二年に一度くらいだろうか。流行り病に罹って、38度以上の高熱を発し、床に臥せるタイミングが訪れる。
すると、「ああ、こうだった」と否応なしに思い出すことがある。
たとえば、夢とも現とも言えぬ、混濁した意識の狭間に訪れる、得体の知れぬ残像たち。たとえば、体内では白血球やら抗体やらが、文字どおりの熱戦を繰り広げている最中、熱に浮かされた脳が見せつけてくる、脈絡のない断片的な世界――。
私の場合、高熱に襲われながら絶え間なく「符合」を求められる。
どういうことかと言うと、私はうなされタイムをさっさと抜け出して、深い眠りにつきたい。されど、そのためにはあるタスクをこなさなくてはならず、そのタスクをクリアしない限り、眠ることはできない、という状況に巻きこまれてしまうのだ。
もちろん、そんなタスクは現実には存在しない。高熱に襲われた脳が混乱して、勝手な要求を始めるのである。
直近で38度の熱が出た際は、二つのファイルに関して「符合」を求められた。
そのファイルは赤かった。
正確には、赤いアイコンのようなもので、そもそも、それがファイルである確証はどこにもない。おそらくパソコン上のデータらしきものということなのだろうが、いったい何が入っているものかもわからない。しかし、私は二つの赤いアイコンを何とかして、一致させんと格闘せざるを得ない。なぜなら、一致の向こうに安眠が確約されているとなぜか確信できるからだ。
もっとも、ファイル同士がピコンと符合し、「おめでとうございます! それでは夢にまで見た安眠タイムへ行ってらっしゃい!」というハッピーエンドにたどり着くことはない。何がダメなのかもわからぬまま、ひたすら符合させようと励み、苦しい時間を過ごす。そして、いつの間にか朝を迎えている。
これが私が高熱に見舞われると決まって見る夢だ。
タイトルは「いつも一致しない」あたりだろうか。
この夢の厄介なところは、眠りながら頭を働かせ続けなければいけないことだ。二つのファイルが合致しない原因は何か? 正解を求めて考え続けなければならない。でも、正解なんてはなから存在せず、ひたすら迷路をさまよい続けるだけの高熱トラップである。たぶんに小説を執筆することが影響しているような気がしてならない。果たして読者のみなさんは高熱のとき、どのような夢にうなされるのか。夢のタイトルも添えて、ぜひ教えてもらいたいものである。
そうそう、高熱で調子が悪くなると、入眠するタイミングにも厄介な現象が顔を出す。
枕に頭を置き、うとうととし始め、このまま眠りに就きそう、と一段深く意識が落ちこんだ瞬間、
「んー」
と声を発してしまい、目が覚めるのだ。
また、うとうとする。
しかし、今まさに眠りに入らんとす! というところで、また「んー」と喉の奥から勝手に声が漏れ、自身の発声により目が覚めてしまう。
これがつらい。
ひどいときには三時間ほど、眠りたいのに「んー」で起こされるパターンが繰り返される。舌の付け根が喉に落ちて、そこで気道が詰まって、「んー」が発せられるのでは? と考え、舌の先を前歯で噛んで固定してみる、横を向いてだらりと口の外に舌を出してみる等々の涙ぐましい対策を講じるが、悲しいかな、「んー」による目覚めはいっこうにやむ気配はない。その後、いい加減疲れ切ってから、「今日はこのへんで勘弁しといたる」とばかりにようやく眠りに就くことができるのだ。
*
高熱時には、普段とは異なる、とんでもなくカラフルでぶっとんだ夢を見がちだということに気づいたのは、高校生のときだった。はじめて本格的なインフルエンザに罹り、人生初の41度台を経験した。その最中に見た奇妙な夢は今もって忘れられない。
タイトルは「関ヶ原の戦い」。
私は床几に座っている。
なぜか、その場面が関ヶ原の陣の真っ最中であることを私は承知している。西軍に属しているのか、東軍に属しているのかまではわからぬが、とにかく陣幕が張られた内側で諸将と作戦会議中だ。そこへ伝令係の者がやってくる。
そいつがムカデ野郎なのだ。
上半身だけ赤い鎧兜を纏い、胸から下がでろ~んとムカデである。あのムカデ特有の、側面に脚を何十も従え、わしゃわしゃと忙しなく動く胴体が十メートル近く、鎧兜の背後に連なっている。伸びきった身体はそのままに、ムカデ伝令は陣幕に進入すると報告を始める。しかし、私は相手のムカデ状態が気になって、まったく話の内容が耳に入ってこない――。
さすが41度。これに匹敵するパンチの利いた高熱夢を見ることはなかなかないが、最近、代わって注目しているのが「出鼻の夢」である。
先ほどの「んー」の発声で覚醒してしまう前に見ているのは、ほぼこのタイプの夢だ。別に高熱でなくても、仕事をしながらうつらうつらしてしまい、知らぬうちに夢の中に紛れこんでしまったときもこれに似た夢に遭遇する。
この「出鼻の夢」に対し、私がつけたタイトルは「量子論」。
どういう夢かと言うと、何かしらの行動の過程を経て、結論らしきあたりにいるという自覚がある。一時間のテレビドラマで言うならば、五十八分が経過して、残り二分あたり、という体感である。
されど、目が覚めたとたん、それらは雲散霧消する。プレパラートの薄いガラスのようにパリンと砕けてしまって、そこから一気に砂粒へと細かく散ってしまったかのように、一秒前まで見ていた夢の断片すら思い出せなくなってしまう。
夢を見ていた時間は、ほんの一、二分、ときに数十秒ほどだろう。だが、そうとは思えない、ボリュームある時間を夢の中で経験した手応えがある。
量子論のやさしめの解説を読むと、ほとんどの人は混乱する。あり得ないことが、あり得るんです、とやけに丁寧な言葉づかいで説明されているからだ。たとえば、箱の中に仕切りを設ける。そこに電子をひとつ放つと、箱の外からは、仕切りの存在を無視して、あちこちに電子が移動する様子が観察されるのだという。しかし、蓋を開けた途端、一カ所に収縮している――。
この解説を読んだとき、自分の夢みたいだと思った。時間と空間をあちこち飛び回った自覚があるのに、目が覚めた途端、自分は一カ所に収縮してしまう。そして、記憶もろとも消えてしまう。何かの結論に近づいたはずなのに、現実はその一歩目すら踏み出していないのだ。
最近、外国の研究者が人間の脳内にて「量子もつれ」が発生しているという研究結果を発表したというニュースを見かけた。「量子もつれ」が何なのか、私はいっさい理解していないが、「たぶん、それ、発生しています」と無責任にも賛同したい。
*
最後に、繰り返し見る夢について。
幼稚園に通っていた時分、しょっちゅう同じ夢を見た。
タイトルは「船上遊園地」。
スタート地点は決まって深い赤色のエレベーターだ。これは近所の日赤病院の古いエレベーターのイメージがベースにあったように思う。
私はエレベーターに乗りこむ。
すると、エレベーターは海中を沈降していく。私を運ぶ深紅のエレベーターはぶくぶくと気泡を出しながら、ゆらめいた映像となって、水底へと沈んでいく。私はその様子を俯瞰の位置で眺めている。
次のシーン、なぜか私は船の上にいる。甲板上では、着ぐるみというか、アニメそのままに二次元で表現されたライオンや象やうさぎたちがゴーカートを走り回らせている。別に他に遊具があるわけではないのだが、私はその場所を船上遊園地だと認識している。
私は走り出す。
船上からシーンが変わり、決まってこの夢のゴール地点となる場所に到着する。
この夢が奇妙なのは、そのゴール地点は必ず両親の寝室であり、さらに、実際に自分も両親の寝室の入口に立っていることだ。すなわち、自分の部屋から、夢を見ながら移動し、ゴール地点でぱちりと目を覚ます、という夢遊行動を繰り返していたことになる。
この夢の終点から、シームレスに現実が始まるという奇妙な夢を三、四歳の頃、何度も見た。おかげで三十年以上前に住んでいた家の両親の寝室を、写真より何よりも、この夢のラストに登場した部屋として、今も鮮やかに覚えている。
それきり――、この手の繰り返す夢とは無縁だったのだが、近ごろ、新たな夢に触れつつある。
タイトルをつけるのならば「あの街」。
夢の中で、私は毎度、「ああ、またこの場所に戻ってきた」と感じる。
そして、訪れるたび、街の範囲が広がっていく。
「この場所は前回に来た。この場所を右に進むと、以前、訪れたあの崖下の道路にたどり着く。こちら側のエリアは、巨大な海なのか湖なのかわからない地形に接するように、屋台村と土産物ショップがいくつも並んでいるところだよな――」
さらに次の訪問では、その奥に、巨大なウォータースライダーを併設したリゾートホテルがあることが判明する。いや、ちがう。リゾートホテル方面からウォータースライダーに乗って移動したら、よく知る屋台村エリアに接続し、両者の位置関係を把握できたのだ。
夢の中で、私は原付バイクや自転車に乗って移動する。蛇行するような坂の下には街があって、そこに商店街のアーケードが一本通っている。そのアーケードの脇道を抜けた先のすすけた街並みを散歩したときの記憶は、あれほど「出鼻の夢」は何度見ても内容を忘れてしまうのに、一度見たきりでも気味が悪いほど克明に残っている。
「あの街」の夢は、これまで見てきたものと何かが違う。
やけに平面構造の夢を何度も見るうち、やがて私はひとつの疑問を抱くようになった。
「実は、自分はあの街の住民で、夢の中でこっち側に遊びにきているんじゃないのか?」
夢と現の境界が破れ、本来なら夢の中まで持参できないはずの「あの街」の記憶が、こうして流入しているのではないか。
夢で「あの街」を訪れるのは楽しい。
街に友人はひとりもいないし、誰かと会話したりすることもないが、移動しながら場所を新たに開拓していくよろこびがある。特に夜が美しいのだ。海だか湖だかわからぬ水面に、屋台やレストランの光が反射している。それを眺めていると、心がワクワクしてくる。
もしも、いつの日か、私がこちらの世界から、ふいと姿を消してしまったとしたら――。
きっと、あの男は夢を見るのをやめて、「本来の街」に戻っていってしまったんだろうな、と思ってくれて問題ない。