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第2回

持ち物としてのわたし

「オボロ先生って、趣味あるんですか」

 問いかけたのは、隣の席で手作りの弁当を食べているパラリーガルの原田だった。

 カップ麺をすすりこもうとしていた(おぼろ)太一は、割り箸を止めて応じる。

「どうして?」

「休みの日とか、どうしてるのかなと思って。あ、変な意味じゃないですよ。こう言ったら変ですけど、先生のプライベートには興味ないんで」

 どう受け止めればいいかわからず、「そうか」とだけ答える。

 二人が黙ると事務所は静まりかえる。土曜とあって、他の弁護士やスタッフは出勤していない。オボロと原田は顧客対応のため休日出勤し、そのまま午後も残務を片付けていた。

 この法律事務所に原田が入って二年。私大の法学部を卒業して、新卒でパラリーガルとして就職した。学生時代は別の事務所でアルバイトをしていたらしく、新卒にしては仕事の飲み込みが早かったのを覚えている。

 清潔なパンツスーツに身を包み、姿勢正しくおかずを口に運んでいる。着古したスーツにノーネクタイで、髭の剃り残しが目立つオボロより、よほど法曹関係者らしい出で立ちである。

「趣味……趣味ねえ。ないかもしれない」

「なんとなく、そう言うと思ってました」

 発言の意図が読めない。オボロは黙って麺をすする。

 オボロも弁護士として、中堅と呼べる程度には経験を積んできた。特に少年事件は専門分野だ。子どもたちと接する時には、過去のデータに裏打ちされた、自分なりのやり方に沿って進めることができる。

 だが二十四歳の女性との接し方については、まったくデータの蓄積がない。どういう思考回路で、何を好み、何を嫌うのか、さっぱり予測できない。迷った時に余計なことは口にしない。それが唯一、信じられる会話術だった。

 原田の弁当は彩り豊かだ。ブロッコリーの緑やミニトマトの赤が目にまぶしい。オボロは改めて、自分の手元にあるカップ麺のスープに視線を落とした。褐色の水面から、伸びた麺と紙のように薄いチャーシューがのぞいている。

 正午過ぎ。雑居ビル三階の事務所には重苦しい沈黙が居座っていた。気まずさに耐えかねた時、ふと会話の糸口を見つけた。

「あ。趣味、あった」

「えっ。なんですか」

「ラーメン。たまにおいしい店探して、食べに行くんだよね」

 すぐさま、原田の視線がカップ麺のラベルに注がれる。有名店とコラボレーションした新商品だった。

――その味で満足しているくせに?

 幻聴が聞こえた。左手でそっとラベルを隠し、残りの麺を一気に平らげる。

「ごちそうさまでした」

 オボロは謎の敗北感と戦いながら、流しへと立った。

 昔から、雑談は苦手だ。子ども時代、同世代の友人がいた経験がないオボロには、雑談というものがそもそも何を指すのか、それすらよくわかっていない。子どもたちと接しているうち、雑談らしき会話は多少できるようになったが、苦手意識は今でも払拭できていない。

 デスクワークに没頭するオボロが着信を受けたのは、午後二時前だった。スマートフォンのディスプレイには、〈子どもの人権110番〉と表示されている。いじめや虐待、育児放棄、学校トラブルなど、子どもの人権に関するあらゆる相談を受け付ける専用窓口だ。

 弁護士会で子どもの権利委員会に属するオボロは、週替わりで受付窓口を担当している。今週はオボロの担当週だった。

「はい。子どもの人権110番です」

「あ、あの……助けてほしいんです」

 少女の声は小刻みに震えている。走っているのか息が荒い。

「どういった状況か、教えてもらえますか」

「家を出て、親から逃げてきました。助けてもらえますか」

 動揺しているものの、発言は明晰だった。中学生か高校生くらいの年齢だろうか。

「帰る場所がないのですか」

「親に殴られるんです。もう無理です。帰れません」

 オボロは手帳に素早くペンを走らせる。家庭内暴力。親。殴る。

「今、どこにいますか」

「とりあえず走ってます。家の近く」

「もう少し、詳しく教えてください」

「あの、駒井百花(ももか)です。高校一年です」

 場所を訊いたつもりだったが、名前が返ってきた。コマイモモカ、高一、と素早く書き取る。

「家には帰れないんです。お願いします」

 百花の口調は切羽詰まっている。だが相談者のペースに巻き込まれてはいけない。オボロはあえて落ち着いた口調で応じる。

「子どもシェルターというものがあります。入居可能か確認しますので、少し待ってもらえますか。電話番号をお願いします」

 いくつかの確認を経て、いったん百花との通話を切る。そのままシェルター側弁護士の直通回線に電話をかけた。こちらも当番の弁護士に直接つながる。

「はい、里田です」

 聞きなじみのある女性の声が返ってきた。安堵を覚える。里田は、オボロが駆け出しの頃から世話になっている先輩の一人だった。彼女もまた弁護士会で子どもの権利委員会に所属している。

「里田先生。オボロです」

「あら、ご無沙汰。入居打診ですよね。早速ですけど、どんな状況?」

 オボロは電話で聞き取った内容を正確に伝える。

 相談電話を受けた弁護士は子ども担当弁護士、通称コタンとなる。コタンは悩みを抱える子どもに代わって、家族や関係者との折衝、法的措置を検討する。百花のコタンであるオボロは、彼女の代理人として交渉の矢面に立つことになる。

「では、通院服薬の状況は不明、と。悪いけど、確認してもらえますか」

 それからオボロは再度百花に電話をかけ、並行して里田がシェルターに入居状況を確認する。折り返し、里田からかかってきた電話は「入居可」という返答だった。まずは百花と面接し、シェルター入居の意思確認をすることになった。

「とりあえず、駅まで来るよう伝えます。ぼくは二十分ほどで着きます」

 三度百花に電話をかけ、入居面接を行う旨を伝えると、「はい」というか細い答えだった。大丈夫。弱ってはいるが、この少女は現状を客観的に理解し、自ら相談電話に連絡する行動力も持っている。きっと、よい方向へ進むことができる。

 通話を切り、慌ただしく外出の準備をしていると、書類仕事をしていた原田がオボロの名前を呼んだ。

「オボロ先生は、仕事中が一番生き生きしていますよ」

 照れを押し隠して「ありがとう」と言うと、原田はほのかに笑った。

「いってらっしゃい」

 事務所を飛び出し、待ち合わせ場所のターミナル駅を目指す。その足取りにためらいはなかった。

 土曜の駅周辺には人待ち顔の男女が数名、立っている。そのなかに見知ったスーツ姿の女性がいた。胸元で弁護士徽章が光っている。オボロはすかさず駆け寄った。

「里田先生」

「ああ、オボロさん。お疲れさま」

 シェルター入居を希望する子どもとの面談には、シェルター側の代理人が同席する。今回であれば里田がその担当だ。

「場所は里田先生の事務所でいいですか。喫茶店もありますけど」

「近いから事務所にしましょう」

 立ち話で打ち合わせをしながら、改札から吐き出されてくる乗客たちにも視線を送る。助けを求める子どもが迷わないよう、油断なく注意する。

 少女が現れたのは、約束の午後四時前だった。

 改札を抜けた後、とぼとぼと歩きながら左右を見回している姿に、彼女が相談者だと直感した。里田も同じ思いだったらしく、どちらからともなく少女に近づいていく。威圧感を与えないよう、足音を立てたり、必要以上の速さで歩いたりはしない。できるだけ早く視界に入るよう、相手の目を見る。

 歩み寄ってくる二人の大人に気づいた少女は、動きを止めた。顔を引きつらせ、石になったかのように固まっている。年齢は十代なかば。タートルネックのニットにジーンズで、グレーのリュックサックを背負っている。ロングの髪を後ろで束ねていた。

 はじめに里田が名乗り、オボロがそれに続いた。弁護士だと明かすと、こわばった表情がいくらか緩んだ。

「駒井百花さんですね」

 オボロの問いかけに少女は頷く。

 タクシーを捕まえて、三人で里田の事務所に移動した。オボロは百花と二人で後部座席に座ったが、到着するまでの間、彼女は一言も話さなかった。膝の上で握りしめた両手の白さに、決意の強さが滲んでいる。その右手の甲に、火傷の痕が残っていた。

 事務所の会議室では、百花から見て里田は対面に、オボロは九〇度の位置で着席した。弁護士が二人とも対面に座ってしまうと、面接試験のようで子どもが委縮しかねない。事務員が運んでくれた冷たい緑茶はすぐ飲んだ。弁護士が手をつけるまで、飲むのを我慢する子どももいるからだ。

「百花さん」

 オボロが微笑を向けると、百花の口元が引き締められた。

「ぼくはあなたの味方です。これから百花さんにとって、思い出すのも辛いようなことを尋ねるかもしれません。立ち止まりながらでいいので、少しずつ、何があったのか教えてくれますか」

 こういう時、誰にも言わない、などという約束はしない。虐待問題を解決するには、児童相談所やシェルターの職員、時には医療機関やケースワーカーの助けを必要とする。場合によっては、子どもの訴えを親に伝えることもある。皆の知恵を結集することが主眼であり、すべての訴えを秘密にしてはおけない。

「皆で一緒に考えていきましょう」

 里田も穏やかに語りかける。

「ここは安全です。落ち着いて話してください」

 百花はしばし、ぽかんと口を開いていた。数秒の間を置いて両目に涙が溜まっていく。あっさりと張力を越えた涙が頬を流れ、顎へと伝う。下唇を突き出し、瞼が固く閉じられ、喉の奥から嗚咽が漏れた。顔を覆う両手の隙間から水滴がこぼれる。

 二人の弁護士は、少女が落ち着くのを待った。

 彼女の気持ちを考えれば、泣きたくなるのも無理はない。おそらくは決死の覚悟で家庭内暴力から逃げてきたのだ。味方。安全。そういった言葉と縁の遠い生活を送ってきたに違いない。張りつめていた緊張感がぷつりと切れ、涙腺が緩むのは何ら不自然なことではなかった。

 百花が泣きやむのを待って、オボロは切り出した。

「ゆっくりでいいので、ここに来た理由を話してくれますか」

「……わかりました」

 初めてまともな答えが返ってきた。か細く、かすれた声で。

 質問に答える格好で、百花は語りだした。言葉は途切れがちだが口調は確かである。言語能力は年齢相応か、やや高い。オボロは問いかけを挟み、相槌を打ちながら、百花の身の上話を手帳に書き取った。

 駒井百花は十六歳、商業高校の一年生。先ほど待ち合わせた駅から電車で一時間ほどの土地に、両親と三人で暮らしている。母の千鶴は百花が三歳の頃に離婚。以来、保険外交員として働きながら百花を育て、二年前に現夫の靖彦と再婚した。靖彦は千鶴の七歳下で、三十代前半だという。

「今度は、手の甲の火傷について聞かせてもらえますか」

 自然と、百花の視線が右手の甲に引き寄せられる。

「どういうことがあって、その火傷がついたのかな」

「……」

 とたんに百花の口が閉ざされた。虐待の事実に触れるのは勇気が要る。だが、自ら電話をかけてきた彼女なら、語ってくれるはずだと信じた。

「火傷はどこでついたんだろう」

「……」

 やはり答えはない。自分のシナリオに乗せるような質問をしたくなるが、事実関係がわからない以上、できるだけ開かれた質問をするのが基本である。

「じゃあ、いつ火傷がついたのか、教えてくれるかな」

「……一年くらい前」

 ようやく返答が得られた。すぐに質問を重ねたくなるが、堪えて間を空ける。尋問めいた圧迫感を与えてはいけない。

「それは事故かな。それとも、事故ではなかった?」

 答えが返ってくるまで、根気強く待つ。大人が痺れを切らせば、子どもは話す気力を失う。やがて百花は泣き腫らした目を上げた。

「やられた。コンロの火で」

 オボロは唾を飲む。被害者である子どもの口から、具体的な内容が明かされた。

「誰にやられたの?」

「……お父さん」

 手帳の上で、父の名を丸で囲んだ。駒井靖彦。母親の再婚相手であり、百花の継父である男。

「そうか、お父さんか」

「手首をつかまれて……無理やりコンロの上に手を置いて、火をつけて……熱いって言っても全然放してくれない……熱いし、痛いし」

 虐待の様子を語りはじめた百花に、オボロは無言で相槌を打つ。本当はずっと誰かに話したかったのだろう。百花は蒼白な顔で、胸のうちに溜まったものを吐き出していく。

「見てくれますか」

 百花はタートルネックの首元に指をかけた。引き下ろすと、少女の細い首に紐のようなもので絞められた痕が刻まれていた。青黒い蛇が巻き付いているようにも見えた。里田が眉をひそめる。

「それは、いつ?」

「ついこの間。先月。突き飛ばして逃げたけど、逃げるなって」

 再び百花の目に涙が溜まりはじめる。当時の恐怖が蘇ったのかもしれない。

「その首の痕について、学校では何も言われなかった?」

「別に。見て見ぬふりって感じ」

 首に絞め痕が残っている状況は、尋常とは言えない。教師や同級生の一部は、その異常さに気づいているはずだ。だが、単に気が付くことと、誰かのために動くことの間には天と地ほどの差がある。その難しさもオボロは理解していた。

「平手で叩かれたり、何か言っても怒鳴り返されたり。もう無理です」

「お母さんはどう思っているのかな」

「……わかりません」

 百花は力なく、うなだれた。

 彼女が傷つき、憔悴しきっているのは明らかだ。オボロとしてはシェルター入居に異論はない。里田も同じ意見らしく、視線を交わすと小さく頷いた。

「百花さん。子どもシェルターって、知っていますか」

 そこから先は里田が引き取った。入居説明と意思確認は里田の仕事だ。

「シェルターの場所は公表していません。ですから、入居している間はご家族やご友人が会いに来ることはありません。ですが、退去後も場所については誰にも言わないと約束してもらえますか」

「……はい」

「それから、入居中はいくつかのルールを守っていただきます。スマホなどの通信機器はお預かりします。自由な外出はできません。シェルターの外に出られるのは、必要がある時だけです。入居期間は最長で二か月」

 二か月、という言葉に、百花の表情がわずかに陰った。短いと感じたのだろう。だが、入居期間は延ばせない。シェルターを必要とする子どもたちは大勢いる。それに、シェルターはあくまで一時的な避難場所に過ぎない。入居する時から、コタンは子どもが巣立つ日のために動き出す。

「百花さん。それでも、入居を希望しますか」

「お願いします」

 迷いはない。家を出る時、すでに心は決まっていたのだろう。

 その後、三人でタクシーに乗ってシェルターへと移動する。オボロは車中でスマートフォンを預かった。入居者のコタンを務めるのは三度目だ。

 百花の面持ちは、再び緊張で張りつめていた。頭のなかでは様々な疑問と不安が渦巻いているのだろう。どんなところか。いつまでいられるのか。自分はこれから、どうなっていくのか。

 かつて、オボロも不安に押しつぶされそうになった。

 十四歳の頃、家族ぐるみの空き巣で逮捕された。逮捕直後は、ようやく捕まった、という安堵すらあった。だが警察や検察の取調べを受け、少年鑑別所に送られる車のなかで、これからたどる運命が見えなくなった。黒い靄のような不安は、どんなに暴れても振り払うことができなかった。

 罪に問われたかつてのオボロと、虐待被害者の百花では、境遇がまったく違うことは百も承知である。それでも、子どもだという一点で共通していた。

 子どもは非力だ。知識も、財力も、権力もない。自分の運命を自分で決めることすらできず、周囲の大人たちに任せるしかない。だから不安になる。

 少女は唇を閉じ、窓の外を見ている。まだ心を開いているとは言えない。

 後部座席でオボロは考える。百花の本心を知るためには、どうすればいい。時間は限られている。

 そのシェルターは、三階建てマンションの二階と三階に位置している。簡単な改装をしており、個室が数室と、スタッフ用の事務室、二、三名で使う面会室、大人数用の会議室が設置されている。外廊下は壁で囲われ、外からは内部が見えない。

 二階の会議室に、一人の子どもと四人の大人が集まっていた。

 テーブルの一隅には会議の主役である百花が、隣にはオボロが座る。今日の百花はタートルネックではなく、紫色のシャツを着ている。首の絞め痕はさらけ出されていた。

 両側にシェルターのスタッフが二人いる。正面に座っている児童福祉司は、オボロと同年代の杉本という女性だった。電話では幾度か話したが、顔を合わせるのは今日が初めてである。

 子どもシェルターは、親権侵害、未成年者誘拐の(そし)りを受けないよう、細心の注意を払っている。そのために児童相談所(児相)との連携は必須だ。シェルターは必ず、入居する子どもが虐待を受けていることを児相に通告する。児相は一時保護を決定し、シェルターに一時保護を委託。このような仕組みを作り上げることで、子どもたちの円滑な保護を可能にしていた。

 このことから、入居する子どもの今後を考える上では、シェルターやコタン弁護士だけでなく、児相の児童福祉司の意見も重要になる。

「ではケース会議、はじめましょうか。今日はキックオフということで」

 ベテランのスタッフが司会を買って出た。

 ケース会議では子どもの将来を話し合うが、出席者は大人だけではない。本人の意思を尊重するため、当人が出席し、意見を求められることが多い。

「念のため、コタンのオボロ先生から背景を共有いただけますか」

「承知しました」

 オボロはいつもの微笑を浮かべながら、百花が避難した経緯を話した。すでに入居から五日が経っており、その間にもオボロは何度か事情を聞いている。

 本人の訴えによれば、継父の駒井靖彦による暴力行為がはじまったのは二年前、母親と再婚して同居をはじめた直後だという。帰りが少し遅くなる、頼まれた家事をやっていない、といった些細な理由で、頭を小突いたり、頬を叩いたりされた。リモコンや食器を投げつけられることもあった。千鶴にも止めるそぶりはないという。

 百花は我慢した。親に逆らえば、高校に行けなくなるかもしれない。受験を前にして、暴力に耐えながら勉強した。彼女の限界を試すように、暴力行為はエスカレートした。受験直前の冬、手の甲をコンロの火であぶられた。受験を妨害するかのように。

 それでも百花は、第一志望の公立高校に合格した。

 すると今度は、学費は出さない、と靖彦が言い出した。さすがに千鶴が抵抗し、自分の稼ぎから出す、という約束で百花は志望校に通えることになった。

 高校生になっても暴力は止まなかった。殴る叩くに加えて、言葉の暴力も度を増す。靖彦はもともと口が汚い男だったが、顔を合わせるたび、ブス、落ちこぼれ、根性なし、などの暴言を吐くようになった。もはや理由などない。虫の居所が悪ければ、問答無用で手が飛んでくる。

 痛みと屈辱に晒されながら、それでも百花は耐えるしかなかった。一人で暮らすような元手はないし、そもそも未成年に貸してくれる家などあるはずがない。逃げ出せば、苦労の末に入った高校も退学することになるかもしれない。

 そんな時、子どもの人権110番の存在を知った。

 番号をスマートフォンに登録し、今度、どうしても耐えられないと思えば連絡しようと決めた。百花にとってはお守りの代わりだ。

 そして先日、とうとうその時が来た。

 百花と靖彦は、アパートの自宅に二人きりだった。自室でクラスメイトに借りたマンガを読んでいた百花は、突然入ってきた靖彦から蹴飛ばされた。自室に鍵はなく、入ろうと思えばいつでも入れるようになっていた。

 ――そんなもの読む暇あったら、外で働いて稼いでこい。

 百花は答えず、丸くなって身を防いだ。口答えが無意味であることは経験上、肌で理解している。逃げようとしたが、靖彦がドアの前に仁王立ちになっているせいで部屋から脱出できない。

 ――黙ってないで何か言え。

 呼気にアルコールの匂いが混ざっている。昼間から酒を飲んでいるらしい。

 ――もう、やめて。

 そう言うのが限界だった。靖彦が従うはずもなく、ゆったりとした足取りで近づいてくる。部屋の隅に追い詰められた百花は、決死の覚悟で脇の下をすり抜けようとした。足取りの覚束ない靖彦を突き飛ばし、自室を出た。だが玄関のドアノブを握った瞬間、肩をつかまれた。

 ――見てみろ。

 振り向くと、靖彦の手には包丁が握られていた。初めから隠し持っていたのか。刃先は百花の心臓に向けられている。顔が冷たくなり、背筋が凍った。

 ――子どもは親の持ち物なんだよ。抵抗するな。

 抵抗する気力は奪われた。その場で数発殴られ、気が済んだ靖彦はリビングへ引き返した。注意が逸れたのを確かめ、自室で財布とスマホを手に取った。スニーカーを履き、すぐさま家を出た。

 全速力で逃げた。絶対に追い付かれないよう、一目散に走る。逃げるあてなどなかった。自宅から数キロ離れても、まだ油断はできない。小走りで移動しながら、子どもの人権110番に電話をかけた。

「……今の説明で間違いないですか」

 オボロが水を向けると、百花は大きく頷いた。彼女の言語能力は印象通り高く、聞き取りで難航することはほとんどなかった。記憶力もよく、聞き取りでの矛盾点もない。だが、それがかえって気になる。

 百花は自分の状況を、冷静に理解しすぎているようにも思えた。

 メモを取りながら聞いていた杉本が「よろしいですか」と発言した。

「医療機関との連携は?」

「昨日、受診しました。持病や服薬はありません。ですが、背中や太ももに(あざ)が多数あったそうです。虐待の痕だろう、という見立てでした」

 杉本はそれが癖なのか、眼鏡のツルを触りながら眉根を寄せた。

「百花さん、質問してもいい? お母さんとは今までどんな関係だったかな。仲がよかったとか、悪かったとか」

「……普通だと思います」

 同じ質問はオボロもしていたが、母である千鶴との関係性は明確に語られていない。長年母子家庭で暮らしていれば、母親について言いたいことの一つや二つはありそうなものだが、「普通」「別に」と答えるだけだった。

「通学は続けたいですか」

 これには「はい」と即答した。通学への強い意思はある。

「そうですね……コタンの先生として、お考えはありますか」

「私からご両親と会話しようかと」

「学校や親族は?」

「学校は状況を把握していないようです。面識がある親族もいないそうです」

 通学先にはオボロから連絡を入れた。担任の教師と会話したが、家庭での虐待はまったく認識していない。百花の意見通り、見て見ぬふりをしているのかもしれないが。しばらく学校を休むことを伝え、家庭事情は口外しないよう念を押した。

「ご両親とは別々に?」

「ええ。力関係の偏りがあるようですから」

 百花の話が事実なら、家庭では継父が主導権を握っているはずだ。ただ、引っかかる点が一つある。昨日の診察後、オボロだけが医師から呼び出され、ある懸念を伝えられた。その懸念を確認するためにも、両親とは個別に面会する必要がある。

「ご両親にはまず私だけでお会いしようと思いますが、よろしいですか」

「そうですね、日程的に直近は厳しいので……」

 手帳を広げた杉本は、上目遣いで言った。

「どうなるかわかりませんが、入所措置の下調べは児相でもしておくので」

 児童福祉司は多忙である。特に近年は虐待通告の件数が増加傾向で、抱えるケースの数も膨れ上がる一方だった。

 親や学校との折衝を弁護士が担えば、負担は軽減される。コタンとしても、子どもの希望を叶えるためには主体的に動けるほうがやりやすい面もある。児童福祉司とコタンが助け合えば互いにメリットがあることを、杉本はよく理解していた。

 いくつかの確認事項を済ませてから、オボロは改めて「百花さん」と呼びかけた。

「伝えたいことはありますか」

 百花は首を横に振る。それが閉会の合図だった。

 はじめに百花がスタッフに付き添われて部屋を出た。オボロはそれを見送り、続いて退室しようとするベテランのスタッフと杉本を呼び止めた。

「少しだけ、いいですか」

 喫茶店には三組の先客がいたが、駒井千鶴と思しき人物はいない。待ち合わせの午後六時より十五分早く到着したオボロは、閑散とした店内を見回し、窓際の席を選んだ。木製の椅子に腰かけ、ホットコーヒーを注文する。

 何度か使ったことのある喫茶店である。テーブル間の距離は十分に取られており、いつ来ても空いている。店としてはもっと繁盛してほしいかもしれないが、人に聞かれたくない話をするには好都合だ。

 面会場所に喫茶店を選んだのには理由がある。千鶴の家で会えば、夫の靖彦も同席してしまうかもしれない。加えて、相手の自宅ではこちらのペースに乗せられない。事務所で会う手もあるが、この喫茶店のほうが千鶴の職場に近い。面会を拒否する理由は一つでも潰しておきたかった。

 六時を数分過ぎた頃、大きなトートバッグを提げたパンツルックの女性が現れた。髪は短く切り揃え、念入りにメイクをしている。店員に声をかけ、きびきびとした足取りで近づいてきた。オボロは立ち上がり、会釈をした。

「弁護士の朧太一といいます」

「よろしくお願いします」

 千鶴は緊張した面持ちで頭を下げた。立ったまま名刺を交換する。受け取った名刺には生命保険会社の社名と支店名、その横に〈田中千鶴〉と氏名が記されていた。

「田中は旧姓です。仕事ではそちらを使っているので」

 どちらからともなく腰を下ろす。百花の話では、千鶴は今年四十歳。オボロとほぼ同じ年齢だ。椅子に座り、流れるようにバッグから手帳とペンを取り出す。一つひとつの所作に無駄がない。商談のような態度だった。

「私、百花さんの子ども担当弁護士を務めていまして……」

「申し訳ございません」

 話を切り出そうとしたオボロを遮るように、千鶴は深々と頭を下げた。額がテーブルにつきそうになる。呆気に取られるオボロに向かって、顔を上げた千鶴は語りだした。

「娘のことで皆さんのお手を煩わせてしまい、申し訳ありません」

「ああ、いえ。そこはお気になさらず」

「これは家庭の問題ですので。ここからは私が責任をもって対処いたします」

 出てくる言葉は殊勝だが、どこか芝居じみている。こちらに意見する余裕を与えず、話の主導権を握りたがっているようにも見える。

「あの、不安ではないですか」

 つい、尋ねてしまった。

「はい?」

「ですから、百花さんが突然家を出たことに関して」

 娘が家出をしてシェルターに匿われているというのに、千鶴には動揺が感じられず、上辺の言葉ばかり重ねている。

「不安ですよ。不安に決まっています」

 相手は不服そうに口をとがらせる。コーヒーを運んできた店員が去ってすぐ、オボロは直球を投げかけた。

「百花さんは、靖彦さんから暴力をふるわれていると話しています。事実ですか」

「お恥ずかしいですが、事実です」

 千鶴は声のトーンを落とした。同じ質問は電話で話した際にもしている。

「夫はもともと気の弱い人で。でもお酒が入ったり、イライラするようなことがあると、手が出るんです。私を殴ることはないんですけど、娘はよく叩かれていて。本当は私が止めないといけないんですけど」

 ビジネスライクな態度から一転、同情を誘う口調へと変わる。しかしそれすらも演技に思えてくる。

「子どもは親の持ち物だ、と考えていらっしゃる?」

「そういうことは、何度か口にしています……ストレスの多い仕事ではあると思うんです。浮き沈みもありますし」

 百花も継父の職業をはっきりとは知らなかった。昼過ぎに出て深夜に帰ってくることから、遅い時間に働く仕事だということしかわからない。

「あの、靖彦さんのご職業は?」

「……フリー雀荘の店長です」

 わずかなためらいとともに、千鶴はそう言った。

「そのお仕事は長いんですか」

「もう五、六年やっているはずです。もともと雀荘のメンバーをやっていて」

 靖彦の年齢は三十三歳。二十代なかばから雀荘で働いていることになる。

「本当、恥ずかしい仕事ですみません」

「恥ずかしい?」

 うつむいた千鶴は本気で恥じ入っているようだった。だが、家族ぐるみの窃盗に手を染めていたオボロからすれば、恥に思う気持ちがわからない。

「まともな大人の仕事ではないですよね」

「そんなことはないと思いますが」

「いえ、そうなんです。早く辞めてほしいんですけど」

 頑なな態度にまたも違和感を覚えた。百花から聞いた印象とは異なる。

 ここまでの会話で、オボロにはある直感があった。「一つお聞きしたいんですが」と前置きをして、まっすぐ目を見る。

「百花さんへの虐待は、靖彦さんとの同居前から行われているかもしれません」

 一瞬、千鶴の目が泳いだ。初めて明確な動揺が表れた。

「どういう意味です」

「虐待する人物に心当たりはありませんか」

「それ、私が手を出したって意味ですか」

 来た。思ったより早く本性が出た。

 オボロの直感は、千鶴自身が虐待に関与していると告げていた。

「百花が、駒井にやられたと言っているんでしょう。だったらそれ以外に考えられないじゃないですか。撤回してください。名誉棄損です」

 唾がテーブルに飛ぶ。激昂する千鶴の反応は、明らかに過剰だった。

「そこまで言っていません」

「言っているのと同じですよ。失礼な……そんな人が弁護士なんてやるべきじゃない」

 千鶴の充血した目を見ているうち、直感は確信へと変わっていく。

決めつけ。偏見。誰にでもそういった要素はある。だが、それをあっさりと表に出してしまう態度には、未熟さが漂っていた。

「では、そういう人物に心当たりはないということですね?」

「ありません。何を、失礼な」

「医師の見立てでは、かなり前からの内出血痕があるそうです」

 それが、例の懸念であった。

「二年以内につけられたものは少なく、むしろ経過年数の長い内出血の痕が多く見られるようで。つまり、靖彦さんと同居するより前に、別の誰かが虐待にかかわっている可能性があるということです」

 千鶴が顔を赤らめて言葉に詰まった。しまった、とオボロは思う。追い詰めてしまったか。逃げ場をなくしてしまえば、相手は逆上するかもしれない。冷静な話し合いができないと解決の糸口もつかめない。

「……私は悪くない」

 それまでの作ったような声とはうってかわって、うなるような声音だった。

「お母さん、ちょっと」

「百花が言ってるんだから、私は悪くない」

 一度もペンを走らせないまま、千鶴は手帳をトートバッグに押し込んだ。やはり格好だけだったらしい。憤然と席を立ち、座ったままのオボロを見下ろす。

「弁護士だかなんだか知らないけどうちの事情ですから、口を出す権利はありません。百花の居場所を教えてください。今すぐ帰します」

「シェルターの場所は言えません」

「なんでよ」

 押し殺した声で言う。

「通報します。誘拐ですよ」

「百花さんはご自分の意思で入居しました。書面もあります」

「子どもに意思なんかあるわけないでしょう」

 トートバッグを肩にかけた千鶴は答えを待たず、大股で出入口へと去っていく。残されたのは殺伐とした空気の残り香と、口のつけられていないコーヒーだけだった。静かになった店内で、オボロはまだ対面の空席を見つめていた。

 ――子どもは親の持ち物なんだよ。抵抗するな。

 頭のなかでは、そのひと言が千鶴の声で再生されていた。

 事務所のデスクで作業中、原田がオボロを呼んだ。

「お客様、会議室に案内しました」

「すぐ行きます」

 オボロは頬を軽く叩いた。これから会うのはもう一人のキーパーソンだ。

 会議室で待っていたのは、三十代と思しき貧相な男だった。頭頂部の髪は薄くなっている。ダンガリーシャツのくたびれ具合はオボロのスーツといい勝負で、全身に濃い煙草の匂いが染みついていた。

 男はオボロの姿を認めると、ソファからさっと腰を上げた。思いつめた表情をしている。

「ええと、この度は、お手数をおかけして」

「大丈夫です、そのままで」

 口ごもる男に座るよう勧める。名刺を手渡すと、「私、持ってなくて」と頭を掻いた。

「あの、駒井靖彦です。よろしくお願いします」

「早い時間からお越しいただいて恐縮です」

「こっちこそ、仕事明けのボロボロの格好ですみません」

 壁の掛け時計は午前九時を指している。靖彦は店長を務める雀荘で深夜まで働き、店で仮眠をとってから、直接ここに来たのだという。脂っぽい顔に徹夜明けの疲労が滲んでいた。

「経緯は電話でお話しした通りです。百花さんは、お父さんから暴力をふるわれたと言っていますが事実ですか」

 単刀直入に切り込むと、靖彦が肩をこわばらせた。

「……百花がそう言うのなら、そうなんでしょう」

 わずかな苛立ちが浮かんで、すぐに消えた。しきりに膝の辺りを掻きむしっている。

「相違する部分もあるんですか」

「いや。相違はありませんが」

「百花さんに危害を加えたことに関しては、認めるということですね」

「別に、危害とか……そういうつもりでは」

 回答は一向に的を射ない。

「意図はしていないけれど、手は出した?」

 とうとう靖彦は沈黙した。明らかに、真実を話しているようには見えない。オボロは身体の痣についても話したが、反応は薄かった。

「先日、千鶴さんとお会いしました」

 そう告げると、にわかに靖彦の顔が険しくなった。おや、と思う。ここを突っ込めば、本音が引き出せるかもしれない。

 千鶴と会ったことで、オボロの見立ては変わっていた。夫婦関係は夫に主導権があると思っていたが、逆の可能性もある。

「古い痣のことは、千鶴さんもご存じないようでした。私は悪くない、と」

「……他に何か言っていましたか」

「子どもに意思なんかあるわけがない。そう仰っていました」

 靖彦はさらに膝を掻く。やがて、はぁ、と長い溜め息を吐いた。空気が抜け、くたびれた身体がさらに萎んでいく。爽やかな朝の気配とは対照的に、靖彦のまとっている空気は徐々に淀んでいく。

「ごめんなさい」

突然、靖彦が頭を下げた。

「どうしました」

「百花を叩いていたのは、私じゃありません」

 膝を掻いていた手が止まった。握りしめた拳の形がどこか百花と似ている。

「暴力はふるっていない、と?」

「手は出していません。ただ、止めなかったという意味では私も同罪です」

「では、百花さんを虐待していた人物はどなたですか」

 逡巡の後、靖彦は伏し目がちに「妻です」と言った。

「なるほど」

 この発言が正しいとすれば、百花は嘘をついていることになる。彼女は靖彦に暴力をふるわれ、千鶴は傍観していたと言ったが、逆だったということだ。手を出したのは千鶴で、それを見ていたのが靖彦。継父と同居する以前から千鶴の虐待を受けていたとするなら、二年以上前の傷痕も説明がつく。

 しかし、まだ靖彦の発言を信じるに足る根拠はない。靖彦が嘘をついているかもしれない。あるいは、全員が嘘をついている可能性も。

「千鶴さんによる虐待は、いつからですか」

「さあ……結婚より前だと思います」

「気づいたのはいつ?」

「同居をはじめてすぐでした。言葉がきついんですよね。もともと口は悪いんですが、百花への発言は比じゃないというか。グズ、黙れ、とか。結婚前、外で会った時はそんな感じじゃなかったんですけど」

「言葉だけですか」

「いや、ちょっとしたことで叩いたりしていました。あと、物を投げるんです。食器とか。床に落ちて、ぱーん、と割れるんですよ。破片を百花が片付けたりして。その百花に向かって、いい歳なんだから働いて家に金入れろ、と言うんです。中学生ですよ。とんでもない人と結婚した、と思いました。正直」

 靖彦の話しぶりには躊躇がなくなっていた。

「高校受験の前はどうでしたか」

「受験……ああ、はいはい。色々ありました。妻は百花が高校に行くのを嫌がってましたね。その時期、家に帰ってくると台所で百花が泣いていたことがあって。手をコンロで焼かれた、と言うんです。見ると、手の甲に火傷の痕が残っている。血の気が引きました。勉強できないように、そんな真似をしたんだと思います」

「学費はどうされているんです」

「一応……私が出しています。余裕はないですが、百花が高校に合格してから、妻が学費を出さないと言い出したので。さすがに見かねて、だったら私が出そうかと」

 これも、百花の話と逆だ。

「通帳のコピーを準備してもらえますか」

 学費を振り込んだ記録があれば、発言を裏付ける証拠になる。靖彦は「構いませんけど」と応じた。

「千鶴さんは日頃から、子どもは親の持ち物だ、と言っていますか?」

「たまに。本気でそう思っているみたいです」

 靖彦の態度は傍観者に徹している。学費の件以外、妻を止めようとした形跡もない。家族の話だというのにまるで他人事だ。

「そこまで状況を知っていても、通報しようとは思いませんでしたか」

 靖彦は急に黙り込んだ。その点が、彼にとっても負い目なのだろう。

「……すみません」

「いえ、謝ってほしいわけではないんです。通報する意思はあったんですか」

「ありました。児童相談所の通報ダイヤルも覚えています。189。何度もかけようとしました。でも」

 沈黙が続いたが、オボロは待った。やがて靖彦が口を開く。

「こっちは実の父ではないですから。外から来た人間が、血のつながった母と娘を引き裂くのは悪いことだと思いました」

「二人への遠慮から、傍観していたと」

「百花には、本当に申し訳ないことをしました」

 靖彦はうつむいたまま、床に向かってつぶやいた。

 謝罪の気持ちはわかる。だが、すでにすべてが終わってしまったと考えているなら、それは間違いだ。

「むしろ、これからが正念場です」

 オボロは声に一層力を込めた。

「靖彦さんには、父として百花さんを保護することも、夫として千鶴さんを支えることもできます。これまでのことより、今からどうするかが大事なんです。申し訳ないと思ってらっしゃるなら、力になってもらえますか」

 ようやく靖彦が顔を上げた。許しを請うようにオボロを見ている。その目には、拭いようのない劣等感が混ざっていた。

「私には、力も金もありません」

「力と金だけが方法ではないんです」

 オボロは微笑した。作り笑いではなく、心からの表情だった。

 シェルターの面会室は、マンションの二階にある。五畳半の縦長の洋室で、元は子ども部屋か書斎だったのかもしれない。中央にローテーブルがあり、座布団が置かれていた。オボロは片方の座布団に座ってあぐらをかく。

「少しは落ち着いたかな」

 対面にいる百花は、小さく頷いた。今日で入居して一週間になる。首の絞め痕がほんの少し薄くなった気がした。

「普通に寝られるのが、嬉しいです」

「家では眠れなかった?」

「夜中に叩いて起こしたり、水をかけられたりするんです」

 百花は最後に「お父さんに」と付け足した。

「お父さんは夜の仕事だけど、夜中に起こされるんだ?」

「……仕事がない日の話です」

 手の爪を弾きながら、百花は言う。

 担当する子どもが皆すんなり会話に応じてくれるとは限らない。オボロの経験上、百花はよく話してくれるほうだ。頭の回転も速く言語能力も高い。だが、頭がいい子ほど、その嘘を認めさせるのにも工夫がいる。

「ご両親と会ったよ。別々にね」

 百花の右手が絞め痕へと伸びた。おそらく無意識だろう。

「……何て言ってました」

「真逆の内容だったね。お母さんはお父さんがやったと言って、お父さんはお母さんがやったと言っている」

「お父さんが嘘をついているんです」

「でも、高校の学費はお父さんから出ているね」

 靖彦から郵送された通帳のコピーは、すでに確認している。

「知りません。お母さんがお金を渡していると思います」

 やはり一筋縄ではいかない。家族間の虐待はたいてい密室で行われるため、客観的な証拠を得るのは難しい。真実を知るには、関係者の証言を突き詰めるしかない。

 ただし、オボロはすでに事実の一端をつかんでいる。靖彦から提供されたのは、通帳のコピーだけではなかった。

 昨日、オボロが名刺に記載しているアドレスに音声ファイル付きのメールが送られてきた。送り主は駒井靖彦。文面はたった一行だった。

〈お役に立てるようでしたら、使ってください〉

 事務所でファイルを再生すると、突如、スピーカーから女性の怒号が流れた。

 ――なんで認めないの!

 音声は割れていたが、駒井千鶴の声で間違いない。慌ててパソコンにイヤフォンを挿す。

 ――認めないよ。俺、やってないんだから。

 応じる男性の声は靖彦のものだ。夫婦の会話が録音されているらしい。

 ――やったことにすればいいの。百花が言ってるんだから、誰も疑わない。

 ――でも、弁護士さんは勘ぐっていたぞ。

 ――ほっとけよ。あんなの、大した弁護士じゃない。子どもに弁護士がつくなんて生意気なんだよ。

 ――正直に言ったほうがいいんじゃないか。

 靖彦が言い終わるより先に、どん、と鈍い音が鳴った。家具でも蹴ったのだろうか。

 ――だから、百花があんたがやったって言ってるんだから、あんたが認めればそれで終わりなんだよ。バカなの? 私がやりました、ごめんなさい、って言ってしおらしくしてれば、向こうも家に帰さないわけにいかないでしょ。それか、百花が帰ってこなくてもいいってこと?

 ――後でばれたら、そのほうがおおごとになる。

 ――ばれないよ。誰かが裏切らなければ。

 音声ファイルにはまだ続きがあったが、そこから先はくぐもった物音や足音しか聞こえなかった。会話は終わったらしい。

 靖彦が、録音した夫婦の会話を送ってきた意図は明らかだ。事実を知らしめて、自分に着せられた濡れ衣を晴らすため。この音声ファイルは、暴力をふるっていたのが千鶴だと明白に示している。

 だが、これを百花に聞かせることはしない。徹底的に追い詰めるより、本人の意思で事実を語らせたかった。そうでなければ母親の呪縛からは逃れられない。自分の人生を選ばせなくてはならない。

「お母さんが離婚したのは、百花さんが何歳の時?」

 わずかに考えるそぶりを見せてから「三歳」と答えた。

「別れたお父さんのことは覚えている?」

「全然」

「そうか。じゃあ十年以上、お母さんと二人で暮らしてきたんだね」

 彼女は暴力に耐えられず、避難してきた。あの家から、母の呪縛から逃れたいという意思はあるはずだ。子どもは持ち物ではない。駒井百花という人間には意思がある。

「お母さんのことは尊敬している?」

「……はい」

「どうしてかな」

「どうして、って……一人で私を育ててくれたし」

 そこから先は出なかった。育ててくれたことへの恩義はある。逆に言えば、その恩義に縛られて他の感情を持てないのかもしれない。

「ぼくは、両親のことを尊敬していない。ぼくの親は息子に盗みを働かせるような、最低の親だったからね。尊敬しろと言うほうが無理だ」

 面食らったように、百花は目を見開いた。

 オボロは少年期、家族ぐるみで空き巣を働き、逮捕された経緯を話した。緊張した面持ちで聞いていた百花は、話が終わると同時に息を吐いた。

「……よく弁護士になれましたね」

「少年院で済んだからね」

 弁護士法第七条で、〈禁錮以上の刑に処せられた者〉は弁護士となる資格を有しないと定められている。オボロの場合は少年院送致であり、それには該当しない。

「繰り返すけど、ぼくは親のことを微塵も尊敬していない。縁も切ったし、今どこでどうしているのかも知らない。生きているのか、死んでいるのかも」

「特殊ですよ、先生の親は」

 口調には反発が込められていた。彼女はすでに、オボロが伝えたいことを察している。

「確かにうちの親は特殊かもしれない。けど、例外でもない。人と人なんだから、好きであるべきだ、という決まりはない。あなたは物じゃない。感情を持った人間なら、自分の意思があって当然だ。だから電話をくれた」

「もう、いいです」

 百花の顔色は蒼白になっていた。

「帰ります。入居の希望は取り消します」

「また同じ生活に戻るだけだよ」

「別にいいです」

「ぼくはあなたの代理人だ。あなたの不利益になることは見過ごせない」

「私が決めることだろ!」

 百花の感情が弾けた。青白い顔に血走った目。その表情は、喫茶店での千鶴を思い出させた。

「落ち着いて。電話した時のことを思い出して」

「嫌だ! 帰りたい!」

 寝転がった百花は、幼児のように手足をばたつかせた。どん、どん、と床を叩く音が狭い室内に響く。先ほどまでの冷静さは消えていた。オボロは奥歯を噛む。自分の過去を話せば同調してもらえるという考えは、甘かった。

「帰りたいなら、引き止めることはできない」

 このシェルターは本人の同意が肝だ。撤回すれば、無理に入居はさせられない。

「けど、二度目の入居ができるとは限らない」

「……なんで?」

 オボロの言葉を聞いた百花はぴたりと動きを止めた。

荒れた波が凪いだ。ここだ。

 彼女には、辛くなればまたシェルターに来ればいい、という甘えがあるようだ。幼児退行もその甘えによるものだろう。だが実際、出戻りは現実的ではない。

「今回は空きがあったから入居できたけど、いつでも空いているわけじゃない。それに、来たり帰ったりを繰り返されると、ぼくらも立ち直るための計画を作れない」

 百花は完全に動きを止め、黙って仰向けに寝そべっていた。無言で何かを考えている。ここぞとばかりにオボロはテーブルに半身を乗せ、百花の顔をのぞきこんだ。

「今、この瞬間が、あなたの人生を変えるチャンスだ。正直に話してほしい。何があったのか。あなたはどうしたいのか」

 事実はわかっている。あとは百花自身が変わろうとするかどうか。通報した時から、答えは出ている。

「……そんなの、帰りたくないに決まってるじゃないですか」

 寝転んだまま、百花はオボロの顔を見た。

「だから逃げてきたの。もう殴られたくないから。殺されたくないから。私、お母さんのサンドバッグじゃない。でも、サンドバッグが逃げたら今度はお母さん、何に当たるの? お父さん? お酒? お母さんが死んだら、私のせい?」

 百花は上体を起こした。オボロは怯まず目を見返す。

「私だって、これからどうなるの? 親と離れて暮らすなんて普通じゃない。施設だって怖い。そこが駄目なら、私にはもう本当に行く所がないの。110番をかけた先すら苦しかったら、今度こそどこにも逃げられない」

 目の縁から涙が流れる。

「……どうしたいかななんて、わかんない」

 次の瞬間、顔をくしゃりと歪めて泣き出した。

 泣くのを見るのは二度目だ。出会った直後とは違い、廊下にまで聞こえるほどの嗚咽を上げている。その声音には、長年溜め込んできた恨みと後悔が溶けていた。

 焦りすぎたか、という悔いと、やっと言ってくれた、という安堵がオボロのなかで混在していた。静かに唾を飲む。

「普通じゃないのは怖いと思う。ぼくも怖かった。前歴持ちで、さんざん普通じゃないと言われた。差別もされた。ましてや前歴持ちが弁護士になるなんてまず聞かない。でも弁護士になっていなければ、普通に生きていたら、こうして百花さんと会うこともなかった」

 百花はまだ泣いている。応答も頷きもないが、彼女が話を聞いていることはわかった。

「まずは、普通じゃないことを認めよう。そこからはじめよう。それから考えていけばいい。ぼくと一緒に」

 泣き声は一層大きくなった。

 伝えたいことは言った。あとは泣きやむのを待って、彼女の思いを聞くだけだ。

母親の幻影を振り切るように、百花は泣き続けた。

 レンタル会議室には誰もいなかった。十畳ほどの部屋にはテーブルやパイプ椅子、電話機など最低限の備品があるだけで、がらんとしている。オボロは受付で渡されたキーを机上に置いて、備品の配置を変えはじめた。テーブルの各辺に三つの椅子を移す。

 さすがに喫茶店を使うのははばかられた。千鶴が前回のように取り乱す可能性は高いし、今回の話し合いはよりハードになるはずだった。密室のほうが互いに人の耳を気にせずに済む。

 午前十時前にドアは開いた。はじめに千鶴が、続いて靖彦が入室する。どちらも陰鬱な顔つきだった。正面に座った千鶴に、オボロはあえて微笑みかける。

「ご足労いただいて恐縮です」

 夫妻からの返事はない。千鶴も靖彦も、こわばった顔でテーブルを見つめている。ペットボトルの緑茶を勧めたが、手にも取らない。オボロの手にも汗が滲む。

「百花さん、ご自分の発言が嘘だったと言ってくれました」

 切り出したオボロに、千鶴が上目遣いで視線を送る。わずかに期待がこもっていた。

「嘘って、どの部分が?」

「暴力をふるっていたのは靖彦さんではなく、千鶴さんだと」

 わずかな期待は、あっけなく消え去った。千鶴の目の色が暗くなる。

「なんで……だってあの子、私は悪くないって、この人に殴られたって」

「すべて逆だと言っています。手を出したのは千鶴さんで、傍観していたのが靖彦さんだと。学費を出しているのもお父さんですね。口座を見ればわかりますよ」

 千鶴は横目で夫を睨む。靖彦は固く口を閉ざしていた。

「無理やり言わせたんでしょう。弁護士のくせに」

「そんなことはしません。聞いてください」

「知ってるんですよ、こっちは」

 オボロの声にかぶさるように、千鶴が叫んだ。

「あなた、犯罪者でしょう」

 勝ち誇ったように千鶴が言う。オボロの顔から微笑が消えた。

「十四歳の時に逮捕されて少年院まで行ってる。家族で空き巣やってたんですってね。そんな人間が、弁護士やる資格なんかあるの? あなたのほうこそ、嘘ついてないって証拠でもあるの?」

 オボロの前歴を知る手立てはいくらでもある。弁護士会では有名な話であったし、担当した案件の関係者たちも知っている。保険外交員が人脈をたどって調べることは可能だろう。事件の詳細を知りたければ、新聞や週刊誌のデータベースで検索すればいい。名前以外はだいたいわかる。

 オボロは非難が止むのを待った。浴びせられる罵声に黙って耐えた。傷つかないと言えば嘘だが、少年院退所後の経験から、とうに神経は麻痺している。

「仰りたいことはわかります」

 いったんは相手の発言を飲み込む。どんなに理不尽でも。

「罪を犯したことも、少年院に送致されたことも事実です。そういう人間が弁護士をやることへの違和感もあるでしょう。ですが、こちらが嘘をついている根拠にはならない。千鶴さんの信条と、ぼくの発言の真偽は別問題です」

 しぶとく、淡々と事実を説く。これ以外の方法はない。親の意識はそう簡単に変わらない。

「百花さんは家に戻らず、 児童養護施設に移ることを希望しています」

「許せません」

「許す、許さないではありません。これは百花さんの……」

「うるさい!」

 テーブルを拳で叩いた千鶴は、鼻の頭に皺を寄せてオボロを睨む。

「あの子は未成年です。未熟なんです。親が判断するべきです」

「その未熟な思考につけいって支配したのは、千鶴さんではないですか」

「だからぁ!」

 再びテーブルが殴られる。

「支配じゃないんですよ。指導! あの子が正しく育つための!」

「正しく育つ、とは何でしょう」

返答に詰まった千鶴は、「はい?」と返すのが精一杯だった。

「子どもを殴る親自身は、正しく育っているのですか」

「そんなの屁理屈ですよ」

「なら、反対意見を屁理屈と一蹴する人は、正しく育っているのですか」

「黙れ!」

 三度テーブルを叩いた妻に、「やめてくれ」と言ったのは靖彦だった。ささやくような声だったが、その言葉はひどく大きく響いた。

「百花が嘘をついたのは千鶴のためだろう」

「でもあの子、やっぱり違うって」

「そういうことなんだよ。決めたんだよ、俺たちから離れるって」

 靖彦の声は裏返っていた。誰もが必死だ。

 千鶴はまだ何か言おうとしていた。しかし口を開いても言葉は出ず、先に涙が溢れ出た。見開かれたままの瞳から滴が落ち、テーブルを濡らした。歯を食いしばり、笛のようにひゅうひゅうと音を立てて息をする。

「……どうしろって言うんですか。放っておけってことですか」

「暴力がなくとも子育てはできます」

「わかったようなこと言わないで」

 もうテーブルは殴らない。ただ、矢のような視線がオボロを射ている。

「小さい頃の写真、一枚もないんです。撮る余裕がなかったから。生きるのに、育てるのに死に物狂いだったから」

 鼻水をすすりあげ、ハンカチで口元を押さえる。

「保険の仕事やって、保育園に呼ばれたら迎えに行って、ぐずるあの子の服を替えて、ご飯を食べさせて、寝かしつけて。終わったと思ったら客先から電話が入って。会社に電話して、見積もりを出し終えたら子どもが泣き出して。気づいたら自分は食事を抜いていて。休みの日も子どもの相手をするのは私しかいなくて」

 語りだした千鶴は止まらない。

「あなた、小さい子どもを育てたことがありますか。一人では何にもできない、そのくせ自分勝手に動き回る。傍から見ているだけなら可愛らしいで済むけど、保護者は必死なんです。子どもが生きて遊んでいるのは、当たり前なんかじゃない。見えない場所で、誰かが死にたいくらいのストレスを抱えながら戦っているから、だから、子どもは生きていくことができるんです」

 オボロは沈黙した。子どもの権利を守るために活動してきた弁護士であっても、わかります、とは容易に言えない。

「子どもは二十四時間、三百六十五日、生きているんです。信じられますか。それは、親も常に親であるよう求められるってことなんですよ。一秒も休みなく。子どもはロボットみたいにスイッチを切れない。あの子の心臓が動いている限り、私も親であり続けないといけないんです」

「百花さんと暮らしたいという意思は変わりませんか」

「もちろん。私の子ですよ」

 そう即答してから、千鶴は付け加える。

「……でも、だからって、無条件にいつでも愛せるわけじゃない。そんなの、ちょっと考えたらわかるでしょう。夫婦だってきょうだいだって、四六時中仲良くはできない。それなのに親子だけが絶対の絆みたいに言われると、虫唾が走るんです」

 いつ頃から、千鶴が娘のことを持ち物だと思いはじめたのかはわからない。おそらくは目に見えないほどゆっくりと、千鶴の心は蝕まれていった。彼女は子どもを所有物だと思い込むことでかろうじて自我を保った。防衛本能だった。そして娘に暴言を吐き、手を出すようになった。食器を投げるように。

「返してください。百花を返して」

 千鶴の語りはいつしか嗚咽に変わっていた。ハンカチを濡らす妻を、靖彦は憐れみのこもった目で見ている。

「お父さんの意見はどうですか」

 問いかけに、靖彦は首を横に振った。

「百花の意思を尊重してください」

 疲れきった表情で手を伸ばし、妻の目の前に手を置いた。

「千鶴」

 名を呼ばれた女はハンカチを顔に押し当て、号泣している。靖彦の右手は誰の手をつかむこともなく、テーブルの上に投げ出されている。差し伸べられた手に気づかないまま、彼女は泣き続けていた。

 シェルターの玄関口で待っていたオボロのもとに、足音が近づいてくる。

「お待たせしました」

 駒井百花はリュックサックを背負い、紙袋を提げていた。首元の空いたカットソーを着ている。首の絞め痕はかすかに残っているが、遠目にはわからなくなった。

 シェルター入居から七週間が経った。施設の受け入れ準備が整ったため、今日、期限の二か月より早く移る。シェルターのスタッフたちへの挨拶は済んだ。里田や杉本にも電話で感謝を伝えた。高校への通学はすでに再開している。今後の学費も靖彦が出すことになっていた。

あとはここを出るだけだ。

「行こうか」

 オボロの後ろを、スニーカーを履いた百花がついてくる。施設まではオボロが同行することになっている。大通りまで並んで歩き、タクシーを停めて二人で後部座席に乗った。電話をかけてきた日のことを思い出す。手の甲の火傷はまだ消えていない。

「もう、一年くらいあそこにいた気がする」

 百花がつぶやいた。いつからか、敬語は使わなくなっている。二か月分伸びた髪の毛が揺れた。

「恋しいのか」

「ちょっとね。でも、ずっといる場所じゃないかな」

 そう。あそこは子どもたちの避難所だ。避難することが日常になってはいけない。

「本当、今考えると不思議なんだけど。自分で逃げたくせに、お母さんのことは売っちゃいけないと思っていた。お母さんが好きだったとか、そういうことじゃないんだけど。ただ、母親に殴られたってどうしても言えなくて。お父さんのこと犯人にしてまで、あの人をかばった理由が自分でもわからない」

 やはり頭のいい子だと思う。自分の心象をそこまで言葉にできる子どもはそういない。

「呪文が解けたんだな」

「呪文?」

「自分を縛る呪文だよ」

 かつて言われるがまま窃盗をしていたオボロと、暴力に耐え続けていた百花は、根の部分で同じだ。家族だから協力しないといけない。家族だから耐えないといけない。自分でかけた呪文は、自分にしか解けない。

「わからないけど、解けたならそれでいいや」

 タクシーはターミナル駅に到着した。電車に乗り、施設の最寄り駅を目指す。オボロと百花は隣り合わせで座席についた。

「また、先生に連絡してもいい?」

「うん。ぼくはコタンだから」

「それ前から気になってたんだけど。コタンって何?」

「子ども担当弁護士のこと」

「ああ、なるほど……じゃあ大人になったら、担当じゃなくなるの」

 百花はいたずらっぽく笑ったが、その目の奥にある不安がオボロには垣間見えた。

「……いや。元子どもも含む」

「それ、全員じゃん」

 百花の大声に乗客たちが振り向いたが、電車が目的の駅に到着するまで、彼女は延々と笑い続けていた。

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