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第6回

#6 「飾りのない歌」ができるまで

 中学二年生が始まる少し前の春休み、私は彼らに出会った。
 古舘伊知郎ふるたちいちろう柴俊夫しばとしおが司会をしていた「夜のヒットスタジオDELUXE」。そこにチャゲ&飛鳥あすかの二人が出演し、「WALK」という曲を歌っていた。
 チャゲ&飛鳥の名前は、購読していた毎日小学生新聞にて、月一回紹介されるレコード・ヒットチャート欄で何度も目にしていたが、実際に歌う姿を見たことがなかった。
 ときは1989年、音楽への興味がにわかに盛り上がっていた私は、ブラウン管テレビの裏側のスピーカー部分に小さなラジカセを寄せ、どうすれば雑音が少しでも混ざらないか毎度工夫しながら、音楽番組をカセットテープに録音することにご執心だった。
 二人が歌い始めた瞬間、そのユニット名から想像していたものとはかなり違う、上品でありながら力強い、それでいてどこか深海の底に漂うような聴いたことのない曲調に、十三歳の胸はズドンと撃ち抜かれた。
 翌日、録音したばかりの「WALK」を繰り返し再生しながら、ふといっしょに歌ってみた。実際に声を出してみて驚いた。曲のキーが高すぎて歌えない。そのとき、私は自分の声が届かないキーで構成される歌がこの世に存在することをはじめて知った。
 時代はカラオケブーム到来前夜。それまで音楽の授業でしか、まともに歌う経験がなかった私は、世の中の歌というものは、誰もが届くキーの範囲内で作曲されていると思いこんでいた。さらには幼稚園生のころ、発表会の合唱ではソプラノに配置されることがほとんどだったので、自分が出せないキーで作られた曲があり、それを歌いこなす人がいるという事実を新鮮な発見として捉えた。
 何度もテープを聴きこむうちに、最初は判別ができなかった二人の声を聞き分けることができるようになった。そこでもう一度、驚いた。豊かで伸びやかに響く声質の主旋律の男性はただでさえキーが高い。しかし、ハモりを担当する繊細で鋭い声はさらに高いキーを歌っている。そんなことが人間に可能なのか、とラジカセを前に私は戦慄した。
 私が「Chage」を認識した瞬間だった。
 
   *
 
 それから二十四年後、2013年のことである。
 私は『とっぴんぱらりの風太郎』なる小説を上梓した。するとラジオへの出演依頼が舞いこんだ。
「Chageの音道」
 Chageさんがパーソナリティーを務めるラジオ番組だった。以前から拙著の読者だったというChageさんが、新刊発売のタイミングに合わせ、招いてくれたのだ。
 二十四年前の「夜のヒットスタジオDELUXE」での遭遇から、私は重度のチャゲアス・ファンになっていた。ライブに行ったのは二度だけでも、CDを聴きこみ、ライブビデオを何度も見返し、ひとり粛々とファンとしての深度を増し続けた。余計なものなどないよね。その音楽を聴く時間は、ふたりと私の愛ランドだった。
 そんな頂の上にいる存在が、自分の作品を読んでくれている。それだけでも信じられないことなのに、「話を聞きたい」とオファーをくれた。
 驚天動地の出来事に、収録当日、相当な緊張を引っ提げ、私はラジオ局へ向かった。レジェンドに会えることへの気持ちの昂ぶりがその過半を占めていたのはもちろんだが、版元に関する心配もあった。『とっぴんぱらりの風太郎』の版元は文藝春秋だ。ご存じ「週刊文春」が覚醒剤がらみの疑惑を激しく追及している真っ最中に、『とっぴんぱらりの風太郎』は刊行された。
 文藝春秋は総合出版社ゆえ、週刊誌を作る部署もあれば、小説を作る部署もある。新書を作る部署や、コミックエッセイを作る部署もある。週刊誌が何を書こうと、それは他の独立した部署からすると、たとえば同じ学校に通ってはいるが、別の学年のやんちゃなクラスの行動を眺めるような認識に近いだろう。要は何もタッチしていないし、何が取材対象になっているかも知らない(さらに正確に書くと、同じ「週刊文春」内でも、『とっぴんぱらりの風太郎』連載を担当していた文芸班は、同じフロアの芸能班が何を追っているのか、いっさい情報を持たない)。ゆえに文藝春秋から小説を出すことと、「週刊文春」の芸能記事に関する活動とは完全に無関係なのだが、世間はそうは思わない。
 想像するまでもなく、Chageさんサイドから見た文藝春秋のイメージは最悪だろう。それでも、Chageさんは呼んでくれた。簡単にできることではない。私は同行する文藝春秋の編集者をひとりに絞った。なるべく相手を刺激せぬよう、物腰がやわらかで、笑顔もやさしげに見える、ヘイトを向けられにくそうな編集者とともにラジオ局に向かった。
「ようこそ、やっと会えたね」
 すぐさま案内されたラジオブース内で、トレードマークのサングラスにヒゲのChageさんが迎えてくれた。
 その後のラジオ収録にて、「憧れ」を目の前にして自分が何を話したのか、ほとんど記憶がない。覚えているのは収録前に、
「文藝春秋さーん、これ、よくこんなぶ厚い本作れたね」
 とブース内の机に用意された『とっぴんぱらりの風太郎』を手に取り、Chageさんがガラス越しに調整室にいる編集者に向かって、明朗な声色で話しかけたことである。
「あッ」と思った。自分から親しげに文藝春秋の人間に声をかけることで、Chageさんは私たちが持参した「相手に嫌われていやしないか」という心配をいとも簡単に消滅させ、代わりに安心を与えてくれたのだ。
 すごいなと、その細やかな気遣いに舌を巻いた。
 せっかくの初対面の機会だったのに、覚えているのはこのやり取りと、もうひとつ。はじめてチャゲアスを目撃した「夜のヒットスタジオDELUXE」には、海外ゲストとしてエンヤが出演していた。エンヤが「Orinoco Flow」を歌う前、彼女の楽曲の特徴をなぜかChageさんが紹介していた、という思い出を語ったとき、Chageさんがしみじみつぶやいた、
「エンヤ、デカかったんだよ――」
 というひと言のみである。
 ラジオ収録翌日、私は寝こんだ。
 緊張からの解放感と、うれしさの余韻が脳内で摩擦を引き起こし、思いきり知恵熱を発してしまったのである。
 
   *
 
 かくして、不思議な交流が始まった。
 ラジオのブース内で、お互い連絡先を交換したおかげで、その後も関係は途切れず、二年後、ライブ「Chage Fes 2015」へのお誘いをいただいた。
 終演後のバックヤードで、ラジオ出演以来ひさしぶりにChageさんに再会した。
「ねえ、マキメくん。今度、作詞しよう」
 出会い頭、いきなりぶつけられて面食らった。
 いや、そんなたいそうなこと、とてもできないです、とモゴモゴと答える私に、「難しく考えず、気軽にやったらいいよ。俺も手伝うし」とChageさんは莞爾かんじとして笑った。
 それから二年後、Chageさんとはじめて食事に行った。何を食べたかまったく覚えていないが、何を話したかはよく覚えている。デビュー前の話から、昭和の大スターがひしめき合う80年代の音楽番組、アジアを股にかけ活躍した最強の90年代の思い出まで、私が仰ぎ見ていた二人の軌跡をChageさんは惜しげもなく披露してくれた。それは日本の歌謡史がたどった進化の過程そのものであり、時代を駆け抜け、タフに生き残ったレジェンドの貴重な肉声だった。登場する人物は誰もが知るスターばかり。どれもめまいがするくらいリアルで、かっこよく、いくら話を聞いても聞き飽きることがなかった。
 この夢のような集いを、私は「のいた会」と命名した。
「のぼりつめた いただきを たんのうする会」
 それぞれの文節の頭を取って「のいた会」である。
 翌年も「のいた会」は開かれた。Chageさんの還暦を祝い、赤いちゃんちゃんこならぬ赤いトランクスを差し上げた。
「いろいろもらったけど、さすがにこれはなかったわ」
 真紅の下着を手に、Chageさんは何とも言えぬ複雑な表情をしていた。
「のいた会」席上でも、さらにはライブ後バックヤードでの短いあいさつの場でも、Chageさんは「作詞やってみない?」と誘い文句をくれた。しかし、都度、私は断った。というのも、詩(詞)を書くことと、小説を書くことはまったく異なる行為であり、同じボールを使うのだから、野球選手でもソフトボールが上手だろう、と言われているような感覚があった。確かにある程度はこなせるかもしれないが、プロのレベルには到底及ぶまい。そもそも、短い文章で思いを端的に表現する能力がないからこそ、だらだらと何百枚も原稿用紙に物語を書くのである。
「いやあ、無理です。詩をちゃんと書いたこともないですし」
 私がすげなく断っても、Chageさんはニコニコしながらそれを聞き流し、また思い出したころ話題に上げてくるのだった。
 コロナによる長い中断期間を経て、去年、五年ぶり三度目の「のいた会」が開催された。
 その場でもChageさんはやはり「作詞やろうよ」と誘ってくれた。でも、いつもとは誘い方が違った。私がいつものように「無理です無理です」と断っても、「いいものができると思うんだよなあ」と粘ってくる。さらには、
「来年、アルバムを出すから、そこに一曲、マキメくんが作詞したものを入れたい」
 とこれまでとは異なる、明確なゴールの存在を伝えてきた。
「だから、いっしょにやろう」
 互いに忙しい大人同士の約束は、期限を設定しないことには、いつになっても始まらない。
 しかし、ついに期限が設定された。
 はじめてChageさんの誘いをいただいてから、すでに八年が経っていた。八年断り続けても、まだ誘ってくれる。もう、断ることはできないと思った。「詞は書けない」は理由にならない。書けなくても書くのである。
「わかりました。やります」
 私はテーブルに手をつき、頭を下げた。
「三顧の礼」ならぬ「三のいた会の礼」をもってオファーをくれたChageさんの期待に応えるべく、楽曲作詞プロジェクトが始動した。
 
   *
 
 とはいえ、作詞に関し何をどうやればいいのか、まったくわからないことに変わりはない。しかも年が明けて早々、直木賞を受賞するというまさかの展開が待っていた。そのまま忙しさに紛れ、作詞の一件がうやむやになる可能性もあったと思われる。
 しかし、Chageさんとの連絡は途絶えなかった。完全な偶然だが、年明けに十一年ぶりの「Chageの音道」への出演が、直木賞とはまったく関係のない流れで昨年のうちに決まっていた。
 選考会の翌週、Chageさんが待つラジオの収録スタジオに向かった。
「おめでとう」
 満面の笑みのChageさんと固く握手した。Chageさんの手はぶ厚い。五十年近くギターを弾き続けてきた、職人のそれと言ってもいい、ぬくもりのある手にありがたく包まれながら、直木賞がらみでいちばんのご褒美かもしれぬ、とよろこびを噛みしめた。作詞の件もしっかりと念を押され、約束の重みも噛みしめた。
 三月、私は猛烈に忙しかった。六月の新刊に収録する短編の執筆に没頭する最中、Chageさんから連絡が舞いこんだ。
「八月に発表するアルバムの楽曲を五月にレコーディングする。ということは、それまでに詞と曲を用意しなくちゃいけない」
 本を刊行する際、だいたい三カ月前に著者は原稿を用意する。その後は出版社が引き継ぎ、本のデザインや校正チェックなど次の段階に進む。
 音楽制作もどうやら手順は似ているらしい。発売の三カ月前にアーティストがレコーディングで声を入れるというスケジュール感は、まさに刊行三カ月前に脱稿しなくてはならない作家と同じである。アーティストの場合、作詞・作曲が完了してからレコーディングに入り、その後、編曲等のブラッシュアップの過程に進む。この部分は作家における原稿の校正や改稿作業にあたるはずだ。おそらく出版社の存在がレコード会社に該当し、アルバムのデザインなどの仕事を引き継ぐのだろう。
 四月に入るなり、Chageさんから一個のファイルが送付されてきた。そこにはアコースティックギター一本による伴奏に、Chageさんの歌声が録音されていた。
「執筆で煮詰まったときとかにホケ~って聴いてください」
 という一文が添えられていたが、ホケ~っとなんて聴けるはずがなかった。
 あの「Chage」から、自分のために作られた音源が送られてきた、という事実がしっくりこない。ほんまかいな? と半信半疑のまま、おそるおそる音源を再生してみた。
 軽やかにかき鳴らされるギターの音色とともに、Chageさんの歌声が聞こえてきた。それはメロディーラインを伝えるもので、英語のように聞こえるが実は出鱈目な発音という、独特な「ハナウタ言葉」で統一されていた。
 歌を作る際によく言われるのが、
詞先しせんか、曲先きょくせんか?」
 という二択だ。つまり、詞を書いてからメロディーを乗せるか、それともメロディーを作ってから詞を添えるか? 今回は「曲先」の作り方だった。Chageさんの歌声に詞を当てはめていくことが私の役目になる。
 当初、Chageさんは、いっさい作詞経験のない私が挑むに際し、
「ひとまずメロディーを聴き、浮かぶ言葉を文章にする。短いエッセイのような感じでもいい。そこからいっしょに詞のかたちに整えていこう」
 という方針を提示してくれていた。
 しかし、将来的に歌詞になることを踏まえつつ、それっぽい文章を用意する、というのは結構難しい。それよりも、曲に合わせて一文字ずつ、音に対し符合する言葉を直接当てはめていくほうが、やりやすそうな気がする。
 できないできない、とあれだけ予防線を張っておきながら、いざ曲を聴くと、イメージがドッと湧き上がってきた。
 メトロの出口から外に上がり、左右を見たら、東京タワーが立っている、というやけに具体的な絵が浮かぶ。さらには、ギターケースを手に、Chageさんが散歩やドライブをしている姿も連想される――。軽快なギターのリズムとともに奏でられるメロディーは実に都会的で、やはりChageさんは都会派アーティストなんだな、と感嘆していると、次のファイルが送られてきた。
 プリプロ音源という、レコーディング前に用意される、様々な楽器が加わったもので、Chageさんは変わらずハナウタ言葉で歌っているが、雰囲気が一変していた。
 最初の音源のやわらかで牧歌的な雰囲気が消え、バックの演奏の効果が加わり、どこかシビアでもあり、何かしらのメッセージを託せるような強さが新たに顔をのぞかせていた。同じメロディーラインであっても、編曲ひとつで(編曲担当者として、ファイル名にチャゲアスファンなら知らぬ人はいないスーパー・アレンジャー十川ともじ氏の名前があり、ここでも人知れず興奮する)、これほどまでに曲の印象が変わるものなのかと驚いた。
「あまり縛られないでマキメっちの感覚で言葉を乗せてください」
 音源を添付したメールにはChageさんからの短いアドバイスが記されていた。
 その日から、「マキメっちの感覚」なるものを手に入れるため、執筆の合間のぼんやりタイムにひたすら音源を再生し、聴きこんだ。
 まずはメロディーを覚え、そこに付随する歌詞の文字数を把握する。
 お経を唱えるように何小節分かを口ずさみ、そこに合いそうな言葉を探す。しかし、そんな簡単に、これぞというものは出てこない。じゃあ、次の場所、とあちこちつまみ食いしては撤退を繰り返す。
 それはジグソーパズル序盤の進め方にも似ていた。判別しやすいイメージの周辺では2ピース、3ピースとわずかながら、言葉の領域が広がる感触にぶつかる。ぱちり、ぱちりとはめていく。やがて短いながらも、何となくしっくりくるフレーズや単語が候補として残留するようになる。それらを少しずつ集めて、かたちにしていく。1番と2番の冒頭では、ともに同じAメロが繰り返されるのに、2番のほうが書きやすく、言葉を並べやすいのが不思議だった。
 ああでもないこうでもない、と試行錯誤を重ねるうちに、全体を貫く骨格のようなものが、じわじわと浮かび上がってきた。
 それは私の中にある、「Chage」というひとりのアーティストのイメージだった。
 チャゲアスの活動がストップして、Chageさんは試練の時間を過ごした。
「もう自分は歌ってはいけないのではないのか」
 そこまで追い詰められていたという話も、のいた会の席上で聞いた。
 でも、Chageさんは歌うことを選んだ。混乱の時期が数年間続き、Chageさん自身も揺れているように見えるときもあった。しかし、いつごろからかChageさんの芯が定まった。ファンがいる限り、その求めがある限り、どこへでもギターを片手に歌いに行く、という自分の進むべき道を明確に見極めた覚悟のようなものが、言葉や表情の端々に感じられるようになった。
 そうなると、Chageさんは強かった。音楽に対しても、ファンに対しても、ブレない自然体の姿勢を貫く姿は、ただひとこと――、かっこよかった。
 そのあたりのイメージを出発点としつつ、一方でChageさんに限定しない、誰にでも当てはまる普遍性のある表現を探りつつ、およそ三日間で歌詞は完成した。ちょうど六月に刊行する新刊の最後の追いこみともバッティングしていて、言葉への感覚がもっとも鋭くなっているタイミングでの作業だった。小説とはまったく違う、極端に限られた活動範囲――、それこそ「ここは4文字」「このあとに続く2文字」といった条件を守りつつ、いかに世界を閉じずに、より開いたかたちで次の行へとつなぐか。この攻め筋では無理かも、とあきらめかけたところへ、その手前の「てにをは」の一文字を変えるだけで、後続の言葉の可能性が一気に増え、世界がぐわんと広がる瞬間に出くわすたび、「難しいけど、おもしろいな、これ」とその奥深さを思い知らされた。
 最初の音源が届いてからちょうど三週間後、Chageさんに初稿を提出した。
 曲タイトルはサビの部分で使った「飾りのない言葉のように」というフレーズから「飾りのない歌(仮)」とした。
 三日後、Chageさんから返信が届いた。
 冒頭の部分から(仮)が外され、曲タイトルは「飾りのない歌」になっていた。ほとんどの部分は私が送ったままだったが、一カ所、ハッとする変更点があった。
「いつか 君が 僕に 教えてくれた
 かすかな光に 歌を見つけたなら」
 と私が書いた部分が、
「いつか 歌が 僕に 教えてくれた
 かすかな光に 君を見つけたなら」
 になっていた。「君」と「歌」の位置が替えられている。
 何とはなしに、アーティストとは自分が進む先に歌うべき題材を見つけ、それを歌うものだというイメージを持っていた。多分に小説を執筆する作業が、手探りで進むしかない単独行になりがちゆえに、その感覚がスライドしたと思われる。しかし、Chageさんは、歌を探しにいくのではない、とした。歌が教えてくれたから、進んだその先で君を見つけるのだと――。歌は手段であり、その目的地は君だと一文字を入れ替えるだけで、ファンへの気持ちを表現したのである。
 何て見事なのだろう、とその巧みさにおののきつつ、もちろん、その修正提案を受け入れた。Chageさんとは、それから三週間かけて第六稿までやり取りを重ねた。完全な作詞初心者の私に、Chageさんはこうしたら歌詞の世界が膨らむのではないか、と工夫のためのアイディアを惜しげもなく伝えてくれた。一方で、自分が歌うに際し、リズムに合わないと思う箇所は、「この2文字だけ替えてほしい」と妥協のない調整の相談がギリギリまで続いた。
 驚いたのは、歌詞が完成したわずか一週間後にレコーディングが待っていることだった。曲を身体に取りこんだかどうか、ギリギリのタイミングで、今後ずっと残る音源を完成させなくてはいけないシビアさ。
 5月21日、レコーディングを無事終えたとの知らせがChageさんから来た。
 それをもって、私のはじめての作詞の仕事は終了した。
 
   *
 
 完成した「飾りのない歌」は決して明るい曲ではない。人間が生きる長い時間のうちで、いいこともあれば、悪いこともある。その事実を明確に提示している。お決まりのハッピーエンドで終わる、といった安易な未来も約束しない。それでも、Chageさんは歌詞の根幹についていっさい言葉を挟まず、そのままを受け入れてくれた。それどころか、「今の等身大の自分を表してくれているから」とアルバムのタイトルを「飾りのない歌」に決めたという連絡をくれた。
 信じられない展開に呆然としていると、出来上がったばかりの歌を入れた音源が送られてきた。
 何だか再生するのが怖くて、なかなかファイルを開くことができなかった。
 思いきって再生した。
 正直に書くが、一度目はものすごく変な気分で聴いた。
 スピーカーから、演奏とChageさんの歌が聞こえてくる。でも、歌詞だけが、言葉だけが明らかに浮いている。まるでバラバラの音を聞かされているようで頭が混乱した。
 それは一カ月以上にわたり、何百回となく詞を口ずさみ続けた結果、いつの間にか脳内に、自分の歌い方、間の取り方ができてしまっていたからだった。そこへ、いきなりChageさんの歌声で完成バージョンを聴いたものだから、イメージと現実が正面衝突した。ゆえの混乱発生だった。
 されど、3回、4回、5回と聴くうちに、違和感は急速に消えていった。やがて、Chageさんの澄んだ歌声だけを素直に受け取ることができたとき、自分だけのものだった歌が、これから歌い続けてくれるあるじのもとへと渡っていったのだと知った。
 
   *
 
 中学二年生が始まる少し前の春休み、私は彼らに出会った。
 古舘伊知郎と柴俊夫が司会をしていた「夜のヒットスタジオDELUXE」。そこにチャゲ&飛鳥の二人が出演し、「WALK」という曲を歌っていた。
 私はまだ十三歳の自分の隣に座る。
「あの左の、サングラスの人」
 と指差してから、
「三十五年後に、お前はあの人が歌う曲の詞を作る。そして、お前が作った曲のタイトルは、そのままアルバムのタイトルになる」
 と告げる。
 私たちはしばらく無言で見つめ合う。
「んなわけないやん」
 十三歳の私は今と同じく唇の片端を持ち上げ、薄く笑ってから、テレビに戻っていく。

・「飾りのない歌」の各配信サービスへのリンク先はこちら
・アルバム「飾りのない歌」の情報はこちら(UNIVERSAL MUSIC STORE)

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