「とにかく眠れないんです」
お客さまは、ベッドの上で膝を抱えて座り、眠れない理由を語りつづける。
黒くて長い髪で隠れ、表情が見えない。ニットもロングスカートも黒い。店頭に並べている毛布のタグを見比べていたので声をかけたところ、掛け布団を何枚か試したいということだった。ベッドに座ってもらってアンケートをもとに睡眠の状況を聞くうちに、話が悩み相談みたいになっていった。
「半年前に転職したんです。その前に働いていたところは、とにかく残業が多くて、辛かったので。残業のない日は、上司に付き合わされました。上司に飲みに誘われたら、断ってはいけないという空気があったんです。おかしいとは感じていました。でも、わたしはお酒が好きだし、仕事の話が聞けることは、楽しかった。かわいがってもらえているという優越感も覚えていた。お酒の席での話が仕事に繫がることも多かったんです。入社して二年くらいは、それで良かった。けど、同じ部署に新入社員が入って、空気が変わりました。彼女ばかりがかわいがられるようになった」
「はい」
睡眠と全く関係ない話になってきたと思いつつも、うなずきながら話を聞く。
こういうお客さまは、多い。
眠れない理由は様々であり、話せる相手をみんな探している。
心療内科医ではないし、友達や家族でもないのだから、どうしてあげることもできない。だが、語りはじめてしまったお客さまを止めることもできなかった。肯定することを心がけ、聞きつづける。その一方で、話題を寝具に戻せるタイミングを探る。
「かわいいだけではなくて、頭のいい子だったんです。大学は、わたしよりいいところを出ていた。愛嬌があって、別の部署の人たちにも、人気があった。わたしは、男性に同化することで、評価されていました。下ネタに笑うし、セクハラはジョークで返して、男性と同じだけお酒を飲む。彼女は、お酒飲めないんでと言って、飲み会に参加したとしても、さっさと帰っていきました。特別扱いというか、そのことに誰も文句を言わない」
古いタイプの会社だという気がするが、結構な大手なのかもしれない。大きくて歴史の長い会社の方が「今どき、ありえない」と感じるようなことが慣習として根付いていることもあるだろう。お客さまの年齢は、見た目や話の内容から考え、わたしよりも少しだけ下だと思う。けれど、お金は意外と持っていそうだ。バッグはハイブランドのものだし、最新機種の性能の高いスマホを持っている。
話の長くなるお客さまは、話すだけ話したら帰ってしまい、買うことはほぼない。
だいたいが二十代から三十代前半の女性で「買いたいけど、お金がない」と話す。お金がないのに、なぜデパートに来たのだろうとは思うが、見るだけでも楽しみたいということはある。
それでも、まれに、一式買われるお客さまもいる。
わたしがそうだった。
お金の面での問題はなさそうなので、どうにかして買う方へ話を持っていきたい。
「持病があるとかで、残業も必要最低限にしかしない。それでも、仕事で結果を出し、評価される。男性社員たちは、彼女ばかり褒める。そのうち、はっきりと比較されるようになりました。彼女みたいになれるようにがんばってと言われた時、心が折れる音が聞こえた気がしたんです」
「それは、言われたくないですよね」
最初は「残業が多くて、辛かった」という話だったのに、いつの間にか、後輩女子への妬みに苦しんだ話に変わっている。
「お姉さん!」お客さまは、顔を上げてわたしを見る。「わたしが彼女への妬みでしんどくなって、会社を辞めたと思っていますか?」
「えっ? いや、あの」
「違うんです!」うつむき、また顔を隠してしまう。「周りの男性たちが嫌になったんです。そして、その男性たちの価値観に合わせて生きる自分が嫌になったんです。彼女は、それを理解して、男性たちをうまく利用していました」
「……はい」よくわからないけれど、うなずいておく。
「バカバカしくなって、会社を辞めました」
「いい決断だと思います」
「それで、今の会社に転職したんです。業界は同じですが、新しい会社です。二十代から三十代前半の社員が多くて、活気に溢れている。ハラスメントは許されません。無駄な残業や飲み会の強要もない」
「素敵な会社じゃないですか」
「とってもいい会社です。気持ちを入れ替えようと思って、古い服を捨てて、新しい服を買いました。それまで、社会人としての常識や男性に気に入られるかどうかを意識して選んでいたけれど、自分の好きな服を着ることにしたんです。その時、他のものも断捨離することにしました。もう必要ないと思い、子供のころからずっと使っていた毛布も捨てたんです。捨てた時は、気分が軽くなった気がしました。でも、眠れなくなってしまった」
「……ああ、はい」
長い話は、睡眠の悩みにあまり関係がなかったようだ。仕事の悩みや生活環境の変化も、眠れない理由のひとつだとは思うから、全く関係なかったわけではない。だが、お客さまにとって、一番重要な問題は、愛着のある毛布を手ばなしてしまったことだ。
世界一有名なビーグル犬のスヌーピーが出てくる漫画『ピーナッツ』の登場人物に、ライナスという男の子がいる。スヌーピーの飼い主であるチャーリー・ブラウンの友達だ。ライナスは、いつも青いブランケットを持っている。このブランケットは「ライナスの毛布」や「安心毛布」と呼ばれ、毛布以外にもぬいぐるみなどの愛着があって手ばなせないもののたとえとして使われる。
寝具をすすめる上で、難しくなるのがこの「愛着」だ。
ライナスはまだ指をくわえているような子供だけれど、大人になっても「ライナスの毛布」を持ちつづけている人は、多い。子供のころから使っている毛布やタオルケットや枕と同じようなものが欲しいと言われれば、素材の近いものを探すことはできる。しかし、それは、どれだけ似ているものであっても、全然違うものなのだ。同じものの新しい商品が用意できたところで、違う。
ずっと持っていて、自分の手で擦り切れるまで使い込んで、肌になじむようになった素材の感触や、汗も涙も鼻水もしみ込んでいる匂いは、再現できるものではない。
「どういう素材の毛布でしたか?」無理とは言えないので、一応聞く。
「よくあるものです。地元にあったデパートでも、ここの商品を扱っていて、祖母がそこで買ってくれたみたいです」
「何年くらい前かわかりますか?」
「わたしが二歳か三歳の時なので、二十五年くらい前です」
「地元は、どちらですか?」
「鹿児島です」
「わかりました」アンケート用紙の隅に、メモをする。「同じものか近いものがないか、お調べします。時間がかかると思うので、確認でき次第、こちらからご連絡させていただくということでも、よろしいでしょうか」
「お願いします!」お客さまは顔を上げ、目を輝かせる。
アンケート用紙に連絡先と名前を書いてもらい、毛布の特徴を細かく聞いていく。
二十五年前では、そこのデパートの寝具売場も変わっているだろうし、前のままだったとしても顧客データは残っていない可能性が高い。
それでも、できるだけのことはしたかった。
気が済めば、眠れるようになるかもしれない。
お客さまが帰った後、レジ横のパソコンで調べてみたが、デパート自体が十年以上前に閉店していた。
わたしが子供のころは、まだデパートは特別な場所で、たくさんあった気がする。休みの日に家族で行ったこともあった。幼稚園のころから小学校を卒業するまでピアノを習っていたから、発表会の前には母親とふたりでワンピースを買いにいった。帰りに、デパートの中の喫茶店でホットケーキを食べた。一枚が大きくて、ひとりでは食べきれなかったから、母親と半分にわけた。
けれど、そのうちに、ほとんどの買い物をショッピングモールやネットで済ませるようになった。
デパートに行くのは、友達の家に遊びにいく前に地下の食料品売場でスイーツを買ったり、祖父母や両親への特別な贈り物を選んだりする時ぐらいだ。ここのデパートは、デパートという雰囲気は残っているものの、改装を繰り返すうちに高級ブランドの店は少なくなり、日常で利用しやすい店に替わっていったようだ。
つづけていくことは大変で、全国でデパートは減っていっている。
山形県と徳島県と島根県には、一軒もデパートがない。
今後、デパートのない県は増えていくだろう。
「何、調べてんの?」休憩から戻ってきた店長がわたしの横に立つ。
「お客さまが子供のころから使っていた毛布と同じものを探してるんです」
「ふうん」店長は、アンケート用紙を見る。「九州の人? 鹿児島じゃない?」
「そうです、なんでわかったんですか?」
「苗字がやまさきだから」
お客さまの名前は「山崎」さまで、ふりがなは「やまさき」になっている。
「やまさきって、鹿児島に多い苗字なんですか?」
「わかんないけど、わたしの周りのやまさきさんは、みんな鹿児島出身。あと、長崎とか」
「わたしの周りは、東京や神奈川出身のやまざきさんしかいませんね。東と西の差ですかね? それとも、九州だけなのかな」
「どうなんだろう」
店長も、出身は九州だ。
もともと福岡の店舗で働いていたのだけれど異動になり、夫と子供たちを連れて転勤してきたらしい。
地域によって、多い苗字や少ない苗字はあり、同じ漢字でも読み方が違うこともある。中学生や高校生のころのわたしであれば、どこを境に読み方が変わるのか、その由来はなんなのか、興味を持って調べただろう。しかし、今は、それどころではない。
「同じ毛布はないでしょ」店長が言う。
「ですよね」
「毛布だったら、今扱っているものでも、素材や感触はほとんど変わらないから、それでいいんじゃないかな」
「わたしも、そう思います」
アニメのキャラクターが描かれているとかであれば、ネットで調べたら画像だけでも出てくるかもしれない。けれど、よくある黄色い小花柄のものだ。季節ごとに紙のカタログは作られているが、それも見つけられないと思う。カタログが見つかったところで、商品があるわけではない。できるのは、今販売されている中から、よく似た商品をオススメすることだけだ。
けれど、何かもっと違う解決方法がある気がする。
電話をして「見つかりませんでした」と言うだけでは、山崎さまは二度と店に来てくれなくなるかもしれない。似た毛布では、わざわざ買いにこないだろう。
考えていたら、店のスマホが鳴った。
本社からで、店長はうんざりしたような顔で電話に出て、裏の倉庫に入る。長くなるかと思ったが、すぐに戻ってきて、スマホをパソコンの横に置く。
「沢村さん、毛布よりも羽毛を売ろうか」
「……はい」
寒くなってきたため、先週から羽毛布団のフェアがはじまった。
店舗としての売上目標が決まっていて、誰が何枚売ったか書き込む表が倉庫のドアの裏に貼ってある。
わたしは、まだ一枚も売っていない。
夏が暑くて長かったから、暖冬になるのではないかと思ったが、しっかり寒い。
駅の周りは特別に高いビルやマンションはなくて、五階から七階建てくらいのビルが並んでいる。小さくて古い建物も多いので、路地が入り組んでいるところもある。ずっと暮らしていても、路地の先まで来たことはあまりなかった。一本裏に入ると、喫茶店や居酒屋が密集している。ビルとビルの間の細い道では、風が強く吹く。
高橋さんとは、前と同じ喫茶店で約束した。
前の時は緊張していて、周りにどんなお店があるのか、見る余裕がなかった。
落ち着かない気持ちはまだあるけれど、前ほどではない。
喫茶店のガラス扉を開けると、高橋さんはすでに来ていて、窓側の席に座っていた。
カウンターにいた男性の店員さんに、待ち合わせであることを伝える。
高校生ぐらいの女の子たちがプリンアラモードの写真を撮っていたり、小さな子供のいる家族連れがパフェを食べていたり、赤ちゃんを連れた夫婦がいたりして、少し混んでいた。
「こんにちは」席の横まで行き、高橋さんに声をかける。「すみません、お待たせして」
「大丈夫です。タイミングのいい時間の電車がなくて、早く着いただけなので」
「今、どちらにお住まいなんですか?」話しながらコートを脱いでたたみ、奥の席に座る。「あっ、話したくないことは話さないでいいので」
「ここからJRで二駅のところです」
「前は、都内にお住まいでしたよね?」
事故の時に聞いた情報をどこまで知っていることにしていいか迷った。けれど、高橋さんは気分を害したりしていないようで、表情を変えることはなかった。
「妻の仕事や希望もあって、都内に住んでいたんですが、ちょっと離れようと思って。家賃も高いマンションだったから、ひとりで暮らすのは難しいというのもありました。会社には少し遠くなってしまったんですけど、営業の担当エリアがこの辺りになったので、ちょうどいい感じです」
「そうなんですね」
「沢村さんは、引っ越しはされていないんですか? もともと一緒には暮らされていなかった?」
「一緒に暮らしていました。引っ越そうとも思ったんですけど、大学卒業してからずっとふたりで住んでいた部屋なので、荷物が多くて。駅から離れていて家賃はそれほど高くないから、どうにか払えています」
駅から近い、ひとり暮らし向けのワンルームアパートに引っ越そうと、サイトで物件を調べたこともある。しばらく実家に帰ることも考えた。その方が生活は楽になるだろう。けれど、直樹のものをどうしたらいいのか考えると、それ以上先に進めなくなった。
遺品のうち、直樹の両親が「欲しい」と希望したものは、マンションに取りにきてもらった。そんなに多くなくて、大学入学のお祝いにおじいさんが贈ったドイツ製の万年筆とか二十歳になった記念にお父さんと一緒に買いにいった腕時計とか、家族の思い出が詰まったものだけだ。価値の高いもので、相続の問題もあった。子供のころや中高生のころの思い出の品は、もともと実家に置いたままだった。普段使っていたスーツやカバンや靴は処分してもいいし、実家に送ってもらってもいいと言われた。やり取りの最後に、お母さんから「依里ちゃんに、持っていてほしい」と、直樹にとっての「ライナスの毛布」である黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみを渡された。しばらくベッドに置いていたけれど、どう扱っていいかわからず、クローゼットの棚の上にしまった。
「何、飲みますか?」高橋さんは、わたしに見やすいようにメニューを開いてくれる。「お腹すいているようでしたら食べてもいいですし、好きなもの頼んでください」
「お昼ごはん食べてきたので、飲み物だけにします」
「僕も、朝と昼まとめて食べてきたから、飲み物だけにします」
店員さんを呼んで、わたしはホットの紅茶を頼み、高橋さんはレモンスカッシュを頼む。
紅茶はポットにお湯とティーバッグを入れ、レモンスカッシュはグラスに注ぐだけなので、すぐに出てくる。
わたしも高橋さんも、飲み物を見ながら黙ってしまう。
話したいことはたくさんあるものの、どう話しはじめるのがいいのか、わからなかった。
前に会った時は「また会いましょう」と約束して、連絡先を交換し合い、それで帰ることにした。頼んだものの飲めなかったコーヒーは、高橋さんが自分の分と二杯飲んでくれた。なかなか日曜休みが取れなくて、一ヵ月以上あいた。
カウンターの横には、前に来た時にはなかったクリスマスツリーが飾られている。
「依里さんって、珍しい名前ですよね」グラスから顔を上げ、高橋さんが言う。
「どうなんでしょう。同じ名前の友達とかはいませんけど、もっと珍しい名前はたくさんあるので」
「そうですね」またグラスを見る。
せっかく話題を出してもらったのに、すぐに終えてしまった。名前に関して、誰かに話したくても、話していないことがある。高橋さんにも、話していいか迷う気持ちはあるけれど、そういうことを話すために、わたしたちは会っているのだ。
「今年の春ごろに配信で見た映画に、同じ依里という名前の登場人物がいました。小学生の男の子だったんです。その子は、いじめられっ子なんだけれども、こっそり仲良くしている友達がいます。友達のお父さんは亡くなっています。愛人と温泉旅行中に事故死したんです」
「……はい」
「その映画、公開された時も気になっていたけれど、見にいけなかったんです。寝具店のパートをはじめて、勉強しないといけないことがたくさんあり、気分転換したかった。でも、終盤でそのことが明かされて、そこから先のストーリーは頭に入ってこなくなりました」
「心中、お察しします」
「以前であれば、何も気にせず何も考えもせず、見ていたと思います。ドラマや映画で、事故死って多いじゃないですか。ずっと自分には関係のないこととして見ていました。事故以外にも不治の病とか。その映画で事故死は小さなエピソードのひとつでしかなかったし、感動ものとは違いました。けど、人の死を泣けるものや美しいものとして扱う話って、すごく多い」
「わかります」高橋さんはうなずき、ストローでレモンスカッシュを飲む。「僕も、前は全く気にしていなかった。妻には、安っぽいものが好きだよねとか笑われていましたが、わかりやすい感動ものが結構好きだったんです。事件や事故で死んだ仲間のためみたいな熱い話とか余命何ヵ月とか。でも、見られなくなりました。実際に死なれた時って、もっと思わぬ感情が出てくるものだと考えたりもして、入りこめなくなってしまった」
「わたし、どうしたらいいかわからなくて、黙っていただけなんです」
話が逸れてしまうと思ったが、気にしない方がいいだろう。
感情的にならないことにだけ気を付けて、紅茶をひと口飲む。
外が寒かったから温かいものを頼んだけれど、店内は暖房が効いていて暑いくらいだ。わたしも、冷たいものにすればよかった。待たせてはいけないと思い、慌てて決めるんじゃなかった。
「前にお会いした時、高橋さんは被害者遺族の会でのわたしの印象を、静かに前を向いていたと言いました。あれは、前を向いていたというよりも、どこを見たらいいか決められなくて、とりあえず正面を向いていただけなんです。周りに圧倒されて、どうしたらいいかわからなかった。自分自身の意思や感情も、全くわからなかった。正直、未だにわかりません。悲しいとか寂しいとか感じてはいますけど、それだけではない」
「僕も、同じようなものです。被害者遺族の会で、怒ったり泣いたりしている人を羨ましいと感じました。悲しい時、人はその感情を誤魔化すために、怒ることもあるんだなって冷静に考えていた。妻の父親は被害者遺族の会に、今も熱心に参加しています。保障のことで、ずっとバス会社と揉めているんです。運転手が前日に何をしていたかとかバス会社の経営状況はどうだったのかとか調べたりしているようです。美大で日本画の講師をしていて、知的で上品な人でした。お金に困っているわけでもないはずだし、どうしてああなってしまったのかと疑問を覚えますが、怒って誰かを攻撃することで娘を亡くした悲しみから目を逸らしつづけているのでしょう。たまに電話がかかってきて、バス会社の不正が発覚したと言われたりします。けど、聞けば聞くほど、僕は冷めるばかりです」
「その被害者遺族の会には、彼の父親も参加しているので、わかります」
最初の時は、事故の関係者のほとんどが参加して、バス会社から事故の状況や今後の保障について説明を受けた。わたしは法律的に直樹と他人でしかなかったため、保障は関係がないので、その一度だけで充分だった。事故の状況について、誠意を持って説明してもらえたと思えた。しかし、参加者のうちの何人かは「納得がいかない!」と騒ぎ、その後も集まりつづけている。本気でバス会社に不満があるわけではなくて、起きてしまったことに対する感情のやり場がないだけなのだろう。
直樹の両親とは、もうほとんど連絡を取っていないが、たまに「被害者遺族の会で、こういう話が出ました」という報告のメールが届く。その話は、どんどん歪んでいき、創作としか思えないバス会社の裏事情みたいなものに変わっていっている。
「高橋さん、強い人に見えていたから、安心しました」
「強くないですよ。どうしたらいいかわからないから、何もせずに普通に暮らしているだけです。思わぬ感情で、心の中がぐちゃぐちゃになったままで、整理ができない」
「その感じも、よくわかります」
ただの事故死であれば、違ったのかもしれない。
泣いて悲しんで、底まで落ちて、いつか浮上していく。
悲しいと思いながらも、どうしても引っ掛かってしまうことがある。
けれど、妻が不倫していたかもしれないという高橋さんと彼氏が浮気していたかもしれないというわたしとでは、感じたことも考えたことも違うだろう。
安易な共感は危険だ。
「枕、どうしました?」話題を変え、わたしは紅茶を飲む。
デパートに来て、枕をいくつか試したものの、高橋さんは買わなかった。
「まだ買っていません。冬になって、硬くなってきた気がします」
「なんで、枕だけ買わなかったんですか? 引っ越しの時にマットレスやベッドは買ったんですよね?」
「前のマンションでは、大きなベッドを使っていたんです。クイーンかキングか、ダブルより大きなものです。大きすぎて、夫婦で暮らしている時でも、一緒に寝ている感じがしなかった。ひとりで暮らす部屋はワンルームしかなくて、それが置けるほど広くないので」
「あっ、なるほど」
「あと、なんか柔らかかったり硬かったりすると思いながらも、気に入ってたんです。妻が買ってきてくれたものだから。でも、合ってない枕は良くないんだろうなって、沢村さんの説明を聞いて思いました。次は、ちゃんと合ったものにしようと考えて、他の寝具店とかも見ています」
「そうなんですね」
「買う時は、沢村さんのところにしようと考えてはいるんです」
「いえいえ、合ったものが一番いいですから。うちで買っていただけるのであれば、前に試してもらった以外の枕もあるので、また来てください」
「はい」
「枕を新しくしたら、眠れるようになると思います」
カップがカラになったので、ポットの紅茶を注ぐ。
ティーバッグを入れたままだったから、濃くなっていた。
「次、違うお店にしましょう」高橋さんが言う。
「えっ?」
「ここ、メニューが少ない」顔を近づけ、店員さんに聞こえないように小声になる。
「そうですね」わたしも小声で返す。
「考えておきます。どこかオススメとか行きたいところがあったら、教えてください」
「はい」
クリスマスツリーに巻いたイルミネーションがうまく点滅しないみたいで、店員さんはスイッチを入れたり切ったりつけたりを繰り返していた。
マンションに帰ってから、直樹の写真に手を合わせ、高橋さんと会ったことを報告する。
直樹と付き合っていた時、男性とふたりで会うことは、なんとなく禁止されていた。駄目とはっきり言われたわけではない。それでも、嫌がっている空気は伝わってきた。大学生のころは、サークルやバイトの友達と帰りが一緒になったり、男性とふたりになることがあった。最初は全て報告していたけれど、直樹は「信頼してるから、気にならない」と言いながらも機嫌が悪くなることがあったから、そのうちに言わなくなった。社会人になってからは、女性の多い職場に派遣されて派遣会社の担当者さんも女性だったから、男性と接することがあまりなくなった。男性の上司はいたものの、ふたりきりになる必要がなかった。
家族以外の男性とふたりで会うことは、いつ以来か思い出せないくらい、久しぶりだ。
高橋さんとのことを報告したら、直樹が嫉妬するかと思ったけれど、なんの声も聞こえてこなかった。怒って黙りこんでしまったわけではなくて、状況と感情がうまく繫がらないのだ。だって、直樹が生きていたら、わたしは高橋さんと知り合うこともなかった。
外は寒くても、部屋の中の空気がこもっている気がしたから、リビングの窓を開けて換気をする。
まだ五時を過ぎたところだけれど、空はすでに暗くなっている。
隣に直樹が立ち、「寝室の窓も少し開ける?」と聞いてくる。「お願い」と答えながらも、わたしは自分で寝室に行き、窓を少しだけ開ける。風が通り、カーテンが舞う。
クローゼットを開けて、棚の上から黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみを出す。マメに洗濯や補修をしていたようで、少し潰れているものの、ほつれたりしているところはない。抱きしめて鼻を近づけると、まだ直樹のにおいがする。焼き立てのパンみたいで、微かに甘い。香水はつけていなかったし、加齢臭という年齢でもなかった。人間の体臭であって、直樹ではない誰かでも、同じようなにおいがするだろう。
それでも、わたしが何ヵ月も眠れなかった理由は、このにおいだった。
事故の後、お通夜や告別式は直樹の実家に任せていたけれど、結婚式場のキャンセルはわたしがしなくてはいけなかった。遺品のことやお金のこともあり、慌ただしくする中でも、いつもの習慣として家事はちゃんとしていた。掃除をして、月に何度かシーツや枕カバーの洗濯をした。冬が終わり、春になって暖かくなったころ、寝室のにおいが気になるようになった。隅々まで掃除機をかけ、カーテンも洗ったけれど、消えなかった。部屋ではなくて、寝具のにおいだった。冬の羽毛布団から春用の綿の掛け布団に替えたのに、眠ろうとしたら、直樹のにおいがした。身体に布団を掛けて温まっていくと、においが強くなる。洗濯し直しても、柔軟剤の香りを変えても、消えなかった。隣で直樹が寝ているようだった。
起きている時も、いつも直樹が近くにいてくれているように感じている。優しくて、常にわたしのことを肯定してくれる。嫉妬することも、わたしへの愛情だ。安心できる存在だと思える。でも、それは、良かったことだけを思い出そうとしているからだろう。
眠ろうとして気を抜いた状態だと、忘れようとしていることが心の中に広がっていった。
高橋さんの奥さんと直樹は、どんな部屋に泊まり、どういうふうに寝たのか。直樹は高橋さんの奥さんにどう触れて、高橋さんの奥さんは直樹に何をしたのか。ふたりの間に起きたことをわたしは知らない。ふたりでいただけで、何もしていないかもしれない。けれど、わたしに噓をついて山奥の温泉旅館に行って、何もしていなかったと言われたとしても、信じられるわけがない。
付き合いはじめたばかりのころ、直樹が急に休講になったから女の子とふたりで映画を見にいったと知り、わたしは何も気にしていないフリをしながらも、嫉妬心でいっぱいになった。社会人になってからも、直樹は会社の同僚や仕事関係の女性とふたりになることはあると話していた。仕事だし、浮気の心配をしたわけではなくても、常に引っ掛かるものはあった。
もともと直樹はよく汗をかくから、セックスをすると、溺れるんじゃないかなと思うくらい身体中から汗を流していた。初めてした時、直樹はそのことが恥ずかしかったようだけれど、わたしは少しも気にしていなかった。サークルの友達という関係だったころ、川沿いのキャンプ場でテントやバーベキューの準備をしながら、直樹は首に巻いたタオルで汗を拭いていた。その横顔を見上げ、いつか触れてみたいと考えていた。身体中が触れ合って、直樹の汗と自分の汗が混ざり合っていくことに、強い喜びを覚えた。顔や首筋を流れる汗を舐めると、少し苦かった。
知らない女の頰や胸元に、直樹の髪や顎の先からあの汗が落ちたのかと思うと、許せない気持ちで息ができなくなった。
洗濯機で丸洗いできる夏用の掛け布団に替えても、においは消えなかった。ベッドのマットレスは、洗えない。枕も、洗えないものだった。どうしようもないくらいに染み込んでいるのか気のせいでしかないのか、判断ができなくなっていった。消臭スプレーもかけてみたが、効果が感じられたのは一瞬だけだ。部屋に来た北斗からは「うちの布団だって、こんなにおいだから、姉ちゃん自身のにおいじゃない?」と言われた。そうかもしれないと思って、自分の身体や服のにおいを嗅いでみたところで、よくわからなかった。秋が過ぎ、また冬になったころには、ベッドに入れなくなった。リビングでラグに横になると、少しだけ眠れた。ラグも直樹がいたころから使っているのに、においは気にならなかった。
デパートに行き、寝具店で店長の話を聞いて、全て買い替えることを決めた。
ふたりで住んでいた時、ベッドは眠るためだけの場所ではなかった。セックスをして外が明るくなるまで、直樹とお喋りしていたこともある。休みの日に、一日中ベッドで過ごしたこともあった。そういうこともする場所だと考え、寝具を選んでいた。色っぽくしていたとかではないけれど、シンプルで触り心地のいい素材を選びながらも、健康的になりすぎないようにした。スポーツ選手の宣伝するマットレスがあることは知っていたが、そういうものはふさわしくない。健康を重視するのは、結婚して子育てが落ち着いてからでも遅くないと考えていた。
これからはひとりで寝るのだと思い、健康と寝心地を考え、自分に合ったものを揃えた。
新しい寝具にしたら、直樹のにおいが消えて、眠れるようになった。
黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみをベッドに置いたりしたら、またにおいが戻ってきてしまう。
棚の上に戻し、クローゼットを閉める。
璃子ちゃんは、白地に草花の描かれた羽毛布団に包まり、ベッドの上で寝返りを繰り返す。
平日の夕方から夜は、混んで忙しくなるかひとりもお客さんが来ないか、はっきりとわかれる。天気とかデパートの催事とか、理由はありそうだけれど、その法則はいまいちはっきりしない。長く働くパートのお姉さんたちにも、わからないようだ。雨の日の方が混む気はするということだった。
今日は、外が晴れているからなのか、お客さんが来そうにない。
早番で十七時上がりだった璃子ちゃんに、接客の練習に付き合ってもらうことにした。
「掛け布団って、そんなに気にしてないんだけど、どういうのがいいとかあるの?」ベッドで寝たまま、璃子ちゃんが聞いてくる。
「軽いものがオススメです」普段はタメ口だけれど、接客の練習だから、わたしは敬語で話す。「寝ている時、寝返りを打つことが大事になります。起きている間、立っていても座っていても、人間の身体は少しずつ歪んでいきます。身体には左右差があり、自分ではまっすぐにしているつもりでも、どちらかに傾いていたりするので、どんなに気を付けていても歪んでしまう。寝返りを打つことで、その歪みを調整していくんです。睡眠中に動きすぎると、寝相が悪いと言われたりします。でも、動いた方が身体にはいいんです。年を取って身体が硬くなると、動けなくなっていきます。子供は、起きたら逆様を向いていたりするくらい動きますが、高齢の方で同じように動く方はほぼいません。できるだけ動きやすいように、重い掛け布団よりも、軽いものがオススメです」
「そうなんだ」返事をしながら、璃子ちゃんは寝返りを打つ。「たしかに、この布団は軽くて、動きやすいかも」
「仰向けで、まっすぐ寝てみてもらっていいですか?」
「こう?」
「こちらですと、人間の身体の形を計算して、キルティング加工がされているため、肩の辺りに隙間ができにくくなっています」
羽毛布団は、縦と横に縫い目の入るキルティング加工がされていて、そのひとマスひとマスに羽毛が入っている。キルティングの幅や生地の素材によっては、仰向けに寝た時に肩の辺りに隙間ができて、そこから冷気が入り込んでいく。
「あったかい」璃子ちゃんは目をつぶり、眠りそうになる。
「また、こちらの羽毛布団は、水を通さない生地が使われているので、中の羽毛が汚れにくくなっており、長くお使いいただけます」
「アウトドア用品みたいなこと?」
「同じです。寝ている間に汗をかいても、布団の中までしみ込むことがありません」
「……そっかあ」半分寝ているような声で返事をする。
「ちょっと、寝ちゃわないでね」璃子ちゃんの肩を軽く叩く。
お客さまでも、寝そうになってしまう方はいるけれど、接客されているという緊張感があるからか、本気で眠る方はいない。璃子ちゃんは、練習に付き合っているだけでしかないし、朝から働いて疲れてもいるのだろう。
「これは、寝ちゃうよ」眠そうな顔のまま、身体を起こす。
「眠らないように、ひとつ実験をしてみましょう」レジカウンターの棚から、茶色い羽毛の入った透明のプラスチックケースを持ってくる。「手のひらを上にして両手を出し、目をつぶってください」
「こう?」璃子ちゃんは、羽毛布団から両手を出す。
右の手のひらの上に、わたしはプラスチックケースから出した羽毛を載せる。
「今、羽毛が載っているのですか、どちらの手かわかりますか?」
「ええっ? わかんない」
「しばらく、そのままでいてください」
「あっ、右が暖かくなってきたかも」
「目、開けていいですよ」
「おおっ! 右だ! 感触だけじゃ、全然わかんなかった」
「これが最高級と言われているアイダーダックの羽毛です。載っている感触がないくらい軽くて、暖かい」
「これがここに入ってるの?」腰から下に掛けたままの羽毛布団に触る。
「いえ、それは、こちらになります」
レジ前の羽毛布団が並んでいる棚から、アイダーダックの羽毛布団を持ってきて、掛けているものと交換する。
「さっきのも軽かったけど、さらに軽い。今使ってる羽毛布団、いまいち暖かくなくて厚手の毛布もかけていて、重いんだよね。これだったら、一枚で大丈夫でしょ?」
「そうですね。この辺りであれば、冬の一番寒い時季でも零下とかにはなりませんから、充分だと思いますよ」
「いくら?」
「シングルサイズですと、税込みで三百三十万円です」
「……えっ?」驚きを通り越し、街中で妖怪でも見かけたような顔で、璃子ちゃんはわたしを見る。
「今だったら、羽毛布団のキャンペーン中なので、こちらをご購入いただくと、シルクの掛け布団カバーを無料でお付けできます」
「無理だって、年収より高いよ」
「……そうだよね」
アイダーダックの羽毛布団をキレイにたたんで棚に戻し、さっきかけていた羽毛布団を持ってきて、璃子ちゃんの足元に掛ける。
「ちなみに、こっちはいくら?」
「こちらで、八十八万円です」
「三百三十万円の後だと安い気がするけど、めっちゃ高いね……」
「最高級の羽毛は、ダイヤモンドと一緒です」
「どういうこと?」
「アイダーダックは、アイスランドの海岸線に生息しています。ごく限られた地域にしかいません。親鳥たちは雛を育てるために、自らの羽毛を使って巣を作ります。その巣から羽毛を取ってきて、一枚の布団にします」
天然のものを使っているため、どうしても値段が高くなる。掛け布団は、羽毛以外にも、繭を手で広げて何層にも重ねた真綿でできたものとかレッキスといううさぎの毛皮を使ったものとか、驚くような値段のものがたくさんある。その中でも、アイダーダックの羽毛布団は最高級品であり、キャンペーンの時以外は店に置いていない。わたしや璃子ちゃんの年収以上で、車だって買えるような値段だけれども、買う方はいる。
「ダイヤを売っている身として、なんとなくわかるよ」
「こちらも、マザーグースの羽毛を九十五パーセント使っているため、軽くて暖かいですよ」掛けている布団を手で指し示す。
「いや、買えないから」
「デパートの従業員サービスが使えるので、一割引きの七十九万二千円にできます」
「無理」首を大きく横に振る。「沢村さん、うちで宝石の付いた指輪買う? ダイヤじゃなくて、エメラルドやサファイアでもいいよ」
「無理」わたしも、首を大きく横に振る。
しかし、本当は、わたしは璃子ちゃんが働くお店のブランドの指輪を持っている。大きなダイヤモンドの輝いているものだ。ここではなくて、県の中心部のデパートで買った。婚約指輪はいらないと話していたのだけれども、僕があげたいからと直樹に言われ、プロポーズの時にプレゼントしてもらった。
「あと、もうちょっとかわいい柄のものがいい。なんか、掛け布団って、どれも渋い柄してるよね」
話しながら、璃子ちゃんは羽毛布団の並ぶ棚を見る。
ボタニカル柄やペイズリー柄の羽毛布団が並んでいる。色も渋くて、棚に出ているものは茶系が多い。高級品として、ギンガムチェックや水玉みたいなカジュアルな柄にするわけにはいかないのだろう。無地のものもあるが、値段の高いものほど柄が細かく複雑になり、金に近い色になっていく。
「接客は、いかがでしたか?」まっすぐに座り直し、璃子ちゃんに聞く。
「かたいよね」
「どの辺りが?」
「丁寧だし、すごい勉強していて知識はあるんだろうなって感じだけど、かたい。最初の説明長すぎて、よくわかんなかった。もっと軽くした方がいいんじゃない? うちのお客さんなんて、宝石がどこでどう取れてるかなんて考えもせず、かわいいとか限定品っていうだけで、何百万円もするものを買っていく。わたしは、店員として、一緒になってかわいいですよねとか国内には何個しかないんですよとか言って、盛り上がっていればいい」
「……そうか」
「結局、その金額を出せる人にしか買えないんだから。細かい説明なんて必要ないんだよ」
「まあ、そうだね」
「さっきの最高級羽毛布団であれば、わたしはそのレア度をもっとアピールする。お金を持っている人間は、そういうの好きなんだから。性能の良し悪しなんて、関係ない。わたしだって、お金があったら、他の誰も持ってないようなものが欲しい」
「そのニット、わたしも持ってる」璃子ちゃんの着ているネイビーのハイネックニットに視線を向ける。
ファストファッションのブランドのもので、同じもののグレーを買った。一週間限定価格の時で、三千円もしなかった。着て歩いていると、コートの下に同じものを着た人とすれ違う。
「そういうことに慣れていくの、しんどい」ニットの胸の辺りを軽く引っ張り、璃子ちゃんはため息をつく。
「……うーん」
「お金持ちと結婚したいよ」
「婚活、進んでるの?」
「今度の休みに、アプリで知り合った人と会う」話しながら髪を結び直し、帰る用意をする。
「わたしも、ちょっと考えようかな」
「えっ! 本当に?」
「ちょっと考えることを考えてみる」
「何それ?」眉間に皺を寄せる。「まあ、いいや。今度、ゆっくり話そう。今日は、帰るね」
靴を履いてバッグを持ち、帰っていく璃子ちゃんを店の入口で見送る。
「ありがとうございました」背中に向かって言ってから、使ったベッドの周りを片づける。
直樹がいなくなってしまい、もう二度と恋愛はしないと考えていた。好きだった気持ちと裏切られたと感じる気持ちの間で揺れながらも、自分は直樹をずっと好きでいたかった。
でも、そういうわけにはいかないだろう。
レジカウンターに入り、引き出しから山崎さまのアンケート用紙を出して、連絡先を確認する。仕事があるため、電話は夜にしてほしいと言われている。
店長が本社や前にいた福岡の店舗にも聞いてくれたけれど、二十五年前のカタログはデータもないし、商品がわかったところでさすがに在庫はないということだった。考古学部だったころの智慧を使っても、これ以上は調べようがない。千年以上も前の土器は掘り出せるのに、二十五年前の掛け布団は見つけられなかった。山崎さまは、自分がずっと使っていた毛布を取り戻したかったのであり、同じ商品の新品が欲しかったわけではない。徹底的に調べたと話せば、諦めもつくだろう。
問題は、次のステップだ。
どうにかして、また店に来てもらいたい。
売上が欲しいという気持ちはある。だが、来てもらえれば、何か別の提案ができる気がしていた。「眠れない」と話す人をそのままにしておきたくない。寝具店の店員にできることは、寝具を売ることだけであり、これはエゴだ。わたしにはまだ、眠るための提案をできるほどの知識もない。それでも、電話をして「ありませんでした」というだけで、終わりにしたくなかった。
迷っていると、店長とエリアマネージャーの天野さんが店に入ってくる。
天野マネージャーは、私鉄で三十分くらい行ったところにあるショッピングモール内の店舗の店長であり、県内にある系列店のエリアマネージャーを兼任している。キャンペーンをやっている時にヘルプで来たりする他、月に何度かここにも様子を見にくる。三十代後半の男性なのだが、年齢よりも上に見える。顔が老けているわけではないけれど、体形やスーツの着方や振る舞いがおじさんっぽい。
今日は、エリアの店長の集まる会議があったから、その帰りだ。
「お疲れさまです」わたしと他のパートのお姉さんたちは、声を揃える。
「お疲れ、どう?」天野マネージャーは、誰に聞いているのかも何が聞きたいのかもわからない質問をしてくる。
誰も答えないでいると、イラついていることがわかりやすく表情に出てくる。
「どう? って聞いてんだけど」威圧するように言う。
この態度がおじさんっぽいというか、昭和からタイムスリップしてきたのかなと感じる。
本社の社員や他店舗の店長は、誰もが同じような態度を取る。本社勤務だから、エリアマネージャーだから、店長だから、正社員だから、パートよりも偉い。派遣社員の時も、ハラスメントのようなことはあった。だが、契約外の残業や業務の強制など、一時的なことだった。そういう時には、間に派遣会社の担当者さんが入って解決してくれた。ここは、直接雇われているので、そういう人はいない。デパートの本部から「みんなが働きやすい職場にしていきましょう」と言われても、会社としては関係のないことだ。パートのお姉さんたちは裏で文句を言うだけで、問題提起することはない。
「沢村さん、羽毛売れてないよね?」天野マネージャーはレジカウンターに入ってきて、わたしの横に立つ。
女性だけの時は広々と使えるのに、天野マネージャーは背も高くて横幅もあるため、急激に狭くなる。
店長は、天野マネージャーよりも立場が下なので、カウンター内には入ってこないで、黙ってレジ前に立っている。パートのお姉さんたちは、自分には関係がないという顔で離れ、枕の整理やタオルを並べ直しにいく。
「キャンペーン始まってから、一枚も売れてないよね? 今月、何か売った?」
「枕は何個か売ってます。あと、マットレスも一台売りました。掛け布団もキャンペーンの対象外ですが、年末セールの羽毛布団は何枚か」
「それじゃ、駄目だってわかるよね?」
「……はい」
直樹は穏やかな性格だし、父親や北斗も怒る人ではない。中学と高校の考古学部で一緒だった男の子たちも、大学生のころの男友達も、みんな優しかった。街中で男性がぶつかってきたり、いきなり怒鳴られたりしたことはあったけれど、それはその場だけの出来事だ。「怖かった」と直樹に話すと、「依里には、オレがいるから」と手を握って、背中や肩を撫でてくれた。
「沢村さんは、まだ若いし、徐々にでもいいかな」態度を変えて優しい声で言い、天野マネージャーは一歩近づいてくる。
「はい、がんばります」一歩離れるが、壁際に追い込まれる。
飴と鞭とでも考えているのか、こうして急に優しくしてくるところは、気持ちが悪い。仕草が子供のころに再放送で見たトレンディドラマのようで、威圧してくる時以上に昭和っぽさが漂う。
「これは、どうしたの?」優しい声のままで言い、山崎さまのアンケート用紙に手を伸ばしてくる。
「そのお客さまは、探していた商品がなかったので、ご連絡を差し上げるところでした」
「まだ若いし、金はないか。でも、この地域に住んでるってことは、そうでもないかもな。実家かひとり暮らしかわかる?」
アンケートに連絡先を書いてもらう時、名前と電話番号だけでいいですと伝えたのだが、山崎さまは住所や生年月日の欄まで書き込んでいた。
「そこまでは、聞いてません」
わたしだって、山崎さまの持ち物や仕事から、お金を持っているかどうか判断しようとした。けれど、その情報を天野マネージャーには話したくない。
「このお客さん、オレがいる時に来てもらうようにして」
「えっ?」
「オレが羽毛売って、沢村さんの売上にしてあげるから」わたしの目を見て、天野マネージャーは言う。
「いや、でも、探していた商品はないので、また来ていただけるか難しいですよ」
「じゃあ、電話もオレがしてあげるよ。来てもらえるようにうまく言うから。沢村さんは、こうしたら売れるんだっていうところを見てて。探してた商品って、なんなの?」
「……毛布です」
「掛け布団が欲しいんだったら、余裕じゃん」
「あっ、いや、でも」
どうしたらいいかわたしが迷っているうちに、天野マネージャーはお客さま対応用の固定電話から山崎さまに電話をかける。
出ないことを願って、受話器を持つ横顔を見上げていると、天野マネージャーはわたしの方を向き、微笑みかけてくる。思わず微笑み返してしまうと、なぜか嬉しそうに顔を綻ばせた。
山崎さまは出なかったみたいで、天野マネージャーは受話器を置く。
「残念」そう言って、軽くわたしの肩を叩く。「電話、折り返しかかってきたら、ちゃんと来てもらうようにするんだよ。オレが来る日は、シフト表に書き込んでおく。もちろん、その日は、沢村さんも出勤して。他のことも、相談してくれていいから」
「……はい」
一瞬、触られただけなのに、仕事用の白いシャツが汚れた気がした。
大袈裟だと思っても、肩から汚れが広がっていく。
前だったら、こんなに気にならなかった。
この嫌な感触を消してくれる人は、もういないのだ。
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)
1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。最新刊は『世界のすべて』。