道徳入門

髙橋秀実

道徳入門

イラスト:宇田川新聞

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いずれにしろ、道徳的偽善

 各種世論調査によると、菅内閣の支持率は急落している。
 昨年9月の組閣当初は軒並み70%近い支持率だったのだが、今年の1月には30%台に落ち込んだ。コロナ禍で不要不急の外出を控えるように呼びかけながら、巨額の税金を投入して「GoToトラベル」事業を推し進めたりしたことなどがその原因かと思えるのだが、かねてより菅義偉内閣総理大臣はこう明言している。

支持率には一喜一憂しないことにしております。
                (令和2年10月30日 参議院本会議)

 マスコミの論調についても「政治家が考慮すべきは国民の声であってマスコミの評価ではありません」(菅義偉著『政治家の覚悟』文春新書 2020年)と断言するくらいで、大切なのは「国民の声」。それだけを「謙虚に受け止め」(前出、参議院本会議)る覚悟らしい。
 国民の声。
 思わず「誰の声?」と訊きたくなるが、それは民主主義の主役とされる。ほとんど「民」と同義の象徴的存在といえるのだが、昨今はインターネットの普及で「国民の声」が目に見える。声の一つひとつが具体的で肉声のようなのである。
 SNSにアップされた国会中継の書き込みを見ていると、菅さんはそれこそボロクソに糾弾されていた。政策的には「現状を全く分かっていない」「ウイルスについての認識不足」などと批判され、口ぶりについても「寝ながらしゃべってるの?」「死にそうやん」「坊さんの読経のほうが抑揚がある」「やる気見えない」「自分の身を守る発言のみ」「『大臣に任せてる』と逃げるこんなリーダーは失格」「総理の器ではない」という具合にリーダーシップの欠落を指摘されている。全体的に「失望」「期待外れ」だったようなのだが、支持率が高かった昨年9月に「支持する理由」をたずねると、最も多かったのは次の回答だった。
「他の内閣より良さそうだから」(NHK)
「他よりよさそう」(朝日新聞)
 つまり「他よりまし」ということで、もともと支持する人たちも積極的に彼を評価していたのではなく、やむをえない選択でやむなく支持していた。たとえダメでも他よりまし、という消極的支持もありうるわけで、「支持」と「不支持」は対立していない。「支持」「不支持」は不支持だが支持せざるをえないという相補関係にあるようで、やはり支持率という数字より「国民の声」に注目すべきなのだ。
 よく読むと「国民の声」の多くは感情的である。中でも目につくのはこんな声――、

菅総理の話を聞くと、何故こんなにイライラするのでしょうか?

 確かに、と私はうなずいた。彼の話は舌がもつれるようで、まどろっこしい。聞いているうちに微睡(まどろ)まされるようで、主旨を聞き取ろうとすると次第に苛立ってくるのだ。
 これは人格的な問題ではないだろう。彼は謝罪すべきことは謝罪するし、人を傷つけるような暴言を吐いたりしない。政治家としても世襲ではなく、「国民目線」を重んじ、志も高い。官房長官時代も含め、これまで地方分権をはじめ、数々の施策を成し遂げた実績もある。性格的にも堅実な様子で、あまり非はないような気がするのだが、話を聞いているとなぜか苛立つ。一体なぜなのか、と記者会見を見直しているうちに、私は気がついた。
「を」が多い。
 菅さんの話は耳障りなくらいに、助詞(てにをは)の「を」が多いのである。例えば、緊急事態宣言を決定した時の記者会見(令和3年1月7日)で、彼はこう発言した。

えー、先ほど新型コロナ対策本部を開き、緊急事態宣言を決定をいたしました。

 一応お断りしておくと、官邸HPに掲載されている会見時のコメントは実際の発言に修正が加えられている。冒頭の「えー」が削除され、「決定をいたしました」は「を」を抜いて「決定いたしました」と修正されており、すっきりと「先ほど新型コロナ対策本部を開き、緊急事態宣言を決定いたしました」に直されている。些細な補正のようだが、実際の肉声とは印象がまるで違うのである。
「緊急事態宣言を決定をいたしました」
 実際の発言を耳にすると「を」が重なって歯切れが悪く、決定した主体がぼんやりする。「決定いたしました」なら菅さんが決定したように聞こえるが、「決定をいたしました」は、決定されたということを彼が報告しているようである。文法的に整理すると、同じ「決定」でも、「決定する」、つまり動詞として使うと決定する主体、主語が必要になるが、彼のように「決定をする」というふうに「決定」を名詞として使うと、「決定」が「する」の主語になる。まるで「決定」が決定したかのようになって、主体が消えるのだ。同様に「判断をする」「準備をする」「提供をする」「改正をする」「お願いをする」という具合に、菅さんはあらゆる行為に「を」を付けている。「を」を付けることで主体の消去、すなわち責任回避に励んでいるように聞こえるのである。緊急事態宣言発令当日(令和3年1月8日)の記者会見では、こう言っていた。

いよいよ今日から、緊急、事態が実施をされます。

 なんのこと? 思わず私は首を傾げた。「緊急事態宣言」は法律に基づいて内閣総理大臣が発令する宣言。重大な宣言にもかかわらず、「宣言」という文言を忘れ、「実施をされます」と、やはり「を」を挿入している。権限としては「実施します」というべき立場にありながら、「される」と受け身になり、主体消去の「を」まで挿入する。国民に宣言する立場にもかかわらず、宣言される側の国民になりすましているのだ。
 巧妙な技だな......。
 忍法の隠れ身のように思えたのだが、よくよく考えると、これは「特別の教科 道徳」の原則である「決めつけてはいけない」に通じているのではないだろうか。決める立場にありながら、決めつけてはいけないので、決められたかのように表現する。責任を伴う主観を避けるという点でも彼のスタンスは「間主観」(連載第2回)に基づいている。菅さんはまるで文部科学省認定の「道徳」に準じているようなのだ。
 例えば「道徳」では行為より「気持ち」が重要視されていたが、彼の発言も「と思います」「と思っております」「というふうに思います」が異常なまでに多い。「〇〇です」と言い切ることはほとんどなく、言い切ったとしてもそこに必ず「このように思っています」などと続ける。何事も思っているだけで、すべては気持ち。教科書でも「公平に接すべし」ではなく、「公平にせっするためには、どんな気持ちをもてばいいでしょう」(『どうとく3 きみが いちばん ひかるとき』光村図書 平成30年)と考えることが「道徳」とされており、彼の発言はこうした発問に答えるかのようなのである。
 令和3年1月7日の記者会見でも、緊急事態宣言の名古屋や大阪への発令について「状況を見ながら、そこはしっかりと対応していきたいというふうに思います」と気持ちを述べ、「宣言の1カ月程度の延長を想定しているのか?」という問いに対しては、こう答えた。

もしできなければ1か月ということでありましたけれど、仮定のことについては私からは答えは控えさせていただきたい。とにかく1か月で何としても感染拡大防止をしたい、そういう思いで取り組んでいきたい、こういうように思います。

 菅さんは官房長官時代の決まり文句、「仮定のことについては私からの答えは控えさせていただきたい」を口走り、得意気に「ふっ」と笑った。今は内閣総理大臣なので想定について答える責任があるのだが、官房長官の「私」に戻ってその責任を回避しようとしたのである。
 さらには「思い」の連発。シンプルに「感染拡大防止に取り組みます」と宣言すればよいのに、「そういう思いで取り組んでいきたい」という。それに「こういうように思います」とまで付け加えるので、あくまで「取り組む」という思いを思っているだけです、と念を押しているようで、実際には取り組まないように聞こえる。「道徳」が「考える道徳」だったように、菅さんの「政策」も「思う政策」。彼のモットーは「決断し、責任を取る政治」(前出『政治家の覚悟』)らしいが、彼自身がそうするわけではなく、「誰かが決断し、誰かが責任を取る、こういうふうに思います」と言わんばかりなのである。
 そして「思います」の後に、出てくるのが次のフレーズだ。
「いずれにしろ」
「いずれにせよ」
 思いますが、いずれにしろ、という文型。菅文型と名付けたいくらいで、何が「いずれ」なのかよくわからない。わかってもわからなくても「いずれにしろ」という勢いで結論に持っていくのである。
 1月7日の会見でも、ワクチン接種が始まれば「国民の雰囲気も変わってくるのではないかなと思っています」に続けて、「いずれにしろ、今はコロナ対策に全力で取り組んでいきたいという思いであります」と発言した。論理的には「と思っているが、いずれにしろ、〇〇と思っている」という展開。これまでの答弁でも「〇〇」部分は「捜査中なのでお答えは控える」「しっかり規制改革をやっていきたい」「全体を見ながら考える」「適切に対応していきたい」などという原理原則であり、結論は民主主義の原理原則。原理原則を振りかざすことで反論を防御しているのである。
 つまらない。
 聞いているとそう感じる。彼の座右の銘は「意志あれば道あり」(前出『政治家の覚悟』)だそうだが、何事も本人の意志ではないようで、道筋が見えない。彼のことを「ヴィジョンがない」「国家観がない」などと批判する人も多く、リーダーシップの欠落も指摘されがちなのだが、冷静に考えてみると菅さんは自由民主党の本質を表明しているのではないだろうか。
 自由民主党の結党は1955年。当時勢力を拡大していた共産主義、社会主義政党に対抗する政治家たちの大連合として始まったわけで、もともと理念ではなく連合すること自体を重んじる。政党というより、反共産主義、反社会主義のために組んだ徒党。敵を数で圧倒すべく、「小異を捨てて大同につき」(「党の使命」/自由民主党HP 以下同)が基本姿勢なのである。
 自由民主党は特定の階級や団体の利益を代表するのではなく、「国民全般」(「党の性格」)のための政党。特定の誰かのためにならない国民政党だが、誰かのためにならないということは全般的に誰のためにもならないともいえるわけで、党名に掲げられた「自由」も『平成22年綱領』で次のように定義されている。

我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。これを併せて、政治主導という言葉で意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない。

 勇ましい語句が書き連ねられているが、ここで否定していること、つまり「無原則な政府介入是認主義」「利己主義を放任」「独善的判断」「自立心を損なう」「意に反する意見を無視」「独裁的に押し付ける」などは概念上すでに否定されているわけで、それを否定することは一種の重言(単なる重複)であり、行動指針としては意味をなさない。彼らの「自由」とは拘束や規制のない「自由」ではなく、「自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる」とのことだが、それはカントのいう「自律による自由」であり、極めれば彼らが「断固対峙」すべきだという社会主義の理念と同じではないだろうか。
 無内容で敵をも飲み込む国民政党。自由民主党の理念は党歌『われら』で「われらの国に われらは生きて われらは創る われらの自由」(岩谷時子作詞)と歌われるように「われら」という連合意識だけなのである。
 ちなみに自由民主党の「立党目的」とは、次の2つ。

反共産・社会主義、反独裁・統制的統治
日本らしい日本の確立

 反独裁・統制とは「道徳」として言い換えると、決めつけないこと。そして「日本らしい日本」というくらいで「自分らしさ」にこだわる。実は小学校で習う「道徳」は自由民主党の道徳であり、菅さんは総裁としてそれを体現しているのではないだろうか。
 彼の言動が少し理解できたような気がしたのだが、だからといって苛立ちがなくなるわけではない。その後の国会答弁でも私は苛立ち、しばしば呆れた。例えば1月27日の参議院予算委員会。菅さんが主導した「GoToトラベル」事業が感染拡大につながったのではないか、という徳永エリ議員の質問に彼はこう答えた(以下、議事録ではなく筆者の書き起こし)。

えー、感染拡大が続いている背景については、専門家の皆さんによれば、ですね、気温の低下の影響に加えて、飲食のまぁ、場面が主な感染拡大の要因とまぁ、このようにされております。

 専門家によれば、「GoToトラベル」が原因ではないとのこと。菅さんが言うように因果関係のエビデンスはないかもしれないが、「GoToトラベル」による移動が会食の場面を増加させたことは感染者数の増加との相関関係で明らかではないだろうか。原因でなくても誘因にはなりえるのだが、彼はとにかく「専門家によれば」を枕詞にして正当化を図る。つまるところ、感染拡大の原因は「GoToトラベル」ではなく専門家だと言いたいのである。彼はこう続けた。

また、「GoToトラベル」について、昨年の11月以来ですね、ステージ3、この相当の地域を除外するべきとの提言を受けて、各知事にうかがってですね、北海道、大阪、こうしたことは見直しを行ってきました。さらに、12月14日に私は全国一斉の、ですね、一時停止を発表をさせていただきました。このことについては分科会の尾身会長からも、専門家の提言よりもさらに踏み込んだ内容である、というふうな説明もいただいています。

 専門家に責任を転嫁するばかりか、専門家より慎重だと、専門家を踏み台に自らの慎重さを強調したりする。そしてお決まりの「いずれにしろ」、そして「思い」の重複で締めくくる。

ただ、いずれにしろ、なんとしても今はコロナの感染拡大に全力をあげなきゃならない。そういう思いのところでありますので、これからもしっかり対応していきたいと思います。

 彼は「感染拡大防止」と言うべきところで「防止」を言い忘れていた。おそらく「全力をあげる」「しっかり対応する」という決まり文句にこだわるあまり、「防止」の意識が薄れてしまったのだろう。「感染拡大」に全力をあげるな! と私は言いたい。単なる不注意かもしれないが、不注意の裏にある傲慢を私は感じ取った。
 そういえば、かつてニーチェが「命令者の道徳的偽善」(ニーチェ著『善悪の彼岸』木場深定訳 岩波文庫 1970年 以下同)を指摘していた。
 ニーチェによると、集団生活を営む人間には「服従」という「畜群本能」がある。群れて暮らす私たちは、元来、何かに服従したいのである。そして命令する立場に置かれると「あたかも彼ら自身もただ服従しているだけであるかのように自分を欺かなければならない」ことになる。自らを欺いて命令する。具体的にどうするのかというと――、

命令者たちは彼らの良心の疚(やま)しさから身を護るために、自分たちが古くからの、またより高い命令(祖先や憲法や正義や法律や、更には神の命令)の遂行者であるかの如く振る舞うか、或いは、畜群的な考え方から畜群的な格率を借りて、例えば、「わが民族の第一の僕(しもべ)」だとか、「公共の福祉の道具」だとかいった振りをする以外に道を知らない。

 命令者は、より高い命令に服従するフリをするのである。菅さんが多用する「専門家によれば」や「法律に基づいて」も同様だろう。命令者はそれらに服従するフリをしつつ、集団生活にとって有用な「公共心・好意・顧慮・節度・謙譲・寛容・同情」を人間的な「美徳」として讃美するようになる。これこそが「命令者の道徳的偽善」。民主主義の為政者が説く「道徳」は道徳ではなく「道徳的偽善」なのだ。
 なるほど、と私は膝を打った。学習指導要領に出てくる「節度・節制」「親切・思いやり」「感謝」「礼儀」「友情」「信頼」「相互理解、寛容」「規則の尊重」「勤労、公共の精神」「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」などの徳目も、道徳ではなく治政のための道徳的偽善の項目。それ自体に価値がある美徳ではなく、集団生活にとって有用な言葉にすぎないのである。そして連合第一の自由民主党とは道徳的偽善の党であり、私たちは選挙によってそれを支持しているのだ。
 いずれにしろ、菅総理。彼に対して苛立つのは、そこにわれら自身の道徳的偽善が映し出されているからなのだろう。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。

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