世の中には、それまで何度も目にしてきたはず、経験してきたはずなのに、本質を理解せぬうちに、ずいぶん長い時間が過ぎてしまう――、といったことがままある。
たとえば、私は天気図というものを、テレビ画面越しに何千回と眺めていたのに、雲が西から東に動くという大原則に気づくまで、生まれてからざっと二十年かかった。ゲリラ豪雨の気配を感じ取ったとき、今ならすっと西の空を仰ぎ見て、襲来までの時間をスマートに把握できる。されど、この知識がティーンの頃の私にはなかった。
そんな私でも中学時代、南海電鉄難波駅を通学で使いがてら、あるとき、ホームから駅の真横に接する大阪球場を臨む、大きなガラス窓が「天気窓」であることに気がついた。すなわち、下校途中の夕暮れどき、窓に目を向けてみる。今は懐かしき大阪球場の外壁を左手に、その先に見える街の空に雲がなければ翌日は晴れ、雲が下方から湧き上がる様が見えたならば翌日は天気が悪い――。
しかし、そこまでだった。もう一歩踏みこんで、その窓が西向きであることに気づけば、天気図の常識を理解するタイミングも、もう少し早く訪れたはずだ。正直に打ち明けよう。この「天気窓」が西向きだったという真実に気がついたのは、今、この文章を書きながらだ。実に三十年以上の歳月を要してしまった、とほほ。
三十年といえば、Tシャツなどの内側のタグがおおむね左側についていることを知ったのも、三十歳を超えてからだった。それまでは襟のかたちで前と後ろを判断し、頻繁に間違えていた。他にも、たとえば京都で学生生活を送っていたとき、しばしば出町柳から鴨川沿いの道を自転車に乗り、三条や四条の繁華街へと繰り出した。あるとき、行きはペダルの動きが軽いが、帰りは重いことに気がついた。遊び疲れゆえかな、と長らく思っていたが、そんなわけがない。川に沿って自転車を走らせているのだ。そりゃ、下流に向かうときが楽に決まっている。帰りがしんどいのは純然たる上り坂だからだ。されど、目視では道の傾斜を感じ取れないため、この当たり前の事実に気づいたとき、私はすでに三回生になっていた――。
かように本質を理解するのは、なかなか時間がかかる。
話は変わるが、私は幼稚園児の頃にゲームウォッチを嗜むようになって以来の、生粋のゲーム好きだ。
1996年に発売された『バイオハザード』というゲームがある。
今でも大学の友人たちと下宿のブラウン管テレビ前に集まって体験した、第一作のとんでもない恐怖の感覚は忘れられない。
純粋にホラーゲームとしての演出が際立っていたこともあるが、もう一点、操作がままならないことも恐怖を倍増させる要因になった。今となっては、のろのろ動きで、何が怖いのかさっぱりわからない最初に登場するゾンビとの対決も、思いどおりに画面上のキャラクターを操作できないもどかしさが加わることで、絶叫また絶叫の大サバイバルと化した。
されど、一度ゲームクリアしてしまうと状況は変わる。二周目のトライになると心の余裕と操作への自信が加わり、いったいこののろのろゾンビの何が怖かったのか、というくらい手触りが異なって感じられるようになる。
その後、シリーズ新作が出るたびに『バイオハザード』に挑むことで、私はすっかりモンスターが醸し出す恐怖への対処法を把握したつもりになっていた。
だが、ここでもやはり、私は何ら本質を理解していなかったのである。
あれは私が小説家を目指して会社員を辞め、雑居ビル最上階にて住人兼管理人をしながら、芽の出ない小説を人知れず書き続けていたときのことだ。
大阪の実家に帰省し、数日ぶりにビルに戻ってきたら、何やら様子がおかしい。自分の部屋の扉前がひどく汚れている。白い、鳥の糞らしきものが一面に散らばっている。
どういうことだろう?
床を見下ろし、結論を出しかねていると、「がさ」という短い音が聞こえた。
ギョッとして階段を見上げた。
それは羽ばたきのようでもあり、単にものが動いただけの音のようでもあった。
そろり、と私は階段を上った。
雑居ビルの階段は狭く、十三段ほどで折り返し、屋上手前の踊り場へと続いている。普段、屋上へ出るためのドアは締め切り、踊り場も消灯しているので、階段を一段上るたびに暗さが増していく。
「ばさ」
明らかに羽の音だった。私の足音に何かが反応している。
大阪から何時間もかけて戻ってきた途端、これである。雑居ビルの日常的なトラブルの解決は管理人の仕事。新たな面倒事の予感にうんざりした気分で階段を折り返し、その先を見上げた。
階段の終わりの手すり部分に、真っ黒な影がうずくまっていた。
いきなり、それが大きくなった。
屋上ドアにはすりガラスがはめこまれている。ゆえに真っ暗ではなく、わずかに光は届く。その光に輪郭を浮かび上がらせ、とんでもなくデカいカラスが羽を広げ、「qua」と禍々しく鳴いた。
躊躇なく、私は逃げた。
階段を駆け下り、部屋に飛びこんだ。
おそらく、あのカラスは早朝ゴミを漁ったついでに、調子に乗って雑居ビル入口から階段部分へちょんちょんと移動したのだろう。そして、そのまま螺旋状に連なる階段を何も考えずに上り始め、私の部屋の前で大量脱糞し(あの量から見て、二、三日は居座ったかもしれない)、最終的に突き当たりである屋上踊り場にたどり着いたのだ――。
長旅の疲れを癒やしつつ、部屋の中で二時間ほどくつろいだ。
うっかり階段を上ってビルの中に紛れこんでしまったのなら、うっかり階段を下りてビルの外へ戻ることだってあり得るのではないか――。
そんな淡い期待を胸に、私はふたたび部屋の外に出た。
扉を開ける金属音に反応したのか、耳を澄ますまでもなく、上からあいさつのように「ばさ」と羽ばたきが聞こえてきた。
たかがカラスと、みなさんは思われるだろう。されど、狭いスペースをカラスが占有する、その威圧感たるや想像以上のもので、すでに私の心を「恐怖」が侵食し始めていた。漆黒の影が羽を広げた際の記憶は、いつの間にか、白亜紀に存在した史上最大の翼竜――、翼を広げたときの幅が10メートルもあったというケツァルコアトルス並みのイメージにまで膨らんでいる。
それでも何とか心を叱咤し、階段を上った。折り返しで上をのぞいたら……、いやがった。
真っ黒い影が微動だにせず、こちらを見下ろしていた。もちろん目玉は視認できないが、間違いなく私を凝視している。
私ははっきりと理解した。
この阿呆カラスはビルから出て行かない。
私が何とかしない限り、死ぬまでここに居座り続ける。
ならば、何をすべきか?
答えは明白だ。捕獲などという大げさな対応をする必要はなく、ただ屋上ドアを開けさえすればよい。そのまま放っておけば、勝手に空へと舞い戻るだろう。
されど、大きな問題がひとつあった。屋上ドアを開けるためには、カラスの真横を通り抜け、背後に回りこまないといけない。もしも、相手がパニックになって攻撃を仕掛けてきたら? あんな大きな鳥に襲われ、つつかれ、引っ掻かれるシーンを想像しただけで、恐怖の念は軽々と倍増する。
ふたたび部屋に戻り、このリアル・ヒッチコックな状況に立ち向かうべく、準備を始めた。防災用のヘルメットをかぶり、さらに目を守らねばと、スキー用のゴーグルをクローゼットから取り出した。軍手をはめ、布団叩きを握りしめる。万全の態勢を整え、部屋を出た。
そのまま屋上へと突進するかと思いきや、私は反対の階下へと向かった。
ひとりでは無理。
戦う前から早々に一対一の対決を放棄した私は、雑居ビルのテナントの店子に助けを求めることにしたのである。
ちょうど二階テナントのバーのマスターが、オープン前の準備をしているところだった。
「すみません、ちょっとご相談が」
店の扉を開けて声をかけた。
ヘルメットにゴーグル、布団叩きを手に、ビル管理人が入ってきたのを見て、「何だ、お前」という表情を隠そうともしない店のマスターに、かくかくしかじかカラスがですね――、と伝えたところ、
「手伝いましょう」
マスターはすぐさまカウンターから出てきてくれた。
「屋上ですよね」
さっそく向かおうとするマスターに、何か用意したほうがいいのでは、と告げたが、「大丈夫、大丈夫」と笑いながら階段を上り始めた。
私の部屋の前を通り過ぎ、屋上への階段に差しかかると、照明が消えているために空間全体が暗くなる。自然、マスターの足取りも慎重になり、折り返しの踊り場で二人して、階段の先を見上げた。
「なるほど……」
同じ場所にカラスが居座り、こちらを見下ろしていた。気のせいか、先ほどよりも大きくなっているように見える、と思った矢先、いきなり羽を広げた。巨大な影が覆いかぶさってくるような迫力に、
「おわわッ」
二人の情けない声が盛大にハウリングした。
「デカいな……」
マスターがうめくようにつぶやく。
「あいつの後ろを回って、ドアを開けるしかないと思うんです」
私の見解に「それしかないね」とマスターも同意する。
やるべきことはひとつしかない。されど、羽を半開きにして、首をきょろきょろと動かす、闇の支配者を前にして、足が動かない。行け! 走れ! と心を叱咤するが、情けないかな、太ももから下にてんで力が入らないのである。
そのとき、私は理解した。
これまでテレビ画面越しに、幾多の修羅場を潜り抜けてきた。たとえば『バイオハザード』なら、ゆうに二階建ての高さはありそうなモンスター相手に駆け回り、一発グレネード弾を撃ちこんだら、すぐさまメニュー操作をして、次は硫酸弾だと装備を細かく変更。どんな巨大な敵が現れようと、果敢に攻撃を仕掛けることができた。
されど、あんなものは嘘っぱちだった。
真実は、たかだか一羽のカラスを前にして、ビビッてしまって身体が動かない。もしも、ゲームが本当の恐怖を忠実に再現しているのなら、プレイヤーがスティックを入力し「進め」と命令しても、画面上のキャラクターがほとんど動かないのが「リアルな動き」というものだろう。銃の種類を交換するよう操作したら、持っていた銃を全部落とすのが危地での自然なふるまいだ。
これまでホラー映画などを見て、どんくさい登場人物に「ほら、あっちに行けば助かるじゃないか」「その銃で相手の目を狙えばいいんだよ」なんてお気楽な野次を飛ばしていた自分に教えてやりたい。映画の中の彼ら、彼女らは立派だ。動けるだけ、すごいじゃないか。もしもお前が本物のモンスターに襲われたなら、その場から一歩も動くことができないまま、易々と相手の餌食になってしまうだろうよ――!
なんてことを思いながら、一歩後退ったら、ヘルメットの後頭部が壁に当たって、「コンッ」と甲高く鳴った。
「わあああああぁッ」
その音に反応して、二人して絶叫してしまった。
すると人間の絶叫に驚いて、今度はカラスが騒ぎ始めた。それを見てさらに、私たちが驚くという完全にドリフの昭和コントを演じながら、
「どうしたらええねん!」
絶望に陥りかけたとき、マスターが動いた。
「あッ」
一目散に階段を駆け上り、そのままドアを開け放った。薄暗かった階段に光が差す。ほぼ同時にカラスが手すり部分から飛び立ち、ドアから外へと消え去った。
糞に塗れた踊り場を抜け、屋上に出た。マスターと並んで空を仰ぐと、すでにカラスはどこにも見当たらなかった。
「ありがとうございます……」
何の役にも立たなかった布団叩きに、ヘルメット&ゴーグル姿という私に「じゃ、仕事に戻りますんで」とほほえんで、マスターは颯爽と階段を下りていった。その勇敢な後ろ姿を見送りながら、
「もしもこれがホラー映画だったら、最初に動いた人は、絶対モンスターに捕まって、見るも無残に食べられたやろうなあ……」
などと思ったりした。
人は一度、誤った認識を持ってしまうと、その後、まっとうな本質を理解できる機会はそうそう訪れない。頭ではなく、身体で経験してはじめて、ちょっとした敗北感とともに本質を理解し直すことができる。
あの日、私は恐怖の本質を少しだけ理解した。話は急に大きくなるが、第二次世界大戦で戦場に駆り出されたアメリカ人兵士の8割近くが銃を一発も撃てなかったことも、何となくわかるようになったし(それでは意味がないと、アメリカでは軍部が新たな訓練プログラムを導入した。その結果、ベトナム戦争以降の兵士の銃を撃つ確率は100%近くまで上がったが、その代わり、帰国後のPTSD発症が激増した)、痴漢の被害に遭った女性が「その瞬間は恐怖で声を出せなかった」と訴える言葉にも強く共感できるようになった。
もっとも、呼ばれもしないのに雑居ビルに入りこんだ挙げ句、さんざん人間をビビらせまくったカラスへの敵愾心はその後も解けることはなく、拙著『バベル九朔』における、雑居ビル管理人と対峙する、とにかく気味の悪い「カラス女」の造形の発端となった。
何だか自分が、どれだけカッコ悪く惨敗しても、負け惜しみを忘れなかった――、崖の下に落ちてもキノコを手に這い上がってきた逸話が『今昔物語集』に記されている、強欲な国守のように思えなくもない。
「qua(だな)」
原稿を書き終えた明け方、窓の外であざわらうようにカラスが鳴いた。