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宇宙の片すみで眠る方法

 お客さまは、ベッドで仰向けになってしばらく目をつぶった後、右へ左へと寝返りを繰り返す。結び目が当たるのが気になったのか、髪をほどいてから、また寝返りを打つ。
 起き上がって、枕全体を触っていく。
「形はいい気がするんですけど、もっと硬い素材のものって、ありますか?」
「ございますよ。少々お待ちください」
 枕の並ぶ棚の前に立ち、同じ形で中の素材が違うものを探す。
 形や中の素材や大きさの違う枕が二十種類以上並んでいる。ここに並ぶものだけではなくて、カタログや系列店に注文して取り寄せられるものもある。なので、全てで何種類なのか、まだ把握できていない。
 棚から枕を取り、お客さまのいるベッドに戻る。
 急な連絡が入ったのか、ゲームでもしているのか、ほんの少しの時間でも手放せないのか、お客さまはスマホを見ていた。わたしと同世代、二十代後半ぐらいに見える女性で、首も身体からだも細い。首が頭を支えきれていなくて、スマホに集中すると、頭に引っ張られるように全身が前に傾く。
「お待たせいたしました」ベッドの横にひざまずき、枕を交換して、持ってきた方に不織布を一枚かける。
「あっ、ありがとうございます」お客さまは顔を上げ、ベッドの横のカゴにスマホを置く。
「どうぞ、寝てみてください」
「はい」
 さっきと同じように、仰向けになって目をつぶって寝返りを繰り返し、起き上がる。
「これでも、まだ柔らかいんですよね」小さくうなり、枕を触る。
「今まで、どういった枕をお使いでしたか?」
「ビーズの入ったものです。ずっと使ってたら、なんか柔らかくなってきちゃって」
「何年ぐらい、お使いですか?」
「そんなに長く使ってないですよ。こっちに引っ越してきた時に買ったから、五年か六年くらいじゃないかな」
「どちらで買われたかって、わかりますか?」
「ショッピングモールです。駅と駅の間辺りにあるところ。あそこにも、寝具店が入ってるでしょ」
「ああっ、はい、ありますね」エプロンのポケットからメモ帳とボールペンを出し、お客さまの情報としてメモしておく。
「合わなくなってきたせいか、肩こりがひどくなって、頭痛がするようになったんです」話しながら首をまわし、肩の辺りを触る。「もともと肩こりはあったんですけど、起きた瞬間にもう痛い。そのせいか、睡眠も浅くて、よく眠れないんです」
「……そうですか」
「枕って、普通はどれくらいで買い替えるものなんですか?」
「枕の寿命は、三年と言われています」人差し指と中指と薬指を立てて、わたしは三と示す。「どんなに高価なものでも、三年が限度です。中の素材が何であっても、ほぼ毎日使うものなので、潰れてしまいます。すぐに潰れてしまうものや何年も潰れないものは、合っていない可能性が高いです」
「ええっ! 今の枕、少し前までは、全然問題なく使えてましたよ」
 それは、合っていないものを合っていると思いこんでいただけだ。
 首が細いから、中の素材は柔らかいものの方がいい。だが、羽毛や綿では柔らかすぎて、首と頭を支えられない。枕には、首と頭を支える力が必要だ。しかし、硬ければいいというわけではない。このお客さまの場合、顔も小さいので、硬いビーズの枕だと首も頭も沈みこむことがなくて、レンガブロックに頭を乗せたような状態になる。枕に置いただけでしかない頭を首や肩で支えることになり、肩こりや頭痛が起こりやすくなる。中のビーズにはほとんど力がかからないため、潰れることはない。柔らかくなったのであれば、経年によってビーズが劣化してきているのだろう。それによって、数ミリだけ低くなり、前以上に合わなくなった。オススメは、弾力のある柔らかめのビーズの枕だ。
「これより、もう一段階、硬いものもありますよね?」
「お客さまには、最初に試していただいたものがオススメですよ」
「えっ! そうなんですか?」
「はい、もう一度寝てみてもらえますか?」
 最初に寝てもらった枕をまた置き、不織布をかける。
「これだと、やっぱり柔らかいんですよね」不満そうに言いながら、お客さまは寝返りを打つ。
「交換しますね」起き上がってもらい、硬いものを置く。
「こっちの方がいいです」仰向けになる。「これでも、まだ柔らかい」
「そのままでいてくださいね」
 ベッドから離れて、お客さまの寝姿勢を見る。
 首はまっすぐだし、悪くないように見える。けれど、肩が少しだけ浮いている。首から背中にかけて力を入れ、枕に姿勢を合わせている状態だ。一晩中、この姿勢がつづけば、肩を痛めてしまう。
「もういいです」お客さまは起き上がって髪を結び直し、カゴからバッグとスマホを持って立ち上がる。
「えっ?」
「前に買ったお店に行ってみます。向こうの店員さんは、わたしの欲しいものをすぐに出してくれたから」
「……あの、えっと」
「毎日使うものだから、デパートでいいものを買いたかったんですけど」
 そう言いながら、お客さまは店から出ていき、エスカレーターの方へ歩いていく。
「ありがとうございました」店の区画ギリギリのところに立ち、後ろ姿に向かって頭を下げる。
 ベッドに戻り、忘れ物がないか確認して、試してもらった枕を棚に並べ直し、使った不織布をレジカウンターの奥に置いたゴミ箱に捨てる。
「売れなかったね」店長は明るく言い、わたしの横に立つ。
 店長はわたしより身長が十センチくらい低いため、見下ろす格好になる。
 ショートカットで、ほとんど化粧をしていなくて、子供みたいに見える。だが、年齢はわたしよりも上で、三十代後半だ。高校生の男の子、中学生の女の子、小学生の男の子と女の子、五歳になったばかりの女の子、五人の子の母親でもある。旦那さんが専業主夫となり、子供たちを見てくれているらしい。
「すみませんでした」
「次、がんばって」わたしの背中を軽くたたく。
「はい」
 お客さまの希望通り、硬い枕を出していれば、売れたのかもしれない。
 しかし、それでは、眠れない夜がつづくだろう。

 デパートの営業時間は、十時から二十時までだ。
 歩いて通勤できる距離ではあるものの、遅番の日は帰りが二十一時近くなる。
 マンションに帰ったら、手洗いうがいをして、なおの写真に手を合わせ、今日起きたことを報告する。
 遺影やはいは、直樹の実家にある。
 婚約者でしかないわたしには、それらを持つ権利はなかった。代わりに、ふたりで大阪のテーマパークに旅行した時にわたしが撮った写真を印刷して、シンプルな木のフレームの写真立てに入れ、リビングの本棚の上に置いている。直樹ひとりの写真だけではなくて、ふたりで写っているものも並べようかと思ったが、あれもこれもと過去の写真を見るうちに何もできなくなり、一枚にした。
 十月も後半なのに暑い日がつづいていること、休憩室で消費期限間近の和菓子が従業員価格で売られていたこと、職場には慣れたけれどなかなか売れないこと。直樹に話したらどう返してくれるのか、想像しなくても聞こえてくる。どんな時でも「は無理しないでいいから、好きなことしていいんだよ」と、言ってくれた。
 バッグから、豆大福とくさもちを出す。豆大福を「こっちがいいでしょ」と聞いて、直樹の写真の前に置く。
 ふたりで暮らしていたマンションに住みつづけているため、部屋は広くて、1LDKある。台所のガスコンロは三口で、直樹がいたころは平日は必ず料理をしていた。土日も、どこにも出かけない日は、朝昼夜と作っていた。ひとりだし、時間も遅いので、冷凍のごはんをレンジで温めて、鶏ガラスープの素を使った簡単雑炊で済ませてしまう。昨日作った根菜の煮物も温め直せば、充分だ。
 リビングのテーブルに並べ、テレビをつけ、配信されているドラマを見ながら食べる。
 隣に座った直樹が「依里がながら食べするなんて、どうしたの? 疲れてる?」とか「ドラマ、おもしろい?」とか「充分じゃないよ、タンパク質足りてないんじゃない?」とか話しかけてくる。一緒にいた時は、わたしの方がよくしゃべっていた。仕事帰りによくすれ違うポメラニアンがかわいい、新しいスーパーにおいしそうなお菓子があった、近所のお寺の桜が咲いた、たったそれだけの盛り上がりもオチもない話を直樹は楽しそうに聞いてくれた。いなくなってから、直樹はうるさいくらいに喋るようになった。隣を向いたり、返事をしたりしてはいけない。そうした瞬間、全てが消えてしまう。
 食べ終えたお皿を片付け、お茶をれる。
 緑茶にしたかったが、カフェインの含まれているものは、眠れなくなりそうだ。
 ハーブティーは草餅に合わないから、コーン茶にした。
 テレビの前に戻り、草餅を食べながらドラマのつづきを見て、ゆっくりとコーン茶を飲む。
 その間も、すぐ隣から直樹が話しかけてくる。
 心の中で「豆大福は、明日のお昼に食べてね」とだけ返す。

 デパートの休憩室は、地下二階にある。
 だが、実際には、地下三階だ。地下一階の食料品売場と地下二階の休憩室の間に、限られた人しか入れないフロアが存在する。そこに、何があるのかはわからなかった。店長に聞いても「知らない」と言われた。従業員エレベーターでも、その階のボタンには何も書かれていない。
 県の中心部の大きなデパートだと、フロアごとに休憩室があったり、従業員専用の食堂があったりするらしい。この辺りは、田舎いなかというほどではないが、都会とも言えない。JRの他に私鉄が二路線走り、駅前には広いバスターミナルがある。中心部や東京まで働きに出る人たちのベッドタウンというところだ。以前は、駅の周りにいくつかのデパートがあったのだけれど、今は家電量販店や十代後半から二十代前半向けのファッションビルになった。ここは、デパートとして残っているものの、百円ショップやフードコートも入っている。
 お昼時の休憩室は混み合う。
 レストランフロアやフードコートで食べたり、外に出たりする人もいるのだけれど、ほとんどの従業員がここで休憩時間を過ごす。コンビニで買ってきたものや自分で作ってきたお弁当を食べている人が多い。
 昭和後期に建てられ、このデパートは築五十年以上が経つ。
 全体的に天井が低いのだが、ここは他のフロアよりさらに低い気がする。
 白い大きなテーブルとが並び、壁沿いには飲み物や菓子パンを買える自動販売機が並んでいる。
 奥の席があいていたため、そこに座り、バッグからお弁当箱を出す。できるだけ、お弁当を作ってくるようにしている。二段のお弁当箱で、下にごはんを詰め、上に卵焼きと作り置きの煮物とメインになる肉か魚のおかずを詰める。自分で食べるだけだから、凝ったものにする必要はない。
 天井からるされたテレビでは、情報番組が放送されていた。秋の行楽シーズンに行きたい場所の特集をしている。
 この街からは海も山も近くて、電車で数駅で行ける。車だと、十分くらいだ。直樹がいたころは、土日ばかりではなくて、平日の夜に海沿いのレストランに夕ごはんを食べにいくこともあった。将来、子育てするにも環境がいいし、この辺りにずっと住みつづけようとよく話した。
「隣、いい?」
 声をかけられて顔を上げると、ちゃんがいた。
 璃子ちゃんは、二階にある宝飾ブランドに勤めている。化粧品売場の一階と有名ブランドの並ぶ二階は、昔ながらのデパートというか、百貨店の雰囲気が残っている。
「どうぞ」
「どこか行くの?」テレビの方を見ながら、璃子ちゃんはコンビニで買ってきたサンドイッチやトマトジュースを袋から出していく。
「行かない」卵焼きを食べつつ、わたしは答える。
 子供のころは、甘い卵焼きが好きだった。直樹に「しょっぱい方がいい」と言われて変えてから、そのままだ。
「近くても、なかなか行かないよね」
「うん」
「お金もないし」
「コンビニで買うからだよ」
「いや、でも、自分でサンドイッチ作るとしたら、結構お金かかるでしょ。何種類も作れないし」
「常に自炊してたら、そうでもないよ」
「自炊だって、ひとり暮らしだと、食材あまったりしちゃうじゃん」
「大量に作ると、何日も同じもの食べることになるしね」
 デパートで働く従業員は、大きくふたつに分かれる。デパートに直接雇われている従業員と各店舗やブランドに雇われている従業員だ。直接雇われている人たちは、靴売場やバッグ売場という複数のブランドが集まる中で案内やレジ係をする他、インフォメーションに入ったり、デパートの裏側で経理や広報などの仕事をしている。以前は、直接雇われている人が多かったみたいだ。けれど、何度か改装するうちに、売場がブランドごとに細分化されていった。今は、各ブランドに雇われている人が多くなった。
 わたしは、四階の寝具店にパートとして雇われている。璃子ちゃんは、宝飾ブランドの契約社員だ。どの店舗も、正社員はひとりかふたりしかいない。パートや契約社員や派遣社員がほとんどで、女性ばかりだ。雇用形態は違っても、県の最低賃金程度の時給が基本で、給料はあまり変わらなかった。派遣社員は時給は高くても、交通費が出なかったりするらしい。三十代から四十代で扶養の範囲内で働く主婦らしき人たち、五十代から六十代のベテランの人たち、あらゆる年齢層がいる中、二十代は少ない。
 休憩室の隅でひとりで過ごしていたら、璃子ちゃんから話しかけてくれた。璃子ちゃんは、わたしより三歳下だけれど、ここでは同世代に入るだろう。
 話すようになって、まだ日が浅いため、会うたびに「お金、ないよね」とか「毎日、暑いね」とか、当たり障りのない会話を繰り返している。
「これ、飲んだら、眠くなっちゃう?」そう言いながら、璃子ちゃんはトマトジュースのパックを手に取る。
 パックの下の方に、機能性関与成分として「リコピン・GABA」と書いてある。GABAの配合されたドリンクやチョコレートは睡眠をサポートすると言われているため、そう思ったのだろう。寝具店のお客さまに「夜ごはんの後、GABAの摂れるチョコを食べるようにしている」と話す方がいたので、前に調べたことがあった。
「眠くなっちゃわない」わたしは、首を横に振る。
「そうなの?」
「GABAはガンマ‐アミノらくさんという成分で、血圧を下げる効果があるとされてる。摂取すると血圧が下がって、気持ちが落ち着くかもしれないっていうくらいのこと。リラックスすることは大事だし、気分が高揚して寝つけない時にはいいのかも。チョコだと、カフェインやカロリーも気になるから、そういう時にトマトジュースを飲むのはいいと思う」
「ふうん」
「コンビニで誰でも買えるもので、急に眠くなっちゃったりしないから、大丈夫だよ」
「じゃあ、飲もう」璃子ちゃんは、パックにストローをさす。
「この後、眠くなったとしたら、お昼ごはんを食べて血糖値が上がったから」お弁当を食べ終えて、昨日買った豆大福をバッグから出す。
「今日、フィナンシェとかの洋菓子じゃなかった?」トマトジュースを飲みながら、入口の方を見る。
 休憩室の入口の辺りでは、お昼の時間帯だけ、お弁当を売っている。その横で、日によって、食料品売場では出せなくなった消費期限間近の和菓子や洋菓子が売られる。保険の勧誘や宝石のついたアクセサリーを売る女性が立つこともあった。休憩時間に宝石を買う人なんていないと思うが、月に何度か来るようだ。
「昨日の。消費期限、今日までだから」
「やせてるから、好きに食べれていいよね」
「璃子ちゃんの方がやせてるじゃん」
 宝飾ブランドの規則で、璃子ちゃんはヒールが五センチあるパンプスを履いている。脱げば、わたしと身長は同じくらいで、百六十センチあるかないかというところだ。誰がどう見ても、璃子ちゃんの方が細い。
「そんなことないよ。もっとやせたい」
「ええっ、身体に良くないよ」
「だって、やっぱり、小さくて細くて、特技は料理みたいな子がもてるじゃん」
「璃子ちゃん、顔もキレイだし、もてるでしょ?」話しながら、わたしは豆大福を食べる。
「顔は化粧だから。それに、もう二十代後半になっちゃったし、厳しいよ」
「……そうなの?」
「相手が誰でもいいっていうわけじゃないし」
「うーん」
「男女平等とかフェミニズムとか言われるけど、そんなのは都会の人たちだけの話っていう気がする。お金持ってる男の人と結婚できなかったら、死ぬまで最低賃金で働きつづけることになるよ」
「そうなのかなあ」
さわむらさん、来年で三十歳になるんだから、ぼんやりしてない方がいいよ」
 お互いにタメ口で話しているけれども、わたしは「下の名前で呼ばれることが好きじゃない」と伝え、苗字で呼んでもらっている。
「ぼんやりしてるわけでもないけど……」
「彼氏いるの? とか、わたしからは聞かないけどねっ! マナーらしいからっ!」
 璃子ちゃんが力強く言ったため、わたしは笑ってしまう。
 クレームを避けるため、お客さまとの距離に気を付けるように、どの店舗でも言われている。プレゼントを買いにきた方などの相談に乗る中で、思わず個人的なことを聞いてしまうことがある。デパートの本部からは、従業員同士でもお互いの個人的なことを話す時には注意するようにと言われた。こちらは、コンプライアンス対策でもあるらしい。
「健康的にやせるように、やっぱり自炊じゃない? モテにも繫がるかもよ」指先に大福の粉がついたため、ティッシュで軽くく。
「大丈夫、料理しようと思えば、できるから」
「本当かな?」
「個人的なこと聞かないでください」わざとらしく璃子ちゃんは目を逸らす。
「そうだね」
 ふたりで、笑い合う。
 テレビでは、情報番組の中の三分ぐらいのコーナーとして、ニュースが放送されていた。
 高速で事故が起き、渋滞が起きているらしい。
 急に寒くなった気がしたが、冷房の風が当たるからだろう。

 レジカウンターに入り、個人の引き出しからノートを出す。
 他の店舗よりも、カウンター内は広くなっている。売上や在庫や顧客のデータを管理するパソコンがあり、寝具のカタログが並び、包装紙や袋が棚に入っていて、作業台もある。パートそれぞれでお客さまの情報を管理するために、書類ケースの引き出しをひとり一段使えるようになっている。上から入社した順になっていて、まだ半年しか経っていないわたしは、一番下だ。
 作業台の前に立ち、メモ帳に書いておいた、休憩前に来たお客さまの情報をノートに清書する。
 購入してもらえなかったお客さまがまた来てくれることもあるし、枕を買ったお客さまが他の寝具も買いたいと来ることもある。憶えておいた方がいい情報や見た目の特徴を書いておく。
 デパートは駅前にあり、平日の昼間でもお客さんはいる。混み合うというほどではないけれど、かんさんとすることもない。年配の女性が多いが、百円ショップ以外にも若い人向けの雑貨屋とかが入っているため、高校生や大学生くらいの人もいる。しかし、寝具店に入ってくるお客さんは、なかなかいない。入ってきたとしても、タオルやパジャマを軽く見るだけで、出ていってしまう。
 あいた時間には、お客さまの情報を整理したり、店長やパートのお姉さんたちに話を聞いて寝具の勉強をしたりする。
「沢村さん、中学や高校の時に成績良かったでしょ」店長がノートをのぞきこんでくる。
「普通ですよ」
「ノート、キレイにまとめてるのに」
「ノートをキレイにまとめられることと勉強ができることは、意外なほどに別問題です」
「字もキレイだし」
「それは、子供のころに練習したので」
「有名な大学出てるし」
「出てますけど……」
「頭いいじゃん」
「本当にできる人って、ノートには必要最低限の情報だけしか書かないんです。細かく書かなくても、憶えられる」
 直樹は、そういうタイプだった。
 大学生の時、教室に残ってノートをまとめているわたしの隣に座り、直樹は笑っていた。一緒に暮らすようになってからも、わたしが冷蔵庫に誰かに電話するとかクーポンの使用期限とかメモを貼っていると、「これくらい、憶えられるでしょ」と言って笑った。「忘れちゃうかもしれないから」と返した時、直樹はなんと言ったのだろう。思い出そうとしても、笑った顔がぼやけていくだけだった。
 ずっと憶えていられると思っていたのに、驚くほどの速さで、全ては過去になっていってしまう。部屋にいる時、常に話しかけられているように感じながらも、声はもう憶えていないのだ。動画で確かめてみても、それは知らない誰かの声のようだった。
「でも、これだけ、キレイに書いていれば、何年か経った後に見ても、思い出せるし」
「日記とか、細かくつけていれば、よかったんですかね」
「ん?」店長は、わたしの顔を見上げてくる。
 周りの空気がゆがみ、自分がどこに立っているのか、わからなくなる。
 寝具店でパート中と思い出し、大きく息を吸い、静かに吐く。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「無理しないでいいから」
「はい」背中をさすってもらい、それに合わせて深呼吸を繰り返す。
 面接よりも前、わたしは客として、ここに来て店長に接客してもらった。
 その時、眠れない理由として、直樹のことを話した。
 初めて会う人相手に恥ずかしいと思いながらも、婚約中だったことや急に亡くなったことを話し、泣いてしまった。話す気なんてなかったのに、「ずっとそばにいられると思っていた人がいなくなって、眠れなくなった」と話したら、止まらなくなったのだ。迷惑な客でしかなかったのに、店長は何も言わずに最後まで聞いてくれた。
 デパートで働く人の中で、店長だけがわたしの過去を知っている。
「あっ、お客さん。行ける?」枕の棚の方を見て、店長が言う。
「はい」
「駄目そうだったら、いいよ」
「行きます」
 ノートを引き出しに戻し、大きく息を吐き、レジカウンターから出る。
 店を正面から見て、右手に枕の並ぶ棚があり、その奥に枕や他の寝具を試せるベッドが三台並んでいる。左手は入口の辺りにタオルやパジャマなどが並び、羽毛布団や敷き寝具の見本が置いてあり、一番奥がレジカウンターになっている。壁一枚隔てた裏側は倉庫になっていて、枕の在庫の他に、従業員の私物用のロッカーと小さな冷蔵庫がある。掛け布団や敷き布団の在庫を置く倉庫は、デパートのバックヤードに借りている。
 お客さまは、年配のご夫婦で、比べるようにして枕に触りながら話している。
 定年退職して数年が経ち、夫婦ふたりで老後を過ごしているというところだろう。決して派手ではないけれど、ふたりとも質のいい服を着ている。海や山の方まで行くと、高級住宅街と呼ばれる地域もあるので、その辺りに住んでいる方かもしれない。ご主人が「これがいいんじゃないか」と枕を手に取って言い、奥さまは迷っているような顔で首をかしげる。
「いらっしゃいませ」おふたりの視界に入るところに立ち、声をかける。
 声をかける時には、必ずお客さまの視界に入るようにする。見えないところからだと、恐怖を与えてしまう。
「よろしければ、奥のベッドでお試しいただくこともできますよ」
「いや、どういうのがいいかなんて、触ればわかるから」ご主人は、手にしていた枕を棚に戻す。「硬いやつがいいんだよ。できれば、そば殻がいいんだけど、扱ってないの?」
「そば殻のものは、今は扱っているお店が減ってしまいましたね。当店でも、扱いはないんです。代わりに、似たような感触のビーズを使ったものがございます」
 高齢の方は、そば殻の枕を好むようで、聞かれることは多い。だが、そば殻の枕を扱うことは、今後も絶対にない。天然の素材なので、虫が湧くことがあるのだ。完璧に除去するのは難しいし、防虫加工をしても必ず防げるわけではない。在庫管理やクレームが出た場合の対応も大変なので、扱わない寝具店が増えてきている。あるとすれば、街中にあるような昔からの布団屋さんかネットかどちらかだろう。
 この辺りだと、駅の反対側に布団屋さんがあるけれど、扱いがあるかはわからない。あったとしても、それを教えることはできなかった。寝具を販売する会社は、オーダーメイドで枕が作れたり海外製品を扱っていたり、うちの他にもいくつかある。他社の商品についても、ネットで調べて休みの日に買い物ついでに見にいき、勉強するようにしている。買う気もないくせに試させてもらったこともあり、それぞれの寝具の特徴も把握している。だが、お客さまの前では知らないかのような顔をして、自社製品をすすめる。
「これじゃあ、違うんだよな。やっぱり、そば殻には、天然のものの良さがあるんだよ」話しながら、ご主人は枕に触る。
「そうですね」
「でも、この中だったら、これが一番硬いのかな」
「枕を使われるのは、ご主人ですか?」
「いえ、私なんです」小さな声で、奥さまが言う。
「奥さまでしたら、柔らかい素材のものがオススメですよ」
「……そうなんですか?」驚いたような顔で、奥さまはわたしを見る。
「はい、たとえば、こちらなど」
 二層になっていて、上半分が綿で下半分に柔らかめのビーズが入っている枕を案内する。
 奥さまは、首が細くて、肩回りの肉も薄くなってきている。硬いものよりも、柔らかい素材の枕の方が首への負担が少ない。綿の枕は、どうしても潰れやすいのだけれど、これは下半分がビーズになっているため、支える力もちゃんとある。サイドのファスナーを開け、自分で綿やビーズの量を調整して、高さを変更できるようになっている。潰れた場合、中の素材だけを購入することもできるので、長く使えるものだ。
「こんなん、駄目だよ」手を伸ばしてきて、奥さまよりも先にご主人が枕に触る。「枕はね、硬いものがいいの。それで、しっかり頭を支えて寝る。そういうもんなんだよ。あんた、まだ若いから、わかってないんだろ」
「……はい」
 どう返したらいいのかわからなくなり、小さな声で返事をして、うなずいてしまう。そんなことはないと言いたくても、お客さま相手に言い返してはいけない。
「ごめんなさいね」奥さまがわたしに言う。「今日は、いいわ。また寄らせてもらいます」
「昔の寝具売場の店員だったら、こんな知識のない若い女の子なんて、いなかったんだけどな」店から出ようとしている奥さまを気にせず、ご主人は喋りつづける。「若い女の子自体はいたよ。高校卒業してデパートに就職して、みんながんばっていた。ここも、外商をなくしたり、安っぽくなる一方だ」
「あなた、もういいから、出ましょう」
 奥さまが肩に軽く触れると、やっとご主人は黙る。
 そのまま店から出ていき、奥さまだけがこちらを振り返り、小さく頭を下げる。
「ありがとうございました」おふたりに向けて、わたしは頭を下げる。
 棚に並ぶ枕の位置を整えてから、レジカウンターに戻る。
「売れませんでした」言われる前に、自分から店長に言う。
「大丈夫だよ」店長は、お客さまの帰っていった方を見ている。
 すでに、他の店に入ったのか別のフロアに行ったのか、後ろ姿は見えなくなっていた。
「いや、でも、クレームになるかもしれなくて……」
「まあ、ああいう人は、よくいるから」
「硬い枕神話って、なんなんでしょうね? 高齢の方ばかりではなくて若いお客さまでも、硬い枕がいいって信じてる人、多すぎません?」
「そば殻だろうね。若い人でも、子供のころに実家で使ってたとかおばあちゃんの家で使ってたとか」
「虫湧くかもしれないのに……」
「とりあえず、さっきのお客さまの情報はノートに残しておきなよ。記録があれば、もしもまた来た場合に沢村さんが休みの日でも、売上につけてあげるから」
「……はい」ご主人を怒らせてしまったし、また来ることはないだろう。
 それでも、一応、ノートに書いておく。
 売上に対して、給料とは別に報奨金が出る。
 この店で働くパートは、一日八時間週五日勤務のフルタイムが基本で、早番だけという希望は出せない。そのため、小さな子供がいる人は働きにくい。わたし以外は、中学生以上の子供がいる四十代や五十代のお姉さんばかりだ。店長が最年少だったところに、二十代のわたしが入った。お姉さんたちは、家族の状況に合わせて働く日数や時間を変えながら、若いころから様々な店で販売の仕事をしてきたようだ。ここで何年も働いている人もいて、ちょっと見にきただけでしかなかったお客さまにも見事に売り、報奨金を稼いでいる。話を聞き、接客の様子も見るようにしているけれど、そのコツがなかなかつかめない。
 報奨金を狙うよりも、まずは給料分の仕事ができるようにならなくてはいけない。
 パートの出勤日数は、月に二十二日か二十三日になる。
 忙しい時期はもう一日か二日多めに働くけれど、休みはしっかり取れて、残業するようなこともほとんどない。
 家賃や光熱費を払い、どうにか生活していけるだけの給料はもらえている。
 しかし、できれば、もっと働きたい。
 お金の問題もあるけれど、それよりも何よりも、暇なのだ。
 休みがあっても、やることがない。
 洗濯をして、部屋の掃除をして、スーパーに買い物に行って、煮たり炒めたり漬けたりしたものを冷蔵庫や冷凍庫に入れ、リビングでぼんやりテレビを見ながら、お昼ごはんを食べる。直樹がいたころは、ダイニングでごはんを食べていた。静かな部屋で、ひとりでごはんを食べる気になれず、テレビを見ながら食べることが習慣化してしまった。
 そのまま、ソファに座って配信のドラマやアニメを見るうちに夕方になり、一日が終わっていく。
 少しだけ開けた窓から、冷たい風が吹いてくる。
 日が短くなってきていて、空はほんの数分のうちに紫から藍へと色を変えていく。
 長かった夏が終わり、やっと涼しくなってきた。
 テレビではドラマを流したままにして、テーブルに置いたスマホを取る。
 出かけようと思っても、会社勤めの友達とは休みが合わない。ひとりでどこか行くとしても、映画くらいだ。だが、もともと映画やドラマやアニメが好きなわけではない。他にやることがないから、見ているだけだ。サービスデーであっても、映画一本に千円以上払うことになる。お金に困ることはなくても、毎月どうにかなったと胸をでおろすような生活をしていて、余裕があるわけではない。もったいないとしか思えなくて、なかなか行く気にならなかった。
 単発のバイトでもしてみようかと思い、スマホで検索してみるものの、この辺りだと居酒屋のヘルプや倉庫内作業が多い。
 大学生の時は、書店でバイトをしていた他に、サークルの友達と一日だけのイベント設営とか夏休み期間だけの催事のスタッフとかもしたことがあった。卒業してからは、ずっと派遣で事務の仕事をしていた。直樹がいなくなり、しばらく休んだ後で、今の寝具店でパートをはじめた。
 まだ学生だったし、友達と一緒だったから、気軽に単発のバイトもできたけれど、今は難しい気がする。SNSで調べてみると、性別や年齢はあまり関係ないようだ。たしかに、イベント設営や催事のスタッフをした時も、男女いて年齢層も幅広かった。仕事はたくさんあり、それぞれに合った場所に割り振られた。わたしが行っても、違和感はないだろう。けれど、知らない人ばかりのところにひとりで行ける気がしない。居酒屋のヘルプなんて経験もないし、迷惑をかけるだけだ。シール貼りとか、倉庫内の軽作業であれば大丈夫そうだ。でも、考えるうちに気が重くなっていく。
 スマホを裏返してテーブルに置き、テレビを消す。
 直樹が隣にいて「依里にはオレがいるから、大丈夫だよ」と言ってくれるけれど、そこには誰もいない。
 寝室に行って、ベッドに横になる。
 仰向けで目をつぶり、ゆっくり息を吸って吐き、呼吸を整える。
 ベッドフレームは、ずっと同じものを使っていて、サイズはセミダブルだ。焦げ茶色で、下に物が収納できるようになっている。ふたりで寝るには狭かったけれど、ダブルを置けるほどには部屋が広くないと考えていた。しかし、寝具店で働くようになり、セミダブルは大きめのシングルと考えた方がいいもので、ふたりで毎日寝るようなサイズではないことを知った。ダブルはシングル二台分というわけではない。シングルの横幅がだいたい一メートルで、セミダブル、ダブル、クイーン、キングの順で二十センチくらいずつ広くなる。ベッドサイドの棚の位置を少しずらせば、充分にダブルを置けた。でも、たとえ二十センチ広くなったとしても、窮屈なことに変わりはなかったかもしれない。
 みんなの前での直樹は、明るくてリーダーシップがあり、しっかりした強い人に見えた。わたしとふたりだけの時も、その印象が大きく変わったわけではない。けれど、弱いところもある人で、寂しがり屋だった。口ぐせのように「依里、依里」とわたしの名前を呼び、離れることを嫌がった。実家にいたころは、幼稚園の時にお母さんからプレゼントしてもらった黄色いゴールデンレトリバーのぬいぐるみを抱きしめて寝ていたらしい。大人になってからは、わたしに抱きついて寝ていた。夏でも、ぴったりくっついていた。身長は百七十センチに数ミリ足りなくて、太っていたわけではないし、日本人男性の平均よりやや小柄というくらいだった。それでも、代謝がいいのか、直樹はよく汗をかいた。寒いほどに冷房をつけるため、くっついてくれて、わたしはちょうどよかった。
 ひとりでセミダブルのベッドは、広い。
 その広さになかなか慣れず、端っこの方で丸くなり、眠れない日々を過ごした。
 夜の中、街は静まり、どれだけ手を伸ばしても誰もいない。
 宇宙で、ひとりぼっちになったような気分だった。
 心療内科で処方してもらった睡眠導入剤を飲んでも、頭がぼうっとするだけで眠れなかった。睡眠の環境を変えたいと考えていたわけでもなかったが、何かに引っ張られるようにして、デパートの寝具店に入った。
 そこで、店長に眠れない理由を話し、寝具を案内してもらった。店長は、最初から寝具について詳しく話したり、すすめてきたりしたわけではない。泣くわたしに「深呼吸して、少し休んでいって」と言ってくれた。数分だけ横にならせてもらってから寝具の話を聞き、わたしは自分に合った枕ばかりではなくて、身体に合ったウレタンのマットレスから羊の毛皮でできた真っ白なムートンシーツまで、一式買った。ローンも使えると言われたけれど、一括で払った。ずっと使っていたスプリングの入った硬めのマットレスは、新しいものを持ってきた業者さんが回収していった。寝心地は最高に良くて、眠れるようになった。
 そして、貯金が一気に減ってしまい、落ち込んでいる場合ではない、と目を覚ました。
 働こうと決めて、求人サイトを見たところ、一式買った寝具店でパートを募集していた。
 リビングの窓が開いたままだから、寝室まで風が通る。
 マンションの部屋は四階で、駅から離れた住宅街にあり、周りに高い建物はない。窓の外は、すっかり暗くなって、部屋の中まで夜に包まれていく。まだ時間が早いため、横になっても、なかなか眠りに落ちることはない。
 それでも、ムートンシーツの上にいると、羊の毛に支えられて身体が浮き上がって、自然と力が抜ける。動物に触れているような感覚になり、気持ちが落ち着いていく。本物の毛皮だからこそのザラッとした触り心地に、直樹の伸びかけのひげえりあしを「気持ちいいから」と、ずっと撫でていたことを思い出す。

 平日のデパートは、朝の開店時間と同時に、最初のピークを迎える。
 急ぎの用がある方ばかりではなくて、デパートには開店と同時に入るとルールのようになっている方も少なくはないようだ。一階の正面口かJRの駅の改札から通路でつながっている二階入口から入ってきたお客さまは、エスカレーターやエレベーターを使い、目的のフロアへ向かっていく。年配の女性ばかりで、派手にならない程度のお洒落しゃれをしていた。開店から三分間はデパート全体に小さな音で音楽が流れている。その間、従業員は各店舗や売場の前に立って「いらっしゃいませ」と頭を下げ、お客さまを迎え入れる。音楽が消えたら、それぞれの持ち場へ戻っていい。
 朝一に寝具店に来るお客さまはあまりいない。レジ回りの準備や掃除は開店前に終わっているので、タオルやパジャマなどのレイアウトを変えたり、倉庫の在庫を確認したり、入荷した商品の整理をしたり、忙しい時にはできないことを終えていく。
「いらっしゃいませ」パソコンで、商品の発注をしていた店長が声を上げる。
「いらっしゃいませ」わたしもタオルを並べ替えていた手を止めて、枕の棚の方を見る。
 そこには、先日の奥さまがひとりで立ち、店内を見回していた。
「いらっしゃいませ」もう一度言い、タオルを置いて、奥さまの正面に立つ。
「ああ、この前の店員さん、いらっしゃった」奥さまは安心したような顔で、わたしを見る。
「今日は、おひとりですか?」
「そうなの」いたずらをした子供みたいに、笑いながら話す。「今日、主人は昔の知り合いと朝から会っていて、そのすきにひとりで来ちゃった」
 前に来た時は、静かにご主人の後ろに隠れている印象だった。今日はひとりでいることを楽しんでいるのか、明るい空気に包まれているように見えた。
「枕をね、試させてもらいたいの」
「はい」
「この前、私には柔らかいものの方がいいって、おっしゃっていたでしょ。ずっと主人に言われるまま、硬い枕を使っていたけれど、どうも合わない気がして。若いうちは、良かったのよ。でもね、この年になると、それが本当に辛くて」
「どうぞ、奥さま、こちらにおかけください」奥のベッドに案内する。
「今日はひとりだから、奥さまなんて呼ばないで」
「失礼いたしました」
じまです。あなたは?」
「沢村と申します」黒いエプロンの胸元に留めた名札を田島さまに見えるようにする。
「沢村さんね、よろしく」
「よろしくお願いします」頭を下げる。「今、いくつか枕をお持ちしますので、こちらでお待ちください」
「はい、お願いします」田島さまはカゴにバッグを置き、そっとベッドに座る。
 足腰はしっかりしているし、喋り方もはっきりしている。まだお年寄りというほどではない。七十代の半ばから後半くらいだろう。平均寿命は、男女ともに八十歳を超えている。九十歳や百歳まで生きる方も、たくさんいる。身体を痛めず、健康に長く生きるためにも、寝具は大事だ。
 枕の棚の前に立ち、前に来た時にオススメした綿とビーズのものの他に、綿だけのものと柔らかいビーズだけのものを持ち、ベッドに戻る。素材だけではなくて、形も違い、値段も違う。
「お待たせしました」隣のあいているベッドに枕を置き、わたしは田島さまの前に跪く。「まずは、こちらの枕で寝てみてください」
 前にオススメした枕をベッドに置き、不織布をかける。
「こうで、いいのかしら?」靴を脱いでベッドに上がり、田島さまはゆっくりと横になる。
「もう少し上ですね、枕に首まで乗せるようにしてください」
「あら、そうなの?」
「枕は頭を乗せるものとお考えの方がいらっしゃるのですが、大事なのは首になります。頭って、すごく重くて、ボウリング球くらいあるんです。寝ている間は、それを一日中支えていた首を枕で休ませてあげてください」
「私の頭なんて、何も入っていなくて空っぽなのにね。よく主人にからかわれるのよ」笑いながら言い、首の位置を枕に合わせる。「こうで、いいのかしら?」
「はい、大丈夫です。そのままでいてくださいね」
 離れて、寝姿勢を見る。
 横から見た感じとして、あごが上がって後頭部が下がっている。枕で首のすきを埋めて、頭がまっすぐになるのが理想の寝姿勢だ。ビーズを抜いて首元を少し低くした方がよさそうだ。沈み具合はいいので、中の素材は問題ない。しかし、これは、思ったよりも寝心地が悪そうだ。枕の形が、田島さまの頭の形に合っていない。縫い目が入っていて、頭の形がしっかりと決まっているものだから、合う人にはぴったりはまるのだけれど、合わない人だと後頭部が浮いてしまう。田島さまは頭が小さいので、枕の縫い目が頭よりも外に出ている。
「寝心地、いかがですか?」本人にも確認をする。
「柔らかさはいいです。でも、ちょっと安定しない感じがするわね。慣れてないからかしら」
「一度、起き上がってもらえますか? 枕を交換しますね」
 田島さまに身体を起こしてもらい、ビーズだけの枕と交換して、不織布をかける。こちらも縫い目は入っているものの、最初のものほど頭の形がはっきりと決まっていない。
「どうぞ、寝てみてください」
「あら、こっちの方がいいかも」田島さまは寝てみて、すぐに言う。「なんて言ったらいいのかしら、首と頭がね、大きな手で優しく包まれているみたい」
「そうですね。先ほどのものよりも、こちらの方が田島さまの頭の形に合っています。この布の下から、頭を触らせてもらっても、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「さっきの枕だと、この辺りが浮いてしまうんです」不織布越しに、耳の後ろ辺りを触る。
「そうね、この枕は、しっかり支えてくれるから、すごく楽」
「ここが浮いていると、後頭部の一番出っ張っているところで、重たい頭を支えることになるんです。寝ている間、その一点に力がかかるため、頭痛や肩こりを起こす方もいらっしゃいます」
「寝具で肩こりや頭痛が治るのかしら? 若いころからずっとで、はりやマッサージに行っても良くならないのよ」
「頭痛も肩こりも、原因は様々ですが、寝具を替えることで楽になったという方はいらっしゃいます」
 医者ではないため「治る」と言ってはいけない。これは、法律で決まっていることだ。医師法第十七条に「医師でなければ、医業をなしてはならない」と定められている。寝具にできることは、あくまでもお客さまの睡眠環境を快適にすることであり、病気を治したり姿勢を正したりすることはできない。
「結婚してから五十年、主人に言われるままで、寝具が自分に合うか合わないかなんて、考えたこともなかったの。いまだにね、夫婦で一緒に寝ているのだけど、マットレスも合っていないのかしら。これ、寝やすくていいわね」
 起き上がって、田島さまはマットレスに触り、柔らかさを確かめる。
 三台のベッドには、硬さの違うマットレスが置かれていて、これは一番柔らかいものだ。
「枕と同じで、それぞれのお身体に合ったマットレスもご案内できますよ」
「そうなのね」
「よろしければ、他のマットレスもお試しになりますか?」
「いいわ」田島さまは、首を横に振る。「マットレスは、さすがにこっそり買えないから、やめておく。他を試したら、欲しくなっちゃう。今日は、枕だけ、いただいていきます。これがいいかしらね?」
「もうひとつ、素材のさらに柔らかいものと比較させてもらっても、よろしいでしょうか?」
 用意していたものから、綿だけのものを置き、寝てもらう。
 しかし、綿だけだと、やはり柔らかすぎるようだ。頭も首も沈みきってしまう。二番目のビーズだけのものに決め、高さの調整方法やお手入れ方法やビーズだけを買い足せることなどを説明して、最後に「衛生用品なので、使用後の返品や交換はできません」とお伝えして、購入の意思を確かめる。
「こちらで、お願いします」わたしの目を見て、田島さまは言う。
「ありがとうございます。ただいま、新しいものをご用意いたしますので、お待ちください」
 倉庫から、新しい枕を持ってくる。専用の袋に入っているため、中を田島さまに確認してもらい、レジに案内する。
 田島さまは、デパートの特別な会員の方だけのカードを持っていたので、そこから会計を済ませる。
 枕の入った袋を持って、店の前までお送りする。
「子供のものも、あるのね」田島さまは、商品の飾られた棚を見上げる。
 赤ちゃんでも安心して使える綿素材の毛布や小学校に上がる前の子供向けの枕も扱っている。夏は、キャラクターものの肌掛けがよく売れた。
「今度、孫のものを買いにきます」
「ぜひ、またいらっしゃってください。枕のことも、高さが合わないなどあれば、ご相談ください」
「よろしくお願いします」
「ありがとうございました」枕を渡して、頭を下げる。
 わたしに向かってほほみ、小さく手を振ってから、田島さまはエレベーターの方へ歩いていく。
 後ろ姿が見えなくなるまで見送る。
 使った枕は、他のパートのお姉さんたちが片付けてくれていたので、レジに入る。カードの控えを引き出しの中の決められた場所へ入れておく。会員のカードを持っている方は、たまにしか来ないため、会計に間違いがなかったかも確かめる。今でも、都内にあるこのデパートの本店には外商がいるのだけれど、支店では何年か前に廃止されたらしい。代わりというわけではないが、お得意さまは特別な会員として扱われるようになった。前に来た時、ご主人が外商について話していたし、田島さまの家には、以前は外商が出向いていたのかもしれない。
「売れたね」店長がわたしの横に立つ。
「はい! 売れました!」安心と喜びで、声が大きくなる。
「また来ると思ってたから」
「えっ? そうなんですか?」
「大丈夫って言ったでしょ」
 田島さまがご主人と来た時、店長から「大丈夫だよ」と言われた。それは、売れなかったことを気にしないでいいという意味かと思っていた。
「どうして、戻ってくるって思ったんですか?」
「においかな」自分の鼻を指さす。
「におい?」
「それより、マットレスもいけたよね!」わたしの顔を見て、店長が言う。
「……ああ、はい」
 断られても、「試すだけでも、どうですか?」という図太さがなければ、販売の仕事はやっていけない。本社の人やエリアマネージャーからは「枕を買ったお客さまには、必ずマットレスを試してもらい、ムートンまで寝てもらうように」としつこく言われている。
「次のお客さま、がんばって」
「はい!」

 遅番の人が出勤してきたら、早番は交替で休憩に行く。
 わたしはまだお腹がすいていなかったので、店長に先に行ってもらった。
 開店のピークが過ぎた後、少しだけ落ち着く時間があり、お昼ごろからまたお客さんが来る。駅の反対側に市役所があり、周辺にはいくつかの会社もある。そこに勤める人たちがランチのついでに買い物に来たりもするため、慌ただしい雰囲気になる。
 グレーのスーツを着た男性が棚の前に立ち、枕を見ている。
 すぐに声をかけると出ていってしまうことがあるので、レジカウンターで作業をしながら、様子を見る。
 棚の上に貼られた枕の説明が書かれたポスターを見上げたりパンフレットを手に取ったりしているので、ランチの後の暇つぶしではなくて、興味を持って入ってきたのだろう。
 レジカウンターから出て、お客さまの横に立ち、声をかける。
「いらっしゃいませ、枕をお探しですか?」
「はい、ずっと眠れなくて」そう言って、お客さまはわたしの方を見る。
 目が合った瞬間、ふたりとも凍り付いたように黙り、動かなくなる。
 知っている人だった。
 たった一度会って、あいさつをしただけだ。
 友達ではないし、知り合いと言っていいのかも迷う。
 顔もよく憶えていないと思っていた。けれど、人間の記憶は複雑で、憶えていたいことを思い出せなくなるのに、忘れたいことは簡単に忘れさせてくれない。顔を見たら、記憶の引き出しが乱暴に開かれた。
「お久しぶりです」相手の方が先に言う。
「……」返そうと思っても、声が出なかった。
「あの、たかはしです。憶えていませんか?」
「……憶えています。お久しぶりです」どうにか出た声は、とても小さかった。
「えっと、沢村エリさんですよね?」
「エリじゃないです、ヨリって読みます」
「依里さん」
「はい」
「そうなんですね、すみません」髙橋さんは、頭を下げる。
 嫌みみたいなことで、わざと間違えたのかと思ったが、そういう人ではないだろう。
 年齢は、わたしよりも二歳か三歳は上だったと思う。三十歳を過ぎているけれど、そうは見えない。色が白くて、背が高くて、爽やかな印象の人だ。見た目では性格なんてわからない。でも、前に会った時、他の人が泣いたり怒鳴ったりする中で、彼だけは何も言わずに座っていた。強い人だと感じた。誰よりも、泣いて怒鳴りたかったのは、彼のはずだ。ただ、あの時は、そんな気力もなかったのかもしれない。
「あの、偶然です」慌てたように、髙橋さんは言う。「営業で、今月から、この辺りの担当になって。この近くの店舗に挨拶に行った帰りで。だから、沢村さんがここにいるって知ってたわけじゃないんです」
「大丈夫です、わざとなんて思ってません」
「……そうですよね」
「……はい」
「お元気でしたか?」落ち着いた口調になり、髙橋さんはわたしを見る。
 目が合わないように、わたしは斜め下に視線を向ける。
「はい、なんとか。そちらは?」
「基本的には。ただ、眠れなくて、困っています」
「そうですか……」
 この人は、わたしがいることを知っても、ここで枕を見る気なのだろうか。わたしからここを出ていくことはできないから、適当に出ていってほしい。「偶然」と言いながら、本当はわたしをさがし出して、ここへ来たのかと疑ってしまう。
 去年の冬、直樹は、バス事故で死んだ。
 その時、一緒に亡くなったのが髙橋さんの奥さんだ。
 被害者遺族の会で会った時に挨拶だけして、今後の慰謝料などに関する連絡は、弁護士を通すことになった。個人で連絡を取り合わないように言われた。わたしは法律上、直樹とは関係がない。そのため、全ては直樹の両親が話を進め、その後どうなったのか聞いていなかった。結婚していた髙橋さんは、わたしとはわけが違う。
 髙橋さんのスーツのポケットで、スマホが鳴る。
「あっ、すみません。また来ます」スマホを見ながら、慌てて店から出ていく。
「……ありがとうございました」後ろ姿に向かって頭を下げ、息を吐く。

  *

 六十代前半、女性、身長は百五十五センチくらい、体重は重めで腰の辺りにボリュームがある。腰痛があり、右膝をずっと痛めている。
 条件に合わせ、枕とマットレスを用意する。
「どうぞ、こちらに仰向けで寝てみてください」
 あいているベッドに座っていたなえさんを案内する。
 早苗さんは、デパートが契約する設備管理を専門とした会社から派遣され、清掃の仕事をしている。バックヤードの清掃も担当していて、お手洗いや休憩室で顔を合わせてあいさつを交わすうちに、話すようになった。開店前から働き、十五時には退勤する。退勤後、特に予定がないというので、接客の練習に付き合ってもらえないかお願いした。
 身長やだいたいの体重を見て、どういうお客さまにどの寝具をオススメするのか、マニュアルみたいなものはある。だが、体形が似ていたとしても、頭の形や首のカーブや足腰の肉付きまで同じなわけではない。人によって、ミリ単位の細かい差がある。肩こりや腰痛、過去のケガなど、それぞれで痛むところも違う。その人に合った寝具をオススメできるように、数をこなさなければいけない。
 お客さまがいない時であれば、店のベッドを使って、練習していいことになっている。
「こうで、いいの?」早苗さんは、ベッドに横になる。
「もう少し上ですね。枕に首まで乗せてください」
「首って、どこまで?」
「ここに少し出っ張っている骨がありますよね?」わたしは結んだ髪をよけ、自分の首に触って説明をする。
 首と背中の間に、出っ張っている骨があり、これが「第七けいつい」と呼ばれる。ここまでが首になるため、しっかり枕に乗せた方がいい。第七頸椎が乗っていない状態だと、首の骨がまっすぐにならず、カーブを描いて反っているような状態になる。
「これくらい?」
「首元、この布の下から触っても大丈夫でしょうか?」
「どうぞ」
「失礼します」枕に敷いた不織布の下から、首に触らせてもらう。
 位置は合っているが、わたしの手が余裕で入る隙間があり、高さが足りない。
 枕が高すぎると、首を一晩中圧迫することになる。その圧迫を「ちょうどいい」と、好む方も多い。数分だけであればいいのだけれど、六時間から八時間つづくと、首を疲れさせる原因になってしまう。マッサージを一時間くらい受けるのは気持ちいいし、身体も楽になる。しかし、何時間もつづけて受けたら身体は逆に疲れていき、痛めることもある。それと似たようなことだ。
 だからと言って、低ければいいわけでもない。高さが足りていないと首が浮いて、第七頸椎と後頭部の一番出っ張っている部分を支えに、橋をかけたような状態になる。ブリッジのポーズを首にさせることになり、これも首を疲れさせる原因になる。身体は繫がっているため、そこから肩こりや頭痛の他に、背中の張りを起こす方もいる。
「後頭部の方も、少しだけ触らせてもらいますね」
「はい」
「こちらは大丈夫そうですけど、違和感はありますか?」
 圧迫されているところも浮いているところもなくて、素材も合っている。
「大丈夫」
「寝返りを打って、わたしの方を向いてもらえますか?」
「こう?」早苗さんは、痛む右膝をかばいながら、身体を動かす。
 ケガをしたとかではなくて、長年清掃の仕事をしていてしゃがむことが多いため、慢性的に痛めているようだ。
「足痛ければ、無理しないでください」
「大丈夫」
「横向きも少し低いですね」
 高さが合っていないため、首がななめに下がっている。
 この店で扱っている枕の多くは、真ん中が低くなっていて、首元と頭頂と左右が高くなっている。仰向けと横向き、それぞれの姿勢に高さを合わせられる。後頭部や首という硬い部分が当たる仰向けとほおという柔らかい部分が当たる横向きで、中の素材を変えているものもあった。
「これで、低いの?」早苗さんが聞いてくる。「うちの枕、もう潰れちゃってるからか、これだと高い感じするけど」
「そのまま寝ていてくださいね」枕の下に一センチの厚さの板を入れる。
「あっ、上がった」
「抜きますね」声をかけながらそっと板を抜く。
 首には、のどがあるばかりではなくて、食道や気管が通り、脳と身体を繫ぐ様々な神経も通っている。繊細な場所なので、枕の高さを変える時には、お客さまに衝撃を与えないように気を付けなくてはいけない。
「下がった」
「もう一度、板を入れます」
「ああ、こっちの方が首が安定した感じがする」
「今、この状態だと、首がまっすぐになっています。首が下がったり上がったりしていると、本来はまっすぐのものが曲がった状態がつづくため、寝違えを起こしたりします」
「なるほど」
「形や素材は合っているので、こちらの枕に少しビーズを足して、お使いいただくことがオススメです。交換用のビーズが一袋つくので、買い足す必要はありません」
「ちなみに、おいくら?」早苗さんは、両手で身体を支えながら起き上がる。
「消費税込みで一万六千五百円になります」
「やっぱり、高いのね」
 棚に並ぶ枕は、一番安いものでも六千六百円する。ネットやショッピングモールのプライベートブランドなどで探せば、安い枕はたくさんある。それらが悪いわけではない。安くても、その人に合うものがあったら、それが一番いい。逆に、どんなに値段の高いものだとしても、合わない枕を使いつづけると、首や肩を痛めてしまうことはある。
 ここはデパートだし、安いものばかり並べるわけにはいかない。また、寝具店には、江戸や明治のころからそれだけを専門としてきた研究と知識の積み重ねがあり、ネットやショッピングモールで売っている安価なものと同じように見えても、枕に使われている生地から違う。寝返りが打ちやすいように、縫い方までこだわって作られている。
「これは、いくらするの?」早苗さんは、マットレスに触る。「首より、とにかく腰と膝が痛いから、敷くものをどうにかしたいのよ。今は、綿の布団を敷いてるけど、それも潰れて薄くなっちゃってるから。三万円くらいだったら、出してもいいかな」
「こちら、二十二万円になります」
「……えっ!」驚いた声を上げながら、立ち上がる。
「サンプルなので気にせず、好きなだけ寝てください」
「買えないわ」そう言いながら、早苗さんはマットレスに座り直す。「もっとお手頃なものってないのよね?」
「なくはないですけど、三万円だと難しいです」
「そうよね、デパートだものね」見回すように、棚に並ぶ寝具を見る。
 枕と同じように、敷き寝具や掛け布団も「安い」と思えるようなものは扱っていない。商品は気に入ってもらえても、値段を理由に「買えない」と断られることはある。
「たとえばなんですけど、枕の中にタオルを入れて、高さを調整してみてください」
「重ねるんじゃなくて、中に入れるの?」
「重ねるだけだと、眠っているうちにずれてしまうんです。枕自体に入れられないのであれば、カバーの中でも大丈夫です。その場合、できるだけずれないように、枕の下に入れるようにしてください。お使いになっている枕が低いっていうことなので、ハンドタオルくらいのものを入れて首元を数ミリだけでも上げれば、首だけではなくて全身の姿勢も変わると思います。一センチ二センチと上げなくても、ほんの数ミリで全然違うんです」
 常連のお客さまが夫の転勤で系列店のない地域に引っ越すと話していた時、枕が低くなった場合の対処方法として、店長が同じように説明していた。普段、そういった対処方法を話すことはない。お客さまから「買えない」と言われるたびに、今の寝具のままでもこうすればいいと話していたら、違う商売になってしまう。
「さっき、枕の下に板を入れてもらった時、首が安定したからか、腰も楽になった気がしたのよね」手を上下させて首と腰の状態を表しながら、早苗さんは話す。
「そうなんです! 首の隙間を枕でちゃんと支えてあげると、身体の力が抜けるので、腰も安定することがあるんです」
「家で、やってみる」
「もし痛むようでしたら、すぐにやめてくださいね」
 売りながら「高いな」と感じることはある。
 わたし自身、判断力がしっかりしている時であれば、買わなかったかもしれない。眠れるようになったし、いいものだとわかっているから後悔はない。けれど、簡単に買う決断ができるような金額ではないのだ。

 早苗さんが帰ったのと交替するように、母親と息子の親子連れが入ってくる。
 母親は、まだ夏がつづいているかのような白のジャケットと白のパンツで、サングラスをかけている。息子さんの方は、中学生か高校生か、白いオーバーサイズのロンTに黒のカーゴパンツを穿いていた。
「あっ、沢村さん、いた!」母親の方がそう言い、サングラスを外す。
「ああっ! かわもとさま! いらっしゃいませ!」
 川本さまは、一ヵ月くらい前に来店して、ご主人の枕とお子さんたちの毛布やタオルを購入していった。その時に一緒に来たのは、小学校一年生の男の子と保育園に通う女の子だった。「もうひとり上にいて、そろそろ枕替えたいから、今度連れてくる」と話していた。長男は歳が離れていると言っていたので、この子がそうなのだろう。
「今日は、息子さんの枕ですか?」
「そう! あと、マットレスも見せてほしいの」
「マットレスも、息子さんのですか?」
「わたしは、チビたちと寝てるから。この前、話したでしょ」
「そうでしたね」
 長男がひとりで寝られるようになったころ、次男が産まれて、すぐに長女も産まれ、もう何年も落ち着いて寝られていない。夫婦の寝室では、川本さまと下のお子さんたちが一緒に寝ていて、ご主人は書斎のソファベッドで寝ている。小学生になった次男は、ひとりで寝るための練習をしているのだけれど、まだお母さんに甘えたいみたいで、夜中にベッドにもぐりこんできて起こされる日も多いという話だった。
「こちら、どうぞ」奥のベッドに案内して、座ってもらう。
 ベッドに座るふたりの正面に、わたしは片膝を立てて跪く。寝具を試してもらう時、この姿勢でいる時間がつづくため、わたしも膝に気を付けた方がいいかもしれない。
「ほら、たい、欲しいマットレスがあるんでしょ」
「あの、これなんですけど」
 大我くんは、スマホの画面をわたしの方に向けてくる。
 そこには、メジャーリーグで活躍する日本人野球選手が愛用中と言われているマットレスが載っていた。
 国内最大手の寝具メーカーが出しているもので、うちの会社の商品ではないが、店での扱いはある。人間の身体の曲線に合うように研究がつづけられていて、何度かリニューアルをしている。シリーズで、購入しやすい価格帯のものもあるが、大我くんが欲しがっているものは最高品質で、シングルサイズでも三十万円近くする。
「野球、お好きですか?」
「はい、野球部です」
 これくらいの年齢の子は思春期と反抗期が入り混じり、親に連れられてきても、うまく話せない子もいる。けれど、大我くんは野球部で鍛えられているのか、ハキハキと話す。
「今、何年生?」
「中三です。だから、部活はもう引退したけど、高校でもつづけるので」
「身長は、まだ伸びてますか?」
 今の身長は、五センチヒールのパンプスを履いた川本さまよりも少し高くて、百七十センチあるかないかというところだ。直樹と同じくらいだと思う。手も足も大きいから、あと何センチか伸びるだろう。
「夏休みに結構伸びたけど、止まってないと思います」
「休み前まではね、わたしよりも小さかったんだから」川本さまが言う。「それが急に大きくなっちゃった」
「今、サンプルの商品をお持ちするので、こちらでお待ちください」
 ベッドから離れ、レジ前に野球選手の等身大パネルと並べて飾られているサンプルを棚から取る。スマホには、ベッドマットタイプのものの画像が載っていたが、これは折りたためる敷き布団タイプのものだ。機能性として、違いはない。
 一ヵ月くらい前に来た時、川本さまのご主人はブラックのクレジットカードを持っていた。それを見なくても、持ち物や話し方や態度から、お金に余裕があることは伝わってきた。家族全員が明るくて、子供たちの欲しがるものを躊躇ためらいなく買っていた。
 三十万円近いマットレスも、軽く買えるのだろうから、こちらも軽く売ってしまえばいい。
 しかし、大我くんに、このマットレスはオススメできない。
 野球選手やサッカー選手、フィギュアスケートの選手など、スポーツ選手が実際に愛用していて、広告にも出ている寝具はいくつかある。「同じものが欲しい」と、店に来るお客さまはいる。試しもせずに「これ、ください」と購入しようとする方もいた。そういったお客さまには、衛生用品だから使用後は返品や交換ができないことを何度も確認する。
 マットレス自体は、とてもいいものだ。
 わたしも、同じシリーズのものをムートンシーツの下に敷いている。それは、スポーツ選手が使っているものではなくて、自分の身体に合った、シリーズの中でも安価なものだ。メジャーリーグで活躍する選手に比べたら、大我くんの身体は一回り二回りどころか、三回りは小さい。男の子は、ほんの数ヵ月の間に、十センチ以上伸びることもある。「息子に買ってあげたばかりの枕がもう合わない」とクレームの電話がかかってきて、詳しく聞いてみたら、購入してから身長が急に伸びて体重も増えたということだった。大我くんも、まだ身長が伸びているのであれば、もう少し大きくなってから考えた方がいい。
 もともと敷いていたマットレスを店長とパートのお姉さんが別のベッドに移してくれたので、あいたところに持ってきたマットレスを敷く。大我くんに合っているであろう枕も置く。折り畳み椅子を出して、川本さまにはそこに座ってもらう。
「どうぞ、こちらに寝てみてください」
「ありがとうございます」
 好きな選手と同じものが欲しくて、楽しみにしていたのだろう。嬉うれしそうな顔をして、大我くんはベッドに横になる。
 だが、その表情がすぐに曇っていく。
 右へ左へと寝返りを打ち、さらに表情を曇らせる。
「どうですか?」わたしは、ベッドの横に跪く。
「なんか、硬い」起き上がり、大我くんはマットレスを手で押しこむ。
 ウレタンでできていて、凹凸がある。手で押すと、ひとつひとつの出っ張りだけがひっこむ。意識して力をかけなければ、マットレス全体が沈むことはない。
 身体の向きを変え、わたしは川本さまの方を向く。
「ご主人が枕をご購入される時にも、説明させていただいたのですが、寝具には身体の大きさや体形によって、合うものと合わないものがあります。マットレスも、同じです。こちらのマットレスは、身長も体重もある方向けのもので、今の大我さんには合わないかと思います」
 売上は欲しいし、うまく言って気分良く買わせるのが販売の技術というものだ。売れるか売れないか、レジカウンターにいる店長が気にしているのも、背後からの気配で伝わってくる。
 わかっていても、うそをついて、買わせることはできなかった。
 まだ子供で、合わない寝具を選ぶことは、身体の成長にも影響するかもしれない。小さな子であれば、寝ている間に大きく動きまわるので、好きなキャラクターのものや好きな感触のもので、充分だ。だが、成長期の子やスポーツをやっている子は、そういうわけにはいかない。合わないものを使って、肩や腰を痛めてしまったら、野球をつづけられなくなることだってある。
「今は、どういったマットレスをお使いですか?」
「五年くらい前に買ったものだよね?」川本さまは、大我くんに聞く。「それもウレタンので、これよりもっとポコポコしてる。小さな山がいっぱいあるみたいなの」
「どちらで、買われました?」
「ここで買ったのよ。その時の店員さん、辞めちゃったから、しばらく来てなかったの」
「少々お待ちください」
 レジカウンターに入り、パソコンで顧客情報を検索する。川本さまは、すでに辞めた店員が以前は担当していた。五年半前にマットレスを購入している。大我くんが小学校四年生になった時だ。先を考えたのか、四年生が使うものとしては、やや硬めのものを選んでいる。価格を考えても、もう使えないというほどではないだろう。マットレスは、すごく高いものや打ち直しができる綿布団など例外はあるけれども、価格がおおよその耐久年数になる。一万円で一年だ。
「お待たせしました」大我くんの前に、また跪く。「今のマットレスだと、寝心地が悪いですか?」
「悪くないです」首を横に振る。
「引退まで、部活をがんばったから、ご褒美っていうだけなのよ」川本さまが言う。
「そうであれば、高校入学の際に、お祝いにするのはいかがでしょうか? あと、四ヵ月半ほどですが、その間に身長も伸びるでしょう。高校でも野球をつづけるのであれば、体格も変わっていくと思います。その時、お身体に合わせて、枕と一緒にご購入されることをオススメいたします」
「どうする?」
 川本さまが聞くと、大我くんは「そうしたい」と言い、大きくうなずく。
「その際には、またご案内させていただきます」
「もちろん、お願いします」川本さまはそう言って立ち上がり、大我くんも「お願いします」と言ってベッドから立つ。
「ありがとうございました」
 ふたりを見送り、使ったマットレスや別のベッドに移したマットレスを元の場所に戻す。
 何か言われるかと思ったが、本社から店のスマホに電話がかかってきたみたいで、店長は裏の倉庫に入っていた。
 レジカウンターに入り、川本さまの顧客情報を改めて確認する。
 大我くんのマットレスの他に、ご主人のマットレスも購入していた。敷き布団タイプのものだから、ソファベッドに敷いているのだろう。子供たちのパジャマやタオルの購入履歴もあった。前担当者の時から、頻繁に来ていたようだ。
 しかし、川本さま自身の枕やマットレスやパジャマを買ったと思われる記録はなかった。
 顧客情報が家族で別になってしまっていることもあるので、検索してみたけれど、そういうことでもないようだ。前に来た時には「奥さまも、いかがですか?」とオススメしてみたものの、「わたしは、いいから」と笑っていた。
「売れなかった?」店長が倉庫から出てきて、わたしの横に立つ。
「お子さんのマットレスで、成長期が終わってからということになりました」
「そう」
「でも、必ず、また来てくださるかはわからず」
「来るでしょ」
「……においですか?」
「何それ?」不思議なものを見るような目をして、店長はわたしを見上げる。
「田島さまの時、店長が言ったんじゃないですか」
「言ったかなあ」とぼけたみたいに笑いながら、首をかしげる。

 プレーリードッグがきなこもちのような身体をもちもちさせながら、両手で持った草を食べつづけている。
「プレーリードッグって、ねずみ? リス? 犬ではないよな」隣に立つ弟のほくが聞いてくる。
げっもくリス科」
「なんで、すぐに出てくんの? どこかに書いてある?」北斗は、説明書きがないか探す。
「そこにある」わたしは、説明書きを指さす。「でも、見てないよ」
「憶えてんの?」
「うん」
「記憶力、異常だよな」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「記憶っていうよりも、暗記だから」
 本や教科書に書いてあることは、そのまま憶えられるというだけだ。普段の生活で、やらなくてはいけないことや人から聞いたことは、たまに忘れてしまう。
「そもそも、ねずみもリスも齧歯目っていうこと?」
「そう。だから、どちらかと言えば、リスだね」
 話しながら、もちもちするプレーリードッグを見つづける。
 電車に乗り、久しぶりに都内まで出てきた。
 ここの動物園は東京の真ん中にありながら、象や猿といった定番から、虎や白熊や南国の色鮮やかな鳥まで、何百種類もの動物がいる。多くの人は、パンダを目的に来ていて、お土産みやげ屋にもパンダのぬいぐるみが積まれていた。子供のころは、端から端まで見てまわったけれど、今日はプレーリードッグに集中したい気分だった。
「なんか、冷えてきた」北斗が言う。
「そろそろ出ようか?」
「出たところで、お茶でも飲んでいこう」
「そうしよう」
 他の動物も見ながら、出口の方へ向かう。
 さっきまで遠足らしき子供たちがいて、目を輝かせてキリンを見上げたりしていたが、もう帰ってしまったようだ。大学生ぐらいの子たちのグループやわたしよりも少し若そうな恋人同士や小さな子供のいる家族連れとすれ違う。
 陽が出ているうちは暖かかったけれど、雲が出てきて、肌寒くなってきた。
 デパートの売場には窓がなくて、どの店にもひとつ先の季節の商品が並んでいる。働いていると、季節がわからなくなってくる。
 この前まで夏だったのに、秋はもう終わりに近い。
 動物園から出てすぐのところにコーヒーショップがあったが、あいている席がなかったため、正面にあるカフェに入る。
 わたしはホットのフレッシュハーブティーを頼み、北斗はコーヒーとまっちゃシフォンケーキを頼んだ。
「食べないでいいの?」フォークを取り、北斗はわたしを見る。
「お腹すいてない」
「食欲ないの?」
「そういうことじゃない」首を横に振る。「今食べると、中途半端になるから」
 食べたい気持ちはあったけれど、シフォンケーキの他はパンケーキやブラウニーなど、それだけでお腹がいっぱいになりそうなスイーツしかなかった。四時を過ぎている。今食べてしまうと、夕ごはんが入らなくなる。
「最近は、ちゃんと食べてるよ」わたしから言う。
「だったら、いいけど」
「心配しないでいいから」
 直樹がいなくなった後もしばらくは、わたしはそれまで通りに働き、ごはんを食べて眠っていた。頭も心も、何が起きたのか理解することを全力で拒否していたのだと思う。住んでいるマンションやお金のこと、ひとりで考えて決めなくてはいけないこともあり、手続きや調べ物に集中した。しかし、目を逸らしつづけることはできず、眠れなくなり食べられなくなり、動けなくなった。
 マンションの部屋から出られないで、ぼんやり過ごすわたしに、両親は「帰ってくれば」と言ってくれた。実家は県内にあり、電車で三十分ほどの距離だ。父親が「車で迎えにいくから、荷物をまとめておきなさい」と、連絡してきた。そうした方がいいのだと思いながらも、できなかった。部屋を出てしまったら、もう戻ってこられなくなる気がした。
 両親は、ひとりでマンションにいつづけるわたしをどう扱っていいのか、わからなくなったのだろう。代わりに、北斗が連絡してくるようになった。北斗は、都内にある会社に勤め、ひとり暮らしをしている。東京までは一時間ぐらいで出られるが、用がなければ行くことはない。「行ったことないようなところで遊んだりすれば、息抜きになるんじゃない?」と言われても、無視しつづけた。それでも、定期的に連絡をくれた。姉が生きているのか、心配だったのだと思う。休みの日にマンションまで来て、ごはんを作ってくれたこともあった。直樹がいなくなって一年が経っても、眠れない日はつづいていた。けれど、心療内科に通ったり、近くのスーパーに行ったり、外に出られる時間は少しずつ長くなっていった。
 春になったころ、デパートに入っているフルーツパーラーで、季節限定のいちごがたくさん載ったパフェを北斗と一緒に食べた。パフェはとてもおいしくて、久しぶりに姉と弟で楽しく話せた。夕方から予定があると言い、北斗は先に帰っていった。わたしは、デパートを見ていくことにした。デパートは駅前にあって、マンションまで帰る時に横を通ることはあっても、数えるほどしか入ったことがなかった。洋服や靴やバッグ、食器や旅行用品を見るうちに、無意識に直樹のものを買おうとしていた。男性向けの下着や靴下が並ぶ店に入り、いつも通りのことのように「スーツの時用の靴下、買い足しておこう」と手に取った。棚に戻し、エスカレーターで下りたところに、寝具店があった。
 今は、働けているし、眠れない日も減った。帰りが遅かったり料理することが面倒くさかったりして軽く済ませる日はあるが、食べられないことはない。もう大丈夫だからとどれだけ言っても、今も家族には心配をかけているのだろう。先週末、北斗から「土曜出勤の代わりに平日休み取れるから、どこか行かない?」と連絡があった。気を遣わなくてもいいのにと思ったけれど、誰かとどこかに行きたい気分ではあったので、「動物園がいい」とリクエストした。この辺りには、動物園の他に美術館や博物館もあり、子供のころに家族でよく来ていた。
「いる?」
「ひと口ちょうだい」
「どうぞ」北斗は、抹茶シフォンケーキのお皿をわたしの方に寄せる。
「ありがとう」フォークを借りて、ひと口もらう。
 軽い苦みがあり、抹茶の香りが口の中に広がる。生クリームとの相性もいい。抹茶味のスイーツを自分で頼むことはないから、何年も食べていなかった。
 直樹は、ふたりでごはんを食べた時、わたしの好きなスイーツを選ばせてくれた。「依里は、好きなものを二種類食べられるでしょ」と言っていた。わたしは、直樹の好きなものを考え、選ぶようにしていた。そのうちに、直樹の好きなものがわたしの好きなものになっていった。抹茶の苦みが直樹は苦手だった。
「もっと食べてもいいよ」
「いい」フォークを返し、ハーブティーを飲む。
 透明なガラス製のポットに、生のままのハーブがたくさん入っている。ローズマリーの香りがして、気持ちが落ち着く。メニューにも「ローズマリーやラベンダーの香りにはリラックス効果があり、自律神経を整え、安眠を誘うとされている」と、書いてあった。
「仕事は? 慣れた?」
「半年以上経つからね。でも、なんか、いまいち」
「いまいちって?」
「売れないんだよね。全く売れないわけじゃないけど、高いものが売れない」
 川本さまが帰った時、店長は本社からの電話に出ていた。その電話は、売上に関することだったようだ。系列店の中で、売上は悪い方ではない。わたしは売れていなくても、他のパートのお姉さんたちはしっかり売っている。だが、充分ではなくて、「もっと売るように」と求められる。パート個人の売上も、本社は把握しているため、そろそろ怒られるかもしれない。
 うちの店の店長は女性だけれど、他の店の店長はほとんどが男性で、本社から来る人も男性ばかりだ。商品開発部の女性社員が現場を見たいと店に来ることもあったが、上司と揉

めて辞めてしまったらしい。男の人に怒られることは、考えただけで、しんどい。
「そんながんばらないで、適当でいいんじゃないの? パートでしかないんだから」
「そういうわけにもいかないよ」
「ずっと働く気でもないんだろ?」
「うーん、そうだね」
 パートをはじめた時は、働けると思えるようになったら別の仕事を探すつもりで、とりあえずという気持ちだった。売上や報奨金のことは、あまり考えていなかった。暇そうだし、楽な仕事だと思っていた。けれど、勉強しなくてはいけないことはたくさんあり、売上に追われ、ぼんやりしている時間なんて、全くない。すぐにでも辞めたいと思う日もあるが、辞めてしまうのは「もったいない」と感じることもあった。
「やりたいこととかないの?」北斗は、残りの抹茶シフォンケーキを食べる。
「……やりたいこと?」
「中学生や高校生のころは、ミステリーハンターって言ってたじゃん」
「部活しかしてなかったからね」
 中高一貫の私立の学校で、中一から高三まで考古学部だった。夏の合宿では、日本各地の文化史跡や遺跡を見にいき、秋の文化祭までに研究結果をまとめて冊子を作り、みんなの前で発表した。それ以外にも、県内にある歴史的建造物をみんなで見にいった。海外にも見にいきたくて、高校二年生の夏休みには、学校の国際交流プログラムに申し込み、イギリスに二週間の短期留学をした。
 大学も考古学の勉強ができる学部を選んだ。日本より海外の遺跡に強い興味があったため、英語や他の言語を学べる授業も取っていた。だが、視野を広げるために他のこともしてみたいと思い、アウトドアサークルに入って友達と遊び、アルバイトをして、直樹と付き合ううちに、興味が薄れていった。
 もともと父親が歴史が好きで、子供のころからそういう番組ばかりテレビで見ていた。図鑑や歴史に関する本は、子供向けのものから専門的なものまで、リビングの本棚に並んでいた。わたしが「ミステリーハンターになって、世界中を見てまわりたい!」と言ったら、父親は喜んでいた。
 ミステリーハンターと呼ばれるリポーターがクイズを出す番組も、もう終わってしまったし、考古学関係のことがしたいという気持ちは、十年も前に失っている。
「今は、やりたいことないの?」
「焼肉が食べたいかな」ポットに残っていたハーブティーをカップに注ぐ。
「肉?」
「お姉ちゃん、パートだから、牛肉なんてなかなか食べられないんだよ」
「母ちゃんか親父に言えよ。腹いっぱい食べさせてくれるから」
「東京のお洒落な焼肉屋さんに行きたいな」
「……わかったよ」
 テーブルに置いていたスマホを取り、北斗は店を検索する。
「あっ、そういえばさ、向こうのだんさんが店に来たんだよ」
「誰?」
「直樹と一緒に亡くなった人の旦那さん」
「なんで?」北斗は検索していた手を止めて顔を上げ、眉間にしわを寄せる。
「偶然って言ってた」
「大丈夫なの? たかられたりすんじゃないの? 気を付けた方がいいよ」
「すぐに帰ったし、もう来ないよ。でも、仕事で近くに来ることがあるみたい。どこかでまた会ったりしないように気を付ける」
「向こうも、会いたくないだろ」
「そうだよね」カップを取って、ハーブティーを飲む。
 しかし、喉に引っ掛かる感じがして、うまく飲みこめなかった。
 陽が沈み、窓の外は藍色に染まっていく。
 来ないと思っていたのに、髙橋さんはまた来た。
 日曜日なので、スーツではなかった。グレーのスウェットとデニム、三十代の男性がデパートに来る服装としては、カジュアルすぎる気がする。事故の時は、都内の芸能人とかも住むような地域に住んでいたはずだ。直樹のお父さんが「ずいぶん、いいところだな」と、ひとりごとのように言っていた。仕事か何かの関係で、この辺りに引っ越してきたのだろうか。それとも、軽く見せて、高いスウェットとかなのだろうか。
「あの、枕を試させてもらえますか?」髙橋さんはわたしに聞いてくる。
 誰かに替わってほしいけれど、店は混んでいて、店長しか手があいていない。うちの店は、店長が監督でパートが選手みたいな形式になっている。選手であるパートがお客さまに声をかけ、積極的に枕や他の寝具をすすめていく。店長はレジカウンターの辺りに立って様子を見て、高額商品を買いそうなお客さまがいたら、そのサポートをする。パートの手があいていない時だけ、店長は接客に入る。
 理由を言えば替わってもらえそうだが、仕事に個人の感情を持ちこむわけにはいかない。
「こちらに、どうぞ」あいているベッドに、髙橋さんを案内する。
「はい」髙橋さんはうなずき、ベッドに座る。
「本日は、枕のお試しがご希望ということで、よろしいですか?」
 いつも通りに接客すればいいと思っても、話し方がかたくなっていく。
「ずっと眠れてないんです。それで、枕を合うものにしたら、いいのかなって思って」
「少しお待ちください」
 レジカウンターに行き、バインダーに挟まれたアンケート用紙を取る。
 そこには、睡眠に関するアンケートが並んでいる。
 本社の社員から、購入しそうにないお客さまにも、できるだけ答えてもらうようにと言われているものだ。アンケートの内容自体より、名前や住所などを書いてもらい、顧客情報を増やすことを目的としている。その目的には疑問を覚えるけれど、お客さまの睡眠の状況がわかりやすくなるため、必要と感じた時には使うようにしている。
「お待たせいたしました」髙橋さんの前に戻り、跪く。「いくつか、質問させてもらってもよろしいですか?」
「はい」
「今、どのような枕をお使いですか?」できるだけ髙橋さんの顔を見ないように、わたしはアンケート用紙を見ながら質問をする。
「海外の寝具メーカーのものです。僕が自分で買ったわけではないので、どこのかはちょっとわかりません」
「何年ぐらい、お使いですか?」
「五年ぐらいだと思います」
 五年前、結婚した時に奥さんが買ってきたのだろうか。いつ結婚したかまで知らないが、新婚というほどではないけれど、子供はいなかったと聞いた。
「素材は、わかりますか?」
「ウレタンです。頭の形に合わせて、沈むみたいなやつです」
「夏と冬で硬さが変わりませんか?」
「あっ! そうなんです」
「基本的に寝具は、その土地の気候や環境まで考えて作られています。日本は四季があって、夏と冬で気温も湿度も変わります。なので、夏の湿度や冬の寒さが違う海外で作られたウレタンのものだと、季節によって硬さが変わってしまう場合があるんです。体格にも差があるため、海外メーカーの寝具の中には、日本人には合わないものもあります」
「へえ、そうなんですね」髙橋さんは、心の底から感心したかのような声を上げる。
 ただのいい人で何も考えていないのか、何か企んでいるのか、判断ができない。
「年月も経っているので、ウレタン自体が劣化しているのかもしれません」
「そっかあ」
「ベッドですか? お布団を敷かれていますか?」
「ベッドです」
「サイズはわかりますか?」
「シングルです。引っ越してきた時に、マットレスと合わせて買いました。だから、まだ半年くらい」
「……引っ越し」顔を上げて、髙橋さんを見る。
「……はい」小さくうなずく。「その時に、枕もまとめて買えばよかったんですよね」
「そうですね」視線をアンケート用紙に戻す。「マットレス、どういったものですか?」
「スプリングの入ったものです。ちょっと硬めですかね」
「腰痛とか肩こりは、ありますか?」
「多少はありますけど、気になるほどではないです」
「多少ですね」アンケート用紙にメモをする。
 前に来た時に営業の仕事をしていると話していたし、歩きまわったりして、身体は動かしているのだろう。やせている方でも、首が太いので、鍛えているのかもしれない。体幹が強いのか、姿勢がいい。ベッドに座って話していると、首から背中が丸くなっていく人がいるが、まっすぐに保てている。枕は五年使っていて、気候にも合っていなそうだから、替えた方がいい。マットレスも気にはなるけれど、買ったばかりで身体の痛みもそれほどないのであれば、そのままでもいい。
 ただ、眠れない理由は、寝具ではないのではないかと思う。
 はっきり言ってしまいたいけれど、それは個人情報であり、髙橋さんから言わない以上、こちらも口に出すべきではない。
「枕、何かご希望はありますか?」アンケート用紙を見たまま、髙橋さんに聞く。
「特にないです。オススメのもので、お願いします」
「ご用意しますので、お待ちください」
 立ち上がった瞬間、眩暈めまいがした。
 ずっと跪いていたせいで、立ち眩くらみが起きたのだろう。軽く息を吐き、枕の棚の方に行く。
 首の太さを考えると、硬めの素材のものの方がいい。柔らかいものだと、首を支えきれない。しかし、顔は小さい。首に合わせた硬さにすると、後頭部が沈みこまないで、浮いてしまう。硬すぎないビーズのもので、形の違うものを三種類選んで、ベッドに持っていく。
「まず、こちらで、仰向けに寝てください」ベッドに枕を置き、不織布をかける。
「こうでいいですか?」髙橋さんは、ベッドに横になる。
「この布の下から触ってもよろしいですか?」
「大丈夫です」
「失礼します」
 第七頸椎まで乗っていることを確かめる。首元に少しだけ隙間はあるけれど、ちょうどいいくらいだ。マットレスによって、身体の沈み具合が変わり、枕の高さも変わる。家に帰って合わない場合、ビーズを足したり抜いたりすれば、調整できる。後頭部の方を触ってみるが、やはり少し浮いている。形よりも、硬さが合っていないのだと思う。
 触りながら考えるうちに、また眩暈がする。
 視界に影がかかり、暗くなっていく。
「沢村さんっ!」声を上げ、髙橋さんはわたしの腕を摑む。
 後ろに倒れそうになったところを支えてくれたようだ。
「あっ、ごめんなさい」
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい」手をはなしてもらい、片膝ではなくて、両膝を立てて座り直す。
「すみません」気まずそうに、手を見る。
「……いえ」
「今度、外で会ってもらえませんか?」周りを気にしたのか、髙橋さんは小さな声で聞いてくる。
 会いたくない。
 もう二度と来ないでほしい。
 でも、わたしに断る権利はないのだ。

 去年の二月、とても寒い日に、雪山でバス事故に遭って、直樹は死んだ。
 吹雪ふぶきで、見通しの悪い日だった。他のバス会社が運行を休止する中、そのバスだけが駅へ向かった。急いで帰る人たちで、半分くらいは席が埋まっていたようだ。バスはカーブのつづく山道を下っていった。その途中、曲がり切れずにガードレールを倒し、がけから転落した。助かった人もいたが、運転手と乗客の合わせて十二名が亡くなった。
 その日、直樹は大阪に出張に行っているはずだった。
 直樹は、食品メーカーで広報の仕事をしていた。県の中心部にある本社に勤めていたけれど、研修やキャンペーンのために大阪や福岡に出張することは、年に何回かあった。
 新卒で入社して、五年くらいは転勤の可能性もあるため、仕事が落ち着いたら結婚しようと話していた。大学一年生の夏から付き合っていて、卒業してから一緒に暮らしはじめた。けんかしたことは何度かあり、大学三年生の終わりに一度別れた。けれど、話し合いをして、二週間ほどでヨリを戻した。それからは、別れるなんて考えたこともない。できるだけ早く子供が欲しいという気持ちはあったが、妊娠や出産と転勤が重なったら、大変になる。結婚することは決まっているのだし、二十代のうちにひとり目を産めればいいと考えていた。ふたりでいられる時間も、楽しみたかった。お互いの両親には、何度も会っている。直樹と北斗は、わたしの知らないうちに連絡先を交換し合い、ふたりで野球を観にいったりもしていた。直樹はひとりっ子だから、弟ができたと喜んでいた。
 出張はたまにあっても、転勤はしばらくなさそうだからと話し、一昨年おととしの夏の付き合いはじめた記念日に、改めてプロポーズしてもらった。付き合うよりも前、初めてふたりだけで行った大学の近くのイタリアンレストランだった。断るはずもないのに、わたしが返事をすると、直樹は安心したような顔で笑った。
 去年の七月に、結婚式をするはずだった。
 式場を見学して、誰を呼ぶのか相談して、ドレスの試着にも行った。どれを着ても、直樹は「かわいい、かわいい」と何度も言ってくれた。実際にどれを着るかは、当日までの楽しみとして秘密にすることにした。直樹のタキシードは見せてもらい、合うドレスを選んだ。ちょっとやせた方がキレイに着られそうだから、ブライダルエステに通ってもいいか直樹に聞いたら、「そのままでも、充分にかわいいけどな」と言いながらも、許可してくれた。
 照れないで「かわいい」とか「好き」とか、言ってくれる人だった。それは、わたしだけに向けられる言葉だと思っていた。大学のころからの友達の多くは、わたしとも直樹とも仲がいい。みんなが「浮気とか、一度も心配したことないでしょ」と言っていた。中学生や高校生の時、男の子とふたりで会ったことはあった。映画や博物館に行っただけで、ちゃんと付き合ったことはない。直樹は高校生の時に半年間だけ、夏休みに催事のバイトで知り合った年上の人と付き合っていたらしい。付き合いはじめたころは、そのことが気になっていたけれど、いつからかどうでもよくなった。周りに言われなくても、大事にしてもらえている自信があった。
 大阪出張と言われ、何も疑わなかった。
 後になって、いつもと違ったのかもしれないと思い出したことはある。出張の前日、寝ようとしてベッドに入ったら、直樹はぴったりくっついてきた。ここまでは、いつもと同じだ。その後で「帰ってきたら、子供のこと考えよう」と言われた。結婚式まで半年近くある。それより前に、妊娠はできない。そのことをわかっているはずなので、急にどうしたのだろう? と疑問は覚えた。でも、特に気にせず、セックスしたいのかなとだけ考えていた。付き合って長くなっても、全くしなくなるということはなかった。大学生のころや同棲しはじめたころに比べれば回数は減っていたが、少ないとか足りないとか感じたことはない。「帰ってきたらね」とだけ返し、わたしは眠った。朝、玄関で見送る時、直樹は眠そうにしていた。
 次の日のお昼過ぎ、わたしはその時に勤めていた会社で、パソコンに向かって仕事をしていた。直樹のお母さんからスマホに電話がかかってきたが、すぐには出られなかった。何度もかかってきたため、隣の席の先輩に許可を取り、廊下に出た。
 事故のことを聞かされ、何かの間違いだと思った。
 大阪に行った人が東北の雪山にいるはずがない。直樹のお母さんにもそう言ったが、すでに持ち物から身元の確認は済んでいるということだった。自分の席に戻り、先輩に「婚約者が事故に巻きこまれた」と、話した。頭が回らず、わたしは仕事をつづけようとした。先輩に「早く帰りなよっ!」と驚かれ、早退することになった。そのまま直樹の実家に向かった。直樹の両親と一緒に病院に着いたのは、その日の夜遅くだった。直樹は、すでに亡くなっていた。事故の衝撃で、即死だったらしい。
 そこで、一緒にいた女性も亡くなったと聞かされた。
 近くの温泉旅館にふたりで泊まり、帰るところだった。

 髙橋さんが指定したのは、市役所の近くにある古い喫茶店だった。
 前を通ったことはあるけれど、入ったことはない。
 遅れてはいけないと思って、約束の時間より十分ほど早めに着いたのに、すでに髙橋さんは来ていた。
 大きな窓があり、奥の席で入口に背を向けて座っているのが外から見えた。平日のランチタイムは、市役所で働く人で混み合うのだろう。今日は日曜日で、ランチの時間も過ぎているため、お客さんは少なかった。ガラス扉を開け、待ち合わせであることを店員さんに伝え、奥の席に行く。
「すみません、遅れました」視界に入るところまで行き、声をかける。
「あっ、こんにちは」立ち上がって、髙橋さんは頭を下げる。「どうぞ、座ってください」
「失礼します」
 わたしが上座になってしまうが、座り直してもらうのも、面倒くさいだろう。
「今日、お仕事は?」髙橋さんは、わたしの前にメニューを置く。
「ちょうどお休みだったので、大丈夫です」
 デパートは土日祝日は忙しくなるため、世間が休みの日に休むことは難しい。けれど、全員出勤する必要もないので、交替で月に何度か土日祝日も休みが取れる。
 お水を持ってきた店員さんに、髙橋さんはホットコーヒーを頼み、わたしも同じものをお願いする。
 作り置きみたいで、すぐに運ばれてきた。
 何か髙橋さんから話したいことがあるのだろうと思ったのに、何も言ってこないので、わたしから話す。
「あの、ご存じだとは思いますが、わたしは結婚していたわけではありません。なので、法律的には、関係がないんです。事故に関することは、全てを向こうの両親に任せています」
「はい」
「それでも、奥さまには、申し訳ないことをしたと思っています」座ったままで、わたしは頭を下げる。
 立って謝るべきかと思ったけれど、他にお客さんもいるし、やめておいた方がいい。おおなパフォーマンスをして、許してもらおうとしているみたいになりそうだ。
「顔、上げてください。沢村さんが謝ることではないから」
「いや、でも、ああいうことは男性に責任があるので」顔を上げさせてもらい、まっすぐに座り直す。
 ふたりの関係がいつからはじまったのか、詳しいことをわたしは知らない。直樹のスマホは、事故の時から電源が切れたままだ。パスワードは知っているけれど、見る覚悟ができなかった。
 髙橋さんの奥さんは、フリーランスで空間デザイナーという仕事をしていた。主に商業施設のエントランスや売場のデザインをしていて、都内の有名デパートのリニューアルにも関わっている。展示会など、短期のイベントの際に、会場のデザインをすることもあった。事故の半年ほど前、新商品のお披露目イベントの時に知り合ったのではないかということは、おの後で直樹の同僚から聞いた。イベント会場のデザインを髙橋さんの奥さんが手掛けたのだけれど、そこに直樹は設営と当日の手伝いに行っただけだ。だから、準備段階では会っていないため、長くても半年程度のことになる。
 半年間、ふたりはどのようにして近付き、どうして雪山の奥深くにある温泉旅館に泊まりにいくことになったのか。
 知りたい気持ちは、今もある。
 その半年間は、わたしと直樹が結婚に向けて、準備を進めていた日々と重なる。
「僕は、結婚していました。それでも、沢村さんと同じように、事故に関することは、向こうの両親に任せています。夫として、僕がしなければいけない手続きはしましたが、被害者遺族の会みたいなものには一度出ただけです」
「そうなんですね」
 暖房が入っていて、すごく喉が渇いていたけれど、水を飲むタイミングではない。
「引っ越しをして、仕事の担当地域も変わり、気分を一新しようと思っていたんです。けど、そういうわけにもいきませんでした」
「……はい」
「家族も友達も、会社の人たちも、事故のことや妻のことを知っている。転職することも可能ですが、家族や友達と縁を切ることはできません。今の会社が嫌なわけではないから、転職したいわけでもない」
「なんとなく、わかります」
 わたしは、前の仕事が派遣社員だったため、働けなくなってしまってすぐに派遣の契約も切れた。働いていた時は、その会社にいた派遣社員の先輩や正社員の人と仲良くしていたが、辞めた後は連絡を取らなくなった。急に辞めてしまったことは、申し訳なく思ったけれど、すぐに違う誰かが派遣されてきたようだ。デパートで働く人は、店長以外、わたしが過去に婚約していたことも知らなくて、職場で息苦しさを覚えることはない。だからといって、どんなことも気軽に話せるわけではなかった。「彼氏、浮気相手と事故で死んじゃったんだよね」とか、お弁当を食べながら早苗さんや璃子ちゃんに話したりはできない。秘密にしていることがあるため、いつも噓をついているような気分がしている。
 家族や親戚や友達は、みんなが直樹のことを知っている。
 休みが合わないとか遊びにいくお金がないとか、理由を並べているが、本当はできるだけ会いたくないのだ。前と同じように振る舞ってくれていても、同情されて気を遣われている空気は、伝わってくる。事故の後は、友達から「大丈夫?」と聞かれつづけた。正直に「直樹がいなければ、生きている意味がない」とは言えず、「もう元気だから」と噓もつけず、何も返せなくなった。北斗であれば、わがままも言える相手で気楽に過ごせるかと思ったけれど、そうでもなかった。
「向こうの家族に任せていても、どうでもいいわけではないし、自分なりに考えていることはたくさんあります。でも、友達や同僚には話せない」
「わかります」
「そういったことを誰かに話せないか考えていた時、沢村さんのことを思い出したんです。被害者遺族の会でお会いした際、周りが泣いたり怒鳴ったりする中、沢村さんは静かに前を向いていた。話せるとしたら、あの人しかいないのだと思った。でも、連絡先は知らないし、個人的に連絡を取ったりしないように弁護士の先生にも言われている。無理だろうと思っていたら、デパートの寝具店にいた。あの日、会ったのは、本当に偶然です」
「もう疑っていないので、大丈夫です」
 感情的にならず、淡々と話しつづける髙橋さんの中には、まだ誰も手を触れることのできない悲しみが眠っている。それは、わたしも同じだった。
「少しだけでも、お話しできないかと思ったのですが、ご迷惑でしかないですよね?」
「いえ、そんなことないです」首を横に振る。
 わたしも、誰かと話したかった。
 ひとりで向き合えるようなことではないのだ。
「お時間ある時でいいので、また会ってもらえますか?」
「はい」まっすぐに髙橋さんの顔を見てから、うなずく。
「良かったです」
 安心したのか、強張っていた表情が柔らかくなっていった。
「ただ、わたし、土日や祝日の休みは月に数回しかないので、いつでもというわけではないんです。希望も出しにくいから、合わせてもらうことになってしまう」
「問題ないです。僕は、たまに土曜出勤がありますが、日曜日は休みです。特に予定もない。沢村さんが日曜休みで、他に予定がない時に、また会いましょう」
「それで、お願いします」
「冷めてしまうので、飲んでください」髙橋さんは、わたしの前に置かれたカップを手で指し示す。
「……ごめんなさい、コーヒー飲めないんです」
「えっ?」
「カフェインが苦手で。紅茶やカフェラテみたいなものは大丈夫なんですけど、コーヒーは眠れなくなってしまう」
「じゃあ、なぜ、頼んだんですか?」
「謝罪しなくてはいけないと思っていて、そういう席で自分の好きなものを頼むべきではないから」
「そうですか」手で口を押さえ、髙橋さんは笑いをこらえる。
「すみません」
「いえ、いいんです」顔の前で、小さく手を振る。「僕も、コーヒーが飲みたかったわけではないので。クリームソーダやチョコレートパフェを頼む席じゃないよなと思って、コーヒーにしました」
「そうだったんですね」
 思わず、わたしが声を上げて笑ってしまったら、髙橋さんも笑った。

  *

続きは9月26日ごろ発売の『宇宙の片すみで眠る方法』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)
1979年、東京都生まれ。2010年『国道沿いのファミレス』で、第23回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で、吉川英治文学新人賞の候補となる。他の著書に、『みんなの秘密』『タイムマシンでは、行けない明日』『消えない月』『大人になったら、』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』『世界のすべて』『アサイラム』など多数。20年から2年間、寝具店で勤務。まくらの高さと素材を見極めるのが得意。

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