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今夜も、眠れない 第六話

 井上いのうえ家のお墓は、都内のお寺にある。
 閑静な住宅街と言われる辺りで、駅の反対側には直樹なおきのお父さんの実家があり、今もおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいるはずだ。何度かお邪魔させてもらい、おばあちゃんからは直樹が子供のころに好きだった肉団子の作り方を教わった。ふたりとも、結婚式を楽しみにしてくれていた。一周忌は、おじいちゃんが体調を崩して来られなかったので、直樹の四十九日から会っていない。もう会うことはないのだろう。
 命日に合わせて、お墓参りに来たかったのだけれど、直樹の家族や親戚と会うかもしれないから、ずらすことにした。
 いつにするか迷ううちに、三月になってしまった。
 まだ寒いが、春はすぐそこまで近付いてきていて、風が暖かく感じる。
 お寺の門は開いていたので、中に入らせてもらう。
 本堂にお参りしてから、手桶に水をむ。
 お線香は家から持ってきて、お花は駅前の花屋さんで買った。
 平日で、お彼岸はもう少し先なので、お墓参りに来ている人は他にいないようだ。
 お墓の並ぶ間を抜けて、奥にある井上家のお墓の前まで行く。
 三回忌を終えたばかりだし、他にも誰かが来たようで、お墓はキレイに洗われて、周りも掃除されている。供えられた花も換えたばかりなのか、まだ新しいみたいだった。
 汲んできた水をお墓にかける。
 直樹が亡くなる前は、両親についていき、父方の祖父のお墓参りを年に一度か二度するぐらいだった。ここには、納骨や一周忌の他にも、月命日の前後に何度か来ているのだけれど、マナーがいまいちわからない。花を足していいのか交換した方がいいのか、来るたびに迷う。キレイに咲いているものを捨ててしまうのはもったいないので、今回は足すことにする。いかにもお墓用という花にはしたくなかったのだが、直樹の家族に見られた場合に悪く思われないように、まん丸い菊のピンポンマムを選んだ。もともと入っていた黄色い菊や紫色の花とバランス良く見えるようにする。
 ライターで火をつけて、お線香を香炉に置く。
 そのまましゃがみこみ、手を合わせる。
 事故の時、直樹は手や足に怪我をしたものの、顔には小さな傷があるだけだった。葬儀屋さんが髪を整え、死に化粧をしてくれたので、その傷も目立たなくなっていた。お通夜にも告別式にも、中学や高校や大学で一緒だった友達の他に、会社の同僚や仕事でお世話になった人がたくさん来てくれた。棺桶を花で埋め、火葬場へ運んだ。葬儀場のすぐ隣に火葬場があり、親しかった友達は残ることになった。みんなに気遣われていることを感じながらも、わたしはただぼんやりしていた。両親と北斗ほくとも来ていて、母親や北斗に「あっちに行くよ」「こっちに来て」と言われるまま、ついていった。
 棺を閉めて釘が打たれ、火葬炉に入れられるところを見たし、出てきた骨を北斗と一緒に箸で拾い、骨壺に納めた。
 それでも、その軽々と持てる骨壺に、直樹が入っているとは思えなかった。
 このお墓の下には、直樹と直樹の曽祖父母の他にも、何人かの骨壺が入っている。
 一昨年おととしのお正月、おじいちゃんとおばあちゃんに新年の挨拶をして、夏に結婚式をすると話した後、直樹とふたりでここに来た。その時は、亡くなっているとはいえ、親戚のみなさんに長男の嫁として挨拶をする気分だった。直樹から「いつかオレも依里よりも、ここに入るんだよ」と言われた。何十年も先のことだと考え、ふたりで笑っていた。ひとりにするのは心配だから、わたしが残る方がいいと話していたけれど、こんなに早くいなくなってしまうなんて、思いもしなかった。そして、わたしがここに入ることはないのだ。
 今は、ここに誰かがいるなんて考えられない。
 手を合わせても、何を思えばいいのかわからなかった。
 高橋たかはしさんは、奥さんのお墓参りに行ったのだろうか。

 クッションサイズのムートンを膝に置き、醬油を垂らす。
「たとえば、これが綿のシーツだったとしますよね。その場合、このお醬油は、一瞬でしみ込んでしまいます。拭くためのティッシュやタオルを探す間に、シーツの下のベッドパッドやマットレスにまでしみ込んでいきます。シーツやベッドパッドは洗えても、マットレスを洗うのは難しいですよね」
「はい」店長はベッドに座っていて、お客さん役として大きくうなずく。
「それがムートンの場合、全くしみ込まないんです」醬油を垂らしたところが店長に見えるようにする。「なので、ティッシュで軽く拭けば、取れます」
 ティッシュを三枚ほど取り、ムートンに押し付ける。一気にティッシュが醬油を吸っていき、跡形もなくなる。
「ベッドの上で、お刺身や焼売シューマイを食べることはありませんから、お醬油をこぼすことはないでしょう。でも、人間は寝ている間に、大量の汗をかきます。それがシーツにしみ込まないので、汚れにくいんです。また、小さなお子さんがいるおうちでしたら、おねしょをすることもありますよね。ペットがいる場合は、粗相をしてしまうかもしれません。そういう時にも、同じようにすれば、簡単に拭き取ることができるんです」
「においも、取れるんですか?」店長が聞いてくる。
「今、こちらには、お醬油のにおいが微かに残っています」ムートンを持ち上げ、店長ににおいを嗅いでもらう。
「あっ、お醬油のにおいがします」
「ここに、お水をちょっとかけます」霧吹きで、ムートンに軽く水をかける。「指先で、軽く混ぜるようにしてから、タオルで拭くだけでいいです。そうすると、においも取れます。もう一度、嗅いでみてください」
 タオルで拭いてから、またムートンのにおいを嗅いでもらう。
「本当だ! においがしませんね。どうして、しみ込まないんですか?」
「当店で扱っているムートンシーツは毛だけではなくて、毛皮なんですね。なので、羊の毛本来の機能がまだ残っています。羊の毛には脂質が含まれていて、水分をはじくようになっています。また、ダニなどをよけるため、毛が湿度を溜めこまないように、放湿性に優れているんです。日本では、冬場にムートンブーツを履く方が多いのですが、濡れた足で履いても蒸れにくいので、オーストラリアなどではサーフィンの後に履く方もいるんですよ」
「へえ、そうなんですね。湿度が低いと、どうしてダニをよけられるんですか?」
「……えっと、それは」
 他のパートのお姉さんたちがお客さまに説明しているのを聞いたし、店長からも教わった。メモ帳には書いてあるはずだ。湿度が何パーセント以下になるとダニは生息できなくなるという話だったと思うが、うまく説明できる言葉が出てこない。
「はい、駄目」店長は、顔の前で手を大きくクロスさせ、バツにする。
「いや、わかってるんです。説明できます」
「すぐに言葉が出てこないと」
「そうですよね」エプロンのポケットからメモ帳を出し、ムートンの説明について書いたところを改めて読み直す。
 ダニは、高温多湿を好むため、湿度が五十パーセント以下になると、繁殖しにくくなる。羊の毛の中は、湿度が低いため、ダニは生息できない。なので、ペットを飼っていて、ダニがつくことを気にされるお客さまにも、安心してお使いいただける。
「細かい数字にこだわらないで、まずはニュアンスを説明できればいいから。ダニのこととかであれば、何パーセント以下まで聞いてくるお客さまは、まずいない」
「はい」
「でも、想像もしなかったことを聞かれることもあるからね」
「……はい」
「基本的なことはわかってるし、わからないことを聞かれた時にわたしか他の誰かに聞くっていうことでも、大丈夫じゃないかな」
「いや、もう一年経つので、自分ひとりでちゃんと説明できるようにならないと」
 話しながら、使ったムートンや醬油のボトルや霧吹きなどを片づけ、レジカウンターに入る。
 時間があいた時には、璃子りこちゃんや早苗さなえさんに頼む以外に、店長や他のパートのお姉さんたちを相手に接客の練習をして、勉強させてもらうようにしている。
 ムートンも自分で使っているので、いいものであることはわかっているが、細かい説明を求められると言葉が詰まってしまう。高価なものだから、購入を検討されるお客さまは、ムートンの性質の他にクリーニング方法など様々なことを聞いてくる。
「勉強しても、あと三ヵ月でお店閉まるけどね」店長が言う。
「三ヵ月のうちに、バンバン売るためです」話しながら、指先をウェットティッシュで拭く。
 醬油のにおいは、ムートンからは一拭きで消えるのに、人間の指先には残る。磯辺焼きみたいなにおいがする。あとで、ちゃんと石鹸で洗った方がよさそうだ。
「売上は、悪くなかったのに。沢村さわむらさんも、最近は売れるようになってきてたから」
「デパートの方針が変わるっていうことだと、しょうがないですよね」
 五月末で閉店することは、先月の終わりの天野あまのマネージャーも来た日に、パート全員に伝えられた。
 売上としては、テナント代も充分に払えていたし、全く問題はなかった。だが、デパート全体として、ショッピングモールにも入っているような二十代や三十代向けの店を増やすことになった。若い人向けの店は今もあり、流れを作れてきている。リニューアルしてさらに増やすことで、新しい顧客の獲得につなげていく。
 この辺りには、ショッピングモールも若い人向けのファッションビルもいくつかある。競合して潰し合うだけではないかと思うが、このままデパートとして経営していくのは、難しいのだろう。
 寝具店のお客さまは、二十代や三十代の方もいるけれども、少数だ。三十代後半から四十代の方が多い。昔からデパートを利用している年配の方もいる。デパートの今後の構想とは、客層が合わないと判断されたようだ。
 六月中に工事をして、七月のはじめにリニューアルオープンをする。
 そこには、新しい寝具店が入る。機械で全身を測定して、お客さまに合わせたオーダーメイドの枕を作れるお店で、SNSで話題になっているらしい。うちとは違う寝具メーカーの店だが、扱う商品に大きな差はない。オーダーメイドの枕を作れるといっても、ベースは決まっていて、中の素材や高さを変えるだけだ。
「沢村さん、次にオープンするところで働けば」店長が言う。
「うーん、それはちょっと違う気がするんですよ」
「じゃあ、どこか異動する?」
「それも、迷ってます」
 正社員である店長は、他店舗に異動することが決まっている。パートには、他店舗に異動するか辞めて他の仕事を探すか、新しい寝具店のパートになるか、いくつかの選択肢がある。新しい寝具店で働きたい場合は、違うメーカーではあっても、同じ業界での販売経験者として考慮してもらえるらしい。パートのお姉さんたちの中には、デパート内で他の仕事を探すと決めた人もいる。
 わたしは、この先の働き方も迷っていて、どうするか決められずにいる。
 夏には三十歳になるのだから、正社員を目指すのであれば、今が決断する時だ。
「店長、異動先って決まったんですか?」
「まだ」
「県内とか関東地方内とか、だいたいの場所も決まらないんですか?」
「決まらない」
「遠くに行く場合もあるんですよね?」
「そうだね」
 系列店は、北は盛岡から南は鹿児島まで、各都府県にある。
 パートは、異動を希望したとしても、通勤できる距離にある近隣店舗だ。正社員は、独身なのか既婚者なのか子供がいるのかなんて関係なくて、どこへでも転勤になる可能性はある。希望を出せないわけではないらしいのだけれど、そうすると出世の道が断たれるようだ。県内のみの異動を希望している社員は、やる気がないと見なされて、マネージャーがいる店舗の副店長に留まる。
 社会のことをよく知っているわけではないけれど、考えが古いと思う。
 本社の人たちは、その古さに気づけないまま、正しいことだと思い込んでいる。
 同じような会社は、たくさんあるのだろう。
「子供たちの学校もあるから、できるだけ近い店舗がいいんだけど」
「早く決めてもらわないと困りますよね」
「タイミングも悪いんだよ。せめて、もうちょっと前か後だったら、春休みや夏休みに合わせられるのに」
「ああ、そうですよね」
「長男の高校や下の子たちの学童探しも大変だけど、意外とキツイのが真ん中のお姉ちゃんなんだよね」
「今、中二ですっけ?」
「春から中三」
「高校受験ですか?」
「……そう」
 高校受験のシステムは、県や地域によって変わる。わたしは、中高一貫の私立だったから詳しく知らないけれど、小学校のころの友達が話していたのは聞いたことがあった。公立だと、転校したことで不利になることもあるようだ。だからといって、子供が五人いるうちのひとりでも、私立に入れることは難しいだろう。
 ちゃんと考えてくれるような会社に勤めた方がいいんじゃないかと思うが、それは簡単なことではない。
 考えの古い会社ではあっても、売上さえ良ければ報奨金などは渋らずに払ってもらえる。どこの店舗も人手不足なので、シフトを削られることもないし、雇う条件も緩い。お金が必要だけれども、他の会社ではなかなか雇ってもらえないような条件のある人には、いい会社だ。
 ハラスメントをやめて、それぞれの家庭環境や生活の状況を考慮してくれるようになれば、より良くなるんじゃないかと思う。

 トイレに行って手を洗ってから店に戻り、一番奥のベッドにメジャーリーグで活躍する選手も使っているというマットレスを準備する。
 川本かわもとさまから電話があり、大我たいがくんと来ることになっている。
 無事に高校に合格して、あとは中学校の卒業式を待つだけのようだ。
 秋に来た時の体格から考えて、枕の候補もいくつか考えておく。
「沢村さん!」
 手を振りながら、川本さまが店に入ってくる。
 隣に立つ大我くんは、前よりも身長が伸び、身体もさらに鍛えたようだ。全体的に、一回り大きくなっている。身長は高橋さんと同じくらいで、百七十五センチか六センチというところだろう。これから伸びるとしても、あと数センチだと思う。高校に入って、本格的に野球部で活動すれば、横にはもっと大きくなるかもしれない。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
 準備していた奥のベッドにご案内して、座ってもらう。
「大きくなったでしょ」川本さまが言う。
「はい」
「あの時、沢村さんが言ってくれた通りにして、良かった。すぐに合わなくなって、また買わないといけなくなるところだった」
「お父さまよりも、大きくなられました?」
「今、パパと同じくらい。もうちょっとで抜くかな」
「オレの方が少し大きいよ」大我くんが言う。
 声変わりも終わったようで、前よりも声が低くなっていた。
 成長期がいつまでつづくかは人によるのだろうけれど、大我くんは終わりに近いと考えてよさそうだ。
「数ミリだけでしょ」
「その差は大きい」
「パパより小さいってことにしてあげなさいよ」
「嫌だ」
「マットレスだってなんだって、好きに買っていいって言ってくれたんだから」
「志望校に受かったからじゃん」
「ごめんなさいね、余計な話して」恥ずかしそうにして、川本さまはわたしの方を見る。
「いえいえ、お気になさらず」
「前に来た時は、マットレスと枕をお願いしたいって話したんだけど、一緒に掛け布団も見せてもらえる? これからの時季に使えるような、薄めのもの。野球やるから、身体を冷やさないようにしたいんだけど、春夏の布団って接触冷感のものが増えてるでしょ。そういうんじゃない方がいいの」
「はい、わかりました」
 店に置いてある掛け布団からオススメのものを考える。
 薄手で、身体を温められるものであれば、羽毛の肌掛けがいいだろう。冷えるのは、布団自体の冷たさよりも、湿度の問題だ。接触冷感の掛け布団の中には、化繊でできていて放湿性の低いものがある。寝ている間に、布団の中に湿度を溜めこんでしまう。その湿度が体温に温められると、熱がこもる。その熱は身体を温めてくれない。汗になり、冷やしていく。麻やリヨセルだったら、接触冷感のものでも湿度を溜めないから、オススメできる。値段は高くなるが、長く使えることを考えると、真綿もいいかもしれない。
「まずは、マットレスからお話しさせてもらってよろしいでしょうか?」一気に進めないで、ひとつひとつ決めていく。
 通常は枕から考えていくのだけれども、大我くんにとって一番大事なのはマットレスだと思うので、順番を変えることにした。
「はい、お願いします」わたしの方を見て、大我くんは答える。
「前回いらっしゃった時、欲しいとお話しされていたマットレスをご用意させていただいたのですが、今の希望は何かありますか?」
「これが欲しいという気持ちはあるんです。でも、それは、好きな選手と同じものが欲しいというだけなんです。あと、友達に自慢したい」
「みんなに人気がある選手ですからね」
「はい」大我くんは、少し照れたような顔をする。「けど、野球をしていくために、身体に合ったものにしたいと考えています。その選手のインタビュー記事も読んで、自分に合った寝具が身体づくりのためにも大事だと思ったので」
「マットレス、これとは違うシリーズのものになってもいいですか?」
「はい」
「少しお待ちください」
 立ち上がってレジ前に行き、棚から三分割になっているマットレスを出してくる。さっき敷いたマットレスを店長が外してくれていたので、そこに並べる。大我くんに合いそうな枕も、用意する。
 折り畳み椅子を出して川本さまに座ってもらい、大我くんにはマットレスに仰向けに寝てもらう。
「こちら、寝心地はどうですか?」
「楽です」
「寝返りを打ってみてください。動きにくいなどあれば、おっしゃってください」 
 マットレスの上で、大我くんは右へ左へと寝返りを繰り返す。肩回りや足元はいいが、腰の辺りの動きが重い。
「動く時に、腰が引っ掛かる感じがします」はっきりと大我くんは言う。
 スポーツをやっているから、自分の身体の動きには敏感なのだろう。
「ちょっとお待ちくださいね」
 棚から三分割のうちのひとつだけ持ってきて、真ん中を交換する。このマットレスは、頭から背中、腰から太もも、膝下で三つに分かれていて、体型に合わせて硬さを変えることができる。硬さは五段階で、最初は少し柔らかいもので、三つ揃えた。それだと、腰には柔らかすぎたので、真ん中だけを一段階硬いものにする。
「もう一度寝てみてください」
「はい」
 マットレスに寝て、大我くんはさっきと同じように仰向けから右へ左へと寝返りを繰り返す。さっきよりも全身が軽く動いているように見える。
「仰向けになってもらえますか?」
「こうですか?」寝返りをやめて、大我くんは上を向いて身体をまっすぐにする。
 凹凸のあるウレタンのもので、全身がほどよく沈んでいるから、体圧分散も問題ないだろう。
「今、どこかに違和感はありますか?」
「大丈夫です」
「起き上がってもらっていいですよ」
「ありがとうございます」大我くんは、ゆっくり起き上がる。
「マットレス、こちらをオススメしたいと考えています」川本さまと大我くん、ふたりに向かって話す。「多くのマットレスは、一枚なんですね。その中で、腰の辺りだけ硬さが違うものなどもありますが、合わなくなった場合には全てを交換しなくてはいけなくなります。こちらのマットレスの場合、腰の辺りが合わないとなった時には、そこだけの買い換えができます。高校でも、野球をつづけるということであれば、身体はまだ変わっていくでしょう。その時、肩から背中だけとか腰回りだけとか、その時の体型に合わせて、換えていくことができます」
「なるほど」川本さまが大きくうなずき、大我くんもうなずく。
「人間の身体って、合わなくても慣れようとするんです。けれど、徐々に歪んでいったり、痛めてしまったりする。自分が変わったのであれば、それに合わせて寝具も換えた方がいいんです」
「はい」
「特に気になったのは、腰の辺りですね。最初に寝たものだと、柔らかかったから、身体の重い部分が沈むんです。そうすると、そこに力が集中して、痛める原因になることもあります。そのため、真ん中だけ一段階硬いものに交換しました。逆に肩や足元を腰と同じ硬さにすると、隙間のあるところが浮いてしまい、それで痛めることもありえます。身体を鍛えていって、合わないと感じるところが出てきた場合、その部分だけを交換すると、長くお使いいただくことができます」
 その際には、またご相談くださいと言いたかったが、大我くんが「合わない」と感じるころには、この店はなくなっている。このマットレスは、うちの会社のオリジナル商品だから、新しくここに入る寝具店での扱いはない。近隣店舗に行ってもらうことになる。それも含めて説明したくても、デパートの改装は、まだ公表されていない情報だ。三月末まで、お客さまに言ってはいけない。
「これにしようか?」マットレスに触って感触を確かめながら、川本さまは大我くんに聞く。
「うん、これがいい」
「ありがとうございます。こちら、今は三分割されていますが、専用のカバーがありますので、包んでからお届けさせてもらいます」
 新しく入る寝具店でも扱いのあるマットレスの方がよかったかもしれない。しかし、大我くんは、気に入ってくれたみたいで、嬉しそうにしながらマットレスを触っている。身体は大きくても、まだ十代半ばだから、子供なのだ。違うものにした方がいいとは、もう言い出せない。
「合わせて、枕と掛け布団もご案内させていただきますね」立ち上がり、枕をふたつ持ってきて、羽毛の肌掛けと真綿の掛け布団を用意する。
 真綿は、まゆを広げて作られていて、カバーもシルクだ。軽くて柔らかくて、触り心地がいい。少し冷たく感じるが、天然のものなので、放湿性に優れている。薄くて熱がこもることはないから、夏は真綿一枚で寝られる。春や秋の肌寒い日には、この上に一枚重ねるといい。冬場も、真綿の上に羽毛布団を掛けると、羽毛の中の湿度と温度がほど良く保たれる。四季のある日本で、一年中気持ち良く寝られる掛け布団だ。
「これ、気持ちいい。わたしが欲しいな」川本さまは、真綿を触る。
「よろしければ、いかがですか?」
「うーん、わたしのことを考えるのは、チビたちがもう少し大きくなってからかな。次男がね、ひとりで寝られるようになったから、もう少しっていうところ」
「あっ、そうなんですね!」
「娘もひとりで寝られるようになったら、わたしの寝具も揃えること考えようかな。その時には、沢村さんが相談に乗ってね」
「はい! もちろん!」
 張り切って返事をしてしまったけれど、無理だ。
 一番下の子は、まだ保育園に通っているから、一年から二年は先のことだろう。

 駅前に居酒屋やカラオケボックスの入るビルがある。
 そこの前に立ち、看板で店名を確認してから、エレベーターで五階まで上がる。
 扉が開いて、すぐ目の前が居酒屋の入口になっている。
 中に入り、店員さんに待ち合わせだということを伝える。
 チェーンの個室居酒屋で、結構混んでいるのか、仕切りの障子の向こうから声が聞こえてくる。
 案内された個室の障子を開ける。
「お疲れさま」先に来ていた璃子ちゃんが手を振ってくる。
「お疲れさま」
「わたし、働いてないけどね」
 璃子ちゃんは、今日は休みで、昼間はアプリで知り合った人とランチに行って、映画を観たらしい。仕事の時とは、髪型もメイクも違い、男性受けの良さそうな小花柄のワンピースを着ている。夜はあいているからと誘われ、ごはんに行くことになった。お酒が飲みたいと、わたしの方からリクエストした。
「デート、どうだった?」話しながら、コートを脱ぐ。
「デートってほどじゃないよ」
「そうなの?」
「まだ二回しか会ってないし、次はないっていう感じだったから。せっかく休みの日を使ったのに」
「そうなんだ」
「夜は、沢村さんとの約束があったから、一日を無駄にしないで済んだ」
「そう思ってもらえるならば、良かった」
「飲んで、食べよう!」
 璃子ちゃんもわたしも、テーブルの端に置かれたタッチパネルを見る。メニューは、これしかないようだ。居酒屋に来ることが久しぶりで、システムがわからない。ただ、チェーンの居酒屋ならではのメニューに、気持ちは高揚していた。
「何、飲む?」璃子ちゃんが聞いてくる。
「ハイボールかな」
「普通の?」
「まずは、普通のにする」
 コーラやジンジャーエールでウィスキーを割ったものもあるが、最初はソーダ割にしておく。前は、自分が何を飲んで食べていたのか、いまいち思い出せなかった。直樹や友達に合わせていた。
「わたしは、ビール」歌うように言いながら、璃子ちゃんはタッチパネルを操作して、先に飲み物を注文する。「食べ物、何がいい? 苦手なものとか絶対に食べたいものとかある?」
「芋もちみたいなのって、あるかな?」
「チーズ芋もちがあるよ」
「それ、食べたい」
「じゃあ、頼むね」
「他は?」
「うーん」
 ムートンシーツの販売の練習をして、指先が磯辺焼きみたいなにおいになったから、おもちみたいなものが食べたかった。それ以外に食べたいものが決められない。気になるものはたくさんあるのに、これ! と思えないのだ。
「アレルギーとかなければ、適当に頼むよ」璃子ちゃんは、タッチパネルをスライドさせていく。
「お願い」
「サラダと唐揚げと」
 食べ物の注文を終えてすぐに、先に頼んでいたビールとハイボールとお通しの切り干し大根の煮物が運ばれてくる。
 乾杯して、ハイボールを少し飲む。
 北斗と一緒に早苗さんのコンサートに行ってお酒を飲み、大丈夫であることはわかっているが、一気に飲まないようにする。
「先のこと、どうするか決めたの?」お箸を取り、璃子ちゃんは切り干し大根の煮物を食べる。
 寝具店が閉店になることは、メッセージですでに伝えた。休憩室で会った時にも、少し話した。急に仕事を失うのであり、店舗によっては揉めているようだった。リニューアル後は若いお客さんがメインになり、その世代に合った従業員を求めるお店もあるだろう。今までと同じ条件で働ける場所を見つけられない人もいる。
「まだ決めてない」
「新しく入る寝具店で働けば」
「それがいいかなとは思うんだけど」
 新しく入る寝具店であれば、今のお客さまとの関係性は切れないので、一番いい選択肢のように思える。
「それで、いいじゃん」
「璃子ちゃんは、残るんだよね?」
「とりあえず、そう決まりました」
 璃子ちゃんの勤める宝飾ブランドは面積は狭くなるものの、売場は残る。従業員は減るのだけれど、契約社員で若手の璃子ちゃんは働きつづけられることになった。ベテランのパートの人は、辞めることになったらしい。
「璃子ちゃんも早苗さんもいるし、働きたい気持ちはあるんだけどね」
「働きつづけて、一緒にごはん食べにいったりしようよ」
「引っ越そうかと思っていて」
 先のことを考え、引っ越すいい機会という気もしている。
 直樹の遺品をどうするかまだ決められないけれど、いつまでもあのままというわけにはいかない。
「どこに引っ越すの?」
「まだ決めてない」首を横に振り、わたしはハイボールを飲む。
 障子が開き、出汁だし巻き卵と大きなお皿に山盛りになったサラダが運ばれてくる。
 サラダを取り皿にわけて、璃子ちゃんに渡す。
「ありがとう。沢村さん、こういうの迷わずできるんだね」
「……えっ?」
躊躇ためらいなく、サッと気遣えて、お嫁さんにしたいナンバーワンって感じだよ」
「それ、褒めてる? けなしてる?」
「褒めてる」ビールを飲み干し、二杯目を注文する。「婚活していても、沢村さんみたいだったら、もてるんだろうなって思うことあるもん」
「わたし、もてないよ」
 高校を卒業するまでは、何人かの男の子に告白されたり遊びにいこうと誘われたりしたことはあった。だが、大学生になって直樹と付き合ってからは、他の男の子から恋愛対象として見られていると感じたこともない。
「男の人は、沢村さんみたいな子が好きだと思うよ」
「やっぱり、けなしてる?」
「居酒屋来て、自分でサクサク注文できるような女では、駄目なのよ。なんかさ、婚活するうちに、自分が前よりも強くなってきてる気がする」
「どういうこと?」
「イメージ的なものだけど、キャリアウーマンが仕事を処理するように、婚活してる。たくさんの男性のどこを見るか考えて、何人もとメッセージのやり取りをしながら選抜していって、食事や映画に行く約束をして、いいなって思ったら寝ることもあって。結婚相手を探すっていうよりも、厳しい面接官みたいになってきた」
「でも、いいなって気持ちが動くことはあるんでしょ」
「それも、条件的にいいなっていうだけで、好きっていうこととは違うんだよね。結婚と恋愛は別って思ってたけど、条件がいいだけではがんばりつづけられない」
「少し休んだら? 焦る気持ちがあるんだろうけど、わからなくなっちゃってるじゃん」
「……うん」璃子ちゃんは、サラダを食べる。「小花柄のワンピースなんて全然好きじゃないんだよね。男の人に好かれようとするのも、もう疲れた」
 璃子ちゃんの気持ちが下がっていく中、店員さんが元気な声を上げて障子を開け、二杯目のビールと揚げたての唐揚げとチーズ芋もちを持ってくる。
「誰か、沢村さんの知り合いで、いい人いない?」
「……いい人」
「年齢は、そんなに離れてない方がいいけど、三十代前半までは大丈夫。収入が安定していて、清潔感があって、暴力を振るったりしない人。ギャンブルは遊び程度だったら、気にしない。煙草は、電子だったらいいや。お酒は、飲む人がいい」
「周りに、男の人がいないからな」
「寝具店の社員とかは?」
「エリアマネージャーが独身だけど、璃子ちゃんのタイプではないと思う」
「えっ、わかんないじゃん。今度、店に見にいこうかな」
「そういうレベルじゃないというか、本当に嫌な人だから。清潔感もないし」
 異動の希望を出して、それに合わせて引っ越しをすることも考えている。近隣店舗であれば、川本さまや山崎やまさきさまには、異動の連絡のはがきをお送りできる。しばらく異動先で働き、生活が落ち着いてから、先のことを考えればいい。だが、天野マネージャーのいる店舗に異動する可能性が高いため、決断できずにいる。
「他は?」
「他ねえ」
 大学の友達は、紹介できるような人はいない。良さそうと思う人は、結婚しているか決まった相手がいる。条件に合っていて、独身で恋人もいなそうな人は、高橋さんしか思い浮かばない。
 お酒のこととか話が弾みそうだし、璃子ちゃんの明るさは高橋さんと合う気がする。
 でも、わたしが紹介できる相手ではない。
「友達とか親戚とか兄弟とか」ビールを飲み、璃子ちゃんは指折り挙げていく。
「あっ!」
「誰かいる?」
「弟いるよ。璃子ちゃんと同い年。都内のまあまあいい会社に勤めてる。家族のひいき目込みだけど、かっこいい方だと思うし、優しい」
「いいじゃん」
「けど、彼女いる」
 北斗には、結婚を考えて付き合っている彼女がいる。
 ふたりのペースで決めることだから、焦らせることは言わないようにしている。どうなっているか聞いていないが、数年のうちには結婚するだろう。
「……残念」
「誰かいないか、考えておく」
「沢村さんも、自分のこと考えなよ」
「そうだね」チーズ芋もちを食べて、わたしはハイボールを飲む。

 夜は、まだ寒くて、風も冷たい。
 お酒を飲んでいるせいか、より寒く感じた。
 友達とお酒を飲むということもできるようになったし、日常はほぼ取り戻せている。やっぱり先のことを決めるべきなのだろう。
 住む場所、仕事、恋愛、これからの自分のことを考えていく。
 今度の日曜日は、高橋さんと会う。
 高橋さんが決めてくれたお店で、ランチを食べる予定だ。
 その時、色々と相談できればいいと思うが、高橋さんはわたしが好きに話していい相手ではないのだ。
 月に一回会うのがルールのようになっているけれど、いつまでつづくかわからない。どちらかが〈今月は、どうしますか?〉と連絡しなくなったら、それで終わる。待ち合わせに関すること以外、メッセージを送り合うこともない。電話で話したことは、一度もなかった。
 酔っぱらっているというほどでもないのに、高橋さんと話したい気持ちになる。
 電話をかけて、迷惑がる人ではないだろう。
 でも、その線を越えてはいけない。 
 空を見上げると、月が出ていないからか、星がよく見えた。

 高橋さんが決めてくれたお店は、海沿いを走る電車に乗っていき、お寺や神社の多い街で降りたところにあるカフェだった。
 パン屋さんが併設されていて、看板商品であるドイツ系のパンの他にケーキや焼き菓子も売っている。この辺りを舞台にした漫画に出てきて、わたしも気になっていたお店だった。テーブルも椅子も床もダークブラウンで統一され、客席の間がほどよくあいていて、落ち着ける。ランチはサンドイッチが何種類かあり、わたしはチーズや生ハムの載ったオープンサンド、高橋さんは香草チキンのホットサンドを頼んだ。
「この辺り、来ることってありますか?」高橋さんは、サンドイッチを食べながら聞いてくる。
「中学生や高校生のころは結構来てましたけど、大人になってからはたまにごはんを食べにきたぐらいですね」
「学校、この辺りだったんですか?」
「県内ですけど、ここからは少し離れてます。考古学部だったから、史跡を見るために来ていました。お寺や神社の他に、何かの発祥の地とか誰かのお墓とかたくさんあるので」
「考古学部って、土器掘ったりするんじゃないんですね」
「土器掘ったりもしましたよ」サンドイッチを食べて、わたしはお水を少し飲む。「中高一貫で、中学一年生から高校三年生まで一緒に活動していたので、それぞれの興味に合わせて、色々なところに行きました。夏休みの発掘体験教室にも連れていってもらったし、連れていく側もしました。他校との交流も盛んで、休みの日にみんなでこの辺りの散策に来たりもしてたんです」
「へえ」
「大学も、考古学に関する勉強をしていました」
「前に会った時、留学したかったって話してましたね」
「はい」
「僕は、ずっと野球部でした。子供のころは、プロを目指してたんですよ」
「強かったんですか?」
「中学を卒業するころには、無理だなと思った程度です」照れたように笑いながら、高橋さんは言う。
 それは、そこそこ強かったのではないだろうか。北斗は少年野球のチームに入っていたけれど、小学生の時点でプロになるという夢は諦めていた。中学では野球部に入ったが、高校では考古学部で幽霊部員になっていた。直樹も中学を卒業するまで野球部だったと話していた。それなのに、バッティングセンターに行ったら、本当なのか疑いたくなるくらい、打てなかった。
「今、お店で担当しているお客さん、今度高校生になる男の子なんですけど、強い高校に受かったみたいです。睡眠の環境を整えるために、寝具を一通り買いにきてくれました」
「どこの高校だろう? 試合、観にいったりしたいな」
「気になるんですけど、個人情報だから聞きにくいんですよね。身体も鍛えて大きくなってきてるし、きっと活躍してくれますよ。性格も素直で、いい子です」
「この辺り、強豪校が多いですからね」
 高橋さんは、今も野球が好きなのだろう。話すうちに、声が弾んでいき、楽しい気持ちが伝わってくる。北斗と直樹も、ふたりで野球を観にいき、子供みたいな顔で話していた。
「スポーツ推薦とかですかね?」
「どうなんでしょう。この前来た時に志望校に受かったと話してました。わたし、高校受験してないんで、入試のシステムがよくわかんないんですよね」
「最近は、どうなっているか、僕もわかりません。もしも、その子の高校がわかったら、教えてください」
「あっ、でも、わたし、お店辞めることになったんです」
「先のこと、決めたんですか?」
「いえ、お店がなくなるんです」
 お客さまには話してはいけないことだけど、高橋さんには話してもいいだろう。店長や他のパートのお姉さんたちだって、家族とかには話している。
「えっ!」
「デパートの改装で、今の店は閉店して、新しい寝具店が入ることになりました」
「そうなんですね」高橋さんは手に持っていたサンドイッチをお皿に置き、お手拭きで指先を拭く。「沢村さんは、これからどうするんですか?」
「ちょっと迷ってます」
「お店、いつまでなんですか?」
「五月末までです。あと二ヵ月半くらいあるので、それまでに考えようと思います」
「それまでに、枕買いにいきますね」
「ぜひ、来てください」
 わたしも高橋さんもサンドイッチを食べ終えてお皿を片づけてもらい、食後にお願いしていた飲み物を持ってきてもらう。ふたりとも、ホットの紅茶を選んでいた。
「自分のこと、なかなか決められないんですよね」まだ熱いので、気を付けながら紅茶を飲む。
「井上さんから、呆れられていたって前に話してましたね」
「はい」
「ずっと考えていたんですけど、それってモラハラだったんじゃないですか?」
「……えっ?」
 まっすぐに高橋さんの顔を見たまま、わたしは何も返せなくなってしまう。高橋さんもまっすぐにわたしを見ている。
「依里はひとりじゃ何も決められない、って言われてたんですよね?」
「……はい」
「僕の印象でしかないのですが、沢村さんはそこまで弱い人ではない気がします」
「……いえ」首を横に振り、そのまま高橋さんから目を逸らす。
「大学生の時、井上さんの希望で、留学をやめたと話していましたが、それもちょっとおかしい気がしました。中学生のころから考古学部で勉強していて、つづけようと思える気持ちがあったんですよね? 多くの人は、それよりも前に諦めるんです。でも、沢村さんは自分のやりたいことがあって、追いかけられる気持ちもあったし、ご家族も環境を作ってくれていた」
「……そこまでの気持ちがあったわけではないんです」喉の辺りが詰まり、うまく声が出ない。
 紅茶を飲んで少し落ち着こうと思ったが、カップを持とうとしたら、手が震えた。
「井上さんに言われて、変えたことが他にもあったんじゃないですか?」
「……ありません! やめてください!」どうしたらいいかわからなくなって、大きな声を出してしまう。
 店員さんや周りにいたお客さんがわたしと高橋さんを見る。高橋さんは、その人たちに「すみません」と小さな声で謝ってから、またわたしの方を見る。
「すみませんでした」高橋さんは、両手を膝について頭を下げる。
「いえ、わたしの方こそ、大きな声を出してしまって、すみませんでした」
「場所を変えましょうか?」
「帰ります」コートとバッグを取り、わたしは席を立つ。
 伝票を持って、レジの方に行こうとするわたしの腕を高橋さんが摑む。
「本当に申し訳ない。あんなことを考えてしまったのは、僕がそうだったからなんです。その話を聞いてもらいたい」

 喫茶店やカフェに入ろうと思ったが、どこも混んでいるようだったし、また大きな声を出してしまったりして迷惑をかけるかもしれないと思い、コンビニで飲み物を買って海に出ることにした。高橋さんがペットボトルのホットのミルクティーを買ってくれた。自分には、緑茶を買っていた。
 砂浜を歩いていくと階段があったので、そこに並んで座る。
 サーフィンをしている人がいて、高校生ぐらいの女の子たちは写真を撮り合っていて、波打ち際では小さな子供を連れた家族が遊んでいる。陽が出ているから暖かくて、もう春の陽気だ。
「さっきは、すみませんでした」高橋さんが言う。
「いえ、大丈夫です。わたしのことは気にしないでいいので、高橋さんの話をしてください。そのために、わたしたちは会っているのだから」
 話すことが楽しくて、直樹の名前を出しにくくなっていた。
 あのまま考古学とか野球とか、次に行きたいカフェとか、ふたりの好きなものの話だけしていたかった。
「妻は、フリーランスで働いていました」海の方を見て、高橋さんは話し出す。
 その横顔を見ながら、わたしは話を聞く。
「仕事は順調だったし、雑誌で取り上げられたり海外で賞を獲ったり、稼いでいました。でも、稼ぐ以上に使ってしまう人だったんです。もともと住む世界が違うというか、僕には理解できないところがある人でした。金遣いが荒くて、情緒不安定で、派手な部屋に住んでいて、落ち着くことがない。僕の周りには、いなかったタイプです」
「はい」
「新商品のお披露目会の手伝いに行った時、知り合いました。妻がそのお披露目会全体のデザインをしていたので。僕は、街を歩く人に新商品を配るだけだったんですけど、裏で準備をしていた時に声をかけられました。いきなり連絡先を聞かれて、教える必要なんてなかったのに、何も考えずに教えてしまった。それから、二時とか三時とか、深夜に電話がかかってくるようになりました。お酒を飲んでいて、何を喋っているかわからない。今から来なよと誘われても、断りました。そしたら、もう二度と仕事しないと言われたんです。彼女のデザインは評判が良くて、売上にも関わります。会社に勤める社員として、断りつづけることは難しかった」
「男女逆で考えたら、セクハラですよ。逆で考えなくても、セクハラですけど」
 口を挟まないで聞いた方がいいと考えていたのに、思わず言ってしまう。
「そうなんです」高橋さんはわたしを見てうなずいた後、また前を向く。「セクハラだったんですけど、そう気が付いた時には、もう妻と寝てました。結婚しようと言われて、それに了承の返事もしてしまっていた。妻といると驚くことがたくさんあり、新しい世界に連れていってもらえる気がしたんです。でも、結婚して、一緒に暮らしはじめると、妻は僕のことなんて見なくなりました。たまに会っても、もっとああした方がいいとかセンスが悪いとか、怒られるばかりでした」
「奥様から、プロポーズされたんですよね?」
「正社員として、そこそこの企業で働く男と結婚したいだけだったようです。僕ではなくて、誰でも良かった。フリーランスだから、金銭面に対する不安は常にあったのでしょう。僕の給料はすごく高いわけではありませんが、平均よりは多くもらっています。いざという時に安心できる要素として、選ばれたんです」
「……ひどい」
「そういう人は、多いみたいですよ」
「そうなんですか?」
「誰でも、結婚相手の職業や収入は気にするものでしょう。沢村さんだって、井上さんが正社員だったから、派遣社員でも平気でいられたんじゃないですか? 今は、ひとりになって、パートではやっていけないと悩んでいる」
「たしかに、そうですね」
 璃子ちゃんだって、結婚相手の条件として「収入が安定している人」とはっきり言っていた。わたしは、直樹を「収入」や「安定」で選んだわけではないけれど、どんな仕事をしていても結婚を決断できたか考えると、自信がなくなってしまう。
「誰でもいいとはいえ、妻は、僕みたいなタイプの男が好きではあったんです。地味で真面目だけど、顔は悪くない年下の男。自分で言うと、変な感じがしますが……。妻は、そういう男をだますようにして関係を持つことを趣味みたいにしてました。仕事で知り合った相手が多かったようです。デパートの装飾とかだと季節ごとに会うことになります。でも、イベント会場のデザインとかはその一回しか会わないこともあるので、そういうところで知り合った相手に声をかける。自分がされているから、その状況は想像ができます。結婚したすぐ後から、そういう男と不倫していました」
「……えっ?」
「それよりも前、婚約中の時から、二股や三股という状態だったのだと思います。最初に知った時は、怒りを覚えました。でも、問い詰めたら、逆に妻から怒鳴られました。疑ってスマホを見てしまったので、それは人権侵害だと言われたんです。それなのに、離婚してほしいと僕から言うと、二度としないと謝って泣いて暴れる。その次の日には、また別の男のところへ行き、帰ってこなくなる。疲れてしまって、僕は何も考えなくなりました。妻のことは、たまに帰ってくる同居人と思うことにしたんです。一年くらいは、夫婦としての関係もありましたが、次第に向こうも何も言わなくなりました。正月に実家に帰る時とか、親戚の法事や結婚式とかでは、ちゃんと夫婦の顔をしていました。普段から芝居がかっているところがあるし、平気で噓をつける人でした」
「……はい」
 高橋さんの奥さんの顔は、ネットで検索して見たことがあり、憶えている。太めのアイラインと赤いリップで、わたしにはできないと感じるメイクをしていた。都内のデパートのショーウィンドウやエントランスの装飾はどれも素晴らしくて、特にクリスマスシーズンの雪景色をテーマにしたものは、絵本の世界をそのまま形にしたようだった。子供っぽくならず寂しさがあり、直樹の浮気相手だと思いつつも、彼女の仕事には惹かれるものを感じた。年上で才能のあるキレイな女性を高橋さんが穏やかに支えている、そんな姿を勝手に想像していた。
「セクハラ、モラハラ、パワハラ、妻が僕にしたことがなんだったのか、よくわかりません。けれど、彼女に洗脳されていたのだという気がします」
「大変だったんですね」どう言えばいいかわからず、安っぽい言葉になってしまう。
「その時は、大変ということも考えられなくなってました。彼女のために、自分は正しいことをしていると思わないと、生きていけなかった。同居人と考えることで気持ちを抑えながらも、彼女を愛して理解しているのは、自分だけだとも考えていました」
「……」
「デパートで沢村さんと会ったことは、偶然です。その後、会って話したことに噓はありません。でも、僕は、井上さんもひどい人だったらいいとずっと考えていました。他の女性とも浮気して、沢村さんにひどいことをしている人だったら、うちと同じだったと思えて、安心できる気がしたんです。そう思える話が出てくることを期待していた。けど、そんなことはなかった。井上さんは、沢村さんの誠実な恋人だった。さっきは、どうにかして悪い人だったと思いたくて、あんなふうに言ってしまった。本当に、申し訳ない」
 わたしの方を向き、高橋さんは頭を下げる。
 顔が見えないが、涙を流しているのか、肩が震えていた。
「顔、上げてください」バッグからハンカチを出して、高橋さんに渡す。
「大丈夫です。タオルがあるので」コートのポケットから、青いハンドタオルを出す。
「お茶飲んで、落ち着いてください」
「……ありがとうございます」高橋さんはタオルで涙を拭き、ペットボトルを開けて、お茶を少し飲む。
「奥さまのこと、また聞かせてください。話すことで、楽になることもあると思うので」
「ごめんなさい。話したいことは、これだけではないんです」
「無理しないでください」
「あの日、妻が若い男と旅行に行くことを僕は知っていました。知っていて、止めなかった。その男に、夜中に電話をかけているところも聞いたことがあった。相手は東京にいなかったようで、妻は怒っていました。婚約者にばらすとか脅しているような声も、聞こえてたんです。酒の席かどこかで、何かあったみたいでした。そのことを脅迫に使ってたんです」
「……はい」
「事故で亡くなったと聞いた時、ショックを受けるよりも、解放されると考えていました」
「……はい」
「ああいうことは男性に責任がある。初めてふたりで会った時、沢村さんは僕にそう言って、頭を下げました。そんなことはないんです。井上さんには何も責任がない。全て、うちの妻が悪いんです」
 そう言って、高橋さんは頭を下げているのか泣き崩れているのかわからないくらい、身体を小さく丸める。
 わたしの心の中で、殴り飛ばしたい気持ちと抱きしめてあげたい気持ちが揺れ動く。
 バッグを持ち、まだ開けていなかったミルクティーのペットボトルを置いて、わたしはひとりで帰る。
 

 
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)

1979年東京都生まれ。2010年「国道沿いのファミレス」で第23回小説すばる新人賞を受賞。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で吉川英治文学新人賞の候補となる。著書に『夏のバスプール』『タイムマシンでは、行けない明日』『ふたつの星とタイムマシン』『消えない月』『大人になったら、』『水槽の中』『神さまを待っている』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』など多数。最新刊は『世界のすべて』。

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