ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. エッセイ一覧
  3. 万城目学のエッセイ万博2025
  4. #9 才能とは
第9回

#9 才能とは

 枯れぬ井戸というものは、この世に存在するのだろうか。
 私の創作の井戸はときどき枯れる。
 長い小説の連載――、それこそ二年や、三年がかりの作品を書き終えたとき、見るも無残に枯れ果てる。
 たとえば、ストックがほとんどない綱渡りの状態で二年間の週刊誌連載(『とっぴんぱらりの風太郎』)を終えたときの私がまさにこれだった。
 井戸を囲む大地までもがすっかりひびわれた様子を眺め、
「水を! たっぷりちょうだい!」
 と空に向かって拳を突き上げてみるが、ぽかーんとした青い空が広がるのみである。
 そこで雨を望むなどの他力本願ではなく、地下深くに眠っているはずの水源を呼び起こす作戦に出た。
 すなわち、積極的に文化に触れることで潤いを取り戻そうとしたのだ。
 ならば、音楽がよろしい。
 大学生のころ、アカペラサークルにほんの少しの期間だけ在籍した経験があった。昔取った杵柄とやら、ここは社会人アカペラサークルに参加するなんてええんじゃなかろうか。
 便利な世の中である。ネットで調べてみたら、さっそくアカペラサークルのメンバー募集に特化した掲示板を見つけた。
「さて、どこにお呼ばれしましょ」
 近所で募集をかけているところを重点的に見て回ったが、十分そこらで「こりゃ、駄目だ」と掲示板のページを閉じてしまった。
 まず、驚くほどみなさん本気だった。経験者的素養を求めるサークルが目立つ(ボイスパーカッションができるなど)。さらに、圧倒的にプレイヤーが若い。多くの募集に関し、音頭を取るのは二十代の若者だった。必然、近い年代のほうがコミュニケーションも取りやすいし、志向する曲も一致しやすくなるから、募集の条件を「三十歳まで」とするなど、年齢制限が幅を利かせている。
 当時、私は三十九歳。
 あえなく門前払いを喰らった。
 ならばひとりでと、社会人相手にピアノを教えてくれる音楽教室に通うことにした。こちらは年齢制限はない。お金を払えば、誰だってウェルカムだ。
 なぜ、ピアノだったのか。
 それは実に中途半端な実績ながら、私がピアノ経験者だからだ。
 幼稚園の年長から小学一年生まで、ピアノ教室に通っていた。バイエル(入門者用教則本)のはじめのほうで辞めてしまったから、演奏技術の蓄積は何もないが、ピアノへの親近感は高く、高校生になって、ビリー・ジョエルやビートルズを聴くようになったとき、彼らの楽曲のなかでも、ピアノ演奏が目立つ歌に心惹かれるようになった。
 高1のとき、何となく音を出したくなり、大阪の日本橋の電気店街で二万五千円の電子ピアノを買った。すると、学校の友人がビリー・ジョエルのピアノ用楽譜を貸してくれた。
 和音の音符の下に「ソ、シ、レ」などといちいち音階を書きこみ、とにかく一小節ずつ鍵盤の押さえ方を覚える。一カ月か、二カ月くらいはかかったのではないだろうか。ビリー・ジョエルのデビューシングルでもある、「PIANO MAN」の前奏および途中のかっこいいピアノソロ間奏部分を、何とか弾けるようになった。
 その後、私は前奏特化型ピアノマンとして、次々と新曲を習得していった。
 
 ビリー・ジョエルの「New York State of Mind」前奏
 ビートルズの「LET IT BE」前奏
 エルトン・ジョンの「YOUR SONG」前奏
 尾崎豊の「シェリー」前奏
 CHAGE and ASKAの「no no darlin’」前奏
 
 などなど。
 その後、大学の下宿にも連れていった電子ピアノで、夜中に小沢健二を弾き語り、隣人に壁を殴られるなど、マイペースにピアノ活動に勤しんだ――、という実績があるにはあったのだ。
「大人のピアノ教室 クラシック初級」
 それが、私の申しこんだ講座の名前だった。
 一回三十分。先生とマンツーマンの個別指導。月三回で月謝は九千円。
 初回のレッスンにて、私は「いつか弾けるようになりたい楽曲」が複数ある旨を先生に伝えた。
「ほう、何ですか」
 ニコニコ顔で訊ねる先生に、以下のリストを告げた。
 
 シューマン作曲「トロイメライ」
 ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女」
 バッハ作曲「主よ、人の望みの喜びよ」
 モーツァルト作曲「きらきら星変奏曲」
 ベートーベン作曲「悲愴 第二楽章」
 
 いずれも私好みのゆったりかつ端正なメロディーラインが特徴的な、クラシックのピアノ名曲ばかりである。
「なるほど」
 とうなずいた先生は、私が持参した「主よ、人の望みの喜びよ」の楽譜を見て、「取りあえず、これをやってみましょう」と簡単に告げた。
 その楽譜は、私が憧れから購入したがまったく太刀打ちできないまま放置していたものだった。先生の言を受け、それから一週間、家で練習してみたが、当然ながら出だしからまるで弾けない。
 翌週、その事実を伝えると、
「では、簡単な曲から練習して、向上の度合いに応じて、弾きたい曲にもチャレンジしていきましょう」
 と方針を定めてくれた。
 それから約八年間、ピアノ教室に通い続けた。
 まず右手のパートだけを、最初から最後まで練習する。次は左手で最初から最後まで。最後に両手で合わせる。ある程度、通しでつっかえずに弾けるようになると、次の曲へ。その際は先生が赤鉛筆で「いいでしょう! オッケーです」と、クリアした曲タイトルの横に勢いよく〇を描いてくれた。もっとも、社会人なので、合格の基準はかなり緩かった。
 はじめて合格のマルをもらった曲は、風呂の給湯完了を知らせるメロディで有名な「人形の夢と目覚め」だった。見開き2ページで音符の配置もシンプルな短い曲から、徐々に楽譜のページが増えていく。音符もどっさり重なるようになり、メロディーの構造も複雑に。それに比例して、一曲を完成させ、先生から合格をもらうまでの期間も長くなった。
 レッスン開始四年目にして、ついにモーツァルトの「きらきら星変奏曲」に挑戦した。
 その名の通り変奏曲なので、よく知られた「きらきら星」のメロディが手を変え品を変え登場する。軽やかになったり、荒々しくなったり、右手と左手で追いかけ合ったり、暗くなったり、まったく違う曲調になったりしながら、最後は最初のメロディに戻って大団円! という構成だ。楽譜も教本のなかで最長の十ページ超えだったのではないか。弾き始めてから、先生のOKをもらうまで、実にまる一年かかった。
 
   *
 
 約八年間もピアノ教室に通ったが、演奏会など人前で披露する機会は一度もなかった。
 ひとりで練習したものを先生の隣で弾き、アドバイスをもらうだけの完全に閉ざされた音楽活動だった。
 演奏技術が向上するにつれ、理解するようになったことがある。
 それは、自分にはできないことがたくさんある――、という事実だ。
 四十歳手前から始めたのだから当然なのだが、全然、思ったとおりに弾くことができない。
 たとえば、緩急。
 指や手の甲についた薄い筋肉の動きひとつで、同じ曲を弾いているとは思えないほど、ピアノはその表情を変える。
 音の強弱をつけつつ、緩急を添えられるか――。
 ピアノの演奏でもっとも差が出る部分とは、そこではないだろうか。
 緩急をつけるには、常なる意識が必要だ。
 こういう感じで弾きたい、という曲へのイメージを強く持たなければいけない。しかし、その意識を維持できるのはせいぜい開始二十秒か三十秒程度。油断すると、あっという間にメリハリのない単調な音色になってしまう。今となって思い返すに、高校時代に前奏特化型ピアノマンとしてひとり悦に入っていたのも、最初の数十秒なら雰囲気を持続させたまま弾くことができたからなのかもしれない。
 演奏の緩急について考えを進めていくと、それはつまり一音目からいかにスパーンと曲に入れるか、という初手の重要性にたどり着く。
 ちょうど教室に通っているとき、深夜に再放送されていた、70年代に製作されたNHKのドキュメタリー「日本人とカラヤン」を見た。
 1974年、当時人気絶頂だった指揮者カラヤンが来日。その際、上智大学の学生からの突撃オファーを受け、予定にはない大学生のオーケストラの練習に顔を出す、というハプニングが発生する。許された滞在時間は三十分。学生たちの演奏を少しだけ聞いたカラヤンは、「わかった」とうなずいて、いくつかのアドバイスを送った。そのひとつが「一音目からはっきりと自信を持って出して」だった。
 それから、カラヤンは指揮棒も持たずに手で指揮を始めた。わずか数分のやりとりを経て、大学生の演奏が劇的に変わったのを見て、指揮者ひとりでこんなに違うものなのか、と驚嘆したものである。
 そう、大事なのは一音目。
 興が乗って、リズムをつかみはじめると、誰だって演奏は安定する。そのもっともよい状態を、一音目から用意できるか否か。
 頭ではわかっていても、なかなかスパンと一音目を鳴らすことはできない。曲の出だしだけではなく、休符が登場するたびに、新たな一音目はやってくる。されど、こちらは楽譜を目で追うこと、それに従って指を動かすことに精一杯で、次のパートを心配する余裕なんてない。結果、一音目への意識の感度は見る見る低下していく。
 そもそも、普段からほとんど練習していないのだ。技術も自信もともなわないのは当然で、たどたどしくても、あちこち失敗しても、ある程度、通しで弾けるようになったことで満足すべきである。それなのに、どうして思ったとおりに表現できないことに、分不相応にもやきもきしてしまうのか。
 それは、執筆ならできるからだ。
 自分がピアノではできなくて残念に感じること、こう弾けたら、ああ弾けたらというはかない希望たち――、それらのほとんどを執筆の場合なら表現できてしまう、と知っているからである。
 例えば、一音目からスパーンと聴衆の注目を引く音を放つ。それは一行目から、読者の意識を引きこむことと同じだ。音の大小で表情を作り、緩急をつけて曲の魅力を引き出す。それはスタートで読者の興味を引きつけ、そこから徐々に緊張を高めつつ、ときに間の抜けた会話を入れて緩急を演出しつつ、物語の味わいを目いっぱい引き出す――、というよき作品を執筆する際の流れそのものなのである。
 ピアノならほんの数十秒で集中が切れ、さらに二、三分が過ぎると指の力が弱まり、腕も疲れ、ただ楽譜をなぞるだけの、まったくメリハリのない演奏に堕してしまう。
 一方、執筆の場では、どれほどのボリュームの作品であっても、私は全体に意識を張り巡らせながら、盛り上がるところ、抑えるところを思ったとおりに微修正できる。ピアノではとうとうできずじまいだった「こんな雰囲気で、最初から最後まで弾く」という希望も達成できる。つまり、執筆の場合、作品全体を正確なコントロール下に置くことができる。
 レッスンで、先生からこうしたらもっとよくなる、というお手本をさらりと披露されたのち、自分の番になる。鍵盤に手を置き、先生の音のイメージを頭に残しながら弾き始めるが、まったく違う音が出てしまうときのトホホ感。
「難しいなあ。執筆なら、思ったとおりに弾ける(書ける)のになあ――」
 普段、才能とは何か、なんてまったく考えないのだが、ピアノ教室でレッスンを受けている間だけは、
「やはり、自分は執筆の才能があるのかな。だって、あっちなら、簡単にこれができるもんな……」
 不遜ながら、ついつい頭の隅に思い浮かべてしまうのだ。
 

 
 ピアノ教室に通い始め、七年と半年ほどで、初回に伝えた「弾きたい曲リスト」の五曲すべてを履修した。それ以外にも二十五曲ほど、先生のマルをいただいたのではないか。
 今でも後悔していることは、約八年間にわたるピアノレッスンにおいて、自分の演奏を一秒も録音していないことだ。
 特にまる一年かけた「きらきら星変奏曲」は、どれくらい弾けていたのだろう?
 四十を超えての手習いのおそろしいところは、まったく楽譜を覚えられないことだ。十代ならば、一年も同じことをしていたら、脳が勝手に全パートを暗譜するだろう。だが、四十を超えると残らない。一年も同じ鍵盤の場所を叩き続けたのに、「きらきら星変奏曲」最初の一小節すら覚えていない。高校生の頃に覚えた数々の「前奏」なら、今でも指が覚えている感覚があるのに――。
 弾きたい曲が特になくなってからも、半年ほど惰性のまま教室へ通う期間が続いたある日、
「もう、辞めよう」
 唐突に思い立ち、そのまま教室の受付に向かい、退会届を提出した。
 直接の理由は、週刊誌連載(『あの子とQ』)が忙しくなりすぎて、締切翌日にやってくるレッスン日に向け練習することに疲れてしまったからというのがある。週刊誌連載でカラカラになった心を癒さんとピアノを始め、ふたたび週刊誌連載が原因で辞めてしまうのだから間抜けな話だった。
 しかし、同じような状況でも、決定的に違う点があった。
 井戸が枯れてしまったのだ。
 創作ではない。ピアノの井戸が、である。
 ピアノ教室を辞めて、もう二年が経つが、実はあれから一度もピアノに触れていない。まったく弾きたいという気持ちがわかないのだ。まるでピアノという存在が、まるごと自分から消え去ってしまったかのように――。
 おそらく、すでに井戸が枯れきった状態で、私はレッスンに通っていたのだろう。自分でも説明がつかないくらい衝動的に退会してしまったのは、とうに終わりが訪れていたからではないか。
 されど、井戸が枯れたことを私はまったくネガティブには捉えていない。
 むしろ、驚きとともに受け止めている。
 というのも、自分に関して、そこそこ心の奥深いところまで根が張った興味は、いつまでも持続するもの――、と勝手に思いこんでいたからである。
 しかし、それがこうもあっさりと、跡形もなく消え去ってしまうとは。大げさかもしれないが、新たに人間というものを知った思いすらある。
 たとえばの話だが、ほんの短い期間だけ活躍して消えていく小説家がいたとする。
「書けなくなった」
 退場の理由を当人から挙げられても、これまでの私なら、その言葉の意味を理解できなかったはずだ。書いても出版社の都合などで本にできない、というニュアンスならわかる。でも、文字通り書けないとはどういう意味なのか――?
 確かに、私の創作の井戸はときどき枯れる。
 それは事実だが、放っておいたら、そのうちまた湧いてくる、と呑気に構えていることもまた事実である。
 だが、もしも私の小説の井戸が、この「何もなくなってしまった」とあっけらかんと自覚できる、ピアノの井戸と同じ状態になってしまったら?
 そりゃ、書けないだろうと思う。だって、本当に「無」だから。とっかかりをつかもうにも、指がひっかかかるものすらない、この感じ。
 気まぐれに申しこんで、いつでも辞めることができるピアノ教室なら、勝手に「無」になろうと自分も含め、誰も困らない。でも、それをなりわいとする以上、ツルンとした顔で「何もなくなっちゃって」と言うことを許してもらえない、苦しいケースだってあるはずだ。
 さいわい、私の小説の井戸は当分の間、頼りなくも水脈を保ち続けてくれそうだ。
 それでも、いつか枯れる日はくるかもしれない。今回の経験のように、内なる井戸が自分でも気づかないうちに「無」の状態になってしまうことは、どんな対象にだって起こり得る。
 ただし、完全に枯れた井戸をひとつ抱えて感じるのは、別にその人の何かが衰えたわけではない、ということだ。
 ピアノの井戸が生きていた間に、私が表現した音楽は、すべて自身の内側から生み出されたものだ。その事実と、井戸が持続するかどうかの問題は、実はまったく違う。単に、人生の一コマを人知れず通過した、それだけの話にすぎない。
 ピアノ教室を退会してからも依然、クラシックを含め、音楽を聴くことは好きだ。音楽を聴く行為は受動で、演奏する行為は能動だから、同じ土俵で語るべきではないという指摘もあるかもしれない。だが、現在の自分の情感を探り、そこから似合う曲を選び、聴こうとする行為もまた、それなりに能動的な音楽活動と言えるのではないか。
 
 未来において、私の小説の井戸が枯れたとする。
 その後も、私はきっと読書を続けるだろう。おもしろい本を探し続けるだろう。それを見て、誰かが「あいつは才能が枯れた」と言うかもしれない。でも、おそらく私自身はピンと来ないのではないか。なぜなら、己の資質は何も変わっていないし、他人には衰えと映っても、それは人間として自然な変化を遂げただけ、という自覚があるだろうからだ。
 では、才能とは何なのか。
 もしも、何かを表現したいという気持ちがあるのなら、その気持ちが持続している今のことを言うのではないか。
 そんな気がするのである。

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す