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第-4回

おれの声を聞け

 ソファに座る女性は、全身から焦りと不安を発散させていた。

 見たところ年齢は四十代前半。瞬きが少なく、顔色は白っぽい。ジャケットは着慣れていないのか、しきりに肘のあたりを気にしていた。額には汗が滲んでいる。晩夏の蒸し暑さのせいか、心理的な緊張のせいかは判別できない。

(おぼろ)太一はどう切り出すべきか思案したが、結局「どうぞ、リラックスしてください」という月並みな台詞しか出なかった。混乱している相手にはオーソドックスな対応がいい。顔には微笑を浮かべる。

「お断りしておきますが、ネットには強くありませんよ」

「理解しています。でも、子どもの弁護はお得意だと聞きました」

 依頼人の名は堀亜佐子。事務所ウェブサイトを経由して相談メールが送られたのは、昨日のことだった。可能な限り早く会いたい、という希望を汲んで、たまたま予定の空いていたオボロが応対することになった。

 メールによれば、トラブルを起こした当人は彼女ではないらしい。

 応接室に、パラリーガルの原田が二人分のアイスコーヒーを運んできた。亜佐子は両手を握りしめ、グラスが置かれる様子を凝視する。原田がいなくなると同時に数枚の書類をまとめてハンドバッグから取り出した。

「これなんですけど」

 一番上にあるのは、〈発信者情報開示に係る意見照会書〉という名目の書類だった。オボロは書類の束を手に取り、順にめくってみる。〈発信者情報開示請求書〉の写しが現れた。口汚い言葉が綴られており、幼稚な文面に思わず眉をひそめる。

「昨日、いきなり送られてきまして。もう、どうしたらいいかわからなくて」

 亜佐子の顔は興奮で赤らんでいる。

「二週間以内に、情報開示に同意するか、拒否するか返事をしろというんです。唐突にそんなこと言われても……」

「堀さん。まずは、事情を聞かせてもらえますか」

 オボロはあえてゆっくりと語りかける。

「メールに書いた通りです」

「改めて聞きたいんです。お願いします」

 亜佐子はもどかしそうに口ごもっていたが、やがて、今にも泣きだしそうな顔で説明をはじめた。

「……息子が二人いまして。上の子は駿介(しゅんすけ)、下の子は彰平(しょうへい)というんですが。彰平は中学一年で、最近反抗期っぽいところも出てきましたけど、普通の中学生だと思います。問題は上の子で」

 亜佐子の眉間の皺がいっそう深くなる。

「駿介は今中学二年ですが、一年生の二月から部屋に引きこもっているんです。当然学校にも行っていません。もう七か月になります」

 オボロは手帳にメモをしながら尋ねる。

「完全に部屋から出ないんですか」

「いえ。トイレは使いますし、冷蔵庫も漁っています。家族と顔を合わせること自体は我慢できるみたいです。あと、私たちが寝静まった夜中を待って、浴室を使ったり、近くのコンビニに行ったりしているみたいです」

「食事は?」

「私が部屋まで届けています」

「衣類は?」

「それも、私が毎日交換しています。部屋の前に汚れ物を出してもらって、回収するついでに綺麗なものを置いておく、というルールです」

「お仕事はされていますか」

「私ですか? 専業主婦です。少し前まで、近所のスーパーで品出しのアルバイトをしていましたけど……息子の世話やら家事やらで忙しくて、辞めました」

 亜佐子は背中を丸め、ため息を()いた。駿介の引きこもりに振り回されているらしい。

「学校とは話し合いをされましたか」

「話し合いというか、電話で連絡しあう程度です。担任の先生には、来られないものは仕方ないから様子を見ましょう、と言われました」

 ――またか。

 様子を見る。問題を抱えた生徒に対して、学校がまず例外なく選ぶ対応だ。

 教師は多忙だ。一人の生徒にばかり時間を使えないのはわかる。家庭の事情に深入りするのが難しいことも。スクールカウンセラーの配置状況も年々改善されているものの、不登校や引きこもりの生徒への訪問活動はカバーできていないことが多い。特に引きこもりは保健所等のケースワーカーが訪問を行う例が多数で、学校は様子見に留まりがちだった。オボロは常々抱いている不満をいったん飲み込む。

「次に、この書類ですが」

 オボロは先ほど渡された、開示請求書の写しに視線を落とす。

〈権利を侵害されたと主張する者〉の欄には、女性の名前が記されている。同じ名前が亜佐子からのメールにも記載されていた。検索したところ、アニメなどで活動する声優のことであった。蘭子という名前から〈らんこす〉が愛称らしい。アップされていた写真を見る限り、歳は二十代前半くらいだ。

 書類にはIPアドレスやSNSのアカウントが並んでいる。その下に〈掲載された情報〉の欄があった。掲載された文章を頭から読んでみる。

〈らんこすは演技も歌もごみ、みためもくそぶす。枕やってる女まじで早く消えろ消えろ消えろ〉

 他にも延々と幼稚な罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)が連ねられている。顔を上げると、亜佐子がいたたまれない表情で待っていた。

「これを、駿介さんがSNSに書きこんだということですね?」

「本人に確認したわけではないのですが……」

 返ってくる答えは歯切れが悪い。

「駿介さんと話していないんですか」

「声はかけているんですけど、反応がなくて。聞こえてはいるはずです」

「これは、ご自宅のIPアドレスですよね。失礼ですが他のご家族がやった可能性はありませんか」

 亜佐子は首を勢いよく左右に振る。

「夫も彰平も、スマホは持っていますけど、アニメや声優には興味ありません。それに投稿の時間が平日の昼間なんです。その時間、家には私と駿介しかいません」

 確かに、記録上の時刻は二月下旬の正午過ぎとなっている。ちょうど駿介が引きこもりをはじめた時期とも重なる。

 どこから手をつけるべきか思案していると、亜佐子がじれったそうに「先生」と言った。

「どうすればいいですか。拒否してもいいものですか。こちらの名前を知らせたら、賠償金とか請求されるんですか」

 意見照会書を送ってきたのは、堀家が契約しているプロバイダである。現時点で堀家の情報は請求者側に渡っていないが、同意すればすぐに提供されるだろう。オボロは微笑を潜め、亜佐子の目を見た。

「おそらく先方は、損害賠償請求訴訟を起こすつもりだと思います」

 請求書には〈名誉権侵害〉と記載されている。この先に訴訟が待っているのは明らかだった。

「じゃあ拒否すればいいんですか」

「そういうわけでもありません」

 付け焼き刃だが、オボロもプロバイダ責任制限法について勉強した。最近はSNS絡みのトラブルも少なくないため、いい機会だと思うことにした。

 仮に請求された側が拒否したとしても、相手方は情報開示のための訴訟を起こすだろう。そこでプロバイダが敗訴すれば、同意がなくても情報は相手へ開示される。

 答えを聞いた亜佐子は「だったら一緒じゃない」と悲痛な声を上げる。

「相手方の請求が合理的でない場合は、当然、拒否が認められるはずです。けれど、今回の場合は……」

 オボロの主観では、名誉権侵害は十分、成立する。

 何しろ弁解の余地が少ない。造語や、多義的に取れる言葉であれば、その使用経緯を説明することもできる。だが〈ごみ〉〈くそぶす〉〈消えろ〉といった言葉を、罵倒以外の意味で使う経緯は思いつかない。

 沈黙に耐えかねたように、再び亜佐子が口を開く。

「たとえば過去に、この声優が駿介にひどいことをしていたら、おあいこになりますか」

「そういう過去があるんですか」

「もしも、の話です」

 普通に考えれば、可能性は限りなく低いだろう。

「いずれにせよ対話が必要ですね」

「でも、全然答えてくれないんです、あの子」

 途方に暮れた亜佐子がさらに背中を丸める。うつむいた頭に数本の白髪が交ざっていた。

「引きこもりのきっかけはわかっていますか」

「……たぶん、いじめだと思います」

 自信はなさそうだ。本人から聞いたわけではないのだろう。

「いじめられやすいんです、あの子。口数が多いほうじゃないし、臆病だし。幼稚園に通っていた頃からそうでした。友達の輪に入れなかったり、おもちゃを取られたり。勉強も苦手でね。小学校の高学年になってもカタカナが書けなかったりして、からかわれていたみたいです。仮病で休んだことも何度もあって」

「仮病だとわかっていたんですか」

「頭が痛いとか耳が痛いとか、何度も言うので……きっと仮病です」

 何も答えず、オボロは微笑を返した。

「先生にはお子さんがいらっしゃいますか」

「いいえ」

「ご結婚は?」

「未婚です」

 亜佐子の目が細められる。不安を表しているようだった。

 子どもを育てたことのない者には、親の気持ちはわからない。幾度となく言われてきたことだ。オボロもそれを否定するつもりはない。だが、その思い込みに(すが)りすぎると、時にかえって視界を曇らせることがある。

「まずは駿介さんと話をさせてください」

「……できるかどうか、わかりませんが」

 亜佐子の顔は、部屋に入る時よりも疲弊の色が濃かった。

 私鉄の駅から住宅街までは平坦な道のりだった。十数年前にベッドタウンとして盛んに開発が行われた町で、道路の両側にはややくたびれた建売住宅が並んでいる。午後四時の空は厚い雲に覆われていた。

 堀家には、徒歩十分少々で到着した。二階建ての建屋に藍色の屋根をいただいている。ささやかな前庭の植え込みは、綺麗に整えられていた。インターホンを押すと、「はい」と女性の声が返ってきた。

 門扉の向こうにある玄関ドアが開き、亜佐子が顔を出した。

「お待ちしていました」

 彼女の顔は、二日前に会った時よりもさらに憂鬱の度を増していた。嫌な予感がよぎるが、オボロは笑顔で一礼する。

 家に入ると、まずダイニングへ通された。二人の他には誰もいない。

「あの、ご家族は」

 あらかじめ、他の家族もできる限り同席するよう伝えていた。引きこもりは個人の問題ではない。母親だけが頑張っても限界があるため、家庭全体で解決に当たるのがベターだ。

「主人は仕事の都合がつかなくて。彰平は、学校が終わったらすぐ帰るようには言ってあるんですけどねぇ」

 亜佐子は麦茶をグラスに注ぎながら言った。駿介の父は、建材系の商社に勤める会社員で、現在は事業副部長を務めているという。息子たちの育児にかかわった経験はない。父親も次男も、駿介のことは亜佐子に押し付けているのだ。自分の知ったことではない、と。この家ではそれが当たり前なのだろう。

「駿介さんの部屋は二階ですか」

「ええ。早速行きますか」

「いえ、確認まで。ところで駿介さんはアニメが好きなんですか」

 声優の誹謗中傷につながった背景を、少しでも知っておきたかった。

「はあ、まあ、それは。私はよくわかりませんけど、小学生の頃から熱心でしたね。夜の十一時や十二時まで起きて、そこのテレビで見ていたみたいです。そのせいで朝が弱くなりました」

 亜佐子の視線の先には、ダイニングと続きになっているリビングのテレビがあった。四十インチほどの薄型テレビ。駿介は、夜な夜なこの画面と向き合っていたのか。

「夜更かしをやめるようには言いましたか」

 責められたと感じたのか、亜佐子の表情が硬くなる。

「言っても聞かないんです。一度は部屋に引っこむふりをして、また夜中に起き出してきたり。こっちも眠いし、そんな時間まで見張っていられないですから」

「このアニメのなかで、見ていたものがあるかわかりますか」

 オボロは鞄から一枚の紙を取りだす。〈らんこす〉の出演作を一覧化したリストである。独自に作成したものではなく、所属事務所がネット上に公開しているものだった。オボロ自身もアニメのことはまったくわからない。

 亜佐子はリストに目を通すと、「さあ」と漏らした。

「わかりません。息子が見ていたアニメなんて……」

「食事中に話すこともなかったですか」

 うーん、とうなるばかりで、はっきりした答えは返ってこない。

「少し調べてみましたが、この辺が有名らしいです」

 オボロはボールペンを走らせ、リスト上のいくつかの作品名を丸で囲んでいく。

「聞き覚え、ありませんか」

「ごめんなさい」

 駿介の趣味や嗜好についての質問を続けたが、亜佐子の反応は鈍い。「知りません」「さあ」という答えばかりで、一向に理解が深まらない。ついには「先生」と質問を遮られた。

「失礼ですが、これって関係あるんでしょうか」

「これ、というのは」

「私たちが話すのも結構ですけど、その、早く部屋から出てきてくれるよう説得してもらえませんか」

 思わず呆気に取られた。オボロは引きこもりをやめさせるために来たわけではない。

「あの……確認ですけど、ぼくは駿介さんの代理人として依頼を受けています。お母さんの代理人ではありません」

「どういう意味です?」

「ぼくは駿介さんの利益が最大になるよう動きます。彼が何を考えているか、どうしたいか、それを知らなければ動きようがありません。部屋から引っ張り出すことが目的ではないんです」

「でも、部屋から出ないと話ができないと思うんです。先生だけが頼りなんです。お願いします」

 亜佐子は深々と頭を下げた。これでは丸投げだ。

「やり方が強引では、余計に反発を招きかねません」

「そこをうまくやるのが……」

 亜佐子は途中で口をつぐんだ。先生の仕事でしょう、とでも言いたかったのか。

 窓に視線をやると、うっすらと自分の顔が映りこんでいた。疲れた四十前の男がこちらを呆然と見ている。

「開示請求に同意するか、拒否するか。決めるのは駿介さんです」

「未成年なら親が決めるんじゃないんですか」

 心底びっくりしたような顔つきだった。

「いえ、本人の意思が最優先です」

「だったらなおさら、先生に何とかしてもらわないと。私にはどうしていいかわからなくて。息子の引きこもりを解決する能力なんてありません。だから先生、どうかお願いします。あの子を出してください」

 また頭を下げる。拝み倒しだ。

 ――そんな方法があるなら、ぼくが知りたいですよ。

 喉元まで出かけた言葉をオボロは飲み込んだ。言ったところで状況は変わらない。

 しばし、沈黙がダイニングを支配した。救急車のサイレンが遠くで響く。とりあえず、情報収集はいったん諦めることにした。

「……駿介さんの部屋に案内してもらえますか」

 亜佐子はほっとしたように「もちろん」と言った。

 階段の上り口はダイニングを出てすぐの場所にあった。亜佐子が先に立って階段を上っていく。二階には短い廊下があり、左手が夫婦の寝室、右手に兄弟の個室があった。弁護士の訪問についてはすでに伝えてあるという。もっとも一方的に声を掛けているだけで、駿介に届いているかどうかは心もとない。

「手前が彰平、奥が駿介の部屋です」

 閉ざされた引き戸の前に立つ。耳をすますが、室内から物音は聞こえない。オボロはノックのジェスチャーをする。亜佐子が頷いたのを確認してから、拳でドアを叩く。

「こんにちは。突然、すみません。弁護士のオボロといいます」

 向こうから物音は聞こえない。

「堀駿介さんですね。いらっしゃったら返事をしてください」

 やはり反応はない。合板のスライドドアが、重く分厚い岩戸に見えてくる。オボロはいったん亜佐子を伴って階段の下まで降りた。

「一人でいきますので、待っていてもらえますか。家族には話せないことでも、第三者になら話してくれるかもしれません」

 亜佐子は「どうぞどうぞ」と即答した。ほとんど言いなりだ。

 オボロは改めて階段を上り、ドアの前にあぐらをかいた。立っているよりはリラックスできる。

「お母さんには席を外してもらいました。今、ここにはぼくしかいない」

 言いながら、駿介にはそれを確認する術はないんだな、とも思う。信じてくれなくてもいい。少なくともオボロにとっては、亜佐子がいないほうがやりやすい。

「あなたの個人情報を求められていることは、知っていますね。あの投稿をしたのは、駿介さん?」

 返答はないが、構わず語り続ける。

「〈らんこす〉の出ているアニメ、少し調べたけどたくさんあるね。どれから見ようか迷っているんだけど、おすすめはあるかな」

 オボロは出演作のリストを上から順に読み上げる。三十数個のタイトルを読み終えると、廊下は再び静まりかえった。

「とりあえず、有名なやつから見てみるよ。最近はどうやって過ごしているの?」

 無言の時間が続く。答えを急かしたくなるのをじっと我慢する。今のオボロにできるのは待つことだけだった。その後もいくつかの話題を投げかけたが、向こう側からは声はおろか、咳も足音も聞こえてこない。

 口を開かせようにも、武器が少なすぎた。

「また来るから。連絡したくなったら、いつでもここに」

 ドアと床の隙間に名刺を滑り込ませた。メールアドレスと電話番号が記されている。顔は見られず、声も聞けなかったが、何か一つでも渡しておきたかった。

 ダイニングでは、亜佐子が悲痛な顔つきで待っていた。

「どうでした」

「一切答えてくれませんでした」

「やっぱり」

 亜佐子の長いため息には、落胆、失望、そして諦めが含まれていた。こうなることを最初から予期していたかのような。

「駿介さんの写真はありませんか」

 少しでも正確に、ドアの向こうにいる少年の姿を想像したかった。

「……少し待っていてください」

 リビングに移った亜佐子は、小学校の卒業アルバムを手に戻ってきた。

「これです」

 開かれたページはクラスの集合写真だった。二十数名の児童が、緊張した面持ちで直立している。亜佐子は中ほどに立っている男子児童を指さした。身長は中くらい。やせ型で、まぶしそうに目を細めた表情には母親の面影があった。

 オボロは想像した。写真のなかの少年が、パソコンを使って熱心に作業をしている。SNSでの誹謗中傷だった。ある声優への罵倒を書き綴る少年の顔を、ディスプレイの光が照らしている。

 その時、鐘の音が高らかに鳴った。インターホンだ。

「彰平かも」

 亜佐子は玄関へ走った。玄関ドアを解錠する音と、「ただいま」というぶっきらぼうな声が聞こえた。ぼそぼそと話す声も聞こえる。どうやらオボロが来訪している旨を伝えているらしい。もどかしくなり、自ら玄関へ出向いた。

 玄関には白シャツにスラックスの少年が立っていた。虚を衝かれたような表情である。リュックサックを背負い、靴を履いたままだった。

「お邪魔しています。弁護士のオボロといいます。彰平さん……ですか」

 亜佐子にせっつかれ、少年は頭を下げる。

「あ、えっと、堀彰平です」

 声変わり前の高い声だった。駿介の一歳下で中学一年生。時刻はまだ五時前だから、部活などの課外活動はしていないのだろうか。やはり彼も線が細く、目元が母親と似ている。

「すみません。この子、先生が今日来ること忘れていたみたいで」

 亜佐子がとりなすが、当の本人は首をすくめただけだった。

「兄ちゃんの話でしょ。おれ、いる?」

「彰平さんにも訊きたいことがあるので」

 二人の会話に割って入った。彰平は首をかしげながらも、洗面所で手を洗ってからダイニングに現れた。背丈は一七〇センチ程度か。中学一年生にしては高いほうだろう。亜佐子と彰平がテーブルに着いたのを見届けてから、オボロは彰平の正面に腰を下ろした。

「スポーツはやってるんですか」

「あ、ちょっとだけバレー部にいました。でも、夏休み前にやめて」

「今はやってないんだ」

「まぁ、はい。なんか、先輩のいじめとかあったし、怪我もしたんで」

 尋ねていないのに言い訳を口にする。その癖も母親と似ている気がした。

「お兄さんの件はどう思いますか」

「え……どう、って?」

「声優の方に誹謗中傷をしたんじゃないか、という件について」

 ああ、と間延びした声が彰平の口から漏れた。またも無関心だ。この少年はいったい、何のために弁護士がここにいると思っていたのだろうか。

「……恥ずかしいです、とにかく。学校同じなんで。まだバレてないけど、兄ちゃんがネットで声優に絡んで炎上したとか、知られたくないです。先輩からも目ぇつけられそうだし。勘弁してほしいです」

「お兄さんは学校でいじめられたりしていた?」

「さぁ……わかんないけど、たぶん、いじめられてたんじゃないですか。バカだから。中学生になってもろくに漢字読めないんですよ。そのくせ、アニメの台詞とかめっちゃ完璧に覚えてんの。マジで気色悪い」

 亜佐子は悪態をつく彰平を、たしなめようともしない。オボロの胸のうちで不快感がふくらんでいく。

「じゃあ、お兄さんはどうしてそんなことをしたと思う?」

「え、おれ? おれが知るわけないでしょ。本人じゃないから」

「わかってるよ。正解なんて訊いていない」

 つい、刺々(とげとげ)しい言葉が口を衝いて出た。

 ――しまった。

 いつもなら我慢できた。しかも相手は子どもだ。だが、この家を覆っている無理解さへの怒りが、沸点を越えた。  涼しい顔をしていた彰平は急に(おび)え、亜佐子は狼狽したように視線を泳がせる。

 これ以上続けても有益な情報は得られない。今日は帰ることにした。

 辞去を告げると、亜佐子が玄関まで見送った。革靴を履こうとしたオボロに靴ベラを渡しながら、彼女は不安そうに「先生」と呼びかけた。

「期限まであと十日ですけど。本当に解決できますか」

 胸元から湧き上がった言葉を飲み込むべきか迷ったが、あえて吐き出すことにした。いい加減、はっきり言っておかねばならない。靴ベラを返したオボロは、彰平がいないことを確認してから言った。

「前にも言ったはずです。本気で解決したいなら、家庭全体の関与が必要だと。解決するのは私ではなく家族の皆さんです。もう一度よく話してください」

 亜佐子は神妙な顔つきで聞いていたが、どこまで響いているかは読めない。三日後に再び訪問することを約束して、オボロは堀家を去った。

 少し離れた場所から一軒家を眺めてみる。駿介の部屋の窓も見えたが、カーテンが閉ざされていて室内は(うかが)えない。卒業アルバムに載っていたあの少年は今、どんな表情をしているだろう。

 それにしても、なぜ亜佐子や彰平の態度にあれほど苛立ちを覚えたのか。いつもなら言わないようなことまで口にしてしまった。改めて振り返ってみると、二十年以上前に出会ったある少年のことが頭をよぎった。

 少年とオボロは当時、同じ紺色のジャージを着て生活していた。彼が今どこで何をしているのか、知る術はない。


 腕組みをして、事務所のパソコンを睨む。ネットに広がる情報の海と格闘して、すでに一時間が経っていた。

 まず、情報開示請求の根拠となった投稿を確認しようとしたが、そもそもSNSアカウントそのものが消去されていた。駿介自身が削除してしまったらしい。だからといって、中傷の事実が消えるわけではないが。

 次に、駿介のアカウント名を〈らんこす〉の名前と一緒に検索してみると、投稿を映した画像が見つかった。掲示板やブログ記事に掲載されているもので、〈炎上の証拠〉として記録されているらしい。

 駿介の投稿は、請求を受ける前から炎上騒ぎになっていたのだ。

 記事を拾い読みすると、駿介は幾度かにわたって執拗に中傷を繰り返していたらしい。それに対して声優ファンたちが非難の投稿を行い、炎上したようだ。〈らんこす〉側も当初は静観していたが、堪忍袋の緒が切れた、というところか。

 画像で記録されていたおかげで、いくつかの投稿は発見できたが、もっと見てみたい。ヒントが隠されているとすればそこだ。しかし削除された投稿を、どうすれば閲覧できるのか。

 隣の席ではパラリーガルの原田が事務作業をしていた。二十代の女性なら、オボロよりはネットに詳しそうだ。

「ごめん原田さん、話しかけてもいい?」

「なんでしょう」

「魚拓、ってどうすれば見られるか知ってる?」

 しばし、原田は怪訝そうにオボロを見ていた。

「あ、釣りの話じゃなくて。ネットの記録を魚拓って呼ぶらしいから」

 慌てて経緯を説明する。原田は背筋を伸ばして話を聞いていた。

「要するに、削除された投稿を見たいってことですか」

「そう。そうです」

「時間が経っていたら基本、無理だと思いますよ」

 すげない返答である。オボロの肩から力が抜けていった。

「そうか。そりゃ、そうだよね……」

「でもその子、炎上したんですよね。誰かがログを残していたら可能性はあります。アカウント名、教えてください」

 落胆したオボロを哀れに思ったのか、原田は自分のパソコンで作業を開始した。

「一応、検索サイトのキャッシュ見てみますね……さすがに残ってない。じゃあ、SNS内で検索してみましょう。いくつか出てきましたね。次、ここのサイトにログがないか見てみましょうか。えーっと……あ、あった。炎上前後の投稿みたいですね。誰かが保存していたみたいです。こういう炎上騒動では、野次馬が勝手に証拠を残すことがよくありますから」

 原田は解説しながら、数十もの投稿を見つけ出した。相談してから十分とかかっていない。その手際のよさに、ディスプレイを横から見ていたオボロはただ感心した。

「……ありがとう。助かった」

「URLはメールで送っておきます。参考にしてください」

「原田さん、こういうの得意なんだ?」

「いえ。普通です」

 SNSに親しんだ若者なら、これくらいできて当然ということか。原田は追加の質問を拒むように席を立った。オボロは深追いせず、自分のパソコンに向き直ることにした。スタッフのプライベートに踏み込む気は毛頭ない。

 URLから過去の記録にアクセスし、目を通していく。開示請求書に記載されていた投稿はすぐに見つかった。その前後にも似たような中傷が投稿されている。

〈らんこすの声が生理的にむり。〇んでくれ。〉

〈へたくそすぎる、演技きけばだれでもわかる。ダムブラも枕でもらった。消えろ。〉

 幼稚極まりない言葉は、いずれも〈らんこす〉のアカウントへの返信として投稿されていた。明らかに悪意がある。念のため声優側の情報も探してみたが、枕営業はおろか、交際報道すら見つからなかった。やはり根拠はないようだ。

 投稿を読んでいると、ダムブラ、という聞き覚えのない単語が何度か出てきた。検索してみるとあるアニメの通称らしい。〈ダムド・ブラッド〉というのがタイトルで、その略称のことだった。コミック原作の〈ダムブラ〉は一年ほど前に地上波で放送されていた。忌まわしき魔族の血を引く少女が活躍するダークファンタジー、という触れ込みだが、あらすじだけではピンと来ない。

〈らんこす〉の出演作リストには確かに〈ダムブラ〉があった。駿介はこのアニメのファンなのだろうか。

 配信サイトをのぞいていると、ふいにスマートフォンが震えた。なぜだか、サボっているのがばれた時のようなばつの悪さを感じる。

「あのう、朧太一先生でしょうか」

 声の主は、駿介の中学校の担任教師だった。なかなか捕まらないため、代理で出た教頭に携帯の番号を伝えておいたのだ。学校に連絡を取ることは、炎上騒動のことを話さないという条件付きで、亜佐子の許可を得ている。

「お忙しいところすみません。少しお聞きしたいことがありまして」

「えっと……弁護士さん、ですよね。堀のことで何か?」

「ちょっとご家族から頼まれまして。それで、お聞きしたいのは……」

 有無を言わせず話を進める。勢いに飲まれたか、相手はもう詮索してこなかった。

 家族の証言から、オボロはある仮説を立てていた。

 駿介はたびたび頭や耳の痛みを訴えるという。カタカナや漢字を覚えるのは苦手。そして彰平は、兄についてこう言っていた。

 ――アニメの台詞とかめっちゃ完璧に覚えてんの。

 同じ特徴を持っていた少年を、オボロは知っている。

 担任教師から話を聞いたオボロは、礼を言って通話を切った。手帳に残したメモを読み返すうち、仮説は確信へと変わっていく。本人と対話していないのに、わかった気になってはならない。だが、対話をはじめるためのきっかけ程度はつかめた。

「さっきの投稿、手掛かりになりましたか」

 席に戻ってきた原田が、顔色を変えずに尋ねた。

「ありがとう。助かった」

「……でしょうね。なんか嬉しそうですから」

 反射的に顔を触った。無意識に微笑んでいたらしい。

とりあえず、今夜は配信サービスで〈ダムブラ〉を視聴することに決めた。


 堀家を再訪したオボロは、まっすぐに二階へ向かおうとした。階段を上りかけたその背中に、亜佐子が「先生」と呼びかけた。

「あと一週間ですけど……大丈夫ですか」

 平日の正午過ぎ。他の家族はいない。オボロは足を止めて振り向いた。

「一階でお待ちください」

 亜佐子はまだ何か言いたげだったが、黙ってダイニングへと去った。

 前回と同じように二階の廊下であぐらをかく。

「こんにちは。駿介さん、聞こえますか。オボロです」

 耳をすますが、やはり物音は聞こえなかった。それでも閉ざされた部屋の向こうへと語り続ける。

「〈ダムド・ブラッド〉、見たよ。駿介さんも見たことあるよね」

 配信サービスで、全十三話を二晩かけて視聴した。

「ミステリーの要素もあって、最後までずっと面白かった。それに、映像もあんなに綺麗で滑らかに動くんだね。ぼくが子どもの頃とは別物みたいだ」

 感想に嘘偽りはない。実際、オボロはずいぶん久しぶりにアニメを楽しんだ。〈らんこす〉が演じるキャラクターはストーリーの鍵を握る役で、準主役級と言ってもいい。演技の良し悪しは判別できないが、罵倒されるような出来ではなかったと思う。

「駿介さんに訊きたいんだけど、最終話でさ、『ここには私以外誰もいない』って台詞があるじゃない。あれ、どういう意味なのかな。考えたけどよくわからなくて」

 ラスト付近、〈らんこす〉演じる少女が発する台詞だった。主人公の心象風景が流れていく難解な場面で、前後の出来事とのつながりもない。ネットでも匿名の人々が考察を披露していたが、意見は割れている。

 駿介がこのアニメのファンなら、何か言わずにはいられないはずだ。オボロはそう踏んだからこそ、あえて質問した。一言でも口を開かせるために。

「どう?  覚えてないか」

 挑発めいた問いかけにも、答えはない。

 ――ダメか。

 別の話題へ移ろうとしたその時、小さな咳払いのような音が聞こえた。慌てて耳を近づける。気のせいではない。確かに音がした。

「ごめん。もう一度、言ってくれるかな」

「……がんぼう」

 少年のかすれた声は、確かにそう言った。とっさに漢字へ変換する。

「がんぼうって、こうだったらいいなっていう、願望?」

「『ここには私以外誰もいない』って台詞は、実際にあった台詞じゃなくて、こうだったらいいなっていう空想なわけ。最終話はほぼ全編が空想でできている。現実の記憶もごちゃごちゃになってるからわかりにくいけど。だからあの台詞はあくまで願望で、それは好きだって気持ちの裏返しなんだよ」

 さっきまで静まりかえっていたドアの向こうから、マシンガンのように言葉が飛んできた。話さずにはいられない、という衝動が感じられる。滑舌が悪く早口だが、オボロはどうにか聞き取った。

「すごいね。そこまで考えつかなかった」

「ちょっと考えればわかる……わかります」

 相手が大人だということを思い出したのか、急に敬語へと変わった。

「〈ダムブラ〉はテレビで見たの?」

「本放送と、動画サイトで」

「よく、このアニメが面白いってわかったね」

「覇権候補だったんで。注目度高かったですよ」

 会話が成立している。(はや)る気持ちを押し(とど)め、しばらくアニメについて話した。オボロの質問に対して、駿介は丁寧に答える。しゃがれた声は変声期特有のものらしく、時おり苦しげな咳払いが交ざった。

「喉、大丈夫? 調子悪いのかな」

「別に……普通です」

 とりあえず話ができるようになったのは一歩前進だ。次の悩みは、どうやって本題を切り出すかである。ここで焦れば、振り出しに戻りかねない。手ごたえはあったが、今日は深入りしないことにした。

「あ、そろそろ行かないと。楽しかったよ。ありがとう」

 三十分ほど経ったあたりで頃合いと判断した。挨拶の一つも返ってくるかと期待したが、廊下は再び沈黙に覆われた。

 階下のダイニングでは息詰まる表情の亜佐子が待っていた。これからもう一つ、大事な用件がある。向かいの席に着いたオボロは麦茶に口をつけた。

「少しだけ話ができました」

「本当ですか!」

 顔の上に驚きが現れる。どうやら盗み聞きはしていなかったらしい。

「なんて言ってました? どうしてあんな投稿したのか」

「〈ダムブラ〉というアニメの話をしただけです。本題はまだ」

「まだ……そうですか」

 亜佐子はとたんにうつむいた。

「また、数日後に来ますから」

「あのう、本当に申し訳ないですけど、できれば急いでもらえませんか。この一週間、どうなるか不安で眠れないんです。お願いします」

 頼まれるまでもなく、できるだけ早く解決できるよう動いている。そのためにも、駿介を理解する手掛かりが必要だった。

「今日はもう一つ、話しておきたいことがあります」

 暗い目をした亜佐子は、まだ何かあるのか、と言いたげだった。

 オボロは中学校の担任教師への聞き取りについて、簡単に話した。

 一年時から持ち上がりで担任を務めている教師は、駿介の成績もよく覚えていた。すべての科目で落第点だが、なかでも英語は学年で最下位だった。スピーキングの練習では、簡単な文章でも一語も話せなかったという。

 思い切って、いじめの有無についても尋ねた。

 ――私が知る限りは、なかったです。こういう言い方をするとなんですが、どちらかと言うと、呆れられていました。皆が思っている以上に勉強ができなくて、かわいそう、と思われていたような雰囲気で。居場所がなかったという意味では、いじめだと言われれば否定できませんが……

 担任教師は慎重に、だが真摯に答えてくれた。立場上いじめの存在を認めたくないというのもあるだろうが、単なる否定ではなく、その発言にはリアリティが感じられる。そして、オボロの仮説を裏付けるような証言でもあった。

 話を聞き終えた亜佐子は、返事の代わりにため息を吐いた。

「つまり、何が言いたいんですか」

「あくまで可能性の話ですが、駿介さんは識字障害かもしれません」

 亜佐子の顔から余裕が消えた。呆然とした面持ちで瞬きを繰り返す。

「……障害?」

「ディスレクシアとも言います。知的能力には特に異常がなくても、文字の読み書きに難しさを伴う障害です」

「先生は、駿介に障害があると言いたいんですか」

「だから可能性の話です」

「ふざけないでもらえますか」

 亜佐子の顔は蒼白になっていた。唇が震えている。

「あの子は成績が悪いですけど、知的障害なんて」

「落ち着いてください。知的能力に異常があるとは言っていません。ただ、文字の読み書きが苦手なのかもしれない、という話です。識字障害は珍しいものではありません。英語圏では一割から二割の人が抱えていると言われます」

「何を根拠に」

 亜佐子は今にも卒倒しそうだった。

「一概には言えませんが、たとえば、文字が覚えられない、文章を読むのにとても時間がかかる、などが代表的な例です。音読が苦手、というのも多くの場合にみられるそうです。これらの特徴はすべて、ご家族や担任の先生から聞いた話と合致します」

「全部人づてでしょう。直接会ったこともないのに」

「引きこもりの理由もそこにあるかもしれない。学習についていけず、周囲と違うことに思い悩んでいたことが引き金になったとは考えられませんか」

「そんなの、わからない!」

 堂々巡りだった。何をどう言おうと、今の亜佐子には通じない。彼女は息子を侮辱されたと思い込んでいる。

「昔の知り合いで、似た特徴を持った人がいました」

 オボロは二十年以上前に出会った少年を振り返りながら、語る。

「彼とは少年院で出会いました。ひらがな以外はほとんど読めず、文章では文字の大きさがバラバラに見える、と言っていました。今思えば、識字障害だったのだと思います。当時は誰も思い至りませんでしたが」

 亜佐子は黙って聞いている。

「一方で、彼は非常に耳がよかった。作業で使う機械のロットをすべて聞き分け、ちょっとした故障も異音で察知しました。他の少年や、教官からも信頼されていた。知的能力には問題なかったし、模範的な少年として出所していきました」

 識字障害は、当事者の人生を台無しにするとは限らない。できることを見つければ社会で生きていくことも十分できる。オボロはそれを伝えたかった。だが、亜佐子の顔に納得の色は浮かんでいない。両肩にのしかかる徒労感が、重い。

「待ってください。今のは、先生が担当したお子さんの話ですか」

 事実を話すべきか迷ったが、打ち明けることにした。ここでごまかせば、後でばれた時に余計気まずい。

「彼と出会ったのは、ぼくが少年院にいた頃です」

「えっ……ちょ、ちょっと。あなた、少年院に入っていたんですか?」

 案の定、亜佐子は裏返った声で拒絶反応を示した。

「そうです。聞いてもらえますか」

 オボロは、家族ぐるみの空き巣に手を染めた過去を話した。当時、そこにオボロ自身の意思はなかった。言われるまま他人の家に侵入し、窃盗を働いた。罪は露見し、少年院に入り、さまざまな少年たちを目にしてきた。

「そういう人間が弁護士になっていいのか、という考えもあるでしょう。ですが、そういう人間だから理解できることもあると思っています。ぼくが人生の一時期、少年院に入っていた過去は消せません。ならば、少しでも経験を活かせる仕事をしたい。その選択肢の一つが弁護士なんです」

 司法の場で少年が頼れるのは、付添人である弁護士だけだ。少年院には、付添人への感謝を述べる者も、呪詛(じゅそ)を吐く者もいた。そもそも付添人が付かずに少年院まで送られてきた者もいた。そういった話を耳にするにつけ、この少年たちを――過去の自分を支えられるのは、弁護士しかいないと確信するようになった。

「少年院にいたことは事実ですが、それがすべてではありません。どうか、それだけは理解してください」

 沈黙だけが漂っている。室内が真空状態になったかのようだった。

 喉の渇きを覚え、麦茶の入ったグラスに手を伸ばす。反射的に、亜佐子はさっと腕を引いた。彼女の顔には、はっきりと怯えが浮かんでいる。

 ああ、とオボロは心中で嘆息した。少年院にいたという過去だけで、相手の態度が豹変したことは一度や二度ではない。反応は大きく二つに分かれる。軽蔑。あるいは、恐怖。亜佐子の場合は後者だった。

「……どうして、黙っていたんですか」

 静かな水面に石を投げるように、亜佐子はぽつりとつぶやいた。

「そんなに堂々と話せるなら、最初から言ってほしかったです」

「弁護士が、自分の過去を洗いざらい話しますか。趣味や家族や職歴について明かしますか。それは仕事の本質ではありません」

「だとしても、感情的に嫌なんです」

 小さいがはっきりとした声だった。そう言われれば、逃げ場がない。

 亜佐子は「申し訳ないんですけど」と前置きしたうえで語りだした。

「先生が少年院にいたと聞いて困惑しています。もっと言えば、怖いです。要は犯罪者ってことですよね。それが先生の全部じゃないということも、頭では理解しますけど、だからといって怖さはなくならないんです。本当に申し訳ないんですけど」

 よく見れば、引っこめられた亜佐子の手の先は震えている。彼女の言葉に偽りはないのだろう。頭で考えるだけでは氷解しない偏見もある。むしろ、当事者の言葉ひとつで消えるような偏見なら、とうになくなっているだろう。

 おもむろに、亜佐子は頭を下げた。

「今日はお引き取りください」

 彼女の顔には疲労が貼りついていた。夫からは家庭を丸投げされ、息子たちとは心が離れ、苦悩を一人で抱え込んできた亜佐子にとって、オボロの発言は荷が重かったのかもしれない。

 言われるがまま、オボロは堀家を後にした。そうするしかない。二階にある部屋のカーテンは、今日も閉ざされていた。

 淡々と足を動かし、駅への道のりを歩く。駿介との会話には成功したが、母親の反応があれでは、今日にも解任されるかもしれない。途中で解任された経験は幾度かある。その度、目の前に壁がそびえたつような無力感を突きつけられてきた。

 どうやら、今回もそうなりそうだ。

 曲がり角の手前で、見覚えのある少年が現れた。夏物の学生服を着た線の細いシルエット。駿介の弟、彰平だった。目が合うと、彰平は一瞬足を止めた。戸惑いを顔に浮かべたまま、会釈をして通り過ぎようとする。

「ごめん、ちょっといいかな」

 思わず呼び止めていた。彼には訊いておきたいことがある。解任されれば無駄になるかもしれないが、そうだとしても知りたかった。彰平は「おれですか」と振り向き、つるりとした顔を迷惑そうにしかめた。

「弁護士さんですよね。用事あるんですけど」

「立ち話でいい。すぐ終わるから」

 彰平の視線が弁護士バッジに留められたのがわかった。無言の彰平に、オボロは問いかける。

「駿介さんがアニメの台詞を完璧に覚えていたと言ったよね。それって、よくあることなのかな」

 えー、と言いながら彰平はあさっての方角を見た。

「わかんないですけど。結構昔からやってました。十歳とか」

「どうして、台詞を覚えていたとわかるの?」

「だって得意そうに聞かせてくるんですよ。しかも、キャラごとに声とか変えて。一人で何役も使い分けて、目の前で演じてみせるんです。気持ち悪くないですか? 中学生になった辺りでやめましたけど」

 卒業アルバムの駿介が、弟の前で声色を変えて演じている光景を想像した。アニメの台詞を丸暗記して、しかも演じ分けるのは並大抵の手間ではないだろう。

「それは……声優の真似ってこと?」

「えー? 何か言ってた気がするけど、覚えてないです。あの人の話、あんまり真面目に聞いてないんで」

 投げやりに言った彰平は、自宅の方角にちらちら視線を送っている。一刻も早く解放してほしい、と無言で伝えていた。彼にとっては、兄の引きこもりなどどうでもいいのだろう。自分に実害さえなければ。

「ありがとう。もういいよ」

 オボロが言うと、彰平は会釈をして足早に去った。

 ――そりゃあ、引きこもりたくなるよな。

 痩せた学生服の背中を見送りながら、オボロは駿介の孤独に己を重ねた。


 それからしばらく、堀家からの連絡は絶えた。

 オボロは別件の意見書作成や調査官との調整で忙しい日々を送りながら、手掛かりを求めてSNSをさまよった。悪あがきと知りつつ、〈らんこす〉の膨大な投稿を振り返り、駿介の暴言を少しでも擁護できる要素がないか探した。

 催促も解任通告もないまま、三日間が過ぎた。

 昼下がり、裁判所から事務所へ戻ったオボロは、スマートフォンから亜佐子の番号にかけた。開示請求を拒否するなら、それなりの理由が必要になる。書面作成の期間を考えると、そろそろ判断のリミットだった。

 三十秒ほどコール音が鳴ってから、ようやく相手が出た。

「……もしもし」

 亜佐子の声には張りがなかった。

「プロバイダへの回答ですが、まずは開示拒否で返信するしかないと思います。当人の確認が取れない以上、書き込みの事実があったとは言えないので。相手は開示のために訴訟を起こすでしょうから、その間に事実を明らかにしましょう」

 オボロの提案は苦肉の策だった。〈当人の確認が取れない〉などという理由で裁判所が納得するはずもなく、時間稼ぎにしかならないだろうが、駿介との対話が成立していない以上は他に手がない。

「それしかないんですね」

 力ない答えが返ってくる。彼女の声は疲れきっていた。

「あれから、変化はありましたか」

「ないですけど……少しだけ勉強しました。識字障害のこと」

 そのひと言だけは、わずかながら力が込められていた。

「調べてくださったんですか」

「本当に少しだけ。よくわからないですけど、確かに駿介と似ている子たちもいるみたいですね。まだ納得はしていませんよ。ですけど、仮にそうなんだとしたら、とっても生きづらかっただろうなと思って。ちょっとだけあの子のことが理解できた気がしたんです」

 相槌を打つのも忘れて聞き入った。亜佐子は亜佐子なりに考えている。父も弟も見放すなか、母だけは駿介を諦めていない。

「対応は先生にお任せします」

 電話の向こうから(はな)をすする音が聞こえた。どうやら、解任されずに済んだらしい。その日のうちにオボロは回答書の案を作成し、電子メールで亜佐子に送った。仕事はこれで終わりではない。

 ――むしろ、これからだよな。

 午後十時、誰もいない事務所の戸締りをして帰途についた。

 自宅マンションは事務所から徒歩十分の場所にある。途中でコンビニに寄って夕食を買い、ワンルームで弁当を食べた。ほぼ毎晩、食事はコンビニで済ませる。ルーティーンと言ってもいい。

 洗濯機を回し、シャワーを浴び、脱水した衣類を浴室に干す。誰かと一緒に住んでいれば、こういう作業も分担できるのだろうか。想像はするが、他人と暮らす未来はこれからも訪れそうにない。

 一人で過ごすことにはとうに慣れている。二十年以上、オボロは一人で生きてきた。むしろ今さら誰かと暮らすほうが怖い。幼少期の家庭と少年院。その二つを除いて、生活域に他人がいるという状況を経験したことがない。

 明日も早い。着古したTシャツにハーフパンツという格好で床に就くと、十数える間もなく眠りに落ちた。

 シングルベッドで眠っていたオボロが着信音に起こされたのは、夜明け前だった。いつ緊急連絡が来るかわからないため、仕事用のスマートフォンは眠る間もマナーモードにしない。表示されているのは見知らぬ番号だったが、躊躇なく出た。

「もしもし」

 沈黙が続いた。極度に緊張しているか、あるいはイタズラか。オボロはベッドに腰かけ、辛抱強く待った。

「……すか」

 ふいに、言葉の末尾だけが聞こえた。かすれた声は記憶に新しい。

「ごめん。今、何て言ってくれたのかな」

「オボロさんですか」

 先ほどより明瞭に聞こえる。紛れもなく、スライドドア越しに聞いた声だった。

「堀駿介さんですね」

「あ、うん……そうです」

「電話をくれてありがとう」

 相手は咳払いをしたが、喉のかすれは直らない。照明を落とした室内で、闇に向かって語りかけた。

「あの、すみません」

 しおらしく口にした謝罪の言葉は、本来、あの声優に向けられるべきではないか。ネット上のふるまいが現実と一致しないことはオボロも承知している。生身の駿介は、生きることに疲れたひ弱な少年だった。

「話したいことがあるのかな」

 そう言うと、再び押し黙った。リモコンで部屋の照明をつける。まぶしさに目が慣れてきた頃、駿介は意を決したように声を発した。

「……開示請求、来たんですよね」

「うん。心当たりはある?」

「あります」

 震えた声が聞こえた。自然と、胸から空気が吐き出される。変わろうとしているのは亜佐子だけではない。彼もまた、部屋のなかから助けを求めることを選んだ。

 この十日余りは、無駄ではなかった。

「あんな投稿をしたのは、声優の仕事に興味があるから?」

 彰平に聞いたエピソードからの連想だった。台詞を暗記して、キャラクターを一人ずつ演じ分ける。それは声優がやっていることと同じだった。駿介の返事はなかったが、オボロは話を進めた。

「〈らんこす〉の過去の投稿を探したけど、駿介さんを弁護できる材料は見つからなかった。ただ、ちょっと気になるものがあった」

 オボロはプリントアウトした紙を鞄から取り出し、読み上げた。そこには昨年夏の投稿が印刷されている。

〈おはようございますっ。昨日は台本読みでした。読み上げながら役に入っていくのが大好きで、のめりこんでしまいました。朗読のお仕事も近々発表されると思います。今日も暑いので熱中症にはお気をつけて!〉

「この投稿は知っていた?」

 やはり返事はないが、駿介の〈らんこす〉への中傷がはじまったのはこの直後だ。タイミングは合致している。

「もしかしたら、駿介さんはこの発言に傷ついたんじゃない?」

 普段ならまず読み飛ばす内容だ。だが、識字障害がある者の気持ちになれば見え方が変わってくる。

 文章を読むのが苦手な駿介に、台本読みは難しいだろう。朗読もそうだ。少年はその事実を改めて突きつけられ、声優への夢を断たれたような気がしたのではないか。敬愛する声優の発言ならなおさらだ。

 当然〈らんこす〉には悪気も罪もないため、中傷を正当化することはできない。だが、駿介の気持ちに寄り添うことはできる。

「……バカだから」

 沈黙の後で、苦しげな声がこぼれ落ちた。

「おれ、バカなんです。ひらがなは読めるけどカタカナはたまに間違えるし、漢字は全然覚えられないし。だから台本なんか絶対読めない。台詞とか全部覚えて、調子乗ってたのが急に嫌になって」

「バカなんかじゃない」

 夜明けのワンルームにオボロの声が響いた。

「台詞を暗記して演じ分けるなんて、誰にでもできることじゃない。バカじゃないよ」

 それは過去の自分へのメッセージでもあった。高卒認定試験の勉強をしている時、自分自身が「バカ」と呪ってくる幻聴を何度も耳にした。「年少上がりには無理」「弁護士になれるわけがない」そういう言葉も聞いた。あの時、不安を打ち消してくれる人がそばにいてくれたら。

 オボロは識字障害について説明した。少年院で出会った、あの少年に話している気がした。黙っているが、駿介が話に集中している気配は感じた。

「……だから、あなたはバカじゃない。ぼくが保証する」

 沈黙の後、じきに駿介のすすり泣きが聞こえてきた。

「でも、おれ、普通じゃないんです」

 嗚咽(おえつ)交じりの声に耳をすます。核心に近づいている感覚があった。

「緊張すると、頭とか耳とか痛くなるんです。ずっと昔から。特に人混みが苦手で。街に行ったりすると、しばらく耳がわんわん鳴って、頭が痛くなってくるんです」

 いわゆる聴覚過敏だろうか。同じようなことを亜佐子からも聞いた。

「お母さんから仮病だと言われたことはある?」

「いつもそうでした。誰もおれの話、聞いてくれないんです。頭が痛いのは仮病。字が読めないのはバカだから、勉強が足りないから。そう怒られるんです。おれは頭は悪いけど、嘘は言ってないのに。誰も信じてくれない」

 駿介はずっと叫び続けている。だが、その声を聞く者はいなかった。バカだから、というレッテルで耳を封じて、誰も正面から向き合おうとしなかった。

「ネットに炎上ネタを書き込むと、だいたいリアクションがあるんです。それも過激なほうがいい。ブスとか消えろとか書くと、絶対、誰かから反応が来るから。そういう時だけ、おれの声ちゃんと届いてるじゃん、ってわかるんです。ヤバいですよね。自分でもわかってます」

 個室にこもった駿介は、たった一人で孤独感と闘っていた。苦しみ、もがき、ネットの海に救いを求めたその結果が、炎上だった。

 しかし今、彼は己の苦しさを自覚しはじめている。出口は見えている。

「駿介さん。開示請求の回答なんだけど……」

「同意してもいいです」

 思いがけない回答だった。思わず「本当に?」と訊き返す。

「拒否しても、訴えられるんですよね。だったらもう伝えてください。本当におれが識字障害なんだとしたら、それだけの理由で引きこもってるのもしょうもないし。だって、ただ文字が読めないだけですもんね」

 駿介のひと言は、正確にオボロの胸を打った。

 ただ文字が読めないだけ。その通りだ。もしかしたら、亜佐子だけでなくオボロもまた、識字障害という言葉に身構えていたのではないか?

「ぼくは駿介さんの代理人だから、駿介さんが思う通りにする。それでいいんだね」

「はい。あ、あと」

「どうした?」

「見たい劇場版があるんで、早く出ないと、と思って。もうすぐ公開終わっちゃうから」

 通話がはじまってから、オボロは初めて笑った。

 予定を確認し、翌日に堀家を訪問することを約束した。そこで亜佐子と話し合い、回答書の文面を確定させる。回答書を送れば、プロバイダはすぐに個人情報を相手に開示するだろう。手続きの流れを説明する間も、駿介は冷静に相槌を打っていた。頭が悪いどころか、理解力は人並み以上に感じられた。

 いつのまにか空は白みはじめていた。夜が明けようとしている。

「どうして、ぼくに電話をかけてくれたんだい?」

 通話を終える間際、オボロはつい、そう尋ねていた。駿介が行動を起こす明確なきっかけがないように思えたからだ。

「先生、少年院でおれみたいなやつを見たんでしょう」

 ああ、と応じる。亜佐子から聞いたのだろう。

「それ聞いて安心したんです。やっぱり文字読めないのおれだけじゃないんだ、って。そういう人でも少年院出て、やっていけるんだとわかると、気が楽になったって言うか。もっとその話が聞きたくて」

 かすれた声がオボロの耳朶(じだ)を打った。

 今はもう、顔も思い出せない少年。二十数年前に彼が口にした言葉が再びよぎる。

 ――おれは生まれつき文字が読めないけど、それでも生きてる。

 当時わからなかったその言葉の意味を、ゆっくりと噛みしめる。

明け方の空気は冷たい。夏の終わりの部屋に、朝日が差していた。


「どうしてもダメですか」

 亜佐子は眉尻を下げて懇願するが、「すみません」と言うしかなかった。数か月ぶりに息子の姿を見られるチャンスなのだから、母親としては何としても同席したいだろう。しかし家族がいれば駿介は出づらくなるかもしれない。それに、亜佐子が冷静でいられるとは限らない。顔を見れば何かと言いたくもなるだろうし、その一言でまた心を閉ざすかもしれない。

「今日は我慢してもらえませんか」

 そのやりとりを幾度か繰り返した末、不承不承ではあったが亜佐子は納得した。彼女をダイニングに残し、オボロは二階への階段に足をかける。階段を上って、右奥。以前と変わらず合板のドアが待っていた。

 呼吸を整え、二度ノックする。

「オボロです」

 返事はないが、闇に話しかけているような虚しさはなかった。扉の向こうで耳をそばだてている気配を感じる。スラックスの膝を折り、あぐらをかいた。

「回答書の確認は済んだよ。損害賠償の請求も、引き続きぼくが対応することになった」

「……はい」

 短いが、確かに応答があった。

「ここにはぼくしかいない。約束する。だからもしその気になるなら、開けてほしい。一センチでもいい。ここにいる、ぼくの顔を見てくれないか」

 自分が会いたいかどうかではない。相手が、顔を合わせてもいいと思うかどうか。

 駿介が引きこもっているのは、きっといじめが主因ではない。あらゆる無理解に囲まれ、行き場をなくした彼には自室しか残されていなかった。それでも彼はまだ、他者への期待を捨てていないはずだ。そうでなければ、炎上などさせない。

「……外は暑いですか」

 かすれ声が聞こえた。

「夏は終わったよ」

 たっぷりと間を空けてから、施錠を解く金属音が聞こえた。スライドドアが音もなく開いていく。数ミリだった隙間が、少しずつ広がる。

 散らかった部屋を背に立っているのは、痩せた長髪の少年だった。皺だらけのポロシャツに、膝の抜けたジャージを穿いている。卒業アルバムで見た顔からわずかに大人びていた。唾を飲んでいるのか、小さい喉仏がしきりに動く。

「はじめまして」

 真っ青な顔の少年に、オボロは自然と笑いかけていた。

「改めて、声を聞かせてくれないか」

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