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第11回

#11 右肩上がりのララバイ

 最近、右肩上がりという言葉が気になる。
 いったい、どういうルーツがあるのだろうと調べてみたところ、諸説あるなかで、中国の故事に由来するという説明がもっともしっくり来た。
 それは以下のようなものである。
 春秋時代、斉の桓公が配下の兵卒を巡閲したとき、右肩だけが異様に上がっている男を見て、どうしてそんな様子なのか訊ねた。
「我が君のお役に立つために日夜、武芸の訓練に励み、腕を磨いているのです。すると、肉がついて右の肩がこんなふうに盛り上がってしまったのです」
 と男は答えた。
 その後、隣国と戦争が起こり、桓公の目の前でこの右肩が盛り上がった男が戦功を挙げた。喜んだ桓公は「この右肩上がりの男に倣うように」と左右の者に告げ、大いに褒美を与えた。その後も男は戦場で活躍を続け、一兵卒から将軍になるまでの大出世を果たしたことから、上昇傾向にある事象を男の外見に重ねて、「右肩上がり」と呼ぶようになった――。
 というのは、まったくの嘘八百である。そんな故事はない。
 だが、興味を持って調べたのは本当で、そこで知ったのは「右肩上がり」とは、故事成語とは何の関係もない、見たままの言葉だったということだ。
 つまり、右上に向かって上昇する線のイメージから「右肩上がり」と言っているだけなのである。
 特に何のひねりもない、素直すぎる表現に、少々肩透かしを食った気分になりながら、ふと疑問を抱いた。
「何で右なのか?」
 左肩上がりではなく、なぜ右肩上がりなのか。
 そこで思い至ったのが、人間の大多数が右利きという事実である。
 たとえば、定規で線を引く。
 世のほとんどの右利きは、指示されずとも、自然と左から右へと定規に当てた鉛筆の先を動かすだろう。そのほうが腕の動きとして楽、線が描きやすいからだ。
 線だけではない。数字だって、アルファベットだって、ひらがなだって、漢字だってそうだ。始点から捉えたとき、左から右へと線の動きは展開していく。「一」という漢字の書き順は、それらすべてを体現している。
 定規で線を引くとき、その動きに合わせるように、定規の目盛りも右へ行くほど増えていく。グラフの描き方もまた然り、エックス軸を水平方向に引いたとき、中心から右側が正の数値の目盛り、左側が負の数値の目盛りとなる。すると、
 y=ax
 を表す直線は右肩上がりにならざるを得ず(ただしa>0)、ここから世にいう「右肩上がり」のイメージが生まれたわけだ。
 ならば、である。
 もしも、人間の大半が左利きだったら、すべてはあべこべ、中心から左に向かって線を引く動きが支配的になっただろう。
 必然、世界中で使われる文字は右から左へ向かうデザインが基本形になり、15センチ定規の目盛りは右端に「0」、左端に「15」が置かれる。すると、グラフの描き方も左右対称になるので、現在の「右肩上がり」に託されたイメージはそのまま「左肩上がり」という言葉に反転しちゃうのではないか――。

 
 なんて愚にもつかぬことをつらつらと考えている最中、このエッセイの担当編集者氏と話す機会があった。
 編集者氏の年齢は二十代後半。
 たとえば私は昭和生まれであり、小学生の時分にバブル絶頂を迎えた社会の浮かれぶりを目撃している。ゆえに右肩上がりの時代の雰囲気というものを明確に肌で覚えている。
 一方、「失われた30年」などという言葉に、まるっとマイライフが含まれてしまう編集者氏である。
「右肩上がりの時代を過ごしたという記憶を持っていますか?」
 と質問してみても、
「ないですね。まったく、その感覚がわからないです」
 とけんもほろろな答えが返ってくる。
「では、社会情勢から離れて、右肩上がりと聞いてイメージするものは何ですか?」
「子どもとか若者とか、これから未来がある人たち……でしょうか」
 なかなか、自分にまつわる言葉としては受け入れてもらえない「右肩上がり」である。そこで、他者ではなく、自身に対して該当するものは? と焦点を絞って訊ねてみても、お肌の調子とかも近ごろ右肩下がりですし、これと言ってないですねえ……、とはなはだ冴えない様子だ。
 このやり取りを交わしながら、頭の片隅にふと思い浮かんだ風景があった。
 それは高校三年生のときに受講した、予備校の夏期講習での一コマだ。
 授業のテーマは日本近代史。1930年代の金輸出解禁からの金本位制の停止、管理通貨制度への移行――、教科書を読み、学校の授業を聞くだけでは、どうにも複雑で理解できない戦前の経済政策について詳しく補足せんとする講座だった。
 そこで出会った講師が当たりだった。
 髪形、しゃべり方、目線、あちこちにクセのある暗い雰囲気の男性だったが、経済に詳しく、会社間の約束手形の発行の仕組みや、その手形を裏書によって第三者に譲渡できること、でも不渡りとなって不良債権化する危険があること、そこに介在する銀行の仕事――、高校生には知る術のない有用な知識を次々と教えてくれた。
 結果、5日間の講座を経て、それまで霧がかかったような状態だった戦前の経済政策への理解が一気に進んだわけだが、今でも印象的なのは、この極めて理知的でいつも気難しげな講師が、黒板に右肩上がりの少々ゆらめいた線を引いてから、
「経済や景気というものは、放っておいても右肩上がりになるものなんです」
 と誰もが知っているおそろしくつまらない真実を伝えました、とでも言うように、その線の意味を告げたことである。
「少し景気が停滞して、つまずくような時期があっても、放っておいたらまた戻るんです。でも、それだとみんなから文句を言われるので政府は何か手を打つ。でも、政府がやってもやらなくても、どうせ景気は戻るんですよ」
 薄く笑いながら、講師は黒板に描いた右肩上がりのへなへな線をチョークでなぞった。
 ときはまさに「夏の日の1993」。
 この講師の言は当時の日本人、ほぼ全員の共通認識であったように思う。
 私が「バブルが弾けた」という表現をはじめて学校の授業で聞いたのは小学校五年生のとき、1987年だった。社会の授業で、教師は「まあ、あと数年すれば戻ります」と言っていた。
 中学、高校に上がると「今はちょっと不景気やけど」と、新たに「不景気」なる単語をよく耳にするようになった。されど、ここでも「あと十年くらいでまた元気になる」と教師から見通しを聞かされ、十年とはずいぶん長いけど、大学を卒業して社会人になっている頃でもあるし、ちょうどいいか――、などと受け流したものである。
 されど、現実は過酷であった。
 小学校五年生の私が「あと数年すれば」と予告されたときから、そろそろ四十年になる。
 今や、経済のことを「放っておいても右肩上がりになるもの」などと生徒に教えるお気楽教師はひとりもいまい。
 日本人の認識が180度転換していく最中で、先ほどの担当編集者氏は生まれ育ったわけだ。
 そりゃ、社会全体が右肩上がりに邁進する空気など知ろうはずがないのである。
 
   *
 
 さて、このエッセイのタイトルは「万城目学のエッセイ万博」だ。
 あくまで種々の視点や切り口を持つエッセイを書きたい、という意図からの「万博」なる単語の採用だったが、これから大阪・関西万博が開催されるのだから、最終回は実際に万博を訪問し、その現地ルポでもって締めようではないか――、とは去年、連載開始前に担当編集者氏と決めていたプランである。
 いよいよ来月、その万博が開催される。
 行くならば暑くなる前にと、5月の入場チケットを担当編集者氏に手配してもらっていたら、大阪に住む妹から、
「夏休み、大阪万博に遊びに帰ってこえへんの?」
 という連絡が届いた。
 5月に仕事で万博に行くけど、8月の地獄のように暑い大阪に家族を連れてなんかよう行かん、と返しつつ、
「東京で4月から万博があると知っている人は1%いない感じ。そら前売りチケットも捌けんよ」
 とこちらの実情を伝えたら、
「うっそーん。大阪では府民の小学生に万博の夏休みフリーパスが配られるから、子どもらも盛り上がってる感じやし、ミャクミャクも人気者やで」
 とかなりの温度差が感じられる返事を寄越してきた。
 実際のところ、大阪万博に対する世間のノリは極めて悪い。いや、その眼差しは冷たいと表現してもいいくらいだ。
 2021年の東京五輪のときはコロナの影響もあり、それが正の感情であれ、負の感情であれ、「本当にやるのか? やれるのか?」という世の関心を集めてはいたが、大阪万博はその最低限の関心すらない。オリンピックと同じく国家規模のイベントのはずなのに、いつ始まるかすらまともに認知されていないのが現状だ。
 盛り上がらないと必然赤字の可能性が高まる。しかし、赤字になったときの責任の所在(大阪市or大阪府or国)は信じられないことにまだ決まっていない。
「聞きたくない! 考えたくない! だって黒字になったらこの議論いらんやん!」
 と関係者全員で耳を塞ぎ、目を背けたまま、10月の会期終了まで突っ走らんとする、ていたらくである。
 いったい、第1回内国勧業博覧会を皮切りに、明治の世から続いていた世界有数の博覧会好きの国民性はどこへやら。かく言う私もはなはだ盛り上がりに欠けたモチベーションで最終回の万博ルポに向かうことになりそうだ。
 なぜなのか?
 実際に訪れたら、それなりにおもしろいイベントであるのは間違いないだろうに、さらにはあの「人類の進歩と調和」を大テーマに掲げ、太陽の塔が築かれた伝説の万博から55年ぶりに開催される、待ちに待った機会であるのに、試しに家族を誘ってみても、
「わざわざ大阪まで行くなら、万博よりもUSJに行きたい」
 とあっさり言い切られてしまうのはどうしてなのか?
 それは世間からとうに見極められているからではないか。
 万博とはすなわち、右肩上がりの社会にのみ似合う催し物であり、少なくとも今はそのときではないと。
 2350億円をかけて必死で築いた建物群なのに、半年の会期を終えたら、再利用が決まっているわずかな物件を除き、すべて取り壊してしまう。そんな無茶を予定しておいて、会期中にSDGsへの取り組みや環境への配慮を声高に提唱されても、もはや建前すら成立しない。理念と現実がすり合わぬ万博という仕組みに対し、
「無駄遣いの部分もあるかもしれないけど、ときにはこういう荒々しい開発が国家の成長には(実際は大阪の成長には)必要なんです!」
 と大局的観点から理解を求められても、肝心の人々の側に、それを受け止める心の余裕はすでにないのである。
 
   *
 
「放っておいても右肩上がりになるもの」
 あの日、経済について語ってくれた予備校講師の言葉は、ひょっとしたらこの万博を支える信仰のど真ん中にあるものなのかもしれない。
 大阪万博を開催することを熱心に提唱し、実際にここまで実現させた人々は、「右肩上がり」の未来がくることを強く信じている。正確には「強く信じることがその未来を呼び寄せる」と信じている。おそらく、その核にどんと居座るのは右肩上がりの日々を濃厚に体験した、60代以上の世代の人々だろう。
 一方で右肩上がりの日々を一度も経験したことがない人々は、そんな時間はもう二度と訪れないとあきらめ顔で信じている。
 信仰を持つ少数派が造り上げし万博なる会場へ、その他大勢の信仰を持たぬ人々が招かれる。
 そこで人々は何を感じ、何を考えるのか。
 この失われた30年が育んだ日本人のややこしき精神、それら分裂した精神が大集合し、時代の総括をするイベントとも言える大阪万博に、再来月行って参ります。

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