みなさん、はじめまして。
私は春野暁といいます。
どうぞよろしくお願いします。
昨夜練習した挨拶を口の中で唱えながら、暁は見知らぬ中学校の廊下を歩いていた。中学二年の五月という中途端な時期にまさか転校するとは思ってもみなかったので、正直なところまだ現実感がない。
「春野さん、ここが君のクラスです」
まだ二十代と思われる担任の中林が一番端の教室の前で足を止め、扉の上に飛び出す「2 ─ 1」というプレートを指さした。扉の向こう側からざわざわとした声が聞こえてくると、首から上がかっと熱くなる。
「ほら君たち、席につきなさい。今日から女子が一名、みんなの仲間に加わります。紹介するから静かにしなさい」
中林が扉を開けると同時に、騒音といっていいほどの喋り声が耳を刺した。シンバルの音が耳元で鳴り続けている感じだ。
「春野さん、短くでいいから自己紹介をしてくれないかな」
教壇の上から手招きされ、暁は小さく頷いた。臍の前で組んだ両手が震えてきたので、さらに強く握りしめ、腹筋に力を込める。
「みなさん、はじめまして。私は春野暁といいます。どうぞよろしくお願いします」
作り笑顔を頰に張りつけたまま教室内を見回せば、値踏みするような鋭い視線が集まってくる。その中で唯一、笑みを浮かべて暁を見ているメガネ女子がいたが、その笑みが友好の証なのか、敵意なのか。それはこの段階ではわからない。
「あ、しまった」
教壇に立ち、肩をすくませている暁の隣で中林が声を上げる。ただでさえ不安でいっぱいなのに、「しまった」と言われ、こっちまでうろたえる。
「ぼく、春野さんの机と椅子、教室に運んでくるの忘れてました」
「え……」
思わず声が漏れた。暁にとってはかなり痛い中林の失態に、いったん静かになっていた教室がまたわさわさと盛り上がってくる。
「先生、とりあえず昼休みまでブミリアさんの席を使ってもらったらどうですか。机と椅子は昼休み中に私が運んでおきます」
笑い声が充満する中、手を挙げて発言したのはさっきのメガネ女子だった。とりあえず? 昼休みまで? でももしそれまでにブミさんとやらが登校してきたら、どうするというのだ? ブミさんが自分の席にのうのうと座っている転校生を見て、嫌な気分になったりはしないのだろうか。
暁はメガネ女子の見通しの甘い提案に首を傾げていたが、中林は助かったという顔をして頷き、「そうだね。じゃ、とりあえず春野さんはあそこに座って」と一番後ろの廊下側の席を指さした。
「あ……はい」
歩いている途中で足を前にすっと出されて転倒。といったテレビドラマでよくありがちな展開にも注意して慎重に歩いていたが、そんなことはされなかった。
授業終了のチャイムが鳴り昼休みに入ると、わざとゆっくり教科書を片付けた。閉じていた騒音箱の蓋を開けたかのように、教室内がとたんに騒がしくなる。仲良し同士で昼食をとるためか、慌ただしく席の移動が始まる。
さあ、どうしようか……。
授業中はまだいい。でもこういう休み時間は、転校生という立場はけっこう辛い。正解はここで立ち上がり、「誰か一緒にお弁当食べてくれない?」と声を上げることなのだろうが、そこまでの勇気が湧いてこない。
リュックの中から巾着に包まれた弁当箱を取り出し、のろのろと机の上に置く。できる限りの時間稼ぎをしてみるが、それでもやっぱりどこからも声はかからない。
しかたなく、ぼっち飯を覚悟して箸箱から箸を取り出した時、
「ここ座っていい?」
頭の上から声が落ちてきた。はっとして顔を上げれば、さっきのメガネ女子が白いビニール袋を暁の目の前で振っている。
「私、吉田欣子。欣子って呼んでね」
欣子はどこからか椅子を引っ張ってきて、机を挟んで暁に向き合って座った。
「春野さんの名前、アカツキってどんな字を書くの?」
「夜明けって意味の……」
「ああ、この字ね?」
欣子は指先を滑らし、「暁」という文字を空気の上に書き出した。「夜明け」と言っただけですぐにこの字を連想できる中学生も珍しい。
「それで、暁さんはどこから引っ越して来たの?」
「あ、あたしも呼び捨てにしてくれていいよ。暁って」
「そう? じゃ、暁はどこから来たの」
「都心から」
「あら、都心から郊外に? だったら私と同じね。私も中学一年の時にこっちに来たの」
それだけ言うと、欣子はビニール袋から透明の密封容器を取り出し、上品な仕草で蓋を取った。驚いたことに白飯しか入っておらず、箱に入ったレトルトカレーを冷たいままかけて食べ始める。教室に香辛料の匂いが充満し、その強烈な弁当に度肝を抜かれたが、初対面なのでつっこむことも笑うこともできなかった。
弁当を食べ終えると、欣子と一緒に視聴覚室まで机と椅子を取りに行った。
視聴覚室は同じ校舎の三階、廊下の突き当たりにあった。ドアの前に黒い幕が掛かっていて、その埃っぽい布をくぐって中に入ると一般の教室より少し広いスペースが広がっている。
「ここから自分に合う高さの机と椅子を選べばいいのよ」
欣子に言われ、暁は近くにあった椅子に腰掛けてみる。ちょっと低い。
「背、高いのね」
「うん。まあまあ高いほうかな」
「何センチあるの?」
「四月に測った時は一六五センチだった」
「へえ……私は一五五センチ。実は小六の四月に測定した時からたった一センチも伸びてないのよ。きっと慢性睡眠不足のせいね」
「あたしは中学に入ってから一〇センチ伸びたよ。よく寝てるからかな」
はは、と笑い、ニスが剝がれてざらりとした机の表面に触れながら歩いていく。
本当は自分も、この一年間は熟睡などできなかった。入院していた母のことが心配で夜中に目を覚まし、それから朝まで眠れないことが何度もあった。でもそんな重い話を初対面の人にするわけにはいかない。暗い人。面倒くさい人。つまらない人。そう思われた時点で、一緒にいるのにふさわしくないと思われてしまう。
「どの机にしよっかな。ちょっと高めのほうが居眠りにはいいんだけどな」
「身長にぴったり合うのがいいんじゃない」
「やっぱそうだよね。あたし残念なことに座高は高いから、椅子は低めにしないと」
椅子に腰掛けては立ち上がるを繰り返していると、
「暁はどうしてこの町に来たの?」
と欣子が訊いてきた。窓が閉めきってあるせいかやたらに暑くて、髪の生え際から汗が滲んでくる。
「お父さんの……仕事の都合で」
噓は吐いていない、と思う。でもそれ以上は訊かれたくなくて、「この椅子と机にしようかな」と近くにあったものを適当に指さし話題を変えた。欣子は「ふうん」と頷いたきりなにも言わなかったが、賢そうな人だからなにか気づいたかもしれない。
転校初日をなんとか乗りきり、暁は「バイバイ」と欣子に手を振り正門を出た。彼女は借りていた小説を返すから、と難しそうな本を小わきに抱え、別校舎にある図書室へと向かっていく。
学校から引っ越し先の家までの道順は、父が地図を描いてくれた。学校の前の緩やかな坂道を上りきったところで左に折れ、そこをまっすぐ進んでいくと川の上に架かる橋が見えてくる。その橋から続く川沿いの道を流れに沿って終点まで歩いていけば、新しい家に続く農道が見えてくるはずだった。
暁はいつもよりゆっくりと歩きながら、周囲の景色に目を向ける。路肩の緑が眩しくて、ずいぶん田舎に来たのだなとしみじみ思う。思ったより小さな赤い橋のたもとから涼しげな川の流れに沿って進めば、いつしか周りは田んぼばかりになってしまった。
はたしてちゃんとたどり着けるのだろうかと心配になってきたところに、見覚えのある青い屋根瓦の平屋が見えてきた。昨日は家の中の埃っぽさと、黴臭さと、家の外周を覆う伸び放題の雑草ばかりが気になったが、こうしてみると外観もかなり古びている。
「ただいまー」
建て付けの悪い玄関の引き戸を力任せに開け、薄暗い室内に向かって声をかけた。湿った空気が充満するこの家は、本当に自分の新しい住処なのだろうか。もしかして間違って知らない人の家に入ったのか、と三和土の隅に張り巡らされた蜘蛛の巣を見つめる。
「おかえり」
顔をしかめて玄関先に突っ立っているところに父の声が返ってきた。家の中からではなく背中側から聞こえたので、玄関を出てそのまま外壁をつたって裏に回る。
裏庭では父が派手に焚火をしていた。大きな炎が燃え上がる向こう側で、頭に白いタオルを巻いた汗だくの父が見える。
「なにやってんの」
「なにって、古家に残ってた不用品を始末してるんだ」
「燃やすことないんじゃないの。捨てればいいじゃん」
「さほど多くもなかったから、手っ取り早いかと思ってな。家主にちゃんと許可も取ってる」
なにを燃やしているのか、火が爆ぜる音が熱風とともに暁の耳に入る。
この家は、父の祖父母が住んでいたそうだ。現在の家主である父の伯父は独身で、父以外に身寄りはなく、いまは都内の特別養護老人ホームに入所している。
「ねえお父さん、今日はちゃんと家の中で寝られるの?」
父が足元に山積みにしてあるカーテンのような布切れを、トングに挟んで火にくべていく。昨夜は家の中がまるで片付いておらず、布団を敷くスペースもなかったせいで車中泊になった。
「たぶん大丈夫だろう。それより学校はどうだった?」
「どうって、別に。普通だけど」
視線の先に西日を受けた山がそびえ、炎のオレンジと重なって見える。
「うまくやっていけそうか」
うまくやるもなにも、まだ初日だ。正直よくわからない。でも暁は、「うん、いい感じ」と答えておいた。「友達もできたし」と吉田欣子の名前を挙げる。友達になってくれるかどうかは不明だけれど、今日自分に話しかけてくれたのは、あの子しかいない。
「友達がもうできたのか」
「うん、まあ」
「おまえは本当に逞しいなぁ」
教室に自分の机や椅子が準備されていなかったことも、欣子以外の誰にも話しかけられなかったことも、父には話さない。
「あたし、家の中を片付けてくるね」
暁は父に背を向け、また玄関に回った。背後から「冷蔵庫にペットボトルのお茶が入ってるぞ」と声が聞こえてきたので、「はーい」と返事して雑草がびっしり生えた土の上を歩いた。
転校していなければ、いま頃は部活の時間か……。みんな、どうしてるかな。
友達のことを思い出しながら玄関で靴を脱ぎ、古家に上がる。廊下を歩くと足の裏に凸凹を感じ、濡れた段ボールの上を歩いているような奇妙な感触がある。怖いな、この家。ぼろすぎだし……。昔話に登場しそうな古びた平屋の間取りは、台所と八畳ほどの居間、そして六畳間の和室が二つ。和室は二部屋ともに家具はなく、色褪せた畳の上に昨日運び込んだ段ボールが積み上げてあった。
「お母さん、ただいまー」
和室の隅に置かれた真新しい仏壇に、暁は手を合わせる。家具調のアンティークな仏壇は、暁が選んだものだった。昨日、荷物を運んできた時にこの仏壇を置くスペースだけは父と一緒に掃除しておいた。
「お母さんごめんね、こんな辺鄙な所に連れてきて。お父さんさ、あたしが学校に行ってる間、掃除してなかったみたいなんだよね。家の中全然片付いてないし」
暁の母、春野栞が亡くなったのは昨年の暮れのことだ。
つい昨日のように感じるが、人生で一番悲しかった日からもう五か月以上経ってしまったことに驚いている。
暁が小学校に入学した時にはすでに入退院を繰り返していた母は、七年間もの闘病生活を続けてきた。調子のいい時もあったけれど具合が悪い時期も長くて、記憶にある母はたいていベッドで横になっている。母が亡くなった時はもちろん悲しくて、でもどこかほっとする気持ちもあった。もうお母さんは苦しまなくていいんだ。お母さんはよく頑張った。そんな、病気からようやく母を取り戻せたような不思議な思いにかられたことを憶えている。
「暁、腹減ったか」
黙々と部屋の片付けをしていると、父が家の中に戻ってきた。
「まあ。でもまだ我慢できる」
「夕食、コンビニ弁当でいいか。いまから駅前に買いに行くけど」
「うん、いいよ」
返事しながら、手だけは動かす。
「じゃあちょっと出てくる」
「はーい。あ、そうだ。消臭スプレーもついでに買ってきて」
明るいうちに掃除機をかけ、古い畳を雑巾で拭いて、なんとか部屋で眠れるようにはしておきたい。でもこの黴臭さだけは、水拭きしたところで拭いきれそうになかった。
父が出ていくと、家の中はまったくの無音になった。配線が繫がってないので、テレビも点けられない。さすがに知らない古家にひとりきりというのはなんとも心細い。しかも他人の使っていた家というのが、気味が悪い。
暁はため息を吐きながら、その場にぺたりと座り込む。ささくれた畳の感触を素足に感じながら、父が会社を辞めた日のことを思い返す。
あれは母が亡くなって、ひと月ほど経った冬の日だった。父がいつもの帰宅時間になっても帰ってこないので、携帯に電話をかけてみた。でも全然繫がらなくて、ラインも既読にならないので、暁は家を出て父を捜しに行ったのだ。
とにかく寒い日だった。
暗い夜道を歩きながら、母を失った娘と妻を失った夫、どちらが悲しいかなんてことを考えていた。自宅マンションから最寄り駅までの道を歩いていると、どこかの家からカレーの匂いがしてきて、ああ、この家の夕ご飯、今日はカレーなんだ……そう思うと涙が出てきた。
母が一時退院をして家に帰ってきた日はたいてい、カレーを作ってくれた。「いつも同じでごめんね」と申し訳なさそうにしていたけれど、そんなこと全然気にならなかった。にんにく、しょうが、磨りおろしたリンゴ、インスタントコーヒー、ヨーグルト……。母のカレーには少しでも美味しくしようという頑張りが、ふんだんに入っていたから。
お父さん、お父さーんと叫びながら、暁は近所を走り回った。そしてずいぶん長い時間走り続けてようやく、
「お父さん?」
父らしき人を発見した。さっきカレーの匂いがした家から、歩いて五分くらいの公園の中のベンチに、父はしょんぼりと腰を掛けていた。
「なにしてんの、こんな所で」
ベンチに座る父の膝にはビニール袋が置かれていて、中にコンビニ弁当が二つ入っていた。ああそうか、と暁は思った。お父さんもあの家のカレーの匂いを、嗅いじゃったのか。それで寂しくなって、でも家には私がいるから泣けなくて、ここに逃げてきちゃったのか。罪なカレーだ。
「お父さん、帰ろ。こんなとこいたら風邪引いちゃうって」
暁がスーツの袖を引っ張ると、父は素直に立ち上がった。
そしてその後、家の食卓でコンビニ弁当を食べている時に、
「お父さん、仕事を辞めようと思う」
と告げられたのだ。このところよく眠れない。食欲もない。どうやっても仕事をする気になれないんだ。職場の上司に相談したら「いまのうちの部署で休職させる余裕はない」と言われた。でももう心にも体にも力が入らない。このままではよくないと、自分でも思っている。だから仕事を辞めて少し休みたいんだ……。
母の闘病中、父はただの一度も辛そうな様子を見せることはなかった。お葬式の時も普段と変わらず、喪主として気丈に振る舞っていた。都心の建設会社に勤めていた父は技師としてこれまでたくさんの家を建ててきて、設計した建売の家を暁も見せてもらったことがある。どの家も、既製品とは思えない凝った造りで素敵だった。自分は好きな仕事に就けて幸せだ、と常日頃から口にしていた父が、その好きな仕事を辞めたいと言うのだから、きっと限界なのだ。
「いいよ、仕事辞めても。でも貯金が尽きる前には再就職してよ」
頑張りすぎたのだ。だからいまは休むしかないのだ。暁はそう自分に言い聞かせ、いつものように笑ってみせた。
*
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藤岡 陽子
1971年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。報知新聞社を経て、タンザニア・ダルエスサラーム大学留学。慈恵看護専門学校卒業。2006年「結い言」が、宮本輝氏選考の北日本文学賞の選奨を受ける。09年『いつまでも白い羽根』でデビュー。著書に『手のひらの音符』『晴れたらいいね』『おしょりん』『満天のゴール』『きのうのオレンジ』『金の角持つ子どもたち』などがある。