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第3回

あなたは子どもで大人

 少年鑑別所の面会室に、くしゃみが響いた。

 (おぼろ)太一はとっさに二の腕で口元を押さえ、飛沫を防ぐ。どうにか間に合った。ついでにポケットティッシュで鼻をかむ。体調がすぐれないうえ、一月の面会室は底冷えする。空調の利きが悪く、どこからか冷気が入り込んでくるのだ。

「申し訳ない。風邪をひいてしまって」

 数日前から、くしゃみと鼻水が止まらない。身体は人一倍丈夫だと自認していたが、歳には勝てないのか。三十代の後半に差し掛かってから、肩や腰の痛みが急に増し、疲れが取れにくくなった気がする。おまけに免疫力まで低下しているというのか。このところ、毎日のように深夜まで残業しているせいかもしれない。

 ――無理は禁物だな。

 己に言い聞かせながら、正面に向き直る。

座っているのは十五歳の少女だった。ミディアムロングの髪を薄茶色に染めているが、化粧っ気のない顔立ちは幼さの色が濃い。サイズが合っていないのか、ジャージの袖が手の甲まである。指先には剥げかけたネイルの跡が残っていた。

 大川ひなた。中学三年生。

彼女は深夜の路上で補導され、虞犯(ぐはん)少年として家庭裁判所へ送致された。

虞犯少年とは、〈将来、罪を犯し、又は刑罰法令に触れる行為をするおそれ〉、つまり現時点では罪を犯していないが、将来的にそうなる可能性がある少年を指す。少年と呼ばれているが女子も含まれる。

ひなたが補導されたのはこの一年で十回以上。いずれも深夜徘徊が理由で、ほとんどの場合、年上の男と一緒だったという。警察は、ひなたがSNS等で知り合った男たちに、金銭と引き換えにわいせつな行為を許していた可能性が高いとみていた。

 罪を犯していないひなたが審判の対象になるのは、健全な育成を促して犯罪を防ぐという、福祉的な目的のためだ。成人の裁判ではまずみられない特徴である。

オボロの所属する弁護士会では、鑑別所へ送られた少年が一度は無料で弁護士と面会できるようにしている。オボロは当番弁護士としてここに来ていた。

「ひなたさん」

微笑を浮かべるオボロに、少女はぼんやりした顔を向けた。

「補導された時、警官に何を言ったか覚えていますか」

「え? なんだっけ」

ひなたがあっけらかんと答える。今回家裁送致に至ったのは、これまでの補導経験だけが理由ではない。警察官に対して挑発的な発言をしたことも一因だった。

「できれば自分で思い出してもらえますか」

「うーん、羨ましいの? みたいな感じかな。お金払ったら付き合ってあげるよ、とか言ったかも。すごい怒ってた」

 自然とため息が出る。怒るはずだ。

「その時一緒にいた人は、その日初めて会った接客業の男性ですね」

「接客業ってか、ホストね。会うまで知らなかったけど。ああいうのって会社員だけじゃなくて、意外と水商売の男も捕まるんだよね。本業で女の人の機嫌ばっかり取ってるから、プライベートでは俺様でいたいのかな。相手が年いった女ばっかりだから、ロリコンになっちゃうのかもね」

 ひなたの話しぶりは経験に裏打ちされている。常習犯とみてまず間違いない。しかも饒舌だ。肝が据わっているのか、どうなってもいいと諦めているのか。

「SNSで知り合った男性とは、よく会っていたんですか」

「しょっちゅう。でもね、警察でも何回も言ったけど、ウリは本当にやってないから。私はね。ご飯食べて、カラオケとか買い物とかだけ。それでお小遣いくれるんだから。中学生って書いたら一発」

 なぜか、ひなたの顔は得意げだった。

「泊まる場所を提供してもらったことは?」

「ないない。そんなの、ヤラせてくれ、って言われるに決まってるし。遊びに行くだけで、ホテルとかも拒否してた」

「じゃあ、どこに泊まっていたのかな」

 補導される四日前、ひなたは家族と住む自宅から姿を消している。要するに家出だ。

「友達の家とか」

「友達というのは、どういう?」

 学校の同級生とは思えない。四日泊めてくれる相手を探すのは一苦労だろう。ひなたの目がわずかに泳いだ。

「……誰の家に泊まったとか、関係ある?」

「もちろん。これから家庭裁判所の調査官があなたの素行や背景を調べて、裁判官に情報をインプットします。こちらはこちらで、できるだけ処分を軽くしてもらうための説得材料が必要です。誰に泊めてもらったかも重要になる」

 ひなたはまだ首をひねっている。理解できないのか、言いたくないのか、両方か。

「わかりました。それはまた後で訊きます」

 折れたのはオボロだった。他にも確認すべきことが山ほどある。

「えーっと、最初に補導されたのがおよそ一年前の二月。それから月に一度のペースで家出を繰り返し、そのたびに補導され、家に帰された、と。間違いないかな」

 無言で頷くひなたに、オボロは続ける。

「学校には通っている?」

「ぼちぼち」

 つまらなそうな答えだったが、オボロには意外だった。家裁送致される子どもは、学生でも不登校の場合が少なくない。

「どのくらいの頻度で」

「週に三日、四日とか。週五で行く時もある」

 学校との関係はそこまで険悪ではないかもしれない。学校側への確認は必要だが、これは好材料になる。オボロの感触では、保護観察処分に持っていけそうだった。

「そういえば、そろそろ受験の時期だけど。進学は?」

「別に。普通に、卒業したらどこかでバイトでもしようと思ってた」

「受験の可能性はない?」

「ないでしょ。受験勉強してないし。あと、親が学費出してくれないかも」

 裏を返せば、学力と経済面の条件さえ揃えば、本人の拒否感はないようにも聞こえる。高校進学は少年にとって有力な社会資源だ。受験のために観護措置取消しを申し立てることもできる。この件は後ほど、学校への問い合わせで確認することとした。

「確認だけど、ひなたさんは付添人を希望するということでいいのかな」

 当番弁護士として駆けつけたオボロだが、すべての少年が付添人を望むわけではない。なかには、経済的な理由から頑なに拒否する子どももいる。そういう場合は、扶助制度について丁寧に説明する必要があった。

「うん。少年院行きたくないし」

 ひなたのあっさりとした返答に安堵する。付添人を希望するという本人の意思は確認できた。ただ、彼女の言い分は気になる。

「改めて説明するけど、付添人は処分を軽くすることが目的じゃない。あなたの将来について一緒に考えて、よりよい生活が送れるように調整するのが目的です。その過程で、保護する必要はない、と家裁が判断すれば処分はおのずと軽い方向に行く。少年院に行くかどうかはあくまで結果なんだよ」

 首をかしげるひなたは、そもそもオボロの話を聞いているか怪しい。ここは大事なところだ。もう少しだけ説明を加えることにした。

「今までどうだったかということより、これからどうするか、が大事なんだ。安定した生活ができるようになれば、それなら大丈夫だと裁判官も思う。だからまずは、今の状況を色々と教えてほしい。わかったかな」

「……なんとなく」

 小声で返ってきた。これ以上は突っ込まない。まだ本題が残っている。

「次にご家族のことだけど」

 途端にひなたが眉をひそめた。

「一緒に住んでいるのはご両親と、お姉さんだね」

返答はない。供述調書によれば、ひなたの父親は会社員、母親は主婦、三歳上の姉は高校生だという。

「家族で一番、会話するのは誰かな」

「誰とも話さない」

「じゃあ、最後に話したのはいつだろう」

「話すっていうか……向こうから一方的にがーっと言われることはある。家にいるといつも言われるから」

「それは、主に誰から?」

「おっさん」

 聞き違いかと一瞬思ったが、ひなたは確かに、おっさん、と言った。

「……お父さんからよく言われるんだね」

「そう。うちはおっさんの帝国だから」

 帝国。家庭環境には似つかわしくない言葉だった。

「今のはどういう意味だろう」

「家のことは全部、おっさんが決める。お母さんのパート先とか、お姉ちゃんの受験する大学とか。笑えるでしょ?」

 実際に、ひなたは薄笑いを浮かべていた。強権的な父親らしい。

「しかも超口悪いし。お母さん、昔からよく怒られてる。なんでそんなことわからないんだ、とか。お姉ちゃんはお気に入りだからあんまり怒られないけど。あたしもバカ、落ちこぼれ、とか言われて。この間、インバイって言われて意味調べたら、売春婦みたいな意味だし。めちゃくちゃ。家出するのも当たり前っていうか」

 次第に饒舌になってきた。父親への悪口はいくらでも話せそうだ。

「お父さんへの反論はしない?」

「したことあるけど、無駄。全然聞く気ないから。プライドがすごいの。妻や娘がおれに口答えするんじゃねえ、って感じ」

 オボロは父親の思考を想像する。今までにも、似たようなケースがあった。

「お父さんは、家庭の外ではどう振る舞ってる?」

「外面はいいの。普通の人って感じ」

「補導された時、迎えに来るのはお母さん?」

「そう。おっさんが来たこと、一度もない。面倒くさいこととか、頭下げるのは全部お母さんにやらせて、家で待ってんの。それで、帰ったら説教」

 家庭内の力関係は概ね把握できた。学費を出してくれない、という発言の意味も理解できる。きっと、父親は経済力を背景に家族を従わせてきたのだろう。健全な家族関係とは言いがたい。

「早ければ今日中にご家族とお話しするけど、言っておきたいことはある?」

「そうだなぁ。自分のことは自分で決めるから、ほっといて、って言って」

 言えるはずがない。オボロは返事の代わりに苦笑した。

「今後のことを考えるには、ご家族の意見を聞かないと……」

「はい、はい。じゃあ何も言わないでいいよ」

 どうにも会話が噛み合わない。初対面だから仕方ないものの、ひなたはまだオボロに心を開いていない。補導前、どこに泊まっていたかも聞き出せなかった。近日中にまた面会することになりそうだ。

 一時間ほどで切り上げ、初回の接見は終わった。ひなたを見送り、面会室を出たところで盛大なくしゃみが出る。頭が重いのは風邪のせいか、仕事疲れのせいか。思い当たる節がありすぎる。オボロはなるべくストレスの原因を考えないようにしながら、法律事務所への帰路についた。

「すぐに、少年院に入れてください」

静かだが断定的な口調だった。ひなたの父親――大川正之の苛立ちが、電話の向こうから伝わってくる。事務所のデスクで、オボロは空いている左手を握りしめた。

外面はいい、とひなたが言っていた通り、最初の感触は悪くなかった。「お手数をおかけして申し訳ございません」という丁寧な謝罪からはじまり、親としての不手際を長々と詫びていた。だが、ひなたが付添人を希望していると告げたあたりから、不穏な空気が漂いはじめた。

「下の娘にはもう、ほとほと手を焼いているんです。私たちのような一般人じゃ手に負えません。少年院にでも入って、矯正してもらわないと」

「ですから、それは家裁が判断することなので」

 オボロは改めて、少年事件の流れを説明する。現在は観護措置として、ひなたが少年鑑別所で保護されていること。三週間後には審判があり、処分が下されること。ひなた自身が少年院に行くことを望んでいないことも。

 正之は刺々しい口調で「だから」と言う。

「弁護士なんかついていただかなくて結構です。あいつが少年院に入りたくないって言ったら、あなたはその通りに活動するんですか。親の意見は無視ですか。私らがどれだけ迷惑をかけられてきたか、わかってないでしょう」

 声のボリュームが大きくなってきた。

「補導されたのも、裁判にかけられるのも自業自得だ。なんで高い金払って弁護士まで雇わないといけないんですか。こっちは少年院に行ってほしいのに」

「予算については、扶助制度がありまして……」

「聞いたことありますよ。弁護士も最近は増えすぎてしまって、仕事がないんでしょう。営業する暇があったら、もっと重大な事件の弁護でもやられたらどうですか。少年事件なんてやっても儲からないでしょうに」

 ――余計なお世話だ。

 威圧的な声音。機関銃のような語り口。論点ずらし。本題とは無関係な個人攻撃。おそらく、家族にもこうした態度で接しているのだろう。感情のコントロールが未熟な大人は決して珍しくない。そして子どもは、常に親の機嫌に振り回されることになる。

「少年院送致だとしても、解決はしませんよ」

 まくしたてる合間を縫って、どうにか口を挟む。怒りをはらんだ口調で「どういう意味です」と正之が質した。

「おそらく、半年か一年で退院するでしょう。そうなると帰住先の問題が出てきますから、またお父さんの許に連絡がいきます。もう一度少年院に入れてくれ、とは言えません。問題を先送りしているだけなんですよ」

 初めて正之が沈黙した。この隙に畳みかける。

「何の手当てもなく、ただ少年院に送られたと知れば、ひなたさんはご家族を逆恨みする可能性もあります。できる範囲でいいので、環境調整に協力してもらえますか」

 脅しめいた言い方だと自覚しているが、とにかく自分を付添人だと認めさせないと、話が前に進まない。交友関係の調査、学校への聞き取りも、それからだ。

「……うちに戻すつもりはありません」

 正之の頑なな物言いに、思わずため息が出る。

「ひなたさんに、自分で家を探せと?」

「当てはあるんでしょう。ササキとかいう男の家に泊まっているそうじゃないですか」

「ササキ?」

 唐突に出てきた名前に面食らう。未確認の情報だ。

「あいつが上の娘に話していましたよ。家出するたびに、ササキに泊めてもらっているんだと。そんなことだろうと思っていた。訳のわからない男とつるんで、売春婦みたいな真似をして。うちに帰ってこなくても、その男に泊めてもらえばいい」

 思わず唖然とするが、気を取り直してササキの名を手帳に書き留める。重要なヒントだ。しかし、男に宿泊場所を提供してもらったことはない、というひなたの発言とは矛盾する。彼女が嘘をついていたのか?

「ひなたさんが、お姉さんにそう話したんですか?」

「そうです。だから、私たち家族がどうこうする必要はないでしょう」

 すぐにでも通話を切りそうな正之を引き止め、オボロは説得を続けた。

 それから十五分ほど話し、付添人になることはどうにか認めさせた。だが、審判への協力はしない、の一点張りだった。激昂する正之に徒労感を覚えたオボロは、いったん対話を諦めた。このまま話し合っても埒が明かない。

「大変そうなご家庭ですね」

 通話を終えたオボロが鼻をかんでいると、パラリーガルの原田が話しかけてきた。隣席の彼女には会話が筒抜けだったらしい。

「悩みのない家庭なんてないよ。親から拒否されることはたまにあるし」

「それもそうですけど、相手方、すごい剣幕でしたね」

 少年事件の弁護士をしていると、厄介な大人との会話は日常茶飯事だ。それでも、正之ほど敵意を露にする相手も久々だった。

 彼もきっと、会社ではそれなりに常識人としてふるまっているのだろう。会社と家庭で違う顔を使い分けること自体は、誰でもやっている。だが、自分が正しいと信じて疑わず、挙句、子どもの養育を放棄するような親はそう多くない。

「とにかく付添人にはなれたから、ここからが大事……」

 鼻に違和感を覚えた次の瞬間、くしゃみが出た。慌てて二の腕で防ぐ。

「……失礼」

「先生。病院行ったほうがいいですよ」

「大丈夫、そんなにたいした風邪じゃないから」

「よく子どもたちに言ってるじゃないですか。自分を大事にしろ、って。先生が鼻水ズルズルだったら、あ、この人自分のこと大事にしてないんだな、と思われますよ」

 反論の言葉もない。素直に反省する。

「今度、行きます」

「できるだけ早く行ってください」

 きっちりと身なりを整えている原田に言われると、なお心に響く。オボロは忘れないうちに、近所の内科に予約を入れることにした。


 繁華街にあるカフェチェーンの店舗は、夕刻という時間帯のせいもあってか混雑していた。オボロは奥まった席でカフェラテを飲んでいる。店内の様子はよく見えるが、待ち合わせの相手と思しき人物はまだ来ていない。腕時計を見ると、約束の午後五時を数分過ぎていた。

待っているのは、例のササキである。

 その正体は、意外にもあっさりと判明した。ひなたの学校の友人に、ササキの自宅に遊びに行った女子生徒がいたのだ。彼女は一度だけ無断外泊をしたことがあり、その際、ひなたの案内で訪れたのだという。しかも、ササキ本人とも会っていた。どんな人だった、とオボロはかすかな緊張とともに尋ねた。

 ――えっと……優しそうなおばちゃんでした。

 予想外の答えにすぐには反応できず、オボロはしばし固まった。

 ――どういうことかな。おばちゃんは、家族か誰か?

 ――え? 違いますよ、その人がササキさん。女の人。

 ようやく理解できた。ひなたがSNSで知り合った男とよく会っていたことから、相手は男だと思い込んでいた。正之もササキは男だと言っていたが、勘違いだったらしい。あるいは、ひなたの姉がそう伝えたのか。

 女子生徒のスマートフォンには、ササキの連絡先が登録されていた。もし泊まる場所に困ったら、連絡するようアドバイスされたという。驚き、呆れつつ、オボロはその番号に連絡して面会の約束を取り付けた。

 すでに五時を十五分過ぎているが、それらしき客は現れない。テーブルの上には、目印にグレーの手帳を置いている。

 ――逃げたりしないよな。

 口に運んだカフェラテは湯気が消えていた。

 ふと、新しく入ってきた人物に視線が引き寄せられた。ベージュのコートを着た、細身の女性。長い髪は薄茶色に染められている。オボロと同年代に見える彼女は、注文したコーヒーを手に取るなり、落ち着かない様子で周囲を見渡していた。

視線を送ると、相手も何かを感じ取ったようだった。一直線に近づいてくる。

「あのう、朧太一先生……ですか」

「ええ。笹木さんですか?」

 女性は安堵の笑みを浮かべ、「そうです」と答えた。目尻がきゅっと細くなる。人当たりのいい表情に、オボロもつい笑顔になった。

 正面に座った彼女と、まずは名刺を交換する。〈笹木実帆〉という名前の上に、〈スタイリスト〉と肩書きが添えられていた。美容室の店名も記されている。

「美容師さんですか」

「はい。勤め先のサロンがすぐ近くなんです。すみません、ちょっとうるさい場所で」

 この店舗を指定したのは彼女のほうだった。いつもは午後八時頃まで働いているが、今日は面会のために早退したという。

「遅れてごめんなさい。お客様の対応が長引いてしまって」

「ああ、いえ。ぼくは大川ひなたさんの付添人のオボロといいます」

 真顔で言うと、笹木の顔に浮かんでいた笑みがわずかにこわばる。

「電話でも伺いましたけど、ひなたちゃんがどうして鑑別所に?」

 声をひそめる笹木に、オボロは改めて経緯を説明する。特に、虞犯であって罪は犯していないことを強調した。

「それだけで、少年事件にされるんですか」

「補導の頻度が高すぎます。それに、警察官への挑発的な言動もあったようです」

「だとしても、いきなり鑑別所なんてあんまりですよ」

 笹木の口調には怒りが滲んでいるが、冷静さは保っている。まともな社会人らしい対応だ。一見して、彼女が行き場のない少女を自宅に泊めているとは誰も思わないだろう。もっとも、人の見た目からわかることなど常に限られているが。

「ひなたさんとは、いつ知り合ったんですか」

 笹木の目が泳ぐ。本当のことを話していいのか迷っているようだった。あえて急かさず黙っていると、やがて口を開いた。

「……一年前くらいに。去年の二月かな。私のことを友達に聞いたらしくて、いきなり電話がかかってきました。家出したけど行く場所がないから、泊めてほしいって。それでうちに来ました」

「笹木さんはその前から、行き場のない子どもを家に泊めていたんですね」

「悪いですか?」

 むっとした表情でオボロを見る。

「保護するのはともかく、自宅に泊めるのはどうかと思います」

「私が泊めるのは女の子だけです。オボロさんは知らないでしょうけど、今夜泊まる場所がなくて困っている子はたくさんいるんです。放っておいたら、それこそ犯罪に巻き込まれます。誰かが泊めてあげないと」

「ぼくは少年事件が専門です。自宅に泊める以外の方法があることも知っています」

 オボロなら、やむを得ない事情で行き場をなくした子どもは一時保護所、あるいは民間の子どもシェルターに宿泊できるよう手配する。一般人の自宅に泊めるのは、法的にも、生活の質を担保する意味でも、大いにリスクがある。

 笹木は自らの正義感に従って行動しているらしい。言葉を信じるなら、悪意はない。だが、そのやり方こそが危険だと気付いていない。

「はっきり言って、あなたのやっていることは未成年者略取です」

「なんで? 本人が希望しているんですよ」

「保護者の同意がなければ、監護権の侵害になります。あなたが泊めた子どもの親が、警察に親告すればおそらく罪は成立するでしょう。たとえ善意でも」

 笹木は何かに耐えるように、唇を噛んでいた。顔から血の気が引いていく。

「今も泊めているんですか」

「まあ、はい」

「ちなみに何名?」

「四人です」

 心なしか声が小さくなっていた。せいぜい一、二人だと思っていたが、予想より多い。

「常に四人ほどいるんですか」

「だいたい二、三人は。多い時は五人とか」

「失礼ですが間取りは?」

「1LDKです。一部屋は私の寝室で、女の子たちはリビングに雑魚寝してもらってます。ブランケットとかバスタオルとか、適当に敷いて」

 広いとは言えないが、寝床のない子どもたちには貴重な居場所かもしれない。一方、寝床だけでは人は生きていけない。笹木がどこまで面倒を見ているのか気になった。

「宿泊場所以外にも提供していますか」

「晩ご飯くらいはあげてます。菓子パンとか。私もお金あるわけじゃないし」

 笹木がぶっきらぼうな口ぶりで言う。徐々に開き直っているようにも見えた。

「もしかして、お小遣いとかも?」

「まさか。お金は際限がなくなるんで。そこまで裕福じゃないし」

「トラブルは起こらないんですか」

「しょっちゅう。女の子同士の喧嘩はよくあるし、物を盗まれたこともありました。それからは、貴重品は絶対金庫に入れるようにしてます」

 不思議と、オボロは引き込まれていた。笹木の行いは決して褒められたものではなく、いつ警察に突き出されてもおかしくない。だが話せば話すほど、なぜ彼女がそこまで少女たちに尽くすのか興味が湧いてきた。

「子どもを泊めるようになったのは、いつからですか」

 本題から逸れていくのを承知で質問を重ねる。

「二年前の年末です」

 萎えていた笹木の口調は、いつの間にか自信を取り戻していた。

「店のお客さんとして会った高校生でした。髪を切っていたら、突然泣きはじめたんです。びっくりして事情を聞いたら、実は家出している最中で。知り合いに会ってもばれたくないから、思いきり髪を短くしたいんだ、と。でも今夜泊まる場所もなくて、不安で涙が出てきたっていうんです」

 オボロは相槌も忘れて、聞き入っていた。

「話を聞いたら、いてもたってもいられなくて。私の家でよければ泊まっていいよ、と言いました。女の子は何度も、ありがとうございます、ってお礼を言ってくれて。お風呂も食事も用意しました。夜はベッドを貸してあげて、次の日の朝に見送りました。その子とはそれっきり。今どうしているかも知りません。でもそれ以来、困っている子がいると放っておけなくなったんです」

 笹木が顔を上げる。黒い瞳がまっすぐに正面を見ていた。

「変な女だと思ってますよね」

「そんなことは」

 つい否定したが、否定してよかったのか、と思い直す。本来なら非難すべき立場のはずなのに、強く出られない。全面的ではないものの、笹木の意見に同調している自分がいる。だが、やり方はまずい。

 ――どうすればいい。

ひなたの様子を聞くはずが、思いがけないところに足を突っこんでしまった。

 腕を組んで黙考していたオボロは、やがて腹をくくった。

「やはり、未成年者を勝手に泊める行為は、見過ごせません。ひなたさんが家出を繰り返したのは、あなたが泊めてくれるから、という安心感があったせいかもしれない。女の子たちの家出を間接的に助長している可能性があります」

 笹木が黙ってうつむいた。長い前髪が顔にかかる。

「それに、笹木さんのことも心配です。このままではあなたが潰れかねないし、自分の人生を歩むことができない」

 風向きが変わったのを感じたのか、笹木が顔を上げた。潤んだ両目には微かな期待が満ちている。

「ぼくに任せてもらえますか」

 オボロはここぞとばかりに微笑んだ。少し格好をつけすぎかな、と思いつつ。


「オボロ先生」

 隣席から刺々しい声が飛んできた。ノートパソコンで書類を作成しながら、原田は口を動かしている。

「自分を大事に、って言いましたよね」

「面目ない」

「どうしてこんなに仕事が増えるんですか。一気に四人も増やして。さばけるんですか」

「だって、無視できないし……」

 笹木実帆との面会から数日後、オボロは彼女の自宅に寝泊まりしている少女四人と面談し、帰宅するよう促した。とにかく、笹木にはこの習慣をやめさせなければならない。その一心だった。

しかし少女たちは家族との折り合いが悪く、帰宅を拒んでいた。そのため現在は四人の親と連絡を取り、帰宅に向けた環境調整をしている。いずれも込み入った事情があり、片手間で対応できる案件は一つもない。もともと多忙だったところに、さらに仕事が増えたのだ。

「全員、実質的には虞犯少年なんだよ。スルーして事件になれば、そのほうが問題だ」

「わかりますけど。せめて手分けしてもいいんじゃないですか」

オボロは「まあねえ」とごまかす。

他の弁護士に頼めないのは、これがなかば趣味だと理解しているからだ。自ら首を突っこんでおいて手を借りるのは、オボロには申し訳ない気がした。

 昔から、他人に頼み事をするのが苦手だった。少年院を退院して、最初に就職した建設会社ではよく「トロい」「要領が悪い」と言われ、先輩社員からずいぶん侮られた。助けを求めろ、とアドバイスされることもあったが、実行には移せなかった。

 今では、こういう性格なのだと諦めている。

 もしかしたら、笹木も似たような性格なのかもしれない。他人に頼るのが下手で、そのくせ困っている少女たちを放っておけず、自ら面倒な道を選ぶ。シンパシーを感じるからこそ、彼女の行動を真っ向から否定できない。

「先生、いいことあったんですか」

 原田が気味悪そうに言った。

「なんで?」

「口元が笑ってるんで」

 慌てて唇に手をやる。まったく意識していなかった。原田は興味なさそうに「なんでもいいですけどね」と付け加える。

「それで、ひなたさんの件はどうなるんですか」

「在宅の試験観察で調整中」

 試験観察とは、ただちに保護処分を下すのがふさわしくないと裁判所が判断した場合に取られる処置である。三か月から半年程度、在宅または委託先で過ごすことになるが、あくまで中間処理であり、その後最終的な審判が下される。

 オボロは正之のいない場で、ひなたの母親と面談をしていた。最初は黙りこくっていた母親だが、本音では、ひなたの帰宅を願っていることがわかってきた。担当の家裁調査官も試験観察には概ね同意している。(うら)()という男で、斎藤(れん)の付添人を務めた時と同じ人物だった。

「でも、当の父親の説得が難しいんじゃないですか」

「一筋縄ではいかないね」

 それでもオボロが在宅にこだわるのは、そうしないと試験観察という判断を得られにくいからだ。委託先は常に満員に近く、裁判所としても、試験観察を決めるには在宅が前提条件となっている節がある。

「ただ、学校との関係は良好のようだし、的が絞れているとも言える」

「楽観的ですね」

 呆れたような原田にオボロは苦笑する。

 ――楽観的でないと、やってられないよ。

 そのひと言はかろうじて吞み込んだ。


カフェに到着したのは、約束の五時より二十分も早かった。

オボロはカフェラテを頼み、前回と同じ奥まった席に腰かけた。まだ来るはずもないのに、やたらと出入口が気になる。笹木と似た背格好の女性が現れると、思わず視線が引き寄せられた。

スーツは一か月ぶりにクリーニングに出した。アイロンをかけたワイシャツにはわずかな皺もない。首元にはグレーのネクタイ。足には磨かれた革靴。後頭部の寝ぐせはしっかりとかしてきた。髭は事務所のトイレで顎が削れるかと思うほど念入りに剃った。いつもと変わらないのは、胸元のバッジの輝きだけだ。

今日ここで、笹木実帆と二度目の面会をすることになっている。この三週間、電話では幾度も連絡を取ってきたが、対面は一度もしていない。手帳を広げて打ち合わせの内容を復習する。ここに来るまでの間もさんざんやったが、まだ不安だった。

笹木宅に身を寄せていた四人の少女のうち、一人はすでに自宅へ帰り、一人はあと一歩のところまで環境調整が進んでいる。残る二人の現状を笹木からヒアリングし、対策を練ることになっていた。少しずつだが着実に前進している。

 午後五時ちょうど、ベージュのコートを着た女性が現れた。オボロは思わず立ち上がったが、自分の不自然さに気付き、慌てて座った。コーヒーを手にした笹木が愛想のいい笑みとともに近づいてくる。急激に緊張が高まる。

「お待たせしました……」

 テーブルにカップを置いた笹木が一瞬、固まった。視線が忙しなく動いている。

「笹木さん。どうかしましたか」

「いえ、大したことないんですけど」

ニットのワンピースを着た笹木が対面に腰かけた。

「言ってください」

「あのう、前にお会いした時と、なんとなく雰囲気が違うなと思って」

当然である。前回会った時は、くたびれたスーツに皺の寄ったシャツ、ノーネクタイにくすんだ革靴という出で立ちだった。オボロの顔が紅潮していく。

「変でしたか?」

「変じゃないです、全然。今日のほうがいかにも弁護士さんって感じですね」

あまり褒められた気はしない。多少くたびれていたほうがよかったのだろうか。何が女性に受けるのか、オボロには見当もつかない。

ひとまず、気を取り直して仕事の話に移った。

調整が進まない二人の少女について、笹木から近況を聞く。うち一人は精神的に不安定な傾向があり、医療ケアを検討することになった。

「ご家族は受診の必要性を感じていないようでしたが、ぼくから再度説明します」

「もし受診するとなったら、心療内科でいいんですか」

「できれば児童精神科医がいいですね。何人か知っているので、その時は紹介します」

仕事の話をしているうちに、オボロは平常心を取り戻していった。弁護士という肩書きは一種の鎧である。仕事をしている間は、生身の自分をさらけ出さずに済む。

会話にひと区切りついた頃、笹木がおずおずと切り出す。

「先生。ひなたちゃんは、どうなりましたか」

「すみません、お伝えしてなくて。彼女は自宅へ帰ることになりました」

大川ひなたは数日前、在宅での試験観察が正式に決まった。最大の障壁であった父親の正之を説得できたのは、ひなたが高校入試を受けると決断したためだ。進学の意思があるとわかったことで、正之の態度も軟化した。根気強く進学の意義を説明したことが功を奏したようだ。

「入試はいつ?」

「二月の下旬です。そのまま数か月は様子を見ることになると思います。試験観察の間はぼくが定期的に面談をして、家族との関係改善や、進路選択を支援します」

「よかった」

張りつめていた笹木の表情がやわらぐ。本心からの安堵に見えた。

「私、中学しか出てないから苦労したんです」

 ぽつりと言葉が漏れた。何か語りたそうに見える。オボロは「そうですか」と言ったきり、黙って笹木の言葉を待った。

「……小さい頃、父親は夜寝に帰ってくるだけで、母親もしょっちゅう外に出ていました。小学校から帰ってくると、机の上に袋入りのロールパンが一袋だけ置いてあって。次の日の朝までそれだけ食べて過ごしました。シャンプーとかボディソープとかいつも切れていて、お湯だけで身体を洗っていたんで、臭くないかいつも心配で」

「それは」

「ネグレクトですよ」

 オボロは顔色を変えず、話に耳を傾ける。

「大人になってからわかりましたけど。家のなかはゴミ袋で足の踏み場もないし、親はいつもイライラして叩いてくるし。物心ついた頃から早く出たかったけど、中学卒業までは我慢しようと思っていたんです」

 そこでいったん言葉を切る。話を続けることに躊躇しているようだった。

「中二の夏頃から、父親が寝床に入ってくるようになって。最初は足や腕をさすったり……でも、どんどんエスカレートして……」

 笹木が(はな)をすする。目の縁には涙が溜まっていた。周囲の客が横目で見ているが、オボロには気にならない。

「ごめんなさい。話しすぎました。女の子を泊めていることも、家のことも、他の人に話したことがなくて」

「お気になさらず。誰にも話しませんから」

「あの、そう……だから、私には家出する子の気持ちが痛いほどわかるんです。私もそうだったから。本当に泊まる場所がないんです。友達の家なんか泊まれないし、駅とか公園で野宿したこともありました。そんなの、他の子にはさせたくないんです」

 オボロは無言で頷く。

 笹木自身にも、家庭での辛い経験があるかもしれないとは思っていた。気の毒だからといって、見ず知らずの少女たちを自宅に泊めるのは普通ではない。きっと笹木は、家出少女たちを見るたび過去の自分と重ね合わせているのだろう。

「笹木さんは、高卒認定試験を受けたんですか。美容師の資格を取るには、専門学校に通う必要がありますが」

「そうです」

「同じですね。ぼくも高認ですよ」

思わずオボロは答えていた。笹木が「意外」と応じる。

「てっきり、先生はしっかりした学歴なのかと。あ、失礼ですよね。ごめんなさい」

「ぼくの場合、ちょっと事情が特殊で」

両親に空き巣を強要され、少年院にいた日々が頭をよぎる。

笹木がオボロに過去を吐露した手前、自分だけ前歴を隠しているのは卑怯な気がした。だが、語ろうと唇を動かしても言葉が出てこない。オボロは金魚のように何度も口を開閉した。

 二十年以上前とはいえ、目の前の男が罪を犯したと知れば笹木はどう思うだろう。嫌悪。軽蔑。冷笑。いずれの反応でも、きっと自分は傷つく。現に、これまで数えきれないほどそういう経験をしてきた。

付添人活動で出会った少年たちに過去を話す時、躊躇したことは一度もない。話すのが怖いと思ったのは初めてだった。

「大丈夫ですか、先生」

 笹木が怪訝そうにのぞきこむ。

「……失礼しました。平気です」

 オボロはこわばった微笑で過去を吞み込む。勇気のなさを内心で認めながら。


 調査官の浦井は、家裁の会議室に入ってくるなり、両手を擦り合わせた。脇には器用に書類やファイルを抱えている。

「いやいや。こう寒いと、さっさと家に帰って熱燗で一杯やりたくなりますね」

 小太りな浦井が柔和に笑いかける。待っていたオボロはいったん立ち上がり、相手と同時に椅子へ座った。

「先生、お酒は?」

「家では飲まないですね。飲めないわけじゃないですけど」

「ああ、そう。いける口に見えますけどね」

 浦井は軽口を叩きながらバインダーに綴じられた書類をめくっている。

「えーっと、大川ひなたさんでしたよね」

「月曜に面談されたと伺いました」

 試験観察のため、ひなたが自宅へ戻って二週間が経った。その間、家裁調査官の浦井が定期的に面談をすることになっている。先日、家に帰ってから初めての面談が行われた、とひなたの母親から聞いている。

 試験観察の間、浦井とオボロは役割を分担することにしていた。浦井は定期的に面談してひなた本人から近況を聞き取り、オボロは家庭や学校などの環境調整を担う。

「でも、オボロ先生も個別に面談されてるんでしょう?」

「母親とは。本人とは会えていないんです。受験に集中したいから、その後で、と」

「なるほど……ああ、あったあった。今のところ順調だと思いますよ。髪も真っ黒に染め直していました。勉強の話は私も聞きましたがね。国語と英語が得意だそうです」

 浦井がメモ書きに目を通しながら語る。

「彼女自身、もともと進学意思がなかったわけではないようですね。この一年でずいぶん成績は落としたと言っていましたが、中二までは学年でも中の上くらいだったそうです。ただ、とにかく父親と反りが合わない」

 正之から電話で浴びせられた強圧的な言葉の数々を思い出す。毎日あの父親と接していたら、家を飛び出したくなるのも無理はない。

「三歳上にお姉さんがいるでしょう」

「あずささん」

「そう。彼女もちょうど、大学受験の佳境らしいんです」

今は高校だけでなく、国公立大学の入学試験が行われている時期でもある。

 ひなたの姉であるあずさは高校三年生だ。オボロは母親との面談のため、大川家を訪れた際に挨拶だけしていた。デニムにボーダーのカットソーという飾らない服装の少女だった。挨拶の声は聞き取れないほど小さく、おとなしい印象を受けた。

「父親がね、あずささんの大学選びにも口を出すらしいんですよ。女子大にしろだの、文系で受けろだの」

「本人の希望は?」

「国立大の理学部だったそうです」

 だった、という過去形の物言いが気になる。浦井が口をへの字に曲げた。

「あずささん、あんまり父親がしつこいんで本命を諦めたそうですよ。実家から通える女子大に志望校を変更したとか。そのやり取りを傍で眺めていたひなたさんは、心の底から馬鹿らしいと思った、ということです」

 ――うちはおっさんの帝国だから。

 最初の面談でひなたがそう言っていた。家庭という小さな帝国で、支配者としてふるまう父親。正之にとっては、妻も二人の娘も臣下であり、従うまでは許さない。ひどく子どもじみた王様だ。

「幸い、ひなたさんの受験に関しては口を挟んでいないようですがね。もともと受験すら危ぶんでいたから、進学の意思を示してくれるだけ御の字なんでしょう」

 浦井は淡々と私見を述べる。

 ベテラン調査官の浦井は冷静だ。少年事件の表も裏も知りすぎているせいか、斜に構えるところはあるが、その分析は経験に裏打ちされている。

「ところで、友人関係についてはわかりましたか。誰の家に泊まっていたのか」

 水を向けられたオボロは固い表情で首を横に振った。

「本人の口からは何とも」

 内心、オボロは冷や汗をかいていた。笹木の件は誰にも話していない。もちろん罪悪感はあるが、話せば笹木が罪に問われるかもしれない。その選択はできなかった。

家裁には、ひなたは知人宅で寝泊まりしていたようだが、具体的な行き先は証言していないと報告していた。また、笹木が泊めている他の少女たちの家族にも、知人のボランティアから保護を依頼された、とだけ話している。

「深夜に友達と出歩いていたわけでしょう。その辺から聞き出せませんか」

 浦井は食い下がる。暗に能力を責められているような気がした。

「すみません。私の力不足で」

「私も調査してみましょうか」

「それには及びません。付添人としてやらせてください」

「……そうですか」

 ひとまず引き下がってくれた。だが、その目にはまだ疑念が残っている。

「宿泊先がわからないのは痛いですね。注意しておかないと、彼女は家出しようと思えばいつでもできてしまうわけだから。向こうから誘ってくるかもしれないし」

「承知しています」

「何かあったらすぐに相談してくださいよ。あなたはどうも抱え込みそうだから」

 やはり、そう見えるらしい。まだまだ修行が足りない。

 再度手元に視線を落とした浦井が、あ、とつぶやいた。

「今日か」

「どうしました」

「ひなたさん、今日が試験日だと言っていました」

 思わず、オボロは会議室の窓の外を見た。植木の枝が寒風に揺れ、その身を震わせている。昼前の空は青白い晴天だった。ちょうど今頃、ひなたは試験問題と格闘している頃だろうか。

「受験の結果によっては、また父親が騒ぐかもしれませんねえ」

 浦井はひどく現実的なコメントの後で、「まあしかし」と付け加えた。

「進学の意思を示してくれたのは、彼女にとって大きな一歩ではありますが」

 オボロはその意見に心から同意する。

自分一人で決めてしまうことと、自分の人生を歩くことは別だ。ひなたは家出をした瞬間、自由を感じたかもしれない。だがそれは、諦めの上に成り立つ自由だった。ならば大人がすべきことは決まっている。彼女が手放したものを、再びその手につかませるのだ。

もちろん、それが語るよりずっと難しいことも理解していた。


 大川ひなたの母親から電話がかかってきたのは、その日の午後九時だった。

事務所で作業をしていたオボロは、ディスプレイに表示された名前を見ると同時に不安な予兆を感じた。そしてこういう予感はたいてい当たってしまう。

「あ、あのっ。先生。考えすぎかもしれないんですけど、おかしいことがあったら連絡するよう言われたので、電話したんですが」

 動揺しきった声が飛び込んできた。ひなたの母親は明らかに取り乱している。

「落ち着いてください。何かありましたか」

「試験会場に行ったまま、ひなたが帰らないんです」

絶句した。試験は長時間かかるとはいえ、この時間まで帰っていないのは遅すぎる。

「家に戻ってからずっと落ち着いていたし、この一、二年では見たことがないくらい熱心に勉強していたんです。だから安心して送り出したんですけど、やっぱり付いていくべきだったんでしょうか」

「もう少し状況を教えてください」

母親いわく、けさ七時半に家を出て、試験会場へ向かったという。その様子に不穏さは微塵もなかった。

「あの子、泊まる道具なんか何も持ってないんですよ。文房具と参考書くらいしかないのに。お金だって交通費くらいしか」

 オボロは奥歯を噛んだ。こういう時、ひなたが向かう場所は一つしかない。

「少しだけ、通報は待ってもらえますか。すぐに折り返し連絡します」

「あの、主人はまだ会社なんですが、きっともうすぐ帰ります。それまでに家に連れ戻していただけませんか」

「お約束はできません」

 状況の聞き取りもそこそこに電話を切り、すぐさまひなたの番号にかける。だが、コール音が虚しく鳴るだけであった。

手のひらに汗が(にじ)む。試験観察中に所在不明となれば、家裁への心証悪化どころではない。場合によっては審判が開かれ、少年院送致の判断が下されることもある。そうでなくとも、自暴自棄になった子どもはどういう行動に走るかわからない。せめて行き帰りには親を同行させるべきだった。後悔がオボロの胸を裂く。

 続けて笹木の番号にかけたが、やはりつながらない。何度かけても同じだった。仕方がないので、留守番電話サービスに折り返し連絡するよう伝言を残した。単に気づいていないのかもしれない。仕事が長引いている可能性もある。まだ、ひなたが笹木の家にいると決まったわけじゃない。

 それでも、向かわずにはいられなかった。訪れたことはないが住所は聞きだしている。事務所を出てタクシーを停め、後部座席に乗るなり番地を告げた。オボロの焦った様子を見た運転手は「三十分以内に着きます」と応じた。

 夜の街を駆ける車のなかで、オボロはスマートフォンを握りしめていた。いつ笹木から折り返しの連絡があってもいいように。しかし期待に反して、手のなかの機体は沈黙を続けている。

 やっとかかってきたと思えば、相手はひなたの母親だった。

「今、主人が帰宅しました」

 声は押し殺しているが、オボロには悲鳴に聞こえる。

「ひなたさんのことは?」

「まだ話していません。今、お風呂に入っています」

「ご主人には話してください。どのみち、隠すのは無理です。ただ通報は待ってもらえますか。今、居所を捜しています」

 どこからか、クラクションが高らかに響いた。

「……移動中なんですか? どこに向かっているんですか」

「すみません。後で説明しますので」

「どういうことですか、先生。なんで親が」

 言葉はそこで途切れた。続けてひなたの母親は「主人が来ました」と早口で言い、一方的に通話を切ってしまった。この調子だと、そのうちまたかかってくるだろう。今度は正之のほうかもしれない。

 やがてタクシーは八階建てのマンション付近で停止した。料金を支払い、駆け足で向かう。自動ドアの先にあるエントランスはオートロックだった。パネルのボタンを押し、相手を呼び出す。部屋番号は四〇五。電子音がやけに大きく聞こえる。

反応はなかった。不在か、あるいは居留守か。三度鳴らしたが同じだった。

 打つ手なし。後悔が再び胸の奥から湧きあがる。

 その時、スマートフォンが震えだした。恐る恐る確認すると、〈笹木実帆〉と表示されている。オボロは反射的に受話ボタンを押していた。

「笹木さん? 今どこにいますか。ひなたさんがいなくなったんです」

「……ごめんなさい」

 掠れた声が返ってくる。その一言で、オボロはすべてを察した。

「部屋に、いるんですね」

 最初に感じたのは安堵だった。これで、ひなたの居場所ははっきりした。このマンションの四〇五号室で、彼女は笹木と一緒にいる。夜の街をさまよってはいない。

すぐさま、入れ替わりに怒りがこみあげてきた。当然、彼女を匿っている笹木への感情だった。

「下のエントランスにいます。さっき鳴らしたのもぼくです」

「知っています。カメラ、ありますから」

「だったら早く引き渡してください。すぐに帰宅すればまだ間に合う」

「ひなたちゃんは家に帰らないと言っています。追い返すことはできません」

「笹木さん!」

 オボロの怒声が反響する。誰かに本気で怒りをぶつけたのは久しぶりだった。

「どういう状況かわかっているでしょう。試験観察中なんですよ。所在不明になれば少年院に送られるかもしれない。一刻も早く家に帰してください」

「オボロさん」

 笹木は初めて、オボロを〈先生〉と呼ばなかった。

「話も聞かず、無理やり家に帰すのが本当に正しいんですか。少年院にさえ入らなければ、ひなたちゃんのプライドはどうなっても構わないんですか。軽い処分にすることが目的じゃないでしょう。オボロさんは何のために付添人をしているんですか」

 一つひとつの言葉が矢となり、槍となって心臓に突き刺さる。その先端は正確に、オボロの本心を貫いていた。

「しかし……本人ができる限り軽い処分を望んでいます」

「逃げ出せば裁判所に悪い印象を与えることくらい、ひなたちゃんもわかっています。それを承知でなお、逃げてきたんですよ。何でわからないんですか」

 今度こそ、反論のしようがなかった。

 無言のまま、オボロも笹木も通話を切ろうとはしなかった。互いに相手の呼吸を計るような、重い沈黙が続いた。

通報という最後の脅し文句を吐くことは、オボロにはできなかった。尋ねるまでもなく、すでに笹木は覚悟している。たとえ罪に問われることになっても、逃げてきたひなたを匿うと決めたのだ。

 もう、打つ手がない。むしろ付添人という立場さえなければ、彼女たちを守ってやりたいくらいだった。ひなたが試験日に逃げた理由はわからないが、笹木の言う通り、そこには彼女なりの理由があるはずだった。

 ふいに、入ってきた自動ドアが開いた。住民だろうか。オボロはパネルの前から離れながら、振り向いた。

若い女性だった。二十歳前と見える彼女は見覚えのある服装をしている。ダウンジャケットの下は、デニムにボーダーのカットソーだ。無愛想な顔でオボロを見ているのはひなたの姉、あずさだった。つい呆気に取られる。

「弁護士の先生ですよね」

 オボロを見つめるあずさは、やや息が上がっていた。駆けてきたらしい。なぜ彼女がここにいるのか。どうやってこの場所を知ったのか。急激に疑問が渦巻く。

「このマンションのことは、ひなたから聞いていました。私も何かあったら逃げ込めばいい、と言われて」

 オボロの視線から何かを感じ取ったのか、あずさが先回りして答えた。彼女もオボロと同じく、ここにひなたがいると確信しているのだろう。

「さっき話していたのが、笹木さんという方ですか」

「そうですが」

「電話、貸してください。お願いします」

 オボロは戸惑いながらも、勢いに呑まれてスマートフォンを差し出した。挨拶した際の、おとなしそうな雰囲気は消え去っている。あずさは受け取るなり耳にあて、はきはきとした口調で告げる。

「大川あずさといいます。ひなたの姉です。ひなたに替わってもらえますか」

 話しながら、あずさはエントランスから外へと出て行った。ガラスの自動ドア越しに、彼女の唇が忙しなく動く。語っている内容は聞こえない。オボロは不安と期待がないまぜになった感情を持て余しながら、通話が終わるのを待った。

 やがて、戻ってきたあずさが「お返しします」とスマートフォンを突き出した。懐にしまったオボロはおずおずと切り出す。

「どうしてここに……」

「ひなたは私と母が引き取ります。保護者がいるなら文句はないですよね」

 あずさの両目が、柔らかい照明の光を反射した。予想外の申し出に言葉を失う。

「笹木さんは何と?」

「ひなたが納得しているならそれでいい、と」

 おそらく笹木も、こうなるとは思っていなかったはずだ。さぞかし戸惑っただろう。

「ひなたが家に居着かないのは父のせいです。だから、父のいない場所で暮らしたほうが更生のためになると思うんです。これで納得してもらえますか」

「まあ……でも、お母さんから連れ帰ってくれと連絡があったけど」

「母ならついさっき、説得してきました。私もひなたも家出する、と伝えたら、それならお母さんも、と。母もいい加減、父にはうんざりしていたみたいです。疑わしければ、電話で確認してくれてもいいですよ」

 自信に満ちた口調は、はったりとは思えない。

 オボロはとっさに考えた。付添人としてどう動くべきか。ひなたの意思、家裁への心証、通報のリスク。それらを総合した結果、現時点ではあずさの提案に乗るのが最善だと数秒で結論を出した。もしも正之が警察を巻き込んで騒ぐことがあれば、自分が代理人となって矢面に立てばいい。

「お母さんと話しますが、大筋では理解しました」

 ただし、一応の条件はつけた。今後、宿泊先は逐一オボロに連絡すること。怠った場合は警察に相談する可能性もある、と言い足す。

「ありがとうございます」

 あずさの顔が少しだけやわらいだ。彼女なりに緊張していたのだろう。

 オボロは姉妹の母親に電話をかけたが、つながらなかった。

「移動中かも」

 あずさが横から付け加える。

「きっとお母さんも必死ですよ。服とかバッグに詰めて、逃げている最中だと思います」

「そう……お父さんは、今でも笹木さんが男性だと思っているのかな」

「さあ。ひなたがリビングで話したのを聞いて、勝手に男だと勘違いしたみたいですけど。本当、浅はかですよね」

そこで、あずさは冷ややかに笑った。

「女が女を助けるなんて、想像したこともないんじゃないですか。あの人にとってはお母さんも私もひなたも、服従させるもの、って認識ですから。女三人が結託して家を出るなんて、まったくの想定外ですよ」

笑みは乾いているが、同時に痛快そうでもあった。

 やがて、エントランスに少女が現れた。髪を黒く染めたひなただった。中学校の制服に身を包み、肩からナイロンバッグを提げている。うっすらとメイクをしているが、鑑別所で会った時とはまるで雰囲気が変わっていた。

ひなたは二人の前で立ち止まる。泣き腫らした目元を隠すように、うつむいたままだった。オボロが声を掛けるより先に、あずさがその肩に手を置く。しばらくの間、三人は無言でたたずんでいた。

それから最寄りのカフェに移動した。母親と合流するまでは同行しようと決めていた。閉店前にようやく連絡がつき、コンビニ前で落ち合うことになった。母親を待つ間、意外にも正之からの連絡はなかった。

タクシーに乗って現れた母親はしきりに頭を下げ、同じ車に二人の娘を乗せた。

「これから、どうされるつもりですか」

「今夜はビジネスホテルにでも泊まります。しばらく過ごせるくらいの貯金はありますから。私もいつか、逃げ出してやろうと思っていたんです」

心なしか、その顔は闇夜のなかで生き生きとしている。三人のなかでもっとも長い間、夫の横暴に耐え続けてきた母親の表情は清々しかった。

「先生」

後部座席のひなたが、充血した目でオボロを見ていた。

「笹木さん、これからどうなるの」

今にも泣きだしそうな少女に、オボロは微笑してみせた。

「心配しなくていい」

 ひなたはまだ言いたいことがありそうだったが、黙って大きく頷いた。

 母と娘たちを乗せたタクシーが、夜の街へ溶けていく。時計を見ればすでに十一時を回っている。長い今日が終わろうとしていた。だが、オボロにはまだやることが残っている。ひなたが逃げてきた経緯を笹木に聞かなければならない。彼女のケアも必要だ。

懐でスマートフォンが震える。表示されていたのは〈大川正之〉の名だった。

 自然とため息が出る。もう一仕事増えてしまった。理不尽な罵倒を覚悟する。これも仕事のうちだ。

充電が残っていることを確認してから、オボロは受話ボタンに親指を重ねた。

 視界がかすみ、ノートパソコンの文字列が読み取れない。目をこすっても目薬をさしても、今一つピントが合わない。早めの老眼でないとすれば、体調不良のせいだ。

オボロはパジャマにしているフリースの上下を着て、ワンルームの中央であぐらをかいている。前日から入浴していないため、顔や髪は脂でべたついていた。額には冷却シートを貼り、数分に一度は鼻をかんでいる。

久々に仕事を休んでいた。

前夜から悪寒はあったが、冬の寒さのせいだとごまかしていた。そして今朝、目覚めと同時に頭の奥が痛むのを感じた。体温を測れば三十八℃ちょうど。微熱どころではない。スーツに着替える気力すら湧かず、やむなく休暇の連絡を入れた。予定していた打ち合わせはキャンセルを伝えた。

寝ているべきだということはわかっているが、どうしても落ち着かない。横になっているだけで妙な罪悪感を覚える。仕方なく、持ち帰っていたノートパソコンで残務を処理していた。

 だが、仕事はまったくと言っていいほど捗らない。頭に靄がかかったような感覚で、考えが一向にまとまらず、複雑な文章を読む気も起こらない。気休めに体温を測ってみると、三十八・三℃だった。よくなるどころか若干上がっている。

 もう昼前だった。喉の渇きを覚え、台所で水を飲む。スポーツドリンクが飲みたいが、買いに行く体力すらなかった。

気力を振り絞ってパソコンに向き直ると、大川あずさから電子メールが届いていた。

〈前回連絡した時と同じく、母の実家にいます。ひなたも元気です〉

 あずさからは数日に一度、こうして連絡が来る。

ひなたが行方をくらました日から二週間が経っていた。

受験当日にひなたが帰宅しなかったのは、落ちたと思い込んでいたせいだった。本人いわく手ごたえが感じられず、終了と同時に不合格を確信したという。進学に失敗すれば、また正之から(なじ)られ、家庭内で居場所をなくす。思い詰めた挙句、ひなたは笹木のマンションを目指した。

母と姉に連れ出されたひなたは、数日間のホテル暮らしを経て、母方の実家に身を寄せている。幸い、家裁も転居を認めた。調査官の浦井が、家出の原因が正之にあると理解してくれたおかげだった。

 その後、正之からは抗議の電話が幾度もかかってきたが、じきに諦めた。通報を脅し文句に使ってきたが、実際に警察へ知らせた形跡はない。

 笹木が匿っている少女も、当初の四人から一人にまで減った。家族との交渉は容易ではないが、出口は見えている。

 テーブルに置いていた仕事用のスマートフォンが震える。オボロは迷わず手に取った。笹木の名が表示されている。

「オボロです。どうかしましたか?」

 鼻詰まりの声で応答する。

「あの……今、事務所にいるんですけど」

 声を聞いた瞬間に思い出した。十一時から笹木と事務所で打ち合わせをする約束だったが、忘れていた。当然キャンセルの連絡もしていない。

「ごめんなさい。今日は都合が悪くなって。延期ということに」

「体調崩されたそうですね。さっき、原田さんという方に聞きました」

「すみません、別の日に振り替えてもらえませんか」

 平謝りするオボロに、笹木はいつもと変わらない口調で言う。

「ご自宅、近いんですってね。せっかくなんでお見舞いに伺いますよ」

「いやいや、それは流石に」

内心で原田を恨む。依頼人にべらべらと余計なことを話さないでほしい。

「飲み物とかゼリーとか、欲しいものがあれば差し入れますから。買い物とか大変でしょう、一人暮らしだと」

「それも原田が?」

「はい。ワンルームにはほとんど寝に帰っているだけだって」

職場に戻ったら文句の一つも言ってやろう、と心に決める。

「それで、住所は?」

 笹木はすっかりその気になっている。どうにでもなれ、という気分で住所を伝えた。

「じゃあ、コンビニに寄ってから行きますね。顔だけ見たら帰りますから」

「顔は見ないでください。寝ぐせとかついてるし」

「寝ぐせなら、最初に会った時からついてましたよ」

では、と言って笹木は通話を切った。しばし呆然とする。二回目の面会であんなに格好をつけて行ったのに、初回で寝ぐせがついていたなんて……。

 ――まあ、いいか。

開き直りつつ、洗面所に立つ。顔を洗い、髭を剃ると、少しだけましな顔になった。

改めて笹木への感情を自覚する。もう一歩、いや半歩でいい。彼女との心の距離を縮めたい。そのために何をすべきかわかっている。

今日はともかく、次に会う時にはすべて話そう。親との関係も、過去の罪も、少年院を出てからのことも。話すのは怖い。蔑まれるかもしれない。だが話さなければ、正面から笹木とは向き合えない。

さほど待たず、インターホンが鳴った。

「ちょっと待ってください」

オボロはマスクをしてから、玄関のドアを開く。冷たい外気とともに、温かな気配が流れ込んできた。

(了)

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