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第10回

#10 マシュー・マコノヒー

 世の中には、どうしても覚えられないものがある。
 たとえば人の顔。
 何度も会っているのに、別れてしばらく時間が経つと不思議と忘れてしまう。
 ともに仕事をする編集者の方のなかにも、覚えることができない顔の持ち主がいる。その人の声や雰囲気はすぐに思い出せるのに、なぜか顔だけがぼんやり不明瞭にしか脳裏に浮かんでこない。
 相手には申し訳ない限りであるが、思うに、そこには私が把握しづらい顔の造作の特徴が潜んでいるのだろう。
 聞いた話である。
 人間が他人の顔を認識するとき、脳の側頭葉にある、「〇」や「△」や「□」といった単純な図形を把握する部位が活躍するのだという。それら単純な図形たちの組み合わせによって、脳は人の顔の差異を感じ取り、「この人は〇〇さん」という情報を呼び出してくる。ゆえに、その部位を事故などで損傷してしまうと、人の顔を判別できなくなってしまうそうだ。
 この説明から派生する、男性が自分の母親に似た系統の顔の持ち主を恋人に選びがち、という話も、幼い頃から脳で繰り返されてきた、母親と紐づけられた「心地よい図形の組み合わせ」の記憶が影響するため、という理屈には何だか説得力がある。では、反対にどうにも覚えにくい顔があった場合は、いかなる理屈がひねり出せるのか。
 決して、相手の顔立ちが嫌いなわけではない。むしろテレビで見かける有名人などでも、苦手と感じる顔立ちのほうが、記憶として引っかかる部分が多く、鮮明に思い返すことができる。
 ならば、これまで視覚経験が少ない「〇」「△」「□」の組み合わせを持つ顔立ちだからか。確かに、どうにも覚えられない人の顔を思い出そうとしてみる。輪郭は浮かぶも、細部への追究ができず、まるでのっぺらぼうのようにその顔に立体感が備わらない――、そんなあやふやな感覚に毎度、遮られてしまう。
 そこで、マシュー・マコノヒー。
 ご存じであろうか、マシュー・マコノヒー。外国の人気俳優の名前である。
 私の脳みそにストックされた「いつになっても顔を覚えられない人間リスト」の最上位に記載されている人物の名前でもある。
 これまで何度もその名を目にしてきた。同時に、彼の顔が映し出されたテレビ画面、インターネット画像、映画館の看板やポスターなどを何年にもわたり、目撃してきた。それどころか、彼の出演作だって鑑賞しているはずである。
 それなのに覚えられない。
 どうしたって、私はマシュー・マコノヒーの顔が覚えられないのだ。
 こうしてその名を書いても、もやっと男性の顔が浮かんでくるだけで、そのうちマシュー・マコノヒーの名前自体が空中分解を開始し、本当にこんな名前の人物がいるだろうか? 私の脳みそが勝手に作り上げた名前ではないのか? と心配になってくる。
「マシュー・マコノヒー」
「マシュー・マコノヒー」
「マシュー・マコノヒー」
 三度、つぶやいてみる。
 やはり、何も浮かんでこない。代わりにカシューナッツを前歯で噛み砕く際の、中途半端な固さが蘇ってきた。「マシュー」と「カシュー」、似た響きに引っ張られたのだ。超安易な連想である。
 もっとも、マシュー・マコノヒーに関する、最低限の情報は把握している。
 マシュー・マコノヒーは男性だ。
 人種は白人だ。
 売れっ子のハリウッド作品に出演する俳優であるが、年はそれほど若くない。
 活躍の傾向として、たとえば、シュワルツェネッガーの『コマンドー』のような、主演の存在がすべてという作品には出ない。ジム・キャリーの『マスク』のような、休みなき顔芸炸裂作品にも出ない。トム・クルーズの『ミッション:インポッシブル』シリーズのような、中年が走りまくる作品にも出ない。
 ひょっとしたら、マシュー・マコノヒーは彼なのでは? ぼんやりとではあるが、候補に挙がる顔はあるにはある。しかし、それは「ショーン・ペン」なのかもしれない。もしくは、「ジュード・ロウ」なのかもしれない。
 そう、この二人も、私の「顔を覚えられない人間リスト」上位に位置する。少しでも油断すると、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の目のまわりを大げさに隈取りした男が、スッと近づいてくる。いや、君は「ジョニー・デップ」。海賊姿でジャック・スパロウを演じているときはわかるが、スーツを着るとはなはだあやしくなる。
 ショーン・ペンに関しては、もう少しで覚えられそうなタイミングがあった気がする。しかし、そんなとき、「ショーン・ペシ」という文字列を見かけた。あれで私はすっかり混乱してしまった。ペン? ペシ? 二人は別人? 単なる誤字? それとも「ルーズベルト」を「ローズヴェルト」と表記し、「ユマ・サーマン」を「ウマ・サーマン」に変身させる、あの気まぐれな「より正確な発音」に寄せた表記のゆれ?
 ひょっとしたら、一瞬の見間違いだった可能性もある。でも、あの日から、私はショーン・ペンが認識できなくなった。ジュード・ロウは「何だよその柔道そのものな名前は」と思ったときからダメだった。
 どうもファーストネームにサ行が入っている外国人俳優の顔が覚えられないという傾向が見受けられる。そう言えば、一時期、ジョン・マルコヴィッチという名前をやたら見かけた。これもファーストネームにサ行入りだ。例に漏れず、顔を覚えられなかった。すると、『マルコヴィッチの穴』という作品が1999年に公開された。その作品ポスターはスキンヘッドのジョン・マルコヴィッチの顔写真が何十個も並ぶという非常にユニークなもので、嫌でも彼の顔を認識することになった。
 映画館まで見に行った記憶もある。それなのに現在、ジョン・マルコヴィッチの顔をまるで思い出せない。スキンヘッドの輪郭は思い浮かぶが、彼の顔の造作は霧のはるか向こう。同じスキンヘッドでも、イタリア・セリエAの名物レフェリーだったコッリーナさんの顔は容易に思い浮かぶというのに――。
 側頭葉における「〇」「△」「□」の組み合わせの不備ゆえか、それとも別の理由か、「覚えられない顔の森」には今も多くの人たちがさまよっている。
 その最奥部。もっとも覚えにくい相手が潜むエリアに、マシュー・マコノヒーその人がいる。
 

 
 ここで、マシュー・マコノヒーの来歴をたどってみよう。
 そのキャリアのスタートは九歳の頃まで遡る。
 スクリーンデビューは『グーニーズ』(85)。血沸き肉躍る冒険の旅に出かける主役の少年少女たちのひとり――ではなく、ラストの水平線の彼方へと消えていく海賊船を、町の人々とともにセリフもなく見つめる「子どもA」の役だった。
 お次は『ビバリーヒルズ・コップ2』(87)。エディ・マーフィー扮するアクセル・フォーリー刑事が銃撃され、一時入院するシーンで、病院の通路で彼とすれ違う入院中の「子どもB」を演じた。この作品ではじめてハリウッドのスタジオでの撮影を体験したマシュー・マコノヒーは、犯罪組織の黒幕役を演じた、当時シルベスター・スタローンの奥さんだったブリジット・ニールセンについて、
「あんな背が高くてカッコいい女性をはじめて見た」
 とのちのインタビューで語っている。
 たとえ、それが見ている人の印象に残らない、ただの通行人の役であったとしても、大ヒット作に出演していることに、彼の将来のスター性を感じ取ることができるかもしれない。
 十四歳のとき、誰もが知る、さらなるメガヒット映画への出演が叶う。『ホーム・アローン』(90)だ。マコーレー・カルキン演じるケビン少年を家に置き忘れたまま、大家族はパリへと出発してしまうのだが、その五人きょうだいのひとりがマシュー・マコノヒーだった。しかし、主役のケビン以外のきょうだいの顔を覚えている人など皆無であろう。
 雌伏のときはまだしばらく続く。
 ちなみに現在、マコーレー・カルキンは改名し、マコーレー・マコーレー・カルキン・カルキンが正式なものになっている。コメントは控えたい。
 母親が音楽教師だった影響もあり、マシュー・マコノヒーは歌が得意だった。特に合唱が好きで、小学校、中学校と地域の合唱団に所属していたくらいである。それが功を奏したのだろう。少しずつ、人々の記憶に引っかかる役をもらうようになる。
 高校生になり、『天使にラブソングを2』(93)に出演。一作目に続き、ウーピー・ゴールドバーグが聖歌隊を指導するストーリーだが、その高校生メンバーのひとりとしてラストの合唱大会のシーン、マシュー・マコノヒーは伸びのある高音をソロで披露している。
 その後、ふたたび画面には映るが名前のない役が続くようになる。『スピード』(94)では爆弾の仕掛けられたバスに閉じこめられた「若者A」として、『タイタニック』(97)では船内の「若者B」として、キアヌ・リーブス、レオナルド・ディカプリオら大スターの演技を間近で観察し、勉強する機会を得た。
 そんなマシュー・マコノヒーに転機が訪れる。
 そのきっかけは何と日本だった。
 99年公開の『リング2』で、新潟で療養する若き貞子と一時の恋に落ちるロシア船員役を演じた彼は、その自叙伝『マコノヒーの真実』にてこう語っている。
「私はロシア人ではないが、ロシア人としてロシア語を話す役を演じ、日本人と恋に落ちた。そのとき、フィクションの真髄を学んだ。肝心なのは何を演じるかではなく、何を伝えるかだ。そして、貞子は最高に恐ろしくも美しいキャラクターだった」
 極東でのホラー映画出演の経験が起爆剤となったのだろうか。
 二年後、マシュー・マコノヒーは、それまで足踏みしていた「パッとしない大勢の一員」のポジションから、大きくジャンプアップを果たし、「パッとした大勢の一員」への昇格を実現する。すなわち、オールスターキャストで固めた『オーシャンズ11』(01)の盗賊団11人のなかに大抜擢された。
 その後の彼の活躍はみなさんもご存じのとおり。
 『マトリックス』シリーズの二作目『マトリックス リローテッド』(03)と三作目『マトリックス レボリューションズ』(03)で主人公であるネオと死闘の限りを繰り返す、プログラム側が作り出した最強人格リキュウとして憎たらしいまでの悪役ぶりを発揮する。『スピード』出演から九年、バスの後方に座る一乗客が、あのときの主役キアヌ・リーブスと真正面から対峙するに至ったのだ。
 2006年、ついに『X-MEN:ファイナル ディシジョン』にてマシュー・マコノヒーは主役の座を勝ち取る。正義と悪の感情が心に交差する、複雑なるXエックスメンタルのヒーローとしての「エックスメン」役を見事に演じ切り、完全にスターへの仲間入りを果たした。
 三十歳を超えてからのマシュー・マコノヒーは大作系作品ではなく、インディペンデント系の映画にも繁く出演するようになる。急に痩せたり、太ったり、作品に合わせて都度、外見を大幅に変身させることから、カメレオン俳優としても名を馳せるようになる。
 四十歳になり、渋さも兼ね備え始めたマシュー・マコノヒー。都会の街角でコートを深々と羽織り、手はポケットに。うつむき加減で、いかにも繊細そうな表情で何かを考えている、そんな思慮深げな雰囲気が漂う作品が似合う男になってきた。演技の幅もぐっと広がり、それまで映画一本だった俳優としての方針を変更し、テレビドラマにも出演するようになる。
 結果はすぐさまついてきた。メソポタミアの遺跡ウルを発掘したイギリス人考古学者レオナード・ウーリーの功績を描いた大作ドラマ『ジッグラト』で、主役のウーリーを演じたことで、ゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞、作品賞の栄誉にも輝く。
 現在、五十歳を前にしてマシュー・マコノヒーは、趣味がドライフルーツ作りという甘党の刑事の活躍を描いた社会派サスペンスドラマ『Mango』に出演中だ。もちろん、主役。今年、配信されたシーズン2では、ノースカロライナ州の湿地帯に住む人々の因習が生んだ悲劇の事件を見事に描き上げた。アメリカ国内での評価も非常に高く、真田広之の『SHOGUN』とエミー賞、ゴールデングローブ賞などの賞レースにおいて、激しい鍔迫り合いを繰り広げたことは今も記憶に新しい。
 これが私が知る、俳優マシュー・マコノヒーの歴史である。
 
   *
 
 なんちゃって。
 とうにお気づきのこととは思うが、オール偽史である。
 すべて嘘っぱち、映画の中身の設定も無茶苦茶である。ただ、マコーレー・カルキンの名前が現在、マコーレー・マコーレー・カルキン・カルキンになっているというくだりだけは本当だ。
 何せ、あまりにマシュー・マコノヒーへの手がかりがない。
 ならば、さまざまな作品にマシュー・マコノヒーを出演させてしまえと、私と同い年という設定で、デビューからごっそりキャリアを捏造するという暴挙に出てしまった(実際のところ、マシュー・マコノヒーは私よりだいぶ年上の俳優だろう)。
 予想外だったのは、これまで私が漠然と抱いていた彼への渋いイメージとはまったく違う方向にキャリアが伸長していったことだ。
 まさに創作の妙かな――。
 なんてことを悠長に言っている間に、さっさと調べればいいじゃないか。スマホに「マシュー・マコノヒー」と打ちこめば、一秒で顔写真から経歴まで詳らかになるではないか、と思われる方もおられるかもしれない。
 正論だ。
 だが、どっこい調べない。
 これからも街角で出会い頭にぶつかるが如く、マシュー・マコノヒーの名前にうっかり出くわすまで、私はこのまま想像の鯨を泳がせ続ける。
 なぜならば、これが私なりのマシュー・マコノヒーとの付き合い方、彼への愛情の注ぎ方だからだ。間違いなく、彼にとっては迷惑千万な向かわれ方だろうけど。

追記:担当編集者から校正時、「ジョー・ペシ」という俳優が実在することを告げられ、まるでフィクションの中に取りこまれてしまったような気分に陥った私である。

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