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青の刀匠

一、玉鋼

 リビングでテレビを見ていたはずが、いつのまにか寝落ちしたらしい。
 顔を上げると、部屋がうっすらと黒煙に包まれていた。なんだか焦げ臭い。夕飯作るときなんか焦がしたっけ……ぼんやりしながら窓を開けようと立ち上がった瞬間、つま先を電撃のような痛みが走り抜ける。
 見ればちろちろと足を舐めているのは橙色の、ゆらゆらと揺れる、まるで火のような──いや、そのものだった。
 床が、燃えている。
「火事……?」
 口を開けた瞬間煙が肺になだれ込んできてゲホゲホとむせ、夢じゃないかと疑っていた眠気も吹っ飛んだ。洗濯ハンガーにぶら下がっていた生乾きのハンドタオルを無我夢中で引っつかみ、口にあてがって姿勢を低くする。学校の避難訓練で、火事における死の多くは煙が原因だと聞いた覚えがあった。寝ている間にもいくらか吸ってしまったのかもしれない。ともかくこれ以上吸うのはまずい。
 這うように玄関へ移動すると、そこもすでに火の手が回り始めていた。ドアは無事だったが、よく見ると土間に父の靴がない。クソ親父、まだ帰ってないのか。
 舌打ちしながら鍵を回しドアを開けようとしたが、扉はびくともしなかった。熱にやられてどこか歪んでしまったのだろうか。叩いたり蹴ったりしても何の反応もなく、焦りが募りパニックを起こしそうになるのを必死に押し殺す。
 落ち着け。別の場所から出ればいいだけだろ。
 ここはアパートの二階で、玄関以外にドアはないが台所と居間に一つずつ窓がある。前者は元より人が通れるサイズじゃない。後者はベランダに出られる。出たところで避難梯子ひなんばしごなどはなく、外壁を伝って下りられる自信も正直ないが、ここにいたって焼け死ぬだけだ。
 玄関からベランダまではすでに火の海と化しつつある。
 額を転がり落ちていくのが、熱による汗なのか、それとも冷や汗なのかもわからない。
 背後では火が轟々ごうごうと燃えている。この場所が煙に満たされるのも時間の問題だろう。
 行くしかない。
 意を決して一歩踏み出した瞬間、炎が大きく舞い上がり、視界が揺らいだ。
 どこかで何かが崩れる音がする。
 足元が揺れ、視界が斜めになる。
 家が傾いたのかと思った。
 ぞっとするような浮遊感。
 心臓だけを置き去りにして、体が落ちていく感覚。
 床が抜けたのだと気づいた瞬間には背中から一階に落ちていた。
 鈍い音。背中の骨が軋きしみ、体中バラバラになりそうな衝撃が全身を貫く。
 右腕に強い痛みを感じた。折れた、とふらつく頭で直感した。
 息が苦しい。ここはもう完全に火の海だ。酸素がない。
 ……熱い。
 背中が燃えている。
 ぱちぱちと火の爆ぜる音がする。
 炎が、笑っているように聞こえる。
 ぼやけた視界の中、大きく広がった火焰の翼と、あかく三日月状に裂けた口腔こうこうを見た気がする。三日月の上に浮かんだ二つの鬼火が目玉のようにぎょろりと一瞥いちべつをくれた途端、左頰が燃え上がりあまりの激痛に意識が揺らいだ。
 死ぬ、と思った。
 死んだ、と思う。
 ──誰かが名前を呼んでいる。
 次に目を開けたとき、目の前に親父がいた。
 あちこち焦げたワイシャツ。汗だくの体。本物? なにしてんだ、こんなとこで……。
 自分で起き上がることができない。動けない。
 父の背中を見たのは覚えている。
 自分の足で歩いていない。
 胃がぐらぐら揺れている。
 吐きそうだ。気持ち悪い。下ろして。
 熱い。苦しい。息ができない。
 いや……冷たい。
 肺の中にひんやりした空気が入ってくる。
 熱が遠ざかる。意識も遠ざかりかけている。
「助けて!」
 どこかで声がした。子供みたいな声だ。
「この子をお願いします」
 揺れが止まり、背中に固い地面を感じた。うっすら目を開けると、父が見えた。目が合うと、その顔がなぜかくしゃくしゃになる。なに、変な顔で笑ってんだよ……。
「戻る気ですか? 自殺行為ですよ」
 誰かが父に向かって語気を荒らげているのが聞こえる。
「二階に子供が!」
 母親だろうか。悲鳴じみた声音だ。
「消防隊が来る。もう少し待てば……」
 震え気味の老人の言葉は弱々しい。
 父の声は、そのすべてをばっさり断ち切るようだった。
「その前にあの子が死んでしまう。私が行きます」
 遠くからサイレンの音。同時に足音が一つ遠ざかっていく。

 それが高校二年の夏休み最終日の出来事だった。実際に火が出たのは午前零時を回っていたという話だから、正確には九月一日のことになる。
 次に目を覚ましたときには病院にいた。あの火事における死者は、奇跡的にゼロ。ただ、最後まで炎の中にいた父が寝たきりになっていることを、顔もよく知らない親族から他人事のように聞いた。

  *

 ぴりりと澄んだ師走しわすの空気につんとしたにおいが混じり、俺はうっすら目を開ける。
 出雲いずも空港を出て宍道湖しんじこ沿いに国道9号を進む。そこから国道431号、県道152号、県道37号と辿って北上していくと、半島の先っちょに美保関みほのせきという港町がある。松江まつえには少し前に転入試験を受けに来たけれど、このあたりに来るのは初めてだ。
 ──剱田つるぎださんね、私の遠縁なんだけど、ちょっと変わった人みたいで……私もあまり詳しいことは知らないの。島根しまねの端の方に住んでるそうよ。海が近いって。よかったじゃない。海、好きでしょう。
 世の中の大概のものは好きでも嫌いでもない。嫌いが少々あって、好きはほとんどない。海に関して言えば、やっぱり好きでも嫌いでもないと思うけれど。
 開いた車窓の外、青い水面みなもが一瞬見えたと思ったらすぐ木々の陰に消えてしまった。さっきからこの妙にでこぼことした海岸線のせいで、なかなかパノラマの水平線が拝めていない。綺麗に澄んだ海が見られるって話だったけど、これなら宍道湖の方がまだ海っぽかったな。
 手持無沙汰にスマホで調べると、理由はすぐに見つかった。ああ、なるほど。島根半島ってリアス式海岸なんだ。一部楽園のように美しいビーチがあるのも事実だけど、それがオーストラリアのようにずーっと続いているわけではないのだ。
 ──あのね、その海すごく綺麗なんだって。晴れてると、海底までエメラルドグリーンに透けて見えるって聞いたことあるの。海外の有名なビーチみたいだって。きっと気に入るわ。
 後見人が決まるまでの間、俺を居候させてくれた叔母さんはそんなふうに言っていた。当人に噓のつもりはなかったのだろうけど、微妙に騙された気になる。楽しみができるようにと誇張したのかもしれない。予告で期待したのに、思ったほどおもしろくない映画を観たような気分だ。
 風景に興味を失って座席に背を預けると、視線は自然と運転席を向いた。後部座席からは一つ結びにされた真っ白な髪の毛しか見えない。相当な歳のはずだけど、綺麗な姿勢のせいかあまり老いているという感じはせず、ぱっと見は穏やかな老婦人……それでもバックミラーを見られないのは、たぶん、のせいだ。
 ──あんたがコテツかの。
 出雲空港まで迎えに来た彼女に最初に話しかけられたとき、その目を一度だけ見た。
 瞳というの中で黒炭が赤熱しているみたいだった。実際には静かで穏やかな目だったが、それでも俺は彼女の瞳の中に、確かに一筋の焰ほむらを見たように思った。
 ──あたしが剱田かがりだわ。ついてきなさい。
 拒絶されているという感じではない。かといって気安く話しかけられる雰囲気でもない。厳格で、研ぎ澄まされた──軽々しく踏み入ることを躊躇ちゅうちょさせられてしまう、神域のような空気感とでも言えばいいのか。ともかくその短い自己紹介以来、一言も口をきいていないことだけは確かだ。
 正式に未成年後見人になってくれるというこの人のことを、俺はよく知らなかった。会ったのも今日が初めてだ。裁判所が決めたことらしいので、少なくとも悪意ある人選ではないのだろうが……そういえば一度、面接をして色々訊かれたっけ。海が好きだというのは、もしかしたらそのとき適当に口にしたのかもしれない。
 当然後見人となる側とも面接はしているだろうし、海近うみちかというだけで決め打ったわけでもないだろう。それでも行く先に暗雲が立ち込めているように感じてしまうのは、たぶん新しい土地への不安のせいだけではない。
 剱田さんが慣れた手つきでウインカーを出しハンドルを切った。
 車が左へ曲がると、右手に再び海が顔を覗かせる。ボートがたくさん並んでいるところを見ると、おそらくここが七類港しちるいこう。ということは、その奥の方に見える白い、円錐えんすいと巨大なそら豆を組み合わせたような奇妙な建造物が、
「あれが、メテオプラザですか?」
 会話の糸口にできそうだと思って口にすると、剱田さんがちらりと右手を見た。
「そげだわの」
「隕石が落ちたんですよね、このへんに。それが飾ってあるっていう……」
「そげだふうだ。寄っかの?」
 淡々とした問いかけに、俺はかぶりを振る。
 再び鉄のような沈黙を乗せて車は七類港を抜け、入り江の淵をぐるりと巡るようにさらに北上していった。もうこのあたりは半島の東北端のはずで、ぼちぼち民家もなくなってきたがどこまで行くのだろう……と思っていると、出し抜けに細い脇道を入って今度は傾斜を上り始める。
 もはや私道といったていのうねうねとした坂道をしばらく進んでいくと、やがて一軒の家が見えてきた。古き良き和風建築の、こぢんまりとした平屋だ。車が停まりサイドブレーキが引かれたので、どうやらここが終着点らしい。
「ちいと待っとって」
 きょろきょろする俺にそう言って、剱田さんが車を降りた。歳を感じさせない、きびきびとした動きでトランクから荷物を運び出し──てっきりそのまま家の中へ持っていくものかと思ったが、ぐるりと建物を回り込んでその姿が消える。
 しばらく待っていたがすぐに戻ってくる気配はなく、俺は小さく吐息をついた。車から降りて体を伸ばし、深呼吸する。湾からはやや離れたが、胸いっぱいに吸い込んだ空気は微かに潮のにおいがした。
それにしても……辺鄙へんぴな場所だ。
 見事に森の中。他に建物も見当たらない。一人暮らしとは聞いていたが、どちらかといえば独り暮らしといった風情だ。ひょっとして人間嫌いだったりするのだろうか。
 ふいに何か金属を打ち鳴らすような音がして、俺はびくりと身をすくませた。
 耳を澄ませた途端、鳴り止む。
 気のせいかと思ったら、ほら、また。
 断続的だが、一度始まればリズミカルな間隔で鳴る。
 キィンと高く澄んで響き、そのまま余韻を残して風に馴染むように消える。
 何の音だろう、それはあまり耳馴染みのある響きではなかった。そもそも剱田さんは一人暮らしのはず……いったい誰が、何の目的で金属なんか打ち鳴らしているのだろう。
 気になったが、剱田さんが戻ってくるのが見えて、俺は居住まいを正した。
「遅なったね。ついてきなさい」
「……お邪魔します」
 家の中へ入ってからまた耳を澄ませたが、あれきり音は聞こえなくなった。

 剱田さんとの最初の夕餉ゆうげは鍋だった。
「水炊きにしたけん。味付けは好きなもん使わいいけんね」
 蓋を開けると出汁のいい香りが漂う。具材はシンプルに、鶏肉、つくね団子、豆腐、白菜、水菜、ねぎ、えのき。調味料はポン酢、胡麻ポン酢、醬油。あとは薬味で小口切りの青ねぎと、七味、大根おろし、いり胡麻。
「美味しそうですね」
 と口にしたのは本音が半分、残りは社交辞令。剱田さんの表情は、立ち昇る湯気でよく見えない。
 食事の席は予想通り静かだった。沈黙が支配するというわけではなかったが、数少ない会話には終始ぎこちなさが滲んだ。
「ちいと淡泊だったかいね」
「いえ、ちょうどいいです」
「や、食いでの話だわよ。本当はもうちょっとごっつぉ(ご馳走)にしようか思っとっただいど、あたしも歳だけん、あんまり脂っこいもんは食べれんけんね」
「大丈夫です。そんなに脂っこいのは好きじゃないので」
「そんならいいわね……ああ、そのポン酢は知り合いのお手製だけん、酸味も塩味も控えめで老人向けの味付けかもわからんだいど、よかったら使ってみっだわ」
 ややなまりのきついその方言は、昔島根から来たという国語の先生が少し教えてくれたことがあって、言っていることはだいたいわかる。ただ、標準語に比べると語感から感情を読み取るのは難しい。
 剱田さんはあまり表情を変えないので、怒っているのか、喜んでいるのか、退屈なのか、楽しんでいるのか、それすらもわからず、常に顔色を窺っているとますます自分の口数が減っていくのがわかった。叔母さんは気を遣って色々と話題を振ってきたものだが、この人はそれもしない。まるっきり、俺に興味がないようにさえ見える。
 締めはおじやになり、舌では美味しいと感じていたが、感情はあまり湧かないまま食事は終わった。
 食後のお茶を飲んでいるとき、唐突に剱田さんが言った。
「あんた、高校はどげすっだ?」
 転入試験は受けて、結果問題なかったという連絡ももらったはず……質問の意図をはかりかねていると、剱田さんがこう付け加える。
「もちろん手続きは終わっとるよ。三学期から通う分には何も問題ないわね」
「それなら何が……」
「四月から通う手もあっよ。その場合はたぶん、まいっかい(もう一回)二年生やり直すことになるんだらぁけど。今通っときさえすらぁ、成績とか、補習次第で三年生に進学できっかもしれんわね。仮に進級できんでも、今から行っとったら色々慣れっだらぁし、無駄にはならんわね」
 あの日、、、以来、通っていた高校には一度も行かなかった。入院していた頃はもちろん無理だったし、その後叔母さんの家に引き取られてからも色々ゴタゴタして、結局二学期は丸々行っていない。日数にすると、およそ八十日の欠席となる。
 多くの場合、進級にあたっては出席日数の下限が決まっている。転入先の高校からも進級できるかどうかは“微妙”だと言われた覚えがあった。仮に一月から通ったとしても、剱田さんの言う通り何らかの救済措置を受けたうえでなんとか、という温度感だった。進級できないかもしれないが一月から行くのか、それともいっそ四月から二年生をやり直すのか……。
「進級できるかもしれないですし、三学期から行きますよ」
 その返事は、正直この家にいるよりは学校にでも行った方が気疲れしなそうだ、という安直な判断を含んでいたが……まるでそれを見抜いたように、剱田さんの鋭い目がこちらを見据えた。
 食事の間もなんだかんだと、目は合わせないようにしていたのに、吸い込まれるように見てしまった。千里眼せんりがんなんて見たことはないけれど、こんな目なのだと思う。何を言っても、噓をついたつもりがなくても、自分の知らない本音まで暴き出されそうな眼差まなざし。
「あたしが訊いとんのは、行けっかどうか、、、、、、、って話だが」
 剱田さんがわずかに目をすがめたのがわかった。
学校がっこ行かぁ、触れてほしくないことに触れてくるやからもおっだわ。周りはあんたの過去は知らんけんね。外の世界に出ていくゆうことは、そげなことに耐えないけんってことでもあるんだわ」
 金属疲労って言葉知っとっかえ、と剱田さんは唐突に問う。金属疲労?
「負荷がかかり続けた金属が、ちいとの力でめげっこと(壊れること)言うんだわ。本来頑丈なはずの刀とかクランクとか、がいな(大きな)もんだと飛行機とかね。人間の心にも同じことが言えっだわ。色々溜め込んどる人間が折れてしまうときは、存外些細なきっかけだわね」
 なるほど、と思う。言いたいことは理解できる。
 一方で「そんな大げさな」と真剣に取り合わない自分がいる。「溜め込んどる」と剱田さんは言ったが、俺にその自覚はない。そもそも人付き合いにはそこまで積極的じゃないし、他人が勝手に想像を膨らませる分には、実害はないと思う。それでもなお踏み込んでくるというのなら、そのときはそのときだ。
「大丈夫です。問題ありません」
 剱田さんはしばらく俺をまっすぐに見ていた。
「……ほんなら三学期から行かいいだわ。学校で必要な金は全部出してやっけん。こっは生活費と一緒で返さんでいい金だけん、そげなもんとして受け取んなさい」
 有無を言わさぬ調子にぎこちなくうなずくと、「ただし」と付け加えられる。
「今のはあんたがきちんと学費に見合うだけの学びを得た場合の話だけんね。あたしは無駄が嫌いだけん、学校に行かんゆうなら、その分は働いて返してもらうけんな。いいかいね?」
 無駄にする気なんかもちろんなかった。学校へ行かない。行けない。その可能性は、自分の中では限りなくゼロに近い。けれど剱田さんの言いようを聞くと、訊かずにはいられなくなる。
「働くって、いったいなにをすれば……」
 恐々訊ねた俺に、剱田さんは小さく肩をすくめてみせた。いっそ脅してくれたならまだわかりやすかったが、彼女の答えはあくまで淡々としていた。
「学生の本分は頭を働かせっことだらぁよ。そっが嫌なら、体で払ってもらういうだけの話だわね」

 翌朝起きると劒田さんはすでにいなかった。そういえば昨日「仕事」だとか言っていたっけ。
「──こういうトラウマって、何がきっかけでフラッシュバックするか、人によって様々ですからね。我々は侵入症状とか、再体験症状とかって呼んでるんですけども」
 居間のテレビがつけっぱなしになっている。テロップから察するに、芸能人の活動休止ニュースらしい。
 テーブルを見ると朝食は用意してあり、昼食・夕食の時間と、外出するなら戸締りをするよう達筆で書置きがしてあった。家の鍵も置いてある。本人はいったいどこへ行ったのやら、書置きの内容と気配から察するに、家の中にはいないようだ。
「もちろん本人の意思で思い出しているわけではないし、止めることもできない。要するにトリガーがあって、それが引かれると心が過去の、つらい思いをした瞬間に、一気にタイムスリップしてしまうんです」
 テレビの中では専門家とおぼしき白衣の男が熱弁を振るっている。
「引き金は必ずしも直接的なものとは限らないし、一つとも限らない。虐待のトラウマがある人なら当然、暴力がトリガーになるだろうと思われるでしょうが、当時よく目にしていたカーテンの柄とか、そういう些細な繫がりを目にしただけでも、ふっと意識が過去に戻ってしまうことはあるんです──」
 何やらカラフルなクリップボードがアップになったところでスイッチを切る。箸と食器がぶつかる小さな音が、急に大きくなったように感じた。
 朝食を終えると一度部屋に戻り、机に教科書を広げてみたものの集中力は散漫だった。昨日剱田さんに言われたことが、頭の上に薄くもやを広げている。
 窓の外に目をやると、こちらは冬らしく綺麗に澄んだ、高い空だった。窓を開けると凍てつく風が頰を刺したが、その冷気が頭を冷やしてくれそうにも思った。
「……少し、歩くか」
 口に出してみると、実際に行動しなきゃいけない気がしてくる。
 一通り戸締りを確認すると、防寒着を着込んで家を出た。気温はひどく低いというほどでもなかったが、起き抜けの体には染みる。
 家の前から延びる道路は、前日に車で上ってきた一本道だ。辿っていけば七類湾がある。昨日はあまりゆっくり眺める時間もなかったし、ひとまず海が見えるところまで行ってみようか……。
 考えながら白い息を手に吹きかけて足踏みし、肌が寒さに慣れるのを待っていると、ふいに甲高く響く金属音が鼓膜を震わせ、俺は身をすくめた。
 ──あの音だ。
 昨日この家に来たときに聞こえた。金属と金属が強くぶつかり合うような……澄み渡る師走の空に響く鉄の音。
 それは断続的に鳴り響いている。最初は家の中から聞こえるように感じた。でも戸締りついでに家中見て回ったとき、そんな音を出しそうなものは何もなかった。なら、家の裏──もしかしたら奥に別の人が住んでいるのかも、と思い至る。考えてみれば、平屋の裏はまだ見ていない。
 家を回り込むように歩いていくと、持ち主の性格が表れているであろう小綺麗な庭があった。剱田さんは朝、洗濯機を回したらしい。藍色の……あれは何だろう。袴? タオルもたくさん干されている。
「あ」
 平屋の陰、風を避けるようにひっそりと木々の隙間に小屋が佇んでいるのが見え、俺は足を止めた。
 見てくれは水車小屋のような雰囲気だが、水車はついていない。正面からは板張りの壁と、戸がついているのが見えるので、中に入れるのだろうが、住居という雰囲気ではなかった。引き戸は開いていて、音はそこから聞こえてくる。何かの工房なのだろうか。それなりの音量なので、近所迷惑を考えればこんな辺鄙なところにあるのも納得はいくが……。
 夜、正体のわからない音が聞こえると、それがどんなに小さく些細でもなかなか眠れないタイプだ。好奇心、というよりは音の正体を確かめて安心したい……その一心で忍び足になりながら建物に近づいていき、そっと中を覗き込む、
「はや、どげした?」
 心臓が口から飛び出すかと思った。まさに覗き込もうとしていたその引き戸から、剱田さんの顔が覗いたのだ。
「あ、いや、その……」
 しどろもどろになって泳いだ視線が小屋の中をちらりと捉えた瞬間、顔からさーっと血の気が引くのがわかった。
 金属音の正体はわからなかった。
 見えたのは、舞い散る火の粉。
 轟々と踊るように燃え上がる火焰。
 火の悪魔、という言葉が頭をよぎる。何かの小説で読んだ、開かれた口から赤熱した舌をちろちろと覗かせ、唸り声とともに黒煙の吐息をこぼす業火の化身。
 文字通り体に焼きついた感覚が、記憶の泉を揺さぶる。
 耳元で、ぱちぱちと爆ぜる音がする。悪魔の笑い声。
 左の頰がじくじくと痛み、冷や汗がその上を転がっていく。やがて視界がぐらぐら揺れたかと思うと、意識が真っ暗闇へと落ちていく。

 肌を舐める灼熱。
 真っ赤に燃える炎と黒煙。
 肺の内側から焼き尽くされる。
 視界がどんどん暗くなって、意識が朦もう朧ろうとしていく。
 業火の底でもがくうち、体の奥底から猛烈な吐き気がせり上がってくる。
 やがて口からこぼれ落ち、とっさに両手を出して受け止めると、それはくすんだこぶし大の、でこぼことした石みたいな形をしている。軽い。鼻を近づけると、鉄のようなにおいがする。最初はトクン、トクンと脈打っていたが、徐々にそのパルスは弱くなり、やがてフェードアウトするように止まる──。
 俺は灰の中から目を覚ます。手足を振り回しながら、意識が覚醒する。
 叫んでいたような気がする。喉がからからだ。心臓がばくばくと脈打って、背中が強くうずく。額に噴き出た汗を袖でぬぐおうとして、見慣れぬ天井が目に入った。一瞬ここはどこだと混乱するが、自分が寝ているのが昨日使った布団だと気づく。
「お、気がついた?」
 やや訛った声がして、顔を向けると知らない男が立っていた。ぼさぼさ頭に緩い印象を受ける垂れ目。穏やかを通り越して、眠そうに見える。
妙な格好をしていた。作務衣さむえだろうか。どこかで見たな……ひょっとして、庭先に干してあったやつかもしれない。すすでも被ったのか、あちこち汚れていて、まるで火事場から逃げてきたみたいだ。ふと夢の光景を思い出し、俺はぞっとする。
「あの、」
「ああ、おまえ誰だって話よね。おれはかがりさんの弟子で横山よこやまコウという者です。仕事中だったんで格好が汚いのは勘弁して」
俺の身震いを不審者に対する警戒と取ったのか、男は口早に自己紹介をした。かがりさん、が聞き取れたので少し安堵する。その格好も、火事があったというわけではないようだ。
「俺は……倒れたんですか」
「そうだね。急だったからびっくりしちゃったよ。大丈夫?」
「どのくらい……」
「いや、全然。三十分も経ってないかな。貧血かなって思ってとりあえず寝かせた感じ。病院ちょっと遠いんだよね。お医者さん呼ぶかどうか迷ってたところ」
 俺はゆっくりとかぶりを振った。
「大丈夫です。元々低血圧気味で」
 低血圧自体は噓ではない。
「そう? なんかうなされてたみたいだけど」
「悪い夢を見ました。でも夢ですから」
「そうか。まあ無理はしないで。頭打ったとかじゃないし、若いから大丈夫だとは思うけど」
 じゃ、かがりさん呼んでくるから、と横山ナントカさんは部屋を出ていった。表情ばかり見ていると緩そうな感じだったけれど、背中はがっしりとしているように見えた。そういえば、弟子とか言っていたような。いったい何の弟子だろう……。
 ふっと倒れる直前の記憶が湧き上がってきた。ぬぐったばかりの額を、再び冷や汗が転がり落ちていく。
火だった。真っ赤な火が燃えていた。
 うっすら覚えている。剱田さんの他に、二人くらい誰かがいた。その一人がきっと横山さんだ。彼らはあの火の粉舞い散る小屋の中でいったい何をしていたのだろう。
 仕事、と剱田さんは言っていたっけ。
「……変な仕事」
「そら、悪かったね」
 まさか聞かれているとは思わず、心臓が大きく跳ねた。いつのまにか剱田さんが、音もなくそこに佇んでいたのだ。
「あ、えと、すみません、変っていうのはその」
「ま、確かに一般人から見らあたしらのやっとることはさぞ奇妙に映うつっだら」
 剱田さんはなんでもなさそうに言うと、布団の脇まで歩いてきて顔を覗き込んできた。俺はとっさに視線を逸らす。
「気分はどげな」
「大丈夫です。ただの貧血で」
やっぱり、、、、火は恐ろしかね」
 顔が強張る。でもそうか、この人は横山さんと違って、事情を知っているのだ。
「……怖い、というか」
 あの日以来、火を見たのがたぶん初めてだった。不意打ちだったことは、ショックを大きくしたかもしれない。とはいえ、失神するとは思わなかった。それだけ鮮明に、体が恐怖を覚えていたということなのだろうか。
「あんなに大きな炎を見るには、心の準備が足りなかったみたいです」
 そう答えると、剱田さんは肩をすくめた。
「あたしも注意が足らんかったわね。悪かったわ」
「いえ……」
 悪いのは自分だ。剱田さんから見れば、俺は勝手に仕事場に踏み入ってきて勝手に気絶したのだ。急にバツが悪くなってきて、話の矛先を微妙に逸らす。
「何をしていたんですか、あの小屋で」
「仕事。コウからなんだい聞いてなかったかの?」
 コウ……横山さんのことか?
「まあ、そのうち嫌でもわかっだら。起きられっやぁならあたしは行くけん。具合がっやぁならいつでも呼ぶだよ」
「……はい」
 剱田さんはうなずくと、それ以上何も言わずあっさりきびすを返して去っていった。その背中を見送りながら、俺は三度みたび額の汗をぬぐった。
 胸の内側がまだぞわぞわしている。
 火傷から再生する皮膚が強張るように、でこぼことした心の表面……その痂皮かひで塞がれた傷のことを、あまり考えたことはなかった。思えばあの火事からこっち、誰かに、何かに、触れられたこともなかったか。
 いつ作ったのか、指先に小さな瘡蓋かさぶたができているのに気づく。綺麗に剝がれると思って爪でつまんで引っ張ったら、じわっと血が滲んで赤色の玉になった。ぽたりと滴り落ちるその雫が波紋を広げたように、記憶の凪が揺らぐ。
 そうだった。火って、あんなふうに燃えるんだったな……。

  *

 裏の小屋には、ちょこちょこ人の出入りがあるようだった。見かけるのは基本横山さんと、もう一人──だいぶ若い、苗字なのか名前なのかもわからないが「カンナ」と呼ばれている女の人。化粧っ気がなく、童顔かつ小柄なので未成年かと思うけれど、実際はもっと上らしい。一度だけ家の前ですれ違って、お互い無言で会釈をした。いつも無表情というか仏頂面で、どことなく人を寄せつけない雰囲気のある人だ。
 横山さんの方は当初の印象通り気さくで、目が合えば挨拶をしてくれる。仕事場は禁煙なのか、外で煙草を吸っていることがあるので顔を合わせる機会はカンナさんより多い。タオルを首にかけ、作務衣姿で、決まって西の方を向いている。この人も逆の意味で二十代には見えないけれど、いくつなんだろう。
 剱田さんも小屋にこもるときは作務衣姿だった。そして三人が中にいると、あの天まで届きそうな、澄んだ金属音がリズミカルにこだまする。
 火を使う。
 たぶん、金属を叩いている。
 その二つから、鍛冶屋かじやなんだろうという予想はつけていた。実際にあの小屋へもう一度行って確かめてみる気もしないが、それは確信に近かった。仮に当たっていないにせよ、”仕事”の音だということは間違いない。
 今はそれ以上のことに、興味はなかった。

 この家はダイニングや応接間はフローリング張りだが、それ以外は和室が多いようで、俺が自室として与えられている部屋も畳張りだ。父と暮らしていたアパートに和室はなかったので、イ草の独特の香りにはまだいまいち慣れない。
 真新しい勉強机と椅子はわざわざ買ってくれたのだろう。他には引き出しが三つついたデスクワゴンと、小さめの簞笥たんすが一つ。簞笥の方は年季が入っている。ベッドはなく、寝るときには押し入れから布団を出しているが、ここ数日よく眠れているとは言い難い。
 あくびを堪えながら勉強していると、突然インターホンが鳴った。それがあることは知っていたが、鳴るのを聞いたのは初めてだったので逡巡する。そういえば、来客に関しては何も言われていなかった。出ていいんだろうか。
 時刻は午前十時。剱田さんは仕事場にこもっているはず。とりあえず部屋から顔だけ出すと、ちょうど勝手口から入ってきた剱田さんと出くわした。すでに薄汚れた作務衣姿だ。どうやらインターホンに反応して戻ってきたらしく、「大丈夫。あたしが出っけん」そう言って足早に廊下を抜け、玄関へ歩いていく。
 俺はうなずいて、素直に首を引っ込め勉強机に戻った。玄関でしばらく立ち話をしていたので、どうやら顔見知りだったようだ。
 やがて玄関の扉が再び開いて、客人が去っていく気配がした。剱田さんの足音が戻ってきて、てっきりそのまま仕事場へ向かうだろうと思ったら、部屋の前で止まりふすまが軽くノックされる。
 なんだろう。ひょっとして俺宛の荷物だったんだろうか。
 やや警戒しながら再び戸を開けると、小脇に小包を抱えた剱田さんが立っていた。それは布に包まれた細長い箱のように見えたが、思い当たる節はない。
「悪かったね。あたしの客がほとんどだけん、鳴っても無視すらいいけん。そいから、今ちいと時間いいかいね?」
「なんでしょうか?」
 冷静を装って訊ね返すと、剱田さんは抱えていた小包の布を取った。あらわになった中身はやはり箱で、その蓋を取りながらこちらへ向ける。
「まだ見せたことなかったわと思って。こっがあたしの仕事だわ」
 なんだ、やっぱり俺宛の荷物じゃなかったのか……と軽い気持ちで覗き込んだ瞬間、思わず息を殺した。いや、むしろ殺されたのかもしれない。それ、、が何であるか、知ってはいたけれど、こんなにも間近で見たのは初めてだ。
「……刀?」
 紛れもなく、刃渡り二十センチほどの短刀だった。
 俺の顔が青ざめているのか、それとも刃自体が青いのか、鏡のように映り込んだ自分がうっすら青みがかって見える。全体が刀身から地続きの”鉄”のまま剝き出しで、一切何の装飾もされていない。さやもなければつかもない、純粋な一振りの白刃は、ただそこにあるだけでなにかを斬っているかのようで──触れるのはもちろん、直視することにすらためらいを覚える。
「本物……ですか?」
 剱田さんはゆっくりうなずいて蓋を戻した。
「つまり、仕事っていうのは……」
 にわかには信じがたい気持ちで目の前の老婦人を見つめる。
鍛冶屋だという予想はしていた。でも俺が思っていたのは、調理器具とか、生活用品とか──例えば包丁みたいな、もっと身近で広く使われているものを作る職人だ。目の前にあるものは、そこからかなりズレている。タイムスリップしているみたいな違和感がある。
 困惑する俺をよそに、剱田さんがすぱっと言い切った。
「刀鍛冶だわね」

  *

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プロフィール
著者:天沢夏月(あまさわ・なつき)
1990年生まれ、東京都出身。
『サマー・ランサー』にて第19回電撃小説大賞<選考委員奨励賞>を受賞し、デビュー。
著書に『DOUBLES!!-ダブルス-』シリーズ、『八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。』『七月のテロメアが尽きるまで』『17歳のラリー』『ヨンケイ!!』など。

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