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第5回

少年だったぼくへ

(おぼろ)太一さんですね」

 警察からの電話を受けた時、オボロは法律事務所にいた。正午過ぎ、自分のデスクで作業をしながら、ランチは何を食べようかと考えているところだった。隣の席の原田は持参した弁当を食べている。

「そうですが」

 手のひらが汗ばむのを感じる。今まで、警察からの連絡が吉報であった試しなどまずない。相手の男はたっぷりと間を取ってから告げた。

「えー、広本(ひろもと)和世(かずよ)さん、ご存じですよね。先日ですね、ご自宅で亡くなっているのが発見されました」

 その名前を聞いたのは本当に久しぶりだった。急速に口のなかが乾いていく。身震いしそうなほど腹の底が冷える。原田の視線を感じたが、取り繕う余裕はなかった。

「広本さんの息子さんですよね」

 答えられない。認めたくないが、否定もできない。

「ご遺体の引き取りをお願いしたいのですが」

「拒否します」

 とっさに口から言葉が出た。考えるより先に、身体が反応していた。

「あのね、オボロさん……」

「お手数おかけしますが、よろしくお願いします」

 言い放ち、強引に通話を切る。

 ほんの一、二分の通話だが、首筋には汗が(にじ)んでいた。動揺を鎮めるため、深く呼吸する。心臓が高鳴っていた。

 ――死んだ。あの人が。

 最後に顔を見たのは、オボロが逮捕されたあの日。あれからもう二十数年経っている。母親の顔は思い出せない。それなのに、自分に向けられた視線の冷たさだけは記憶に残っている。

「どうかしました」

 原田が箸を置いて問いかける。尋常な気配ではないことに気付いたのだろう。

「……何でもない。プライベートの電話でね」

 オボロはかろうじてそう答え、席を立った。これ以上誰にも追及されたくない。うまく取り繕える自信がない。

 法律事務所の入っている雑居ビルを出て、あてもなく路地を歩く。もはやランチどころではなかった。空腹も感じない。それより、このささくれ立った感情を平静に戻すのが先決だった。

 初秋の街をでたらめに進む。先週まで夏の名残りがあったが、急に風が冷たくなった。路地から大通りに入り、昼食時の雑踏を行く。

 頭のなかを無にしようとするが、うまくいかない。どうしても母親の死が頭をよぎる。

 取り急ぎ、三か月以内に相続放棄の手続きを取らなければならない。財産調査など要らない。どうせ相続するのは借金くらいしかないだろうし、たとえまとまった額の金銭があったとしても、あの女が遺したものなど一円たりとも受け取りたくない。

 向かいからの通行人を()けた拍子に、レストランの窓に映った自分の姿が視界に入る。背中を丸め、スラックスのポケットに両手を突っこんでいた。昔から、気を抜くとこうやって歩く癖がある。弁護士になってからは背筋を伸ばし、両手をポケットから出すようにしていたが、気付けばあの歩き方になっていた。

 歩き方だけは少年の頃と同じだが、顔は老けた。白髪が増え、頬がたるんでいる。

 今年、オボロは四十になった。

 少年院に入っていた時は、自分が不惑の年齢になるなんて想像できなかった。未熟で不自由な立場が、これからもずっと続くのだと思っていた。

 沼の底から浮上する泡のように、断片的な記憶が徐々に蘇ってくる。十四歳で、入院直後に入れられた単独室。坊主頭を枕に乗せる感触。静まり返った院内に響く足音。一日先のことすら見えなかった。とにかく言われるがまま、流されるままに過ごした。

 早く捕まってくれ、と願いながら盗みを働いていたオボロにとって、少年院に入るのは望みと言ってもよかった。ただ、両親と切り離されたことへの寂しさはあった。

 規則正しい生活を送るのも大変だった。

 一日三回、決まった時間に食事をとる。入浴では顔を洗う。夜になったら眠る。そういう〈当たり前〉とされる事柄の一つひとつを、おっかなびっくりこなした。

 一週間ほどが経ち、集団寮に移ってからは他の少年たちと同室で過ごした。私語や喧嘩など、規律違反を平然と犯す同室の少年たちを横目に見ながら、オボロは自分の異質さを痛いほど感じていた。

 オボロは法務教官からの指示を確実に守った。それがルールであり、わざわざ破る理由はないからだ。他の少年たちの目には、その態度が真面目で優等生的に映るようだった。からかわれたり、陰で小突かれたりすることはあったが、さして気にならなかった。父母からの罵倒や暴力に比べれば、耐えられないことはない。

 そんなことより、将来への不安のほうがはるかに大きかった。出院してから、どこへ行けばいいのか。働き口は見つかるのか。四十歳はおろか、数年後の未来すら思い描くことができなかった。

 懐でスマートフォンが震えた。また警察か、と思いながらディスプレイを確認すると、事務所からの電話だった。

「もしもし。オボロ先生、大丈夫ですか」

 原田の声が耳に流れ込んでくる。

「さっきはごめん。急に事務所出て」

「いえ。それより、依頼の連絡があったんですが。戻れますか」

「十分で戻る」

 オボロは(きびす)を返し、元来た道を足早に歩きだした。心を乱されている場合ではない。今は目の前にいる少年たちと向き合うのが最優先だ。過去に浸るのは、一人になってからでいい。



 面会室に現れたのは、十歳の少年だった。耳が隠れる程度に長い黒髪。身長は一五〇センチに届かないくらいか。平均と比べればやや長身だ。皺一つない頬には、擦り傷の跡が残っていた。

 氏名は中野雄斗(ゆうと)。支給のジャージを着た雄斗は、目を合わせずに向かいの椅子に腰かけた。顔つきは彫像のように硬い。

「初めまして。オボロといいます」

 反応はないが、微笑を浮かべたオボロは構わず話を続ける。自分が付添人であること、味方であり権利を守る立場であること、話した内容は無断で他人には明かさないこと。説明している間、雄斗は黙りこくったまま居心地悪そうに指先を揉んでいた。

「ここがどこか、わかりますか」

 初めて雄斗が視線を上げたが、すぐにまたうつむく。

「……よくわかりません」

 か細い声が面会室の空気に溶ける。返答はあった。一歩前進だ。

「ここは、少年鑑別所といいます。今、雄斗さんは少年審判を待っている状況です。言い換えると、これからあなたに対してどういう環境を用意するのがいいかを皆で考えているところです」

 オボロは言葉を選びながら、雄斗に語りかける。事実を単純化しすぎず、かつ、十歳の子どもにもわかるように説明するのは容易ではない。そして、相手を子どもだと侮ってはいけない。軽視する感情は、必ず相手にも伝わってしまう。

「どうして鑑別所にいるか、わかりますか」

 雄斗は黙って指を組んだりほぐしたりしていたが、やがてぽつりと言った。

「父と母が逮捕されたから」

 その認識は正しくない。だがそれよりも、オボロには言葉遣いが気になった。両親を父、母と呼ぶのは、普段から言い慣れていないと難しい。

「それも根っこの原因としてはあります。でも、鑑別所にいる理由は違う。ここに来る前の一時保護所で、雄斗さんは同室の男の子を叩いたり、蹴ったりしましたか?」

「だって、あいつが変なこと言うから」

 猛然と顔を上げた雄斗が、一気にまくしたてる。暴力をふるった点は事実だと認めたも同然だった。

「ぼくが雑誌盗んだとか、靴盗んだとか、嘘ばっかり言うから。親が盗んだんだからお前も盗むだろうって。嘘つくのやめろって言ったけど、やめないから」

 オボロは相槌を打ちながら、手帳にメモを取る。

 いつもなら、先入観を持たないよう事件記録には目を通さない。だが今回は事情が込み入っている。この少年が一時保護所にいた理由も、鑑別所に送られた経緯もすでに頭に入っていた。

 雄斗の両親は、従業員四十名ほどの電装部品組み立て工場を経営していた。創業者の夫が代表、妻が経理担当を務めていたという。元は大手メーカー社員だった夫の営業力が物を言い、経営状況は創業間もなく安定した。従業員の雇用も進み、その地域でも急速に存在感を増していた。

 中野夫妻が業務上横領の容疑で逮捕されたのは、三か月前。夫が指示し妻が実行する形で、会社の金を不正に使いこんでいたという。その額は三年間で四二〇〇万円に上ると見られていた。用途は住宅ローンの頭金、家族での外食や遊興、そして雄斗が通う学習塾の費用だったという。

 両親が逮捕されたことで、一人息子の雄斗は行き場を失った。預かり手となる親族は見つからず、児童相談所の判断で一時保護所に入った。

 集団生活を送るなかで、雄斗は同室の子どもに手を上げてしまった。結果、相手の男児は脳震盪(のうしんとう)を起こして倒れた。救急車が呼ばれ、男児は病院へ搬送された。幸いすぐに意識を取り戻し後遺症もないが、雄斗が暴力をふるった事実は明るみに出た。じゃれ合いと言い張れる域は超えている。

「その子は、雄斗さんの両親のことを知っていたの」

「噂で流れてた。たぶん、職員の人とかが話してるのを聞いたんだと思います」

 本人が話さない限り、通常、一時保護所で子どもが互いの事情を知る機会はない。だが、保護所もそう広くはない。職員の会話を耳にしてしまうことがないとは言えなかった。

「雄斗さんは嫌だと言ったけど、その子は悪口を言うのをやめてくれなかった」

「そう。だから、やめろよ、って感じで肩押したら、向こうも押し返してきて。ふざけんな、ってもう一回押したら転んで、本棚で頭打ったみたいです」

「なるほど。わざと本棚にぶつけたわけじゃないんだね」

「はい。頭狙って突き飛ばすとか、そんなの無理ですから」

 声はか細いが、雄斗は自分の言葉で話している。オボロが確認してきた経緯とも概ね相違なかった。事件そのものに悪意は見られないが、問題は、雄斗が抱えている背景のほうだ。オボロはどう環境調整をするべきか、図りかねていた。

「あの、父と母はどうなるんですか」

 会話の切れ間に、雄斗が質問を発した。両親の処遇が気になるのは当然だが、現時点でオボロに答えられることはない。

「裁判の結果次第だよ」

「その裁判はどうなりそうかとか、わからないんですか」

 食い下がった雄斗に、オボロは「そうだねえ」とつぶやく。付添人の立場として、予断を与えたくはなかった。裁判はまだ第一回公判期日すら迎えておらず、どう転ぶかも読めない。だが、懇願するような目を見ていると、無碍にはできない。

 雄斗の両親はすでに横領の事実を認めているため、有罪は免れないだろう。問題は量刑や執行猶予がどうなるかだ。

「あくまでぼくの考えだけど、お父さんとお母さんは、業務上横領という罪に問われる可能性がある。もし有罪判決が出たら、十年以下の懲役に問われることになる。ただ、横領したお金を返済する意思があれば、期間が減ったり、刑の執行を待ってもらえたりする。どういう対応をするかは、ぼくにもわからない」

 オボロには、そう説明するのが精一杯だった。雄斗は頷きつつも、まだ納得しきれない様子で指先を弄んでいる。

「気になることがある?」

 雄斗は左右に目を泳がせていたが、やがて消え入りそうな声で言った。

「父と母は、なんで会社のお金を盗んだんですか」

 返答に詰まる。それこそオボロでは答えられない問いだ。

 だがその質問にこそ、雄斗の本心が込められているような気がした。

 この少年は知りたいと思っているのだ。なぜ、父と母が愚かな行為に手を染めてしまったのか、親子三人の家庭が崩壊してしまったのか。どうして自分がこんな場所にいるのか。

 オボロは微笑を浮かべるのも忘れて、奥歯を噛みしめた。

 両親の身勝手で傷つくのは、いつも子どものほうだ。これまで幾度となく見てきた光景と同じだ。雄斗の父母は、虐待やネグレクトをしていたわけではない。だが、子どもを傷つけ、安らげる家庭を奪ったという意味では同じことだ。

 雄斗は、裏切られた理由を知りたい。それだけだ。

「知りたいよな」

 思わず、オボロはつぶやいていた。脳裏には、顔を忘れた両親の輪郭だけが浮かんでいる。暗い部屋。淀んだ空気。酒と煙草(たばこ)の臭い。束の間、オボロは少年時代を過ごしたアパートへと戻っていた。

「親がどうしてそんなことしたのか、知りたいよな」

 不用意に語るべきではないと思ったが、歯止めが利かなかった。

「罪だとわかっているくせに、なんで止めないのか。わかるよ。捕まったら不幸になるのは親だけじゃない。それなのに……子どもはどうでもいいのか? だったら最初から産むなよ、と思う。産んだなら幸せにしてくれよ。それが親の仕事じゃないのかよ」

 四十を過ぎた男の口から、子どもじみた泣き言がこぼれ出る。涙はかろうじて(こら)えた。雄斗は困ったような顔をしている。

――落ち着け。

 声が嗚咽(おえつ)に変わる寸前で踏みとどまり、深く呼吸をする。

 オボロは目の前の少年に感情移入しすぎてしまうことが、たまにある。スイッチが入るのは決まって記憶と現実が重なった時だ。生まれてから最も惨めだった、あの少年時代。その光景が蘇るたび、心のどこかが少年に還る。

 呼吸を整えたオボロは、再び微笑を浮かべた。

「ごめん。突然語りだしたからびっくりしたよね」

 ぎこちなく頷く雄斗を見て、オボロは内心で反省した。失敗だ。初対面で不安定な一面を見せてしまった。これでは、信頼できる大人には程遠い。

 多難な前途を思い天井を仰ぐ。灰色の天井は思いのほか低く、近かった。

 母のことを思い出すのは、いつも唐突だ。仕事をしている間は忘れることができる。だが、日常のなかのふとした瞬間、脳裏をよぎる。いったん思い出してしまうと、簡単には離れてくれない。

 その瞬間が訪れたのは、夜八時、事務所から自宅への道を歩いている最中だった。

 ――今頃、どうなっているだろう。

 警察から電話があったのは五日前。おそらく父も引き取りを拒否しただろう。もっとも、父が存命かどうかすら知らない。知りたくもない。

 引き取り手のいない遺体は、火葬され、無縁納骨堂に安置される。行政に手間をかけさせるのは心苦しいが、だからといって遺骨は引き取れない。母の骨と一緒に暮らしていたらどうかしてしまいそうだ。大袈裟ではなく、オボロはそう思う。

 家事と育児を放棄し、子どもに空き巣をさせ、自身はのうのうと暮らしていた母。夜ごと家を空けていた母がどこへ行っていたのか、オボロは薄々気付いている。夜明け前に帰宅した母の息は酒臭く、男物の香水の匂いにまみれていた。ゴミ袋を蹴り飛ばし、敷きっぱなしの布団に突っ伏して眠る。

 朝になり、そういう母の姿を見るたび絶望に包まれた。正気を保つため、繰り返し自分に言い聞かせた。ぼくはこの人から生まれた。この人が産むと決めなければ、ぼくはこの世に存在していなかった。だから、感謝しなければならないんだ。母親と一緒に暮らせるのは幸運なことなんだ。

 学校へ行き、帰宅すると、母はよく金を数えていた。それで増えるわけでもないのに、紙幣と硬貨をテーブルに並べて、一生懸命数える。そしてため息を()く。

 ――もう、これだけか。

 母がつぶやく。浪費するせいだ、とは言わなかった。

 ――またやらないといけないねえ。

 オボロに聞かせるように、大きな声で独言する。何のことかは決まりきっている。

 数日経つと、父の運転する車で夜の街へと連れていかれる。母が下調べをした家に忍び込み、金品を持ってくるよう指示される。毎回嫌だった。喜んで空き巣を働いたことは、一度もなかった。だが車内で躊躇(ちゅうちょ)していると、助手席の母が冷たい声で言う。

 ――早く行けよ。捨てるよ。

 ぼくは重い足を引きずって留守宅に侵入する。いつ捕まるかわからない恐怖に怯えながら、必死で金目のものを探す。一番いいのは銀行通帳や印鑑、キャッシュカード、身分証明書の類。だが初めて入る家で貴重品を探し当てるのは至難の業だ。めぼしい金品が見つからない時は、衣類やノートパソコンなど、売れば多少の金になるものを持ち出す。

 どんなに空腹でも、食品をくすねることはしなかった。盗めば、オボロが自身の意思で窃盗を働いたことになる。指示されたもの以外は盗まない。それが、せめてもの抵抗だった。

 首尾よく金品を持ち帰れば、よくやった、と褒められた。母がオボロに笑顔を見せるのはその時だけだ。

 親であることの責任を取れない人だった。最低の母だった。広本和世という名前を聞いただけで、不快感が全身を走る。姓が変わったのは離婚したせいだろうか。逮捕後のことは知らない。期待していたわけではないが、少年院から出た後、母や父から連絡が来たことは一度もない。弁護士になってからも、両親が強請(ゆす)りのために接近してくるのではないかと恐れていたが、杞憂に終わった。

 父は(おぼろ)という姓の通り、存在感の薄い人だった。

 くだらない窃盗を犯し、パチンコに溺れ、時たま酔っては息子を殴る、こちらも最低の父だった。だが、なぜか母ほどの憎しみは感じない。同情や愛情ではなく、ただひたすら、どうでもいいのだ。そしてオボロはいまだにその父親の姓を名乗っている。

 両親のことを思い出すと、幕が引かれたように胸の内が暗くなる。弁護士であることも、とっくに独り立ちしていることも忘れて、少年だった頃に戻る。

 いつしか、オボロは路傍に立ち止まっていた。

 二度と歩けないのではないかと思うほど、足が重い。呼吸がうまくできない。少年院を出てからの二十数年で培ったものが、一瞬で崩れ去る。オボロを人の形につなぎとめていたものが蒸発し、砂のように散っていく。

 視界が狭い。目の前が暗い。沼の底へ堕ちていく感覚があった。

「あれ、オボロさん」

 女性の声がした。途端、オボロは覚醒する。沈みかけた意識が引き揚げられる。

 開けた視野の真ん中には、笹木実帆が立っていた。彼女は街灯の下、心配そうにオボロの顔をのぞきこんでいる。長い髪のシルエットが地面に落ちていた。

「どうかしたの、ぼうっとして」

 意識は醒めたが、思考が追い付かない。どうして彼女がここにいるのか。呆然としているオボロの姿に、笹木が慌てる。

「今日、家行くって言ってたよね」

 オボロはかろうじて「ああ」と応じた。つい一昨日、交わした約束だった。

 笹木と並んで家まで歩く。彼女が右手に提げたビニール袋が、がさがさと音を立てる。

「その袋は?」

「グリーンカレー。オボロさん、エスニック好きでしょう」

 スパイスの香りが鼻腔を刺激し、崩れかけていたオボロが人の形を取り戻していく。この世に自分を気遣ってくれる人がいる。その事実が、オボロを暗い沼の底から引きずり出してくれた。

 笹木実帆と出会ってからもうすぐ三年が経つ。

 はじめは、弁護士として彼女と接していた。笹木が自宅に住まわせていた少女たちは、オボロが仲介して全員家に帰した。家出した少女を説得し、同時に家族との関係を修復するのは簡単なことではない。最後の少女が巣立つまで、一年余りかかった。

 その間、オボロと笹木の間には信頼関係ができていた。次第に仕事以外のことも連絡しあうようになった。オボロは少年院にいた過去も両親のこともすべて話したが、彼女の態度はそれまでと変わらなかった。

 打ち合わせ、と称して居酒屋やレストランで食事をすることが増えた。住まわせていた少女たちがいなくなった後、笹木は食事の帰り道でオボロにささやいた。

 ――うち、来てみますか。

 笹木との交際がはじまって二年になる。一緒に暮らしてはいないが、こうして互いの家を行き来するのはしょっちゅうだった。

 合鍵を使って、笹木はさっさとオボロの自宅に入っていく。

「お(なか)()いたから、先にご飯でいいよね」

 笹木は慣れた手つきで、ローテーブルにカレーやスプーンを並べる。まるで、先刻のオボロの異変など目にしていないかのように。それがありがたかった。四十を過ぎた二人は、互いの領域へ不用意に踏みこむことはしない。

 雑談混じりにカレーを食べる。こういう時は、オボロも仕事を忘れることができた。

「ひなたちゃん、元気かな」

 勤め先のサロンでの愚痴をひとしきり話した後、笹木がぽつりと言った。

 笹木と出会うきっかけとなった少女――大川ひなたは、今も母、姉と暮らしている。父親の支配に耐えかねた彼女たちは、母方の実家に住所を移した。父親からは家に戻ってくるよう懇願されているそうだが、三人とも取り合っていない。

「もうすぐ大学受験で忙しいらしいよ」

「連絡取ってるんだ?」

「お母さんとね」

 ひなたの母は近いうちに離婚する予定で、オボロは離婚調停の代理人も依頼されていた。専門外だが、これも経験と割り切って引き受けている。

「髪、伸びてきたね」

 笹木が付け合わせのサラダを頬張りながら言う。

「そうかな。まだ一か月経ってないけど」

「切っときなよ。放っといたら、二か月でも三か月でも放置してるんだし。男は髪、ヒゲ、肌。この三つさえ押さえとけば清潔感出るから。あと体形。人と会う仕事してるんだから、もうちょっと気遣ったほうがいいよ」

「……精進します」

 笹木との交際がはじまってから、以前よりは身だしなみを整えている。ヒゲは毎日剃るようになったし、髪も毎月切っている。化粧水も使うようになった。すべては笹木からのアドバイスだ。

 見た目なんて、最低限の条件さえ満たしていればいいと思っていた。だがオボロにとっての〈最低限〉は、笹木の目にはそれ以下と映ったらしい。

「まずは自分を大事にして。ただでさえ忙しいんだから」

 笹木の言葉には思いやりがあった。それが、無作為に向けられるものではないことをオボロは理解している。この人なら真剣に受け止めてくれる。一人で抱え込んできたものを、見せることができる。

 カレーを食べ終えたオボロは、笹木がスプーンを置くのを待ってから切り出した。

「ちょっといいかな」

「どうぞ」

「母親が、死んだ」

 笹木は沈黙の後で「そうなんだ」と言った。

「少し前に、警察から電話がかかってきて。母親が亡くなったから、遺体を引き取ってくれないかって。断ったんだよ。何も言われたくなかったから、すぐに電話は切った。それだけ。それだけなのに、どうしても消えないんだよ。違和感が」

 まとまらない感情が口から溢れ出る。笹木はオボロの顔を見たまま、じっと聞いていた。

「母親のことは今でも憎い。死んでくれてせいせいしたとすら思う。でも心のどこかでは、ぼくはそんな非情な人間じゃない、とも思っている。死んだ母親の引き取りを拒否して平気でいられるほど、冷血なやつじゃないと信じている。もう一度警察から電話がかかってきたら、断れないかもしれない。嫌なんだよ。嫌だけど、でも、最後の最後くらいは息子として引き受けるべきじゃないかって」

 目の前にいる女性にだけは、胸のうちを理解してほしい。その一心で懸命に言葉を紡ぎ出す。助けてほしいとまでは思わない。ただ、同じ風景を見てほしい。

 ひとしきり語り終えた後には、濃密な沈黙が残った。窓の外ではクラクションが響き、植木がさざめいていた。

 視線を合わせたまま、笹木は「オボロさん」と呼んだ。

「私、初めて家出したのが十四の時だった」

 以前にもその話は聞いていた。ネグレクト家庭で育ち、父親からは性的虐待を受けていた笹木は、中学二年生から家出を繰り返すようになった。だが十代の女子が寝泊まりできる場所はそうそう見つからず、長続きはしなかった。

「家出はいつも失敗した。けど、あの時家出したことは絶対に間違っていなかった。逃げる決断をした十四歳の私は、正しかった。私が抵抗しない限り、助けを求めない限り、誰も助けてなんてくれないから」

 笹木は「手を出して」と言う。言われるがまま、オボロが両手をテーブルに乗せると、彼女はその手をしっかり包み込んだ。

「親を嫌いでも、許せなくても、いいの。嫌なら遺骨なんて受け取らなくていい。私たち、もうあの時の親と同じ世代だよ。同じ大人としてどう思う? 私は軽蔑する。父親も、母親も。だからこれから先も許さない。それでいいの」

 笹木の目には、肉親への憤りと、オボロへの憐れみが同居していた。手のひらから熱が伝わってくる。この人は本気で怒っている。自分のために。

 ――受け入れられた。

 オボロはもう泣くのを堪えなかった。最初の一滴が(こぼ)れたら、もう止めようがない。

「ありがとう」

 頬を濡らしたまま、嗚咽混じりに感謝の言葉を繰り返す。赤い目をした笹木は、言葉を噛みしめるように何度も頷いた。

 路上のクラクションは遠ざかり、部屋には二人の吐息だけが満ちていた。


 オボロは腕組みをして、デスク上のスマートフォンを睨んでいた。かれこれ五分ほどその姿勢でじっとしている。見かねた原田が「先生」と声をかける。

「何待ってるんですか」

「例の弁護人から電話がかかってくる」

「ああ。あの、横領したお父さんの弁護人?」

 こくりと頷き、視線をスマートフォンに戻す。メールで、午後五時頃に先方から電話をかけるという約束をしていた。間もなく五時になる。

――父と母は、なんで会社のお金を盗んだんですか。

 雄斗の疑問に答えるには、本人に話を聞くしかない。中野夫妻による横領は夫が指示役、妻が実行役という分担で行われていた。そのため、雄斗の疑問をぶつける相手としてふさわしいのは主犯の夫だとオボロは考えた。

 雄斗の父である中野慎太郎(しんたろう)は拘置所に収容されている。拘置所での面会は、第三者であっても本人さえ了承すれば可能だ。とは言え、その本人の了承を確実に引き出すには、弁護人の協力を得ておきたい。

 そう考えたオボロは、慎太郎の弁護人に連絡を取った。電子メールのやり取りでとにかく一度話そうということになり、今日を迎えた。

 硬い表情で着信を待つオボロに、原田は「緊張してます?」と問う。

「……してる」

 オボロが普段よく接するのは、少年とその家族、それに家裁調査官や児相の職員だ。他の弁護士と連携することはあっても、交渉する機会などそうそうない。相手がどう出るかは読めない。最悪、拒否される可能性もある。横領の動機は公判でも重視されるはずであり、部外者であるオボロに簡単に教えてくれるとは思えない。

 五時二分、ディスプレイが切り替わった。電子音と振動が着信を知らせる。オボロはすかさず手に取り、「もしもし」と呼びかけた。

「ああ、オボロ先生ですか。弁護士の黒田といいます」

 年配の男性と思しき声音だった。互いに名乗り合い、経緯を簡単に振り返ってから本題を切り出す。

「それで、拘置所面会の件なんですが。いかがでしょう」

「会うのは結構ですが……本人が同意しないかもしれませんよ。精神的に結構参っていますから」

 黒田いわく、中野慎太郎は逮捕以降、精神のバランスを欠いている。突然怒りだしたり、泣き言を延々と述べたりする癖が見られるという。

「できればそっとしておいてほしい。そもそも、どれほどの必要性がありますかね」

「少年を納得させるには必要です」

「そこがわからないんですよね。どんな理由であれ、ご両親がやったことは変わらない。動機を知れば、本人の納得感は上がるんですか」

「ええ。ぼくにはわかります」

 黒田は沈黙した。戸惑いの色を感じる。

「ぼくにも、親に裏切られた経験があります」

 オボロは進んで、空き巣に手を染めた過去を晒した。初めて話す相手だが躊躇はない。たとえ偏見の目で見られようが、それで雄斗の望みが叶うなら安いものだ。

「実の両親がどうして犯罪を指示したのか、今もその理由がわからずに引きずり続けているんです。中野さんのご子息には、そうなってほしくない」

 オボロの熱弁を、黒田はほとんど相槌も打たずに聞いていた。

「根本的な原因はご両親の横領にあります。そこを通らないことには、立ち直れません」

「……そうかあ。うーん」

 低い唸り声が耳朶(じだ)を打つ。黒田の心を動かしているのは間違いない。

「彼は十歳です。たった十歳で、親の犯罪という重荷を背負って生きていくんです。代理人として言いますが、実の息子には動機を尋ねる権利があると思いませんか」

 ダメ押しのひと言だった。しばらくして、ふう、という嘆息が聞こえてくる。

「わかりました。近く面会に行くので、中野さんには面会を受けるよう助言しておきます。最終的な判断は本人がしますが」

「ありがとうございます」

 空いているほうの手を握りしめる。

「しかし、あなたみたいな弁護士は会ったことがないな」

 黒田は感嘆とも呆れともつかない声音で言った。

「前歴のある弁護士、という意味ですか」

「違います。なんというか、ここまで剥き出しの本音でぶつかってくる人は少ないですよ」

 必ずしも、褒められているわけではないだろう。交渉事には建前や手練手管も重要だ。真正面から本音をぶつけても、突破できない壁はある。それでも、オボロは本音を突き通した。それしかできなかった、というほうが正しいかもしれないが。

 通話を終えたオボロは、隣で聞き耳を立てていた原田に「何とかなった」と伝える。原田はくるりと身体ごと振り向いた。

「よかったです。でも、珍しいですね」

「何が?」

「その、いきなり前歴について話されていたので」

 原田にとっても意外だったらしい。

 たしかに、これまで前歴は切り札として使ってきた。少年との関係構築が難航した時、共感を示してもらうために話すことが多かった。その他の場面で前歴に触れるのは、相手の偏見を助長するだけだと思っていた。

 黒田に対して気負いなく話すことができたのは、笹木が、受け入れてくれる存在がいるとわかったからだ。この人だけは自分を信じてくれる。そういう相手がたった一人いれば、本音を披露するのが怖くなくなる。

「大丈夫。ぼくはもう、平気だから」

 答えになっていない気もしたが、原田は納得したように「それならいいです」と言った。

「あと先生、そろそろ外出じゃなかったでしたっけ」

「あ、本当だ。もう出ます」

 オボロは鞄をつかんで立ち上がった。事務所のある雑居ビルから、秋空の下へ出る。涼しい風を浴びながら大通りに出て、タクシーを停める。

 目指す先は子どもシェルターだった。親の虐待から逃げてきた少年と面談するためである。他の案件の書類に目を通しているうち、タクシーは目的地に到着した。通い慣れた三階建てマンションは目と鼻の先である。

 面会室で少年との面談を終えたオボロは、廊下で懐かしい少女を見かけた。

百花(ももか)さん」

 前を歩いていた駒井百花は、振り向くなり明るい表情を見せた。首にあった痛々しい絞め痕は、すっかり消えている。

「先生。お疲れ様です」

 百花は定期的に、シェルターでスタッフ補助のボランティアをしている。そのためオボロとは時おり顔を合わせていた。

 かつて、百花は母親の虐待から逃げてシェルターに入居していた。その後、養護施設に移った百花は無事に高校を卒業し、介護職員として働いている。介護福祉士の資格取得を目指して勉強中だということも、以前聞いていた。

「今日は面談ですか」

「うん。もう出るけど」

「忙しいんですね。母からは最近連絡ないですか」

 百花が施設に移ってからも、オボロの下には百花の母からたびたび電話がかかってきた。前歴をばらされたくなければ娘の居所を教えろ、という脅迫まがいの台詞も聞いたが、付添人のオボロが口を割るはずもない。

「この半年くらい、連絡来てないよ」

「諦めたんですかね。よかった」

 百花は安堵の表情を浮かべる。

「家族だから愛さないといけないなんて決まり、ないですよね」

 不意打ちだった。そのひと言はするりと身体に入り込んできて、胸を打った。オボロは驚きのあまり息を呑んだが、すぐに微笑を浮かべた。

「もちろん」

 血のつながった親を愛しても、愛さなくてもいい。それを選ぶ権利は誰にでもある。


 家裁調査官の浦井は会議室の椅子に腰かけると、書類の束を膝の上に載せた。

「えーと、ちょっと待ってくださいよ」

 首からぶら下げていた老眼鏡をかけ、書面に目を落とす。最近はこれがないと仕事にならない、とぼやいていた。対面に座るオボロは何気なく話しかけた。

「浦井さんも長いですよね」

「ええ、すっかり古株ですわ。いつ異動になるんだか」

 最近の浦井はこの手の台詞が口癖になっている。今の家裁に赴任してから四年。概ね三年周期で異動する調査官にとって四年は長い。オボロはその間、幾度も浦井と仕事をしてきた。今では最も気心の知れた調査官と言ってもいい。

「中野雄斗さん……ああ、これこれ。ご両親が横領してしまった子ね」

 老眼鏡をかけたり外したりしながら、浦井は資料に目を通す。

「珍しいケースですよねえ。まあ、引き取ってくれる親族もいないようだし、施設送致が妥当なんでしょうけどね」

 ベテランの(さが)か、浦井には先に落としどころを決めたがる傾向がある。

「そうかもしれませんが、我々は予断を持たないほうが……」

「わかってますって。先生には敵わないなあ」

 苦笑する浦井に、「頼みますよ」と釘を刺す。

 だが内心を言えば、オボロの考えも浦井と同じだった。雄斗の場合、犯罪傾向は進んでいないが、かといって帰すべき家庭もない。おそらくは児童養護施設への送致決定、もしくは、児童相談所所長への送致になるのではないかと踏んでいた。後者でも、多くの場合は施設へ送られることになる。

「事件そのものに悪質さは感じられませんね。問題は両親との関係かな」

 浦井も調査官として、すでに雄斗との面談は行っている。事件に偶発的な要素があることはすでに認めていた。

「今度、父親と面会してきます」

「拘置所へ行かれるんですか。向こうの弁護士には無断で?」

「いえ。納得してもらいました」

「ふうん。流石(さすが)、先生だ」

 浦井の言葉に皮肉さは感じなかった。本当に感心しているらしい。

「ちょっと考えていたのは、雄斗さんに手紙を書いてもらったらどうかな、と。結構、効果があるんじゃないかな。うまくいけば父親の反省を示す材料になるかもしれないし」

 オボロは浦井の提案を吟味してみる。代理人の面会に加えて、手紙で直接コミュニケーションを取ってもらう。悪くないように思える。

「いいですね。考えてみます」

「こっちはこっちでアプローチしてみますわ。雄斗さん、学習塾に通ってたみたいだから、そっちに訊いてみるのも手ですね」

 オボロもその点は面談で聞いていた。私立中学の受験を目指して、小学二年生から学習塾に通っていたそうだ。その他にスイミングと英会話も習っていたらしい。週のうち六日は塾か習い事があったというから、多忙だったに違いない。

「ネットのほうでは誹謗(ひぼう)中傷とか、ありませんか」

「こっちで確認していますが、幸い目立った動きはありません」

 最近、オボロが付添人活動をする際には必ずネットの動きにも注視するようにしている。昨今は、どんなニュースであっても中傷の対象になる。少年が絡む事件は匿名報道が原則だが、どこからか調べて実名を晒すような人間もいる。少年が知らないうちに、事件そのものが炎上に発展することもあり得るのだ。

 老眼鏡を外した浦井は安堵を滲ませながら「それならよかった」と言う。

「好き勝手コメントして、自殺に追い込むような連中もいますからな。しかし、オボロ先生みたいにネット上のトラブルに強い人がいると心強いですわ」

「いや、それはぼくというか……」

 実はオボロ自身は依然、そちらの方面に疎い。投稿サイトやSNSの巡回など、実質的な対応をしているのはパラリーガルの原田だった。

 きっかけは堀駿介という少年が起こした、声優へのSNS中傷騒動だった。あの一件で、原田は削除されたSNSコメントをたちどころに発掘してみせた。その後、オボロはSNSが絡むと原田へ相談するようになった。駿介の件が噂になったのか、個人情報開示請求の依頼も増えた。

 そのうち、原田のほうから提案があった。

 ――こっちは私が見ますから、先生は業務に集中してください。

 以後、ネット周りの対応は自動的に原田へ任せる流れができた。おかげで最近は、オボロの事務所はネットに強い、という評判も得ている。

 堀駿介とはこの一年ほど連絡を取っていない。その必要がなくなったからだ。

 SNSで中傷事件を起こした当時、駿介は引きこもりだった。期限ぎりぎりで個人情報の開示に同意した駿介だったが、相手が未成年とわかったことで、声優側も訴訟には踏み切らなかった。

 オボロとの会話を通じて少しずつ部屋から出るようになった駿介は、その後、国立病院へ定期的に通院している。中学三年の途中から学校に復帰し、現在は通信制高校に通っている。かつては声優を目指していた駿介だが、今は映像制作に興味があるらしく、専門学校への進学を目指しているという。

 ――息子が人と違うって、認めたくなかったんです。

 一年前、最後に会った時に駿介の母が言っていた。それはきっと、多くの親に共通する思いなのだろう。事実を認めたくないあまり見て見ぬふりをする。そのままいたずらに時が過ぎれば、いずれ親も子も傷つく。オボロの仕事は、その傷をできるだけ浅い状態で治療することでもある。

「とにかく、今後もよろしく頼みますわ。私はいつ異動になるかわかりませんがね」

 お決まりの軽口を口にしながら、浦井が立ち上がろうとする。彼もまた多忙だ。

「浦井さん、一つ尋ねていいですか」

「はい?」

 ひじ掛けに両手をついた姿勢のまま、浦井が固まる。オボロは喉の渇きを覚えて唾を呑んだ。これから口にするのは、わざわざ言う必要のないことだ。それでもなお、言わずにはいられなかった。

「ぼくに前歴があることを、浦井さんは知っていますか」

 うーん、とつぶやいた浦井は、ひじ掛けを押して立ち上がった。資料を両手で抱え、何気ない口ぶりで答える。

「知る必要もないし、知ったところで変わらんでしょう」

 ではお先に、と言って、浦井は会議室から出て行った。

 オボロは悟った。おそらく浦井は、ずっと前からオボロの前歴について知っている。そのうえで、知る必要はないと言った。それはエールだった。そんなことは大した問題ではない、過去など吹っ切ってしまえ、というメッセージだった。

 扉の向こうへ消えた男の背中に、オボロは無言の感謝を伝えた。


 拘置所の待合室は静まりかえっている。ベンチに座したオボロは番号札を手にしていた。

呼ばれるまで待っている間、考えていた。

 もしも、今の自分がかつての自分の付添人になったら。詮無い想像だ。

 少年は、両親の指示で空き巣を繰り返していた十四歳。手を染めたのは一度や二度ではない。反省の色は今一つ見えない。それはそうだろう。彼は、自身の意思で空き巣をやっていたのではないから。両親とのコミュニケーション手段が、それしかなかったから。

 難問だった。

 彼は窃盗罪を犯していることをとうに自覚している。犯罪に加担していたのは、そうすることでしか生きてこられなかったせいだ。そんな少年に、どんな言葉をかければいい? 付添人として何をすればいい? どれだけ考えても答えは出ない。

 十四歳のオボロに、付添人はいなかった。当時はまだ当番付添人制度もなく、付添人の存在自体知らなかった。

 あの時、付き添うひとがいてくれたら。

 弁護士を目指したのは、十四歳の頃の自分のためだった。

 少年院を出て就職した先は、複数人の前歴者を雇っている協力雇用主だった。そのため職場には元非行少年が多かった。彼らのなかには、付添人と呼ばれる弁護士がついている者もいるようだった。

 ――使えねえんだよ、その付添人が。

 少年院にいた元少年が、煙草を吸いながらぼやいているのを聞いた。後で調べてみると、付添人というのは審判にかけられる少年の代理人だった。大人の裁判はともかく、子どもにも弁護士がつくなんて知らなかった。

 もしも自分に付添人がいたら。少しは救われていただろうか。

 高卒認定試験を受けて、多少給料の高い職場に移った。法学部の学生を募集していると知り、大学の夜間に通うことを決めた。当初は弁護士になるつもりはなかった。少年事件に関わる仕事ができれば何でもよかった。だが一年、二年と経つうち、付添人という選択肢が頭をもたげた。

 弁護士になりたい。過去の自分を救いたい。

 勉強は大変だった。学部の定期考査ですらどうにか通過する有様で、司法試験に合格するなど夢のまた夢だった。それでも働きながら勉強を続けた。三度目の受験で合格した二十九歳の日、オボロは泣いた。

 楽な仕事ではない。儲かる稼業でもない。だがオボロには、付添人以外の生き方を考えることができなかった。

 やがて、番号を呼ばれた。一号面会室に入るよう指示される。

 部屋に入ると、アクリルの仕切り板の向こうで男が待機していた。ワイシャツにスラックスという出で立ちの男が、椅子に腰かけている。年齢はオボロと同世代。乱れた髪に無精ひげで、背は丸められていた。三白眼がオボロを睨んでいる。

「はじめまして。雄斗さんの付添人のオボロと言います。ぼくのことは、弁護人の黒田先生から聞いていますよね」

 微笑を伴って席につくが、中野慎太郎は黙ったままだった。彼の背後で、刑務官がなりゆきを見守っている。

「雄斗さんからの手紙は受け取りましたか」

 慎太郎がわずかに頷いた。

 浦井からの助言通り、オボロは雄斗に手紙を書くことを勧めた。自分の気持ちを整理しながら、父親に疑問を直接ぶつけてみたらどうか。その提案を雄斗は受け入れた。直筆の手紙は鑑別所から拘置所へと送られた。

「読んでみて、いかがでしたか」

「……読んでいません」

 掠れた声が、仕切り板越しに届く。オボロは耳を疑った。

「読んでないんですか」

「受け取りましたが、一度も開いていません」

 反射的に「なぜ」と問うていた。微笑は自然と消えていた。

「……こっちの立場になってください」

 恨みがましい視線がオボロの顔に注がれる。

「どうせ、なんで横領なんてしたんだ、って書いてあるんでしょう? 色々な人に訊かれました。でもそんなの、自分でもわからない。答えられない質問が書いてある手紙なんて、怖くて読めませんよ」

 ――無責任な。

 頭に血が上るのを感じる。

 犯罪の動機を語るのは、確かに難しい。金が欲しいとか腹が立ったとか、そういうことは表面的な理由に過ぎない。本質的な動機はもっと奥深いところに眠っている。しかし難しいからと言って、諦めれば更生はできない。困難さと格闘し、少しずつでも前進するしかないのだ。だがこの男は、開き直ることですべての責任を放棄していた。

 オボロは努めて冷静に語りかける。

「手紙を無視すること自体が、雄斗さんの想いを無下にしているんです。どんな厳しいことが書いてあっても、相手は息子さんですよ。受け止めようとは思いませんか」

「あなたは雄斗の代理人だから、そう言いますよね。でも私は、私を守らないといけないんです。私の心が壊れてしまったら、あなた、責任取れるんですか」

 オボロは自分の歯ぎしりの音を聞いた。今まで身勝手な言い分は散々聞いてきたが、これほど腹が立つのは珍しい。黒田が面会に消極的だった理由を察する。

「ぼくは、雄斗さんの疑問に正面から向き合ってほしいだけです」

「ですから、向き合えないんですよ。答えを持っていないんだから」

「それを考えるのが、中野さんの立場なんじゃないですか」

「そうかなあ。やっちゃったことは変わらないんだから、今さら動機なんてどうだってよくないですか? だいたい、まだ納得できないんですよね。あの会社は私が創業したんですよ。私が努力して稼いだ金を私が使って、何が悪いんでしょうね」

 落ち着け、と何度も己に言い聞かせる。感情的になれば負けだ。

 沈黙を見計らったかのように、慎太郎が嘲笑を浮かべた。

「これ言わないでおこうと思ってましたけど、しつこいんで言いますね。私ら夫婦が横領していたのは、雄斗のためですよ」

「……はい?」

「習い事に金がかかるんです。ひと月に、スイミングが七千円、英会話が一万円、学習塾が六万円。夏期講習だ冬期講習だって入れていくと、年間で百万円以上かかる。あと、ゲームとか本とか欲しがるんですよ。友達を家に連れてきたら、食事やらお菓子やらを用意してやらないといけないし。合計すると、結構な金額になるでしょう」

 怒りを通り越し、オボロは唖然とした。それが息子の代理人に聞かせる話か。

 そもそも慎太郎の言い分は不合理だ。夫妻が横領した総額に比べれば、養育にかかった費用は明らかに小さい。にもかかわらず、この男は息子に横領の責任をなすりつけようとしている。

「いやいや、わかってますよ。私にもっと甲斐性があれば、会社の金なんて使う必要なかったんでしょうがね。でもしょうがないですよ。金がないんだから、どこかから持ってくるしかないですよね」

 にわかに饒舌(じょうぜつ)になった慎太郎を前に、オボロは徒労感に包まれていた。だが、一応は訊いておくべきことがまだ残っている。

「弁済される予定はないんですか」

「うーん、黒田先生にも言いましたけど、無理じゃないかなあ。執行猶予は欲しいけど、金なんてないですし。どこかから借りてもまた返さないといけないから、それなら刑務所に入ったほうがましだと思います」

 慎太郎の発言は、どこまでも他人事(ひとごと)だった。荒んだ目がオボロを射る。

「雄斗に伝えてください。両親のことは忘れろ、って」

 目の前で閃光が弾けた。反射的にテーブルに手をつき、椅子から立ち上がっていた。アクリル板の向こう側にいる慎太郎を見下ろす格好になる。

「忘れられるものなら、とっくに忘れていますよ」

 非道な親のことなど、いっそ忘れてしまいたい。死ぬまで思い出さなくていい。それでもふとした瞬間に思い出してしまうから苦しいのだ。忘れてくれ、と言うだけで親は済むかもしれない。だが子にとってはそう簡単ではない。

「絶対に、雄斗さんからの手紙を読んでください。話はそれからです」

 慎太郎は答えず、焦点の定まらない目で中空を眺めていた。

 面会はそれで終了だった。

 ロッカーで荷物を回収したオボロは、拘置所からの帰路を歩きながら、慎太郎の目を思い出していた。無機物のような色のない目。彼はあらゆることに興味を失っていた。これまでは順調な人生を歩んできたのかもしれない。それだけに、一度つまずくとすべてがどうでもよくなる。本当はまだ、手のなかに豊かな果実が残されているのに。

 手紙のことを雄斗にどう伝えるか。今から頭が痛かった。

 


 オボロが鑑別所を訪れたのは、それから四日後だった。

 ジャージ姿の雄斗はやつれていた。環境の激変に心身がついていっていない。当然だ。雄斗はまだ十歳である。緩慢な動作で椅子に座った雄斗は、テーブルに肘をつき、ため息を吐いた。妙に大人びた仕草だった。

「拘置所でお父さんに会ってきた」

 雄斗は顔を上げず、テーブルの隅をじっと見ている。

「色々話したんだけど、お父さんが事件を起こした動機はまだ……」

「手紙が返ってきました」

 唐突に、雄斗が話を遮った。

「返ってきたって、お父さんから?」

「昨日の夕方に受け取りました」

 オボロは驚きで言葉を失っていた。面会の時点で慎太郎は手紙を読んですらいなかったはずだ。この数日で心境が変わり、返信まで書いたというのか。戸惑いを察したのか、雄斗は横目で見ながら付け加える。

「先生と会った後に書いたみたいです。ぼくの代理人と話した、と書いてあったんで」

 ――ぼくが、きっかけになったのか?

 あの面会に手応えなどなかった。むしろ、互いの苛立ちを増幅させただけだと思っていた。だが慎太郎は読んだのだ。オボロの懇願が届いたかどうかわからないが、どんな形であれ、雄斗のメッセージを受け取った。

 ただし、返信を受け取った雄斗の表情は優れない。

「手紙には一応、書いてありました。横領した理由」

「なんて?」

 まさか、子どものためにやった、と書いていないだろうか。緊張が高まる。だが雄斗の答えはまったく違うものだった。

「もっと幸せになりたかった、って」

 幸せ、と口にする瞬間、雄斗はわずかに顔をしかめた。

「お父さんは貧乏で大変だったから、お金があればそれだけ幸せになれると思ったそうです。会社員になって、自分の会社の社長になって、それでも足りなかった。もっと幸せになりたい。だから会社のお金を使ったそうです」

 ふてくされたような口ぶりだった。

「手紙を読んで、どう思った?」

「よくわからないです。けど、ムカつきます」

 雄斗は刺々しさを隠そうともしない。

「何がムカつくんだろう」

「だって、幸せになれるわけないじゃないですか。捕まるに決まってるのに」

 剣のように尖った言葉を、オボロは沈黙で受け止めた。

 雄斗の発言はまっとうだ。でもきっと、手紙に書かれていることもまた事実のはずだった。慎太郎は己の浅はかさと向き合いはじめている。だからこそ、矛盾を承知で息子への手紙を書いた。

「これが答えなんだったら、ぼくは父を許せません」

 青白い顔をした雄斗は、テーブルの隅を見つめながら言った。眠れていないのか、目の下には隈が浮き出ている。唇は荒れ、髪は乱れていた。その姿が奇しくも、拘置所で会った慎太郎と重なる。

「ご両親を許すかどうかは、もちろん雄斗さんが判断すればいい」

 オボロは慎重に言葉を選びながら告げる。

「でも、考えることだけは止めないでほしい。許す、許さないで立ち止まれば、そこから先に進めない。だから自分のなかで結論が出るまでは考えてほしい」

 もっと幸せになりたかった。

 その告白の意味がわかるのは、きっともう少し経ってからだ。今の雄斗にはわからなくても、五年後、十年後なら理解できるかもしれない。少なくとも、オボロには慎太郎の告白を愚かだと断じることはできない。

 雄斗は不満そうだった。

「これから先も、たぶん感想は変わらないと思います」

「雄斗さんが納得できれば止めてもいい。でも心残りがあるなら、少しずつでもいいから、考えることを止めないでほしい。時には忘れてもいいし、離れてもいい。でも時折、心に浮かんだその一時だけは考えてみてくれないか」

 卓上に両肘をついた雄斗は、突如、猛烈な勢いで頭を掻きむしった。ううう、とうめく声が鳴る。オボロはその様子を黙って見ていた。

 自分の発言が、雄斗のストレスになったことは想像に難くない。だからといって撤回することもできない。慎太郎はようやく、息子と向き合うきっかけをつかみつつある。わずかな好転の兆しを打ち消すわけにはいかない。

 やがて、雄斗は手を止めた。手の爪が脂で光っている。ゆっくりと上げた顔はいっそう青白さを増し、両目は充血していた。いつの間にか慎太郎の面影は消えている。代わりに現れたのは、十四歳の朧太一だった。

 太一は目の前で震えている。今にも泣き出しそうな顔で、付添人のオボロを見つめている。太一は救いを求めて唇を動かす。

「先生。結局、ぼくはどうしたらいいんですか」

 少年の声が鼓膜を震わせる。

 闇のなかに、脳裏をよぎる数々の記憶が沈んでいる。オボロは闇のなかを泳ぎながら必死で言葉を探す。ふと、そのうちの一つがぼんやりと光を放っているのを発見する。オボロは目をすがめ、その正体を知ると同時に口にしていた。

「自分を大事にすればいい」

 それは、オボロが最も大切な相手から受け取ったひと言だった。

「あなたにとって、あなたは誰よりも大事な存在だ。あなたの心も身体も、あなただけのものだ。辛ければ休んでも逃げてもいい。もしも親や他人との関係で苦しんだとしても、自分を大事にしてほしい。生きてさえいればまた歩き出せる」

 沈黙の後、少年はかすかに頷いた。野草が風に揺れるように、それは自然な動きだった。

 


 中野雄斗の審判廷は静かに進行した。

 家庭裁判所で割り当てられた法廷は、ちょっとした会議室程度の広さだった。ベンチに腰を下ろした雄斗の正面に裁判官が座っている。雄斗から見て、裁判官の右手に調査官の浦井、左手に書記官がいた。付添人のオボロは浦井と雄斗の間にいる。室内にいるのはこの五人だけだった。

 すでに調査官による処遇意見の陳述は終えている。児童養護施設への送致が相当、というのが浦井の見解だった。オボロもその結論に異議はない。雄斗は審判廷の空気に緊張しきっていたが、裁判官やオボロからの質問にも事前の打合せの通り答えていた。

 裁判官の女性が雄斗に語りかける。

「最後に言っておきたいことはありますか」

 少年自身による最終陳述だ。雄斗は数秒黙って考え込んだ。

「……父と母のことなんですが」

 オボロは身を乗り出す。打合せにない台詞だった。ここまで順調だったのに、最後の最後で突拍子もないことを言い出さないか、と不安が押し寄せる。少年審判で少年が予定外の行動に出ることはままある。

「まだ、父と母がどうしてあんなことをしたのか理解できません。お金が欲しかったんだと思うけど、でも、仕事をしていたからお金が全然なかったわけではないです。オボロ先生とも話したんですが、まだ答えは出ていません」

 大人たちは、無言で雄斗の言葉に耳をすましている。

「ぼくは父と母のことを、これから何度も思い出して、そのたびに考えようと思います。横領した人の気持ちがわかるかどうかはわかりません。けど、ぼくは父と母のことを知りたいです。だから、もういいや、と思えるまではずっと考えるつもりです」

 声は上ずり、顎も上がっていたが、それでも両目には力が籠もっていた。

 雄斗は自らの意思で決意表明をしたのだ。オボロの提案を受け入れ、小さな身体で両親の抱える闇を受け止めることを決めた。それはきっと楽な道ではない。しかし暗い道の先には、彼だけの未来が待っているはずだった。

 最終陳述は終わった。裁判官がオボロと浦井に目配せをしてから、口を開く。

「中野雄斗さんの処遇は、児童養護施設への送致とします」

 その言葉と同時に肩の荷が下りた。審判は予想できていても、決定通知が出るまでは気が抜けない。読み通りの結論であったことにひとまず安堵する。

 閉廷後、少年鑑別所の職員が雄斗を迎えに来た。裁判官や書記官は早々に部屋を出る。

「先生」

 廊下へ去ろうとするオボロの背に、雄斗の甲高い声が浴びせられる。振り向くと、職員のかたわらで十歳の少年は深々と頭を下げていた。

「ありがとうございました」

 その華奢な身体と綺麗なつむじを見ているうち、鼻の辺りにむず痒さを覚えた。ここで泣くわけにはいかない。オボロは歩み寄り、しゃがみこんで、顔を上げた雄斗と視線を合わせた。

「ぼくはあなたの付添人だから。これまでも、これからも」

 目の縁に涙を溜めた雄斗は「はい」と言い、職員と一緒に去っていった。

 オボロは家庭裁判所を後にした。

 朝方まで降っていた雨のせいで地面は濡れている。水気を含んだ埃っぽい臭いを嗅ぎながら、人気(ひとけ)のない道を選んで歩いた。誰にも見られていないことを確認してから、オボロは静かに泣いた。嗚咽を殺し、涙の雫をハンカチにそっと染み込ませる。

 ぼくは、あの頃のぼくを救えているだろうか。

 付添人として、少しは上手にやれているだろうか。

 問いかけても答えはない。褒める声も、励ます声も聞こえない。名もなき路上でたった一人、オボロはたたずんでいた。

 懐のスマートフォンが震える。ディスプレイに〈斎藤亜衣子(あいこ)〉と表示されていた。慌てて目元を拭い、空咳(からぜき)をしてから電話に出る。

「……あ、先生。お久しぶりです」

 亜衣子の声にはいくらかの遠慮が含まれていた。彼女から電話がかかってくるのは一年ぶりだった。

 斎藤亜衣子は三年前、オボロが付添人を担当した斎藤(れん)の母親である。蓮は河川敷で路上生活者に重傷を負わせた容疑で逮捕されたが、のちに彼の友人が真犯人であると判明し、不処分となった。

 蓮の生活態度は逮捕前から荒んでいた。母一人子一人の家庭環境で、亜衣子のほうもすでに育児を諦めている節があった。だが皮肉なことに、蓮の逮捕がきっかけとなり、没交渉だった母子が再びコミュニケーションをとりはじめた。正しくは、亜衣子が蓮に向き合う努力をはじめた。

 無職の蓮に働くよう諭し、夜の街歩きをやめるように言った。蓮はすんなり言うことを聞かず、しばらくは何の効果もなかった。そのたび、亜衣子はオボロに電話をかけてきた。蓮が更生しない、自分は母親失格だ。そんなことを電話口で幾度も喚いた。そのたびにオボロはなだめた。多い時は週に一度のペースでかかってきた。

 亜衣子は嘆きながらも、蓮に語りかけることをやめなかった。

 一年ほどして、蓮は遠方の塗装会社に就職した。少年院の出院者を多く雇っている協力雇用主で、亜衣子が自ら連絡をとった。経営者は蓮の事情に理解を示し、住み込みで働くよう誘った。蓮は直前まで迷った末、母に挨拶もなく、一人で新たな就職先へと旅立った。

 最初のひと月は脱走したり、揉め事を起こしたりするのではないかと心配していたが、蓮は真面目に仕事を続けた。会話が苦手な蓮だが、黙々と仕事をこなすことは苦手ではなかった。雇用主の評判も上々だった。

 オボロへの電話も徐々に間遠になり、この一年、亜衣子からの連絡はなかった。

「どうかしましたか、斎藤さん」

「あの……」

 亜衣子は口ごもっていたが、じきに意を決したように「今日」と切り出した。

「蓮が、婚約者を連れてきました」

 言いながら、涙声になっていた。言葉は嗚咽へと変わり、しゃくりあげる声がオボロの耳にこだまする。一気に胸が詰まり、何も言えなくなる。それでもどうにかオボロは言葉を絞り出す。

「おめでとうございます」

 亜衣子は(はな)をすすりながら、何度も礼を言った。

 事件当時、蓮に付き添ったのは確かにオボロだ。だがその後、長い年月をかけて蓮に付き添い続けたのは亜衣子だった。本当の意味で蓮の付添人を務めたのは、母子であることを諦めなかった彼女だ。

 オボロは顔が熱くなるのを感じた。

 通話を終えたスマートフォンのディスプレイに、青空が映り込んだ。思わず頭上を見上げる。雨雲の去った空は澄んでいた。冬が近い。

 母が死んだ、と知らされた日のことを思い出す。あの日の動揺は、自分の非情さを信じたくなかったせいだ。だがそれと同時に、母という(かせ)を外されて自由になったことへの戸惑いもあったのではないか。

 いきなり檻の扉を開けられても、警戒心の強い小鳥はすぐに飛び立とうとしない。迷い、ためらい、覚悟を決めた瞬間に外へとはばたく。オボロは今、ようやく飛び立つ時を迎えようとしている。

 ――これでいい。

 足音を鳴らし、オボロは濡れた路上を歩き出す。事務所に帰れば山のような仕事が待っている。だが、不思議と疲れは感じなかった。

 この道が、少年だった自分へつながると知っているから。

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