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注文に時間がかかるカフェ たとえば「あ行」が苦手な君に

 序章 言葉を巡る旅への離陸

 他者と向き合うとき、本当は私の話など興味ないんじゃないかと、疑いたくなる悪い癖がある。
 相手のあいづちが多いほどそうだ。自分を見ているようで、せつなくもなる。
 私は、取材現場で無駄に相槌が多い。限られた時間内に、気持ちよくたくさん話してもらいたい。前のめりな気持ちが過剰な相槌を生み、たたみかけるようにして相手の言葉を先取りし、急ぐ。そう、本当にいつもいている。早口になり、自分の言葉やリアクションに重みがないのが、昔からコンプレックスだった。
 だから、きつおんのある若者が接客をする「注文に時間がかかるカフェ」の物語を、と依頼されたときは脳のどこかがしびれた。なんでもファストがいいとされるこの世の中で、待つことを是とするネーミングは、太くて重い一本の杭のようだ。今きっと、誰もに必要な心の杭。
 SNSでもテレビでもネットでも、誰もが「私を見て」「話を聞いて」と主張している。私など食事の席で自分しか話していなかったと、あとから恥ずかしくて眠れなくなることの連続だ。人は、話すより聞くほうがずっと難しい。
 けれど、吃音は自分から遠すぎる。
 これまで一度も考えたことがない。周りにもいない。

「吃音って、最初の言葉を繰り返すあれ、ですか」
 その程度の認識しかなかった。
「あ、あ、あ、ありがとう」と同じ一音を繰り返すのを“連発”、「あ───りがとう」と最初の音を引き伸ばすのを“伸発”、「…………ありがとう」と言葉が出にくいのを“難発”。吃音は、「繰り返す」「引き伸ばす」「出にくい」の三種に大別されると知ったのは、もっと後のことである。
 折しも二八年の執筆生活で、もっとも仕事が団子状につまっていた。縁遠い吃音というテーマに、とても時間を割けそうにない。いますぐ書きたいテーマも山積している。
 前向きな気持ちになれぬまま、とにかく一度、発起人の奥村さんに会ってから執筆の返事をすることになり、打ち合わせを終えた。

 一六八センチのスリムな長身にショートカット、それまでさまざまな記事で見かけたトレードマークらしき紺ブレ姿の彼女は、一語一語、言葉をテーブルに並べるようにゆっくり丁寧に話す。どもり、、、つまり、、、もない。
 重い吃音症状があったが、成人してからオーストラリアで治療。今は、一聴した限りではわからないくらいに改善されている。とはいえ発話の訓練は、毎日欠かさず七年間続けているとのこと。
 思わず、ぶしつけに尋ねた。
「吃音の症状が出るときもあるのでしょうか」
「はい。今は出にくい言葉を言い換えています。とくにア行、、が苦手なので、奥村安莉沙という自分の名字も名前も言いづらいですし、この年になってもいまだに、四月の進級進学の自己紹介シーズンになると、うなされたり悪夢を見たりするんですよ。一週間くらい」
 吃音当事者にとって、春は気持ちが重くなる季節なのだという。皆の前で、順番に自己紹介をする時間は、「まさに地獄です」(奥村さん)。
 アルトのやわらかな細い声。彼女が話し出すと、自然に耳を澄ます。
 言葉数が多くはないが、けして足りないわけでもない。質問に対し、適切な言葉を探し、選択しながら組み立てているのがわかる。私にはない美しい語りに惹きつけられた。
「かねがね自分の言葉が過剰で、話し方がコンプレックスでした。奥村さんのリズムやトーンは魅力的です」と言うと、驚いたように目を丸くした。
「そんなふうに言われたのは初めてです」
 苦労の末にたどりついた話法に対し、私の羨望がひどくとんちんかんで間違っていると、このときは気づかなかった。

 奥村安莉沙さん(三一歳)は一〇歳のとき、遊び心で自分宛てに手紙を書いた。
〈20 歳のわたしへ。あなたはカフェの店員さんになる夢をかなえていますか〉
 ちょうど一〇年後。
 掃除をしていた引き出しの奥から手紙を見つけ、胸が締め付けられた。吃音のために夢などとっくに諦めていた。ぐしゃぐしゃの紙片から、夢を見ることさえ忘れている今の自分が透けてみえた。
「母がコーヒー好きで、幼いころからよく地元、相模原市の橋本という駅ビルにあるスターバックスに連れて行ってもらいました。おしゃれで、働くお姉さんお兄さんたちが楽しそうで。私もこういうところでいつか働きたいなあと、すごく憧れました。でも、“ありがとうございます”“いらっしゃいませ”は、ア行で始まります。金額の数字もスラスラ言えない。だんだん私には無理だなと諦めるようになって、大学二年の夏休み、相模原の金属工業団地で車の部品を組み立てるバイトをしていました。話さなくてもすむバイトは、どうしても工場や裏方の単純作業になってしまいます。帰るとき、あのスタバが外から見えるんですね。複雑な注文を笑顔で聞いて、てきぱきとさばいて。ふと見ると私の手は油で黒くて。いいなあ、あんなところで働きたかったなって、いつも胸が締め付けられるようだったのを思い出しました」
 接客は、つねにできるだけ早く、マニュアル通りの言葉をスムーズに発しなければならない。吃音の不安から、話さずにすむバイトを選んだはずなのに、スタバを見ると胸が塞ぐのは、話すことが苦手なのに大好きなのだという相反する感情を再認識させられるからだ。

 二五歳。オーストラリアのカフェで念願が叶う。
 四カ月働いた個人経営のその店は、オーナーのポリシーで、移民、ホームレス、障害者、持病を持つ人なども、他のスタッフと区別なく採用。時間がかかっても、間違えても、店員も客も笑顔だ。見たこともない平和な空間が広がっていた。
 帰国後、引き出しの奥に葬っていた夢をもう一度すくい出す。
 あのころの自分のように、接客に憧れている吃音の若者が今もきっといるはずだと思った。憧れ続けた末に、ぐしゃぐしゃになった夢をしまいこみ、なかったことにして日々を過ごしている自分のような子が。
 言葉につかえてもいい一日限定のカフェは、こうして生まれた。
 だいそれた志があるわけじゃないと、しきりに謙遜する。最初は自分がカフェ店員をとにかくやってみたかった。そのうち、いろんなことを諦めてきた私のような思いを、若い子たちにはさせたくない、吃音を持つ若者たちが、私が生きてきた時代より、生きやすくなってほしいという気持ちがふくらんでいった。それだけなんです、と。
「注カフェは、やってて楽しいです。楽しくないと続きませんから」
 注カフェという略し方から、彼女の生活や人生に、この活動がどれくらい占めているかが伝わってきた。
 注カフェで募集するスタッフは高校・大学生が中心だ。参加前に、未成年には親の同意書を提出してもらう。本人は参加したくても、周囲に知られたくないという親や親戚が少なくないためだ。
 スタッフと一〇歳余しか違わない彼女の、「私が生きてきた時代」というきっぱりした区切り方が気になった。
 今、吃音はどう受け止められているのだろう。「我が子が吃音と知られたくない」と考える親の世代から、価値観や認識はどう変化しているのか、あるいは変化していないのか。
「子どものころ、お友達が、親から“吃音はうつるから”と教えられ、私と一緒に遊ぼうとしませんでした」
 ふと、古い記憶が蘇る。
 小学一、二年のころか、私はドラマ『裸の大将放浪記』を見て、吃音の主人公の真似をしていたら、「癖になるよ」と母親に注意された。
 四十余年前の根拠のないデマが、奥村さんの時代にも信じられていたことに愕然とする。
「注カフェに参加した子は、“同世代の吃音当事者の子と、人生で初めて出会った”とよく言います。それだけ吃音の子って孤独で、横のつながりがない場合がほとんど。私のころと全然変わっていません」

 初対面のその日、編集部から駅までふたりで歩いて帰った。少し申し訳なさそうに、彼女は言った。
「あのう、一枝さんって呼んでいいですか。おおだいらって、ア行だから言いにくくて」
 はっとした。
 打ち合わせの二時間、彼女はどれほど頭の中で、言葉を言い換える工夫を重ねていたのか。苦手な音を避け、首尾よく気持ちが伝わる言葉を探し、瞬時に言い換える作業をずっと、脳内で繰り返していた。
 もはや、身についたならいで、本人は無意識に近いかもしれないが、あのおっとりした、私には魅力的にさえ感じられる口調は、目に見えないたくさんの努力が下支えしていたと知る。

 吃音は目に見えない。歳を重ねるほど語彙が増え、言い換えも容易になる。そうすることで、一見吃音と感じさせずに、しかし陰で言い換えの工夫を永遠に重ねながら話している人がどれだけいるのだろう。それは疲れないのだろうか。言い換えなどせず、どもってもつまっても、そのまま話したいと思う瞬間はないのだろうか。
「吃音は、全国に一二〇万人いて、一〇〇人にひとりの割合と言われています」(奥村さん)
「まあその」という前置きを入れることでしゃべりやすくする工夫をしていた田中角栄、マリリン・モンローやエルビス・プレスリー、最近ではジョー・バイデン、エド・シーラン、日本では小倉智昭アナウンサーが自身の吃音体験を語っている。
 一〇〇人にひとりなら、小さな小学校にも必ずひとりふたりいる計算になる。だとしたら、私が気づかないだけで、人知れず吃音を抱え、もしかしたら悩んだり孤独だったりした友達がいたはずだ。出会ってきた大人にも、いたかもしれない。
 遠い話ではなかった。
 そんなにたくさんいるのに、なぜ吃音当事者の若者は、注カフェに参加するまで、同じ症状の友達を見つけられないのか。
「私のような思いを若い人たちにさせたくない」と、奥村さんは立ち上げの動機を語った。「私のような」とは、どんなか。
 接客だけでなく営業、教育、マスコミ、コンサルタント。吃音があることで、諦めなければいけない職業はあるのだろうか。そもそも治るのか。学校教育の現場ではどんなサポートや指導がされているんだろう。にわかに疑問がふくらむ。

 いったん彼女と別れたその夜、注カフェの自主制作映画『注文に時間がかかるカフェ〜僕たちの挑戦』上映会に行った。社会問題にとりくむ非営利法人の主催で、上映後、奥村さんのトークコーナーもある。
 製作・監督/奥村安莉沙。主演/大木瑞稀、喜多龍之祐、すぐるのん、西川
 二〇二二年七月、川崎市内で開かれた注文に時間がかかるカフェで店員を務めた一〇〜二〇代前半、四人の姿を追ったドキュメンタリーである。制作費はクラウドファンディングで募った。文科省選定映画、東京都推奨映画に認定されている。
 歌が大好きで、歌っているときは吃音が出ないという仙台の過心杏さん(一九歳)が、作中、初めて人前で主題歌を披露している。曲を作ったのも初めてだ。「いつか歌で人の前で気持ちを表現したい」と口にしていた心杏さんの夢を聞いて、「主題歌やってみない?」と、奥村さんが声をかけた。
「ビルの屋上で、一般のお客様三〇名を募集してライブをしたのですが、彼女がギターをポロンと一度鳴らすだけで、スタッフ全員が手を止め、観客全員が引き込まれていくのがわかりました。私もこんなに素敵な歌声だったのかと感激して、胸が震えました」(奥村さん)
 私が観た上映会場の全員が、きっとその撮影時と同じ気持ちだ。澄んだ鈴ののような歌声。諦めていた歌への想い、今日までの、できれば蓋をしておきたかった苦しい日々。もう一度夢を目指してみたいという言葉がやわらかに、繊細に、優しい薬のように細胞の隅々までしみこむ。
 ハンカチを取り出すまもなく頰が濡れた。隣席の男性が号泣している。

  毛玉だらけの親友にだけひっそり教えた夢
  「頑張れ自分」勇気貰える魔法の おまじない
  いつか今が 過去になって 思い出す
  その時には変わってたい
  あの時置いてきた夢をもう一度持ってもいいかな?
  一番好きで大嫌いな この音で 私が生きるための歌

  毛玉だらけの親友にだけひっそり「諦めたよ」
  「頑張れ自分」三回唱えても もう効かないみたい
  言葉の砂は上手く流れない 自分を叩いても流れなくて
  あの時置いてきた夢をもう一度持ってもいいかな?
  応援歌でもエールでもない 独りなのは 一人じゃないと 伝えたい

  あの時置いてきた夢をもう一度掴んで離さない
  一番好きで大嫌いなこの音で 私が生きるための歌

『一番好きで大嫌いな音』作詞:過心杏 作曲:秋田雄太

 毛玉だらけのぬいぐるみだけが友達だった一九歳を、もう一度生きるために歌ってみたいという気持ちにさせた、注文に時間がかかるカフェをもっと知りたいと率直に思った。
 多様性などと、知ったようなつもりで書いてきたが、私は何も知らなかった。大好きな歌うことさえできなくなった出口の見えない歳月の重さも、一〇歳の夢に蓋をして工場で働いた二〇歳の夏の葛藤も、本当は自分のすぐそばでたくさんの言葉を言い換えて話しているかもしれない人の存在も。
 奥村さんの言葉に呼吸を合わすように耳を澄ませ会話をした昼間、傾聴から生まれる沈黙の心地よさを印象深く思った。
 そうか、相手を待てないから自分の話し方が嫌いだったのだと気づいた。それは、心のない相槌の、何倍も満たされる新しい時間だった。

 しかし、上映後に壇上で奥村さんがサラリと触れた書名が、私のにわかに沸騰した頭を一瞬で冷やす。
 司会者の「転機になった出来事はありますか」という質問の流れで、出てきた。
「私は母によると、二歳のころから吃音の症状が出ていたらしいのですが、自覚したのは小学二年の秋でした。お友達のお母さんから“うつる”と言われて。そのころ、吃音は意識しなければ自然に治るものと考えられていたので、家族は私の吃音に一切触れなかったのです。私はなんの情報もなく、家庭で触れないのは吃音が悪いものだからだと思うようになり、それ以降はなんでこういう話し方なんだろうと自己嫌悪が大きくなるいっぽうでした」
「吃音当事者にとって、とくに思春期のころは孤独感もあり、つらいとお聞きしますが」
「はい。注カフェでも、ほとんどの子が“中学生のころがいちばんきつかった”と言います。私も、誰にも吃音のことを話せず、誰とも会話できず、孤独感に苛まれ、高校二年のときは死んでしまいたいと思いました。そのころ北條民雄の『いのちの初夜』を読んで、吃音の自分を受け入れようと決め、それが転機になりました」

 トークは進み、再び愛読書に触れられることはなかった。だが、私にはその書名が、胸をえぐられるような強烈な違和感として残った。
 まだ戦争さえ始まっていない一九三六(昭和一一)年、ハンセン病患者として療養施設に隔離された著者の自伝的小説を、一七歳の彼女がなぜ。一九九二(平成四)年生まれの彼女は、私の長男の三歳上なので記憶が鮮明だ。KPOPのガールズグループが日本でもブームを巻き起こし、H&Mなど外資のファストファッションが進出、行列を作っていた。
 それらの世相からあまりにかけ離れたハンセン病という言葉の距離感に、息を呑む。
 北條民雄は一九歳で療養所に半ば強制的に入院。傑作『いのちの初夜』を世に出した翌年、二三歳で夭逝している。ハンセン病に対する差別や偏見により、親族が本名・七條晃司を公表したのは没後七七年経ってからである。
 奥村さんはどんな思いで、なぜこの本を手に取ったのだろう。そして吃音をどう受け入れられるようになったのか。
 彼女自身のことを掘り下げたとき、注カフェの本質が見えてくるのではと思った。
 吃音は幼少期に自然に治るケースが多い。
 だが、仮に。一億二千万の人口の一%が、思春期に死にたいと思ったことがあるとすれば、この本のテーマは、命だ。生を投げ出そうとした女性が、自己と利他の両方の充実のために命を燃やしている。
 自分だけが幸せなわけでも、旧来のような自分を犠牲にして一方的に誰かのために尽くすわけでもない。若者ほど、集団をまとめるのは難儀だ。簡単にSNSの連絡を断つことや、匿名で批判することが容易な環境で育っている。
 さまざまなリスクをひとつひとつ解決しながら楽しみながら、みなで命の充実を求める。
 遅くても間違ってもいいという世間とは真反対のメッセージで、吃音啓発を通して、多様性のありかたをたったひとりで問い始めた彼女の生き方から、私や私達や社会が学べるものは、きっと大きい。
 相手をひたすら待つ、言葉を巡る旅が始まった。

  *

続きは発売中の『注文に時間がかかるカフェ たとえば「あ行」が苦手な君に』で、ぜひお楽しみください。

■著者プロフィール
大平一枝(おおだいら・かずえ) 
作家・エッセイスト。長野県生まれ、東京都在住。市井の生活者を独自の目線で描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイ多数。著書に『ただしい暮らし、なんてなかった。』『男と女の台所』(平凡社)、『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』(毎日新聞出版)、『紙さまの話』(誠文堂新光社)、『昭和式もめない会話帖』(中央公論新社)などがある。

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