が立ち直ったんです」

 浦井の言葉から、オボロは直感した。

 ――この人は、ぼくの過去を知らない。

 裁判官や調査官は二、三年の周期で転勤するため、最近知り合った関係者のなかには、オボロの過去を知らない者も少なくない。浦井がこの家裁に来たのは昨年。知らないのも無理はない。

 オボロにとっては、そのほうが仕事はやりやすい。駆け出しだった頃は、少年や保護者だけでなく一部の調査官からも白い目で見られた。その一方、弁護士として少年保護事件を手がけるオボロを激励してくれる関係者もいた。

 よくも悪くも過去は風化する。

「何割だとしても、やるしかないです」

 心配する浦井に、オボロは曖昧な笑みを見せた。

 雨上がりの路上には、ほんのりと土臭さが漂っている。

 傘を畳んだオボロは、スマートフォンの地図を頼りに目的の団地へ向かっていた。近づいているはずだが、路地が入り組んでおりなかなか到着しない。約束の午前十一時が刻々と近づいていた。少し足を速める。

狭い路地で、自転車に二人乗りした少年とすれ違う。平日の午前中、まだ学校の授業がある時間のはずだ。後ろに乗った金髪の少年が、無遠慮な視線をオボロに投げかけた。民家の窓から顔を出した中年の女性が、けだるそうに煙草の煙を吐いている。シャッターの降りた商店の軒先で、日に焼けた男性が缶チューハイを飲んでいた。

 オボロが育ったのもよく似た町だった。日本中に存在する、ありふれた下町。

 平屋のアパートの一角で、七歳から十四歳まで過ごした。それ以前は祖父母のもとで過ごしていたようだが、詳しいことは知らない。両親とはとうに縁を切っている。

 小さな公園の角を曲がると、行く手に巨大な灰色の直方体が現れた。コンクリート造りの団地棟だ。オボロは足を速めた。

近づくと、各戸のベランダの様子まで目に入る。そのすべてにエアコンの室外機が据えられていた。中身が一杯のビニール袋や使われなくなった家具が置かれ、ゴミ捨て場のようになったベランダもある。干しっぱなしの洗濯物が風に揺れていた。

 斎藤蓮の自宅は4号棟2階にある。人気(ひとけ)のない敷地を横切って、目当ての部屋を探し当てた。ドアの前に立つとにわかに緊張が高まる。

 インターホンを押す。しかし扉は開かない。

「こんにちは。弁護士のオボロです」

 ドア越しに声を掛けるが反応はない。嫌な予感がした。

訪問することはあらかじめ母親に伝えている。渋々ではあったが、一応了解は得たはずだ。土壇場で逃げたのか。これまでにも、そういう経験がないではなかった。

「斎藤さん。オボロです。いらっしゃいますか」

 執拗にノックすると、ようやく内側からドアが開いた。髪を褐色に染めた女性が、疎ましそうにオボロを睨む。歳は四十前後と見えた。化粧はしていないが、眉だけは書いてある。

「やめてください……うるさい」

 彼女の名は、斎藤亜衣子。蓮の実母である。オボロは微笑を浮かべる。

「失礼しました。不在だったらどうしようと思って」

「いないわけないでしょう。約束したんだから」

 亜衣子の案内で、オボロは足を踏み入れる。玄関にはラベンダーの香りが充満していた。ふと見れば、靴箱の上に真新しい芳香剤が置かれている。廊下には埃や毛髪がびっしりと落ちていた。

「あまりじろじろ見ないでください」

 亜衣子に叱責されながら、オボロは密かに室内を観察する。間取りは2K。正面にはリビングがあり、右手の部屋の扉は閉ざされている。おそらく、溜まったゴミ袋か何かを、急いでその部屋に移したのだろう。廊下にところどころ埃が積もっていない場所があるのは、そこにゴミが放置されていたせいだ。綺麗にしているとは言い難いが、とりわけ汚いわけでもない。人を呼ぶ時にゴミを片付け、匂い消しを置いておく気配りはできる。

オボロは奥のリビングに通された。六畳の洋間に小さな台所が付いている。台所は汚れがこびりついているが、シンクに洗い物は残っていない。隅には畳まれた洗濯物が重ねられている。

勧められるまま座布団に腰を下ろす。名刺を渡すと、亜衣子は顔をしかめた。

「蓮さんの付添人のオボロです。よろしくお願いします」

 はあ、と言葉にならない相槌を打ち、亜衣子は名刺をローテーブルに置いた。うつむいたその顔は、よく見れば蓮と似ている。

「今日は、お母さんに色々聞きたくてお邪魔しました」

「あの子、警察で全部話したんじゃないんですか」

 亜衣子は退屈そうな表情で手元を見ていた。少なくとも表面上、息子が逮捕されたことへの動揺は見られない。

「だいたい、弁護士さんに付いてもらう必要ありません。あの子が自分で落とし前をつければいい。それに、うちお金ないですから」

「私は国選の付添人です。斎藤さんに費用負担いただく必要はありません」

「ああ、そう。でもあの子、自白してるんでしょう。少年院じゃないんですか」

「いいえ。蓮さんがどんな処分になるかはまだわかりません」

 亜衣子は首をかしげている。

「逮捕されたからといって、必ず少年院に送致されるわけではないんです。蓮さんの処遇は、家庭裁判所の結論で決まります」

「……少年院じゃないなら、刑務所ですか」

「少年刑務所というのもありますが、それ以外にも色々あるんです。たとえば、保護観察。自宅や職場で生活を送りながら、指導を受けるんです。再非行の危険がないと認められれば、不処分になることもあります」

「でも、蓮はもう不処分にはならないでしょう?」

「今の段階では何もわかりません。ですから、蓮さんの今後を考えるため、お母さんには確認したいことがたくさんあります」

 まだ納得しきれない様子だったが、それ以上は反論しなかった。とりあえず、抵抗は諦めたらしい。

「まずは、ご職業を教えてください」

 その問いに、亜衣子は失笑して見せた。

「調べてないんですか。生花店の事務。店番もやってるけど」

 オボロはメモを取りながら話を進める。

「いつからそこで働いているんです」

「五年くらい前かな。よく覚えてない」

「その前は?」

「キャスト。キャバクラね。年齢的にしんどいわ、って店クビになって。路頭迷いかけたんだけど、出入りの花屋で事務の人が辞めたからそこにうまいこと入れた。簿記なんかできないけど、商業高校出だから」

 過去を語る亜衣子の表情は真剣だった。

「蓮さんの生活態度を伺いたいんですが」

「ちょっと、吸ってもいいですか」

「どうぞ」

 亜衣子はいったん席を立ち、台所の換気扇を動かしてから電子煙草を吸いはじめた。

「えーと、それで……蓮のことか。最近は、何やってたかよくわからないですね。小学生までは近所のゲーセンとか、ハンバーガー屋でつるむくらいだったと思う。中学に入った頃から、夜出歩くようになったみたい。うちの花屋、夜も営業してるから、私も家帰るのが遅くなるんです。十二時とかに帰っても、家にいないことが多かったなぁ」

 一人息子について話しているというのに、まるで他人事だった。

「じゃあ蓮さんは、お小遣いで遊んでいた?」

「どうかな。花屋になって給料も下がって、小遣いなんかほとんど渡してなかったけど。私も私で、生活カツカツでしたから。あの子の面倒まで見る余裕ないっていうか。中学生なら、一人で生きていける年齢でしょう」

 ひどく投げやりだ。オボロは小指で額を掻いた。

「高校を中退したのは、同級生への暴力行為が原因ですか」

 ここへ来る前に、高校には問い合わせていた。校内暴力でたびたび騒動を起こしており、最後は本人の意思で退学した、というのが学校側の言い分であった。

「たぶん。中学から、ヤンキーっぽくなったみたいですけど。大した小遣い渡してなかったのに、知らない服着てたり、髪染めてたりしたから、あぁ、どこかで金ぶんどってきたんだな、とは思ってました」

 聞き逃せない発言である。オボロが「詳しく教えてください」と言うと、亜衣子はいかにも面倒くさそうに片頬を歪めた。

「そんな覚えてないけど……三年前だから、あの子が中学二年の時か。いきなり髪を赤く染めてきたんですよ。頭どうしたのか訊いたら、美容院でやった、って返ってきて。美容院なんか通ってるのかよ、と思ったから覚えてます。カラーリングしたらそれなりに金もかかるし。その時、他にも気がついて。ピアスとか、変なサングラスとか。なんか服も見覚えないやつで。それで察したんですよね。こいつ金せびってんな、って」

 オボロは手帳にペンを走らせる。家裁で閲覧した記録には、蓮が素行不良である旨は記されていたが、具体的な行為は記されていなかった。

「金をせびっていた相手はわかりますか」

「さぁ。カツアゲでしょ」

「学校の同級生や後輩ということですかね」

「さぁ」

 亜衣子は煙を吐きながら、同じ台詞を繰り返した。

「お母さんは、学校から呼び出しを受けなかったんですか」

「呼ばれましたよ。学校には何回も行きました。最初は中学上がってすぐだったかな。喧嘩で怪我させたか何かで。呼ばれたのなんて初めてだったんで、相手の親とも会って、菓子折り持って謝罪に行ったりしました。蓮のことも叱りました。でもねぇ、同じことがしょっちゅう続くと、こっちももう諦めますよ。先生のほうも呆れて、見放してましたね。そのうちこっちが無視するようになりました」

 述懐する横顔には、徒労感が滲んでいる。亜衣子なりに、蓮を育てようという意思はあったのだろう。かつては。

「高校を中退してからはどう過ごしていましたか」

「ガソリンスタンドで働いてたけど、一年もせずに辞めました。あとは知りません」

「仲のよかった友達は誰でしたか」

「すみません、一切知らないんです」

「最近様子がおかしいとか、なかったですか」

「わかりません」

 オボロは食い下がるが、亜衣子の返答はそっけない。固い殻にこもってしまったような空気を感じる。

「何でもいいんです。蓮さんに関することなら」

「私には、蓮のことはわからないから」

 こういう態度の保護者と接するのは、初めてではない。子どもに関心を持たない親、子育てを諦めてしまった親はいる。そういう家庭で育った子どもたちが皆、非行に走るわけではないが、親の無関心は肌でわかってしまうものだ。手を差し伸べられていないと感じる子どもが立ち直るのは、支援がある場合より難しい。

「そもそも母親になったのが、間違いだった」

 亜衣子の視線は、ベランダに面したガラス戸へ向けられていた。まるで、そこに映った半透明の彼女自身へ語りかけているようだった。

「なりゆきで妊娠して産んだだけで、覚悟とかなかったし。血がつながってても、結局は他人じゃないですか。他人の考えてることなんてわからない。家族だから理解するべきだなんて、傲慢だと思いません?」

 その問いに、オボロは答えられなかった。

 

 蓮の付添人として、否定すべきだとわかっている。だが朧太一という人間の思想は、むしろ亜衣子に共鳴していた。親だから、子だからといって、相手を想い尊重する義務はない。血のつながりは愛の裏付けにならない。

 七歳から十四歳まで過ごしたあのアパートが、目の前の光景と重なる。平屋の汚くて狭い部屋。湿った空気に充満した、けだるさと不穏さ。

深夜、母は不機嫌そうに金の勘定をしている。父は部屋の隅で所在なさげに煙草を吸っている。小学生のオボロは、二人の間で膝を抱えていた。夜更かしを咎める者はいない。それどころか、寝付いていたオボロを叩き起こしたのは、この両親だ。

 ――ぼくは両親を愛していたのだろうか。

 確かなことが一つだけある。両親は、オボロを愛してはいなかった。愛していたなら、あんなことはさせなかったはずだ。

「……そういう考え方も、あるでしょうね」

 賛同の言葉を喉元で飲み込み、そう答えるのが精一杯だった。

 前回の面会よりも、蓮は疲弊していた。

ジャージを着て、パイプ椅子にだらしなく座っている姿は同じだ。だが顔つきが心なしかやつれている。目もどこか淀んでいるようだった。勾留までは張りつめていた緊張が、鑑別所に移ってから切れてしまったのかもしれない。自分の置かれた状況を改めて理解し、将来への不安が募る時期でもある。

「ご飯はちゃんと食べられている?」

「……普通」

 そっけないが、一応答えが返ってきたことにオボロは安堵する。

「お母さんと会ってきた。あと、元職場の人たちとも」

 途端に蓮の目尻が吊り上がる。まだ本題に入る前だというのに。

「ムカつく」

「どうしたの」

「どうせ変なこと言ってたんだろ、あいつら。なんだよ」

 あいつら、ということは、職場の同僚たちのことを指しているらしい。想定している内容は不明だが、実際、彼ら彼女らの証言は蓮に有利とは言い難いものだった。

 オボロは亜衣子と面会したその足で、蓮のアルバイト先だったガソリンスタンドを訪問していた。店長には事前に話を通しており、すんなりと事務所へ案内された。

 ――孤立している雰囲気はありましたね。

 そう証言したのは、最初に聞き取りをした三十歳前後の店長だった。

 ――正直、仕事の覚えはよくなかったです。遅刻や欠勤はなかったし、不真面目ではなかったですけど。でも、要領が悪いっていうんですかね。先輩に教えてもらうとか、周りに助けを求めるとか、そういうのが苦手だったようで。うちで働いていたのは、半年ちょっとかな。夏前には辞めました。

 その後、アルバイト数名からも順に話を聞いた。

一歳上の女性スタッフは、怖かった、と形容した。

 ――ぶっちゃけ、何考えてるかわかんないんですよね。気に障ったらすぐキレそう。変にガタイいいから余計怖かったです。なんか、ヤンキーなのか陰キャなのかわかんなかった。ぱっと見はかっこいいけど、暗いしぼそぼそ話すし。いつかヤバいことやりそう、ってうちらも話してて、案の定、みたいな。

 スタッフのリーダー的立場にいる二十歳の男性は、より辛辣だった。

 ――別に驚きはしなかったです。河原のホームレス殴るとか、いかにもあいつがやりそうなことだから。仮に目撃者がいなくても、蓮が捕まってたと思います。だって俺の周りで、他にそんなことやりそうなやついないですよ。どうせあいつがやった。そうなるに決まってるんで。

 他のスタッフも、概ね同じような印象を蓮に抱いていた。怖くて、陰気で、何をするかわからないやつ。

「俺、嫌われてたから。知ってんだよ、全部。ふざけんなよ」

 面会室で殺気を放つ蓮に、オボロは「一つ教えてもらってもいいかな」と言った。刃のような視線を正面から受け止める。

古川(ふるかわ)亮悟(りょうご)さんとは仲がいいのかな」

 その名が出た瞬間、蓮の瞳が左右に泳いだ。開かれた唇が小刻みに痙攣している。

「誰それ」

「中学の同級生だった、亮悟さん。アルバイト先に来たことがあるだろう」

亮悟の存在は、ある同僚のコメントから知った。

 ――一度だけ、斎藤の友達が来たのを見ました。全然タイプが違って。ぬぼっとした感じの、眼鏡かけた地味なやつで。少しだけ話してすぐにどっか行きましたけど。ああ、でも、斎藤も暗かったから、似た者同士と言えばそうかも。

 よく蓮と同じ時間帯にシフトに入っていたという少年が教えてくれた。警察に話さなかったのか確認すると、警察なんか俺らのところに来てないっすよ、という答えだった。

 ――名前も覚えてます。リョウゴって呼んでました。しばらく噂になりましたから。あいつにも友達いたんだ、って。

「学校に問い合わせて、ようやく誰のことかわかったよ」

 蓮と同じ学年で、リョウゴという名の生徒は一人だけだった。住所は未開示だが、事務職員との会話から、蓮の自宅とは駅を挟んで逆側――河川敷にほど近い場所であることはつかんでいた。

「勘違いだろ。そいつ、学校にいたけどほとんど話してない」

「今度、彼にも話を聞かせてもらおうと思う」

 蓮は無言だった。ただ、見開かれた両目は一層鋭さを増している。

 きっと彼なりに葛藤しているのだろう。怒れば怒るほど、逆説的に、その元同級生と関係があることを暗示してしまう。沈黙を選んだのはいいが、どうしても視線には本心が滲み出る。切なくなるほど隠し事が下手だった。

 やはり、この事件には古川亮悟が関係している可能性が高い。そうでなければ、知らないふりをする必要もなかったはずだ。

「警察では、単独犯だと証言したらしいね」

 肯定も否定もせず、蓮は黙ってオボロを睨んでいた。

「本当にあなた一人でやったのか」

 返事はない。

「何か隠しているなら話してほしい。警察に知られるより、自分で話したほうがいい。前にも言った通りぼくはあなたの味方だ。現に今、こうして……」

 オボロの語りは、デスクの脚を蹴る音で遮られた。蓮は口元を歪め、全身から憎悪を放射していた。小細工を弄するのは諦めたらしい。

「亮悟には、何も訊くな」

 放たれる殺気と裏腹に、その声には哀願の響きがあった。

「あんた、俺の味方だって言ったよな?」

 「そうだ」とオボロは即答する。ここで迷いを見せてはいけない。

「味方なら俺の頼み、聞いてくれ。亮悟のところには行くな。頼むから」

 蓮は両の拳を膝の上で固く握りしめている。こちらが強圧的な態度に出れば、すぐにでも拳が飛んできそうだ。オボロの手が、鑑別所の職員から渡されたブザーに伸びかけた。だが(こら)える。怯えていると悟られたくない。

「確かに、ぼくはあなたの味方だと言った。でも、言いなりになるという意味じゃない」

「味方とか言っても、結局口だけなんだろ」

「ぼくはあなたのパートナーだ。斎藤蓮の将来が少しでもいい方向へ向かうなら、なんだってする。たとえあなたが嫌がることでも」

 オボロが話し終えるより先に、拳がデスクの天板を叩いた。どん、と鈍い音が響く。頑丈なデスクはびくともしない。むしろ、殴った蓮のほうが傷ついているようだった。興奮のせいか目の縁が赤い。

「頼むから」

 今にも泣きだしそうな蓮は、喉の奥から声を絞りだしていた。

「放っといてくれ。俺のことも、亮悟のことも」

 オボロの胸に形にならない痛みが走った。これまで出会ってきた子どもたちもそうだった。彼ら彼女らの多くは、大人たちと信頼関係を結んだ経験がない。そういう子どもたちはこう考える。

子どものことは子どもが一番わかっている。だから構わないでくれ。子どもの領土を踏み荒らさないでくれ。

 ――けど、それはできない。

 放置した先に待っている未来が明るいとは思えない。

ならば、大人が取るべき行動は一つだ。

 目的の家は、事件の河川敷から山の手へ数分歩いた場所にあった。広い庭を備えた戸建てが並んでおり、幅の広い道路ではサングラスをかけた女性が毛並みの良い犬を散歩させている。駅の逆側にある下町とは雰囲気が違った。

 古川亮悟の自宅は、南向きの二階建てだった。邸宅の外壁は白く塗りこめられ、ガレージには二台の車が停まっている。

 門に据えられたインターホンを押すと、アプローチの先にある玄関扉が開いた。顔を覗かせた女性が軽く会釈する。

「弁護士のオボロです。今日はよろしくお願いします」

 慇懃に挨拶をしたが、彼女の顔に貼りついた不審は消えなかった。

 出迎えたのは亮悟の母であった。案内されるまま邸内に足を踏み入れる。スリッパに履き替えたオボロは応接間に通された。ソファに座ると、間を置かずにアイスティーの注がれたグラスが差し出される。

「呼んで参りますので、お待ちください」

 母親が階段を上る足音が聞こえる。じきに現れたのは、肌が白く、線の細い少年だった。ポロシャツの胸元には有名ブランドのロゴが入っている。セルフレームの眼鏡が重いせいか、しきりに指先で押し上げていた。

 応接間に入ってすぐ、立ち止まった少年がぎこちない動作で頭を下げた。

「古川亮悟です」

 語尾が震えている。手で触れそうなほどの怯えが伝わってきた。

 亮悟はオボロの向かいに座った。すぐさまその隣に座ろうとした母親を、オボロが「あの」と制止した。

「すみませんが、亮悟さんと二人にしてもらえませんか」

 そう言うと、母親はあからさまに眉をひそめた。ここまで保っていた上品さが、わずかに綻んだ。よほど想定外だったらしい。

「亮悟は未成年です。保護者の同席は認めていただけるかと」

「ええ。ですが、今日は亮悟さんの本音が聞きたいんです。親御さん同席では、お子さんの本音が引き出せないことが多い。古川さんだからということではなく、一般論として。短時間で結構ですから、二人きりにしてもらえませんか」

 母親は腕を組み、口をとがらせた。納得できないらしい。不満を表明すれば、周囲が思い通りになるとでも言わんばかりの態度だった。

「不安はわかりますが、息子さんを信じて……」

「本音かどうか、どうやって判断するんですか」

「……というと?」

「先生が都合のいいように誘導するかもしれないでしょう。それは本音と言えますか」

 吐き出しかけたため息を飲み込む。こんなことに労力を費やしている場合ではない。当の亮悟は、顔一杯に怯えを浮かべて事態を見守っている。

「でしたら、せめて聞くだけにしてもらえませんか。亮悟さんの後ろで」

 それが最大限の譲歩だった。母親はまだ不服そうだったが、胸元で光るバッジの威力か、ぶつくさ言いながらもオボロの指示に従った。隣室から運んできた丸椅子を、亮悟の斜め後ろに置いて腰かける。

「ご協力ありがとうございます」

 礼を言っても、母親は憮然とした面持ちのままだった。

十全とは言えないが、舞台は整った。改めて名刺を差し出す。

「オボロといいます。斎藤蓮さんの付添人を務めています」

 話に入る前に、相手の態度をよく観察してみる。亮悟はオボロの顔と名刺を交互に見ていた。どこに視点を据えるべきか、悩んでいるようだった。肩には力が入り、緊張していると一目でわかる。

右手の小指側が黒くなっていた。それが何を意味するか、オボロにはわかる。

「熱心に勉強しているのかな」

 指摘すると、亮悟は「いや、そんな」と曖昧な返事をした。

 司法試験を受けるにあたっては、オボロもずいぶん勉強した。論文式試験のため、ルーズリーフに何百枚も文章を書いたものだ。熱心に書き物をすると、右利きの人間なら右手の小指側が自然と黒くなる。シャープペンシルや鉛筆の粉が擦れるせいだ。

「大学受験の勉強?」

「……そうですね。三年になったら受験なんで」

「塾とか行ってるの」

「駅前の予備校に」

「週に何回くらい?」

「先生。その質問は、本題と関係あるんですか」

 母親が口を挟んできた。まるで証人尋問に割り込んでくる検察官のようである。聞くだけ、という約束は早くも破られた。雑談から入って雰囲気をほぐしたかったが、母親の監視下ではそれすらままならない。

正面から尋ねるしかない。オボロは居住まいを正した。

「今日はね、蓮さんの生活態度について聞かせてほしいんです」

 緩みかけた亮悟の口元が、引き結ばれる。顔がさらに白くなる。

「蓮さんは中学校の同級生ですよね。仲はよかったですか」

「いや、そんな。面識はありましたけど、友達ではなかったです」

 話しながら、亮悟はしきりに斜め後ろの様子を窺っている。母親の耳を気にしているのは明らかだ。

「中学を卒業してからは会ってなかった?」

「たぶん会ってないと思います」

「蓮さんがどこでアルバイトをしていたか、知っていますか」

「わかりません」

 知らないふりで通すつもりだ。予想はしていた。

「しかし、蓮さんが働いていたガソリンスタンドに、亮悟さんが会いに来たという証言があります。本当は知っていたんですよね?」

 亮悟の唇が紫に染まる。顔色は白を通り越し、青みがかっていた。少年相手に引っかけ質問をするのは気後れがしたが、手段を選ぶ余裕はない。母親の監視下だろうと、亮悟には真実を話してもらわなければならない。

「鑑別所の蓮さんは、あなたのことを知っている様子でした。しかし具体的なことは一切話してくれない。固く口を閉ざしています。もしかしたら、その理由に心当たりがあるんじゃないですか」

 視線で母親を牽制しながら、オボロは前のめりになる。

「もうすぐ、家庭裁判所から判断が下されます。率直に言って、このままでは検察送致される可能性が高い。刑事事件として裁かれるということです。少年刑務所への収容もあり得る。しかし保護観察に留まれば、戻ってくる可能性がある。それを示すには、彼がどんな人間か立証しなければならない。亮悟さん。彼の素行を知っているのは、あなただけなんです。話してくれませんか」

 紫色の唇が震えた。

「……人違いだと思います」

 ――そんなわけないだろう。

あくまで白を切るつもりらしい。背後の母親は、無言でオボロに敵意を伝えている。その気配を彼も感じているのか。この少年はこれまでずっと、母親の意向を察しながら生きてきたのかもしれない。

「蓮さんはあなたのことを、亮悟、と呼んでいました。親しくなければ、そんな風には呼びません。お願いですから話してください」

 亮悟は口を開きかけていた。金魚のように、口を開いては閉じる。オボロは根気強く待った。だが、沈黙は意外な形で破られた。

「もういいでしょう」

 耐えかねた母親が再び介入したのだ。

「本人が知らないと言っているんですから、無意味です」

「お言葉ですが、知らないとは思えません」

「息子が嘘をついているというんですか」

「記憶違いということもあるかもしれない。任せてくれませんか」

 母親は首を横に振る。駄々をこねる幼児のような仕草だった。

「お引き取りください。だいたい、元同級生が暴行したからといって、息子に聞き取りのような真似をするのが不快です。そんな事件、関係ないですから。無用に動揺させないでください」

「不安なのは承知ですが……」

「まだやるというなら、こちらも弁護士を立てます」

 亮悟は開きかけた口を固く閉じている。この場ではもう話さないと決めているようだ。無理にその口をこじ開けようとしても、母親の反発を食らうだけだろう。

「わかりました。今日はお(いとま)します」

 万が一、この場で弁護士を呼ばれれば面倒だ。ただでさえ時間がないのに、余計な対応に時間を割かれたくはない。残された付添人活動の期間は十日ばかり。審判期日は目前に迫っている。

亮悟は応接室のソファに座ったまま、置物のように固まっている。だが、オボロが部屋を出る直前、亮悟が名刺を手に取ってポケットに入れるのが見えた。

玄関で靴を履こうとすると、母親が靴ベラを差し出した。オボロは礼を言って受け取る。

「亮悟さんが何か思い出したら、いつでもいいのでご連絡ください」

「……お話しできることはないので」

 母親は最後まで憤然とした表情を崩さなかったが、それは不安の裏返しであるようにも見えた。彼女にとっては、息子と暴行事件をつなぐ線などあってはならないのだ。

 蓮の母親と、亮悟の母親はある意味で似ていた。一方は子を教育することを諦め、一方は子を意のままに支配したがる。二人とも、子どもと向き合うことを放棄しているという点では同じだった。

 蓮と亮悟が親しい間柄だったとすれば、それは孤独が同調した結果なのかもしれない。

 古びたエレベーターがのろのろと上昇する。いつもなら階段を使うが、今日はいささか疲れた。四人乗りの小さい箱で、オボロは自分の肩を揉む。指先に固い張りを感じた。肩凝りは年々ひどくなる一方だ。

今日は古川家を訪ねた後、鑑別所で蓮と三度目の面会を行った。亮悟との面会を伝えると苛立ちを露わにしたが、何も聞き出せなかったことを打ち明けると、一転して安堵したようだった。

蓮は感情の変化が手に取るようにわかる。しかし亮悟はそれほど素直ではない。青ざめた顔の裏にどんな本心を隠しているのか、オボロにはまだ見当がつかない。

エレベーターの扉が開くと、すぐ目の前に法律事務所のドアが出現する。オボロは数歩進んでドアを開いた。居酒屋が並ぶ裏通りに面した、雑居ビルの三階。そこがオボロの本拠地だった。

「おかえりなさい」

 事務所には、パラリーガルの女性だけが残っていた。他の弁護士は不在である。

「皆、外出中?」

「そのようです。私ももうすぐ帰ります」

 窓の外は黒く塗られ、対面のビルの照明が点々と輝いている。日没からずいぶん時間が経った。オボロはこれから、もう少し仕事を片付けていくつもりだ。

 常備のカップ麺に湯を注いでいると、帰り支度をしているパラリーガルから「皆さん、頑張りすぎですよ」と声を掛けられた。オボロはいつもの微笑で応じる。

「家庭もないし、仕事しかやることないから」

 謙遜ではなくそれが本音だった。両親とは縁を切り、きょうだいも、親類もいない。結婚もしていないし、子もいない。オボロを必要としてくれるのは仕事だけだ。

 かつては違った。母親が、父親が、自分を求めた。

 ――上手じゃないか。

 ――次もうまくやってくれよ。

 母親の声が蘇るたび、頭が痛む。それでも昔に比べればましになった。かつては思い出すたび猛烈な頭痛に襲われ、何も考えられないほどだった。目を閉じ、記憶を遠ざけることに集中する。そうすると、じきに痛みが引いていく。

 気づけば、事務所で独りになっていた。湯を注いだまま放置していたカップ麺をすすりこむ。水分を含んで膨張した麺は、味がしなかった。

 残務を片付けていたオボロのスマートフォンが鳴ったのは、午後八時過ぎであった。登録されていない番号だが、迷わず出る。仕事柄いつ誰から、重要な電話がかかってきてもおかしくない。

「オボロです」

 相手はしばらく沈黙を守っていた。たまにかかってくるイタズラ電話の類と判断し、通話を切ろうとした間際、何事かをつぶやいたのが聞こえた。

「何か、言いましたか」

「……古川です」

 かろうじて聞き取れた。か細い声は、応接間で聞いた少年の声と同じだ。オボロは聴力に神経を集中する。

「亮悟さんか? 名刺の番号にかけてくれたんだね」

「もう……駄目です……助けてください」

 電話の向こうの声がすすり泣く。嗚咽が、風の吹く音にかき消される。どうやら屋外にいるらしい。

「落ち着いて。どうしたの。今、どこにいる?」

「駄目なんです……蓮はやってないんです」

 オボロは耳を疑った。蓮はやってない。

 携帯を耳にあてたまま、思わず立ち上がった。全身の血液が激しく巡っている。

「なんて言った? 詳しく教えて」

「これから、死にます」

 冷水を浴びせられたように、体温が急速に下がる。このままでは通話を切られる。そして、亮悟は秘密を抱えたまま死ぬことになる。

「待て! 待ってくれ」

「ごめんなさい……本当にごめんなさい」

「蓮に言えよ!」

 とっさに叫んでいた。打算も裏もない、心からの叫びだった。

すすり泣きはまだ聞こえている。通話は続いているのだ。オボロは沈黙を埋めるように言葉をつないだ。

「誰が本当の犯人か、知っているんだよな? だったら謝罪する相手はぼくじゃない。斎藤蓮だ。彼に謝るまでは死なないでくれ」

 亮悟は助けを求めて、オボロに手を伸ばした。そうでなければ誰にも伝えずに死ぬことを選んでいたかもしれない。この電話は、亮悟とこの世をつなぐ最後の糸だ。オボロは唾を飛ばして語りかけた。

「悪いと思うなら、まずはその相手に謝って、償う。すべてはそこからだ。もちろんつらいと思う。でも、あなたを支える人はいる。味方がいる」

 亮悟につながる糸を懸命にたぐりよせる。切れるな、と祈りながら。

「そんな人、いません」

「ここにいる。信じてくれ。ぼくにはあなたの気持ちがわかる」

「わからないです。もう駄目なんです」

「…‥聞いてくれ」

 オボロはほんの一瞬、息を止めた。

「ぼくは十四歳で逮捕された」

気づいたらそう口にしていた。

オボロは姿の見えない少年へ、一心不乱に語りかけた。

 七歳より前の記憶は残っていない。

 後になって知ったことだが、父はオボロが生まれてすぐに窃盗で逮捕されていた。それが初犯で、執行猶予の期間中は大人しく過ごしていたらしい。その間、母は生家にオボロを預け、育児にはほとんど関わらなかったという。幼児期、実質的に育ててくれたのは祖父母であった。

 オボロが七歳になってすぐ、両親が揃って迎えに来た。居間で祖父母と四人、話し合っている姿を覗き見たのが最も古い記憶である。

 ――これからはちゃんと育てるから。

 母は祖父母の手を取り、目に涙を浮かべて懇願していた。父は後悔を滲ませるように、苦渋に満ちた表情でうつむいている。祖父母は困ったように顔を見合わせているが、その時点ですでに結論は決しているようなものだった。

 話し合いの翌月から、オボロは両親と三人で暮らしはじめた。

父母が思い出したように息子を引き取った理由は、定かでない。だがオボロ自身は、最初から犯罪の手先として利用することが目的だったと確信している。手がかからない年齢になるのを待っていたのだ。あの涙も悔恨の表情も、芝居に違いない。

 平屋のアパートは一年を通して湿気ていて、部屋の体温が肌にまとわりついていた。転校先の小学校ではなじめず、友達と呼べる存在はいない。家に帰っても両親はたいてい不在で、最初から合鍵を持たされた。

 家庭の主導権を握っているのは母だった。母はおよそ家事育児に興味が持てない人間で、料理や掃除をする姿を見た覚えはなかった。そのせいで、家のなかはカビと埃にまみれていた。洗濯だけはかろうじてやったが、それとて、じきにオボロの役目になった。しょっちゅう家を空けては、得体の知れない会合に出ているようだった。

父は気が弱く、家でも影が薄かった。パチンコを打つことだけが生きがいのような男で、初犯の窃盗も、消費者金融の借金返済が原因だった。たまに悪酔いをした時だけは妙に気が大きくなり、母と怒鳴り合った。その後は必ずと言っていいほど、腹いせにオボロが殴られた。

 たまに買い与えられるパンやおにぎり、そして学校の給食を頼りに、ひもじい思いをしながらも生き延びた。貧しいのは辛い。

それでも実の両親との生活は嬉しかった。父や母と暮らせるから、我慢できた。

 三か月ほど経った夏、初めての仕事に連れていかれた。

 蒸し暑い夜。珍しく両親が揃っていた。浮足立った気分で眠る準備をしていたオボロは、母から起きているよう命じられた。

 ――あと少ししたら、出かけるから。

 家族で、それも夜に外出することにオボロは興奮した。

外に出ると、どこからか借りてきたワンボックスカーが停まっていた。父がハンドルを握り、母とオボロが後部座席に腰かけた。少年の胸は期待ではちきれそうだった。

――ちょっと、あんたに仕事を手伝ってほしい。

道すがら、母が前方を見たまま言った。

ワンボックスが停まったのは、何の変哲もない住宅街の一角だった。

――この先に青い屋根の、三階建ての家がある。玄関から裏庭に回って、窓の鍵が開いているか確かめてくるんだ。大丈夫、今夜は誰もいないはずだから。おかしいと思ったらすぐに戻ってこい。わかったか?

母の指示に、オボロは目を白黒させた。それではまるで……

――泥棒みたい。

――いいから。行かないと捨てるよ。

捨てる、という脅しは母の口癖だった。父は他人事のように運転席でじっとしている。この状況で反抗できる少年が、この世に何人いるだろう。

静かに車を降りたオボロは、足音を潜めて目当ての家に侵入した。照明は消えているが、油断はできない。心臓の高鳴りを聞きながら、裏庭に面した窓を一つずつ確認する。高い位置にある小窓が動いた瞬間、声が漏れそうになった。

――一つ、開いてた。

車に戻って報告すると、入れ替わりに、今度は父が出て行った。母と二人きり、無言で待つ。十分ほどで戻ってきた父はショルダーバッグを膨らませ、上気した顔をバックミラーに映した。

――うまくいった。

父が車を発進させて自宅へと向かう。何が起こったのか、オボロはうっすらと理解していた。自分は人に言えないことをした。だが口には出せない。出してはいけない。その時、母の手がオボロの頭を撫でた。

――上手じゃないか。

振り向くと、母は暗い車内ではっきりと笑った。

――次もうまくやってくれよ。

それから七年間、オボロは両親の仕事を手伝い続けた。拒む権利はない。捨てられないため、オボロは必死で指示をこなした。

最初は施錠の確認だけだったが、次第に室内への侵入、金品の捜索を要求されるようになった。小学校を卒業する頃、父は単なる送迎役となり、オボロが実行役の大半を担うようになった。下調べと標的選びは母の役目だ。各々の役割が明確になったことで、仕事はより滑らかに回った。

 見つかってくれ、と思いながら、オボロは顔も知らない住民の持ち物を盗み続けた。皮肉なことに、回を重ねるごとに手際はよくなっていった。

 十四歳のあの日。いつものようにキャッシュカードや通帳を盗み出し、両親が待つワンボックスカーへ戻っている最中だった。

車の周囲にやたらと人がいる。出発する時にはいなかったセダンが、前後を挟むように二台停まっていた。辺りを見渡している男たちの一人と目が合った。

反射的に、オボロは踵を返して駆けだした。だが無駄だった。

すぐに男たちが追い付き、前方に回り込んだ。

――太一くんだね。

男は息も切らさずに問う。

――ご両親はもう、警察車両に乗っている。きみも来てほしい。

私服警察官のひと言にオボロは観念した。父と母がいないなら、逃げても意味がない。これは両親のためにやったことなのだから。

持ち物が盗品だと特定されるまでもなく、オボロは罪を認めた。

これも後になってわかったことだが、母は当初、否認していたらしい。自分たちは子どもを夜遊びに連れて行っただけで、盗みを働いているなんて思いもしなかった、という言い分だった。そんな陳腐な言い訳が通るはずもなく、家宅捜索でいくつもの盗品が発見されたことで嘘は見破られた。

オボロに下った審判は少年院送致。それから二年弱を少年院で過ごした。

 その間に、両親の顔は次第に記憶から薄れ、今では思い出すこともできない。

 *

 面会室に現れた蓮は、さらに憔悴していた。

 鑑別所での待遇は留置場よりましであることが多い。時間によってはテレビ視聴が許可され、菓子類の購入もできる。そのため勾留中より生き生きとする少年もいるが、蓮の場合は逆だった。緊張の糸が切れたせいで、底なしの不安へと落ちてしまったのではないか。オボロはそう予想していた。

「蓮さん。よく聞いてほしい」

 呼びかけにも反応しない。蓮はだらしない格好でパイプ椅子に腰かけ、天井の辺りをぼんやり見ていた。

「あなたの観護措置……要するに鑑別所にいる期間は、四週間の予定だった。けれど、これは伸びる可能性が高い。これから裁判官との打合せがある。正式にはそこで決まるけれど、たぶん延長することになる」

 特別更新と呼ばれる制度である。いったんは裁判官から却下された進行協議も、改めて行うことになった。

 怒るかと思ったが、蓮はゆっくりと顔を向けただけだった。

「なんで?」

 当然の疑問だ。オボロは下腹に力をこめる。

「昨日、古川亮悟さんが自首した。ぼくが付き添った」

 見る間に蓮の表情が変わった。額に血管が浮き上がる。

「暴行事件の真犯人は自分で、斎藤蓮さんは証拠隠滅に関わっただけ、無実だと証言した。証拠もある。金槌の指紋を拭い取ったハンカチは、彼が所持していた。亮悟さんのハンカチだったんだな」

 言い終わるより先に、蓮が飛びかかっていた。デスクから身を乗り出してオボロの胸倉をつかむ。その拍子に、軽い鞭打ちのようになった。オボロは痛みに顔をしかめる。それでもブザーには手を伸ばさなかった。

「あいつに言わせただろ!」

「彼自身の意思だ」

 電話をかけてきたあの夜、亮悟は事件現場の河川敷にいた。川への飛び込みを考えていたらしい。間一髪だった。

 オボロは財布に入れている新聞記事の切り抜きを、亮悟に見せた。スマートフォンのライトに照らされた記事を、彼は食い入るように見つめていた。

日付は二十年以上前。見出しはこうである。

〈一家三人で連続空き巣 実行役は十四歳少年〉

――この少年がぼくだ。

 亮悟が顔を上げた。泣き腫らした目は真っ赤に充血している。小さなライトの光でも、その顔の青さは明白だった。オボロは頬を上げ、目を細めて、笑みをつくった。

 ――それでもまだ、生きている。

 震える指で、亮悟は切り抜きを返した。浅い呼吸の音が夜の河川敷に響く。

 ――俺がやったんです。蓮は、手伝ってくれた。それだけです。

 再び泣きはじめた亮悟の肩にオボロは手を置いた。嗚咽のたび、手のひらに震えが伝わってくる。そこには安堵と恐怖が入り混じっていた。

――あなたは立ち直れるから。前歴のあるぼくが保証する。

 その夜は自宅へ返し、オボロの立ち合いのもと亮悟の口から両親に経緯を説明した。腹を決めたのか、語り口は別人のように落ち着いていた。

 ……蓮と話すようになったのは、中学二年の時だった。

俺の友達、見たことある? 誰か一人でも、顔知ってる? 知らないよね。連れてきたことなんかないもんね。学校や塾に知り合いはいるよ。でも、友達は蓮だけだ。

俺も蓮も、友達を作るのが苦手だった。教室でも浮いてた。

 何がきっかけってわけでもないけど、班分けとか、余り者同士で組まされることが何回か続いたんだよ、確か。俺も蓮も、とりあえず一人で黙ってると気まずいから、気を紛らわせる相手が欲しかった。だから、同じ趣味があったとか、そういうことじゃないと思う。趣味とか全然違ったし。

でも、波長は合ったっていうか。一緒にいると楽だった。

 教室でちょこちょこ話して、外でも遊ぶようになった。別に変なことしてないよ。映画見たりとか、ファミレス行ったりとか。

 でも、蓮の家さ、あんまりお金ないから全然小遣いなくて。俺はまぁ、結構もらってるでしょ? でも別に使うあてもないから。だから服とかアクセサリーとか、代わりに買ってた。散髪代出したこともあったな。

最初は遠慮してたよ。でも、拒否はしなかった。俺がお金使うと、ありがとう、って言ってくれるのが嬉しかったから、どんどん使ったよ。別にいいでしょ? 俺の小遣いなんだから、俺の好きなように使ったって。友達のために金を払うのがそんなに駄目?

……まぁいいや。

 高校上がってからも、頻度は減ったけどつながってはいたよ。かったるいからって、あいつが一年の二学期に中退したって聞いた時、羨ましかったなぁ。

うちの高校、授業の進度速いだろう。宿題もやたら多いし。塾も週六日あるし。正直やってられないよね。ストレスなんてもんじゃないよ。大学落ちたらどうしようって、そればっかり。夢にも出てくる。俺も高校辞めたかったよ。あ、捕まったらどうせ退学かな。これで高校辞められるわ。

 ……知らなかったってさ、そりゃそうだよ。高校辞めさせてくれって言ったら、辞めさせてくれたの? そんなわけないよね。皆つらいんだ、皆頑張ってるんだ、って言うんでしょ、どうせ。いつもそうだもんね。

だから、俺も俺なりのストレス解消法を探したの。

昔から、あの河川敷にホームレスいるでしょう。何人か。定期的に立ち退きやってるけど、またどこからか集まってくる。毎日塾の行き帰りにあのホームレス見ててさ、なんか、無性にムカついてきたんだよね。

だって、こんなに努力している俺が不幸せで、努力していない人が自由に生きているなんておかしいよ。河原に住んでいる人は頑張らないから、ああなったんでしょう。だったら、その分の報いを受けても仕方ないよね。

 最初は河川敷に並ぶ小屋に、石を投げてみた。そしたら悲鳴とか、怒鳴り声が聞こえてくるの。全力ダッシュで逃げてると、めちゃくちゃ爽快感がこみ上げてくる。病みつきになったね。動物には絶対に石なんか投げないけど、なぜだか、ホームレスが相手だとできちゃうんだよね。

石だとつまらないから、花火や爆竹を投げたこともある。でもやっぱり、刺激は刺激でしか上塗りできないっていうか。

放火しようかなとも思った。いや、やってないよ。でも計画はした。蓮が働いてるガソリンスタンドに灯油を買いに行ったけど、ポリタンクを持参しないと買えないんだね。それ知らなくて、買えなかった。帰りながら、放火は延焼で大事になりかねないからやばいなと思って、やめた。この程度のことで、人生棒に振りたくないし。

 半年以上、そんなことやってたかな。ばれない自信はあったんだけど。

 でも先月、初めて家主に捕まった。花火を投げ入れた後に振り返ると、ボロを着た汚いおっさんが立ってたんだよね。初めてあんな悲鳴あげたな。

 ――この辺で騒ぎ起こしとったのは、お前か。来い。

 垢まみれの顔で言われるから怖かった。素直に従ったよ。ベニヤ板や角材で建てられた小屋で、思いのほか広かった。押し入れみたいな空間に工具が散らばってて、自分で家の改修をしている最中だったみたい。笑っちゃうよね。日曜大工じゃないんだから。

床に正座して、しょうがないから質問されるまま名前とか家の電話番号とか答えた。携帯の番号は言わなかったよ。ぶっちゃけ、怖かった。

 ――警察に連絡してやるよ。話はそれからだ。

 おっさんに言われて、やばい、と思った。通報、補導、停学。目の前が真っ暗になった。これまで自分を殺して努力してきたのに、この一瞬で人生を台無しにされる。こんな、努力とは無縁の人間のせいで。

 おっさんが携帯を操作するためにうつむいた瞬間、工具のなかから金槌をつかみとって、つむじのあたりめがけて振り下ろした。夢中だった。うめきながら、おっさんはうつぶせで倒れた。怖かったからもう一、二回、その後頭部を殴りつけた。気絶じゃ足りない。もう素性は言っちゃった。意識を取り戻せば、こいつは絶対に通報する。

 気がついたら、泣いてた。おっさんは動かなくなったのにまだ怖かった。泣きながら蓮に電話をかけてた。

 ――助けて。今すぐ河川敷に来て。

 蓮はすぐに駆けつけてくれた。でも、蓮も動かないおっさんを見て言葉を失っていた。

 ――どうすればいい? 

他に頼れる相手はいない。蓮より深い友達はいないし、あんたらはもってのほかだ。

 ――友達だろ。今までいっぱい、奢ったよな。助けてくれよ。

 一瞬、蓮が冷たい視線を向けた。見捨てられるかもしれないと思ったけど、蓮はすぐに落ち着きを取り戻してくれた。

 ――とりあえず、証拠消せ。金槌の指紋拭いとけ。

 指示通り、金槌の柄についた指紋を拭こうとしたけど手が震えた。蓮がじれったそうに横からハンカチを奪って、手早く柄を拭ってくれた。凶器から蓮の指紋が検出されたんだとしたら、たぶんその時だと思う。

 ――とにかく大人しくしてろ。人目につかないように帰れ。

 ――ねえ。俺がやったって、誰にも言わないでよ。絶対に言わないでよ。

 ――わかった。約束は守る。

 早く暗い場所に行きたかった。光が怖くて、街灯を避けて家に帰った。その夜は一睡もできなかった。

 何日かして、ニュースで蓮が逮捕されたって聞いた。河川敷へ来る途中、誰かに顔を見られていたって。現場に向かっていただけで、蓮は犯人だと決めつけられたんだよ。もっと驚いたのは、蓮が犯行を認めていることだった。

 俺が、誰にも言わないでくれと頼んだせいだ。

でも自分が捕まった時まで黙秘すると思わなかった。

それからほとんど眠れなくなった。夢でも、蓮が俺を責める。どうしてお前のせいで俺が? 鑑別所にいるべきはお前だろ? そうだよ。その通りだ。あいつは何にも悪くない。俺の巻き添えを食らって、誤解で捕まっただけだ。

 すぐに自首すべきだって思ったよ。あいつしか友達いないんだから。その友達に罪着せて、嬉しいはずないだろ。

 ……でも怖かった。黙っていたら、もしかしたら元通りの生活を送れるかもしれない。蓮が俺の代わりに罪をかぶってくれれば、俺は普通に高校に通って、大学に通って、就職できるかもしれない。そう思うと踏ん切りがつかなかった。

 そうだよ。怖かった。怖かっただけなんだよ……。

 オボロの胸倉をつかんでいた蓮の手が、するりと離れる。そのまま蓮はデスクに突っ伏した。乱れたシャツを直そうともせず、オボロは「蓮さん」と呼ぶ。

「よく律儀に約束を守ったね。普通、黙っててくれと頼まれても、さすがに自分が逮捕されたら言ってしまいそうなものだけれど」

 亮悟の話を聞いて以後、そこが気になっていた。蓮は弱みでも握られていたのか。あるいは、大金でもつかまされたのか。

「……したかった」

 突っ伏したまま、蓮がぼそぼそと何事かを言った。

「え?」

「証明したかった。俺と亮悟が、金だけでつながった関係じゃないって」

 かろうじて聞き取れた言葉は、オボロの視界にかかった靄を晴らした。

蓮が約束を守った理由は、脅迫でも買収でもない。友情の証明。

蓮は感情が表に出やすい。彼が考えていることなど、手に取るようにわかると思っていた。それに、付添人として子どもの考えていることならだいたい理解できると思っていた。甘いのはオボロのほうだった。

――悪かった。

 胸のうちで、勝手な思い込みについて謝罪する。

「あと」

 蓮は上体を起こした。

「最初から皆、決めつけてただろ。どうせあいつがやった、って」

 オボロの脳裏を、いくつかの顔がよぎる。ガソリンスタンドのスタッフたち。元同級生。蓮を取り巻く人々は、彼が逮捕されたことに何ら違和感を抱いていなかった。それどころか、罪を犯すのが当然であるかのような話しぶりだった。

 蓮が罪を認めたのは、友情のためだけではない。

 どうせあいつがやった。その一言が、少年を鑑別所に追いやった。

 オボロは咳払いをして、背筋を伸ばした。

「今日はご家族も面会に来ている」

 蓮の家族と言えば、一人しかいない。少年の顔つきが強張っていく。

「……今さら?」

「すべて話せるね」

 返事はない。だが、今の蓮なら可能なはずだ。待合室では斎藤亜衣子が待っている。

オボロは職員に面会終了を伝えるため、席を立った。その横顔に受ける視線は、以前より柔らかく感じられた。

(了)

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