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毒をもって僕らは

 僕は今日、命からがら十六歳になった。
 総合病院のジメジメしたロビー。こんなしん臭い場所で五月十二日の誕生日を迎えるなんて最悪だ。退院手続きを済ませ、硬いソファで母の迎えを待っている。
 春の陽気も重たくなってきた五月。大窓から見える中庭の柳が、だるげに葉を揺すっている。
 僕はこの春めでたく高校に入学した。直後、全ての運に見放されたように転げ落ちた。
 四月。期待に胸を膨らませた入学式。張り出されたクラス分けの名簿には見知らぬ名前ばかりが並んでいた。同じ中学校で仲の良かった友だちは、ことごとく他のクラスに固まっている。もともと社交的でない僕はグループ作りに大きく遅れをとってしまった。
 第二週。大人しそうなメガネ集団に身を寄せ、仲間作りが前向きに進み始める。だがそのうちの一人、やけという銀縁メガネがくせものだった。占いだかの話題で盛り上がる中、そいつは僕にこう言い放った。
じまってさ、六十歳くらいで孤独死しそうな顔してんな」
 心ないその一言に、僕はいたく傷ついた。六十歳で孤独死。絶妙にリアルで、ライフプラン的にもキツい死に様ではないか。その一件で溝ができて、グループとも疎遠になってしまった。
 第三週。藁をもつかむ思いでおさなじみに泣きすがった。
「悪いけど、これからは声かけないで」と痛烈な一撃をくらい、あえなく撃沈。あいつめ。高校デビューのために、根暗な僕を過去の汚点として切り捨てやがった。おさげだった髪をバッサリと切ってバレない程度に染めている。
 そして忘れもしない四月の終わり。
 ゴールデンウィークという一つの残酷な締め切りを前に、僕はストレスの限界を迎えた。ついに体が壊れたのだ。
 そんな兆しは一切なかった。頑丈なタイプではないにせよ、少なくとも不摂生はしていなかった。母親の勧める謎のサプリも欠かさず飲んでいた。それなのに。
 学校で一言もしゃべることができず、しょげ返って無言の帰宅。趣味の心霊動画を漁っていた深夜一時。突然背中を刺された。振り返るが、そこには誰の姿もない。それが体の中から突き破る痛みだと気づいた時には遅かった。吐き気なんてものじゃない。スマホに一直線にゲロを吐き、椅子から転げ落ちた。上下左右がめちゃくちゃになる。冷や汗が果汁のようにほとばしった。
 悲鳴を聞きつけた両親が痙攣する僕を見て、泡を食って救急車を呼んだ。意識確認のため救急隊員に何度も名前を尋ねられた。木島みち。苗字はともかく、「みちほ」という発音しづらい名前を心底のろった。ベッドでのた打ちながら、カーテン越しに両親が医師の説明を受けている影をにらむ。両親も動揺を隠せず、「息子は死ぬんですか?」「がんですか?」「白血病ですか?」と取り乱していた。
 僕は余命を宣告されるんじゃないかと恐ろしくなり、耳を固くふさいだ。しかし、指の隙間から聞こえてきた医師の診断は、
尿にょうけっせきですね」
 決定打だった。トドメを刺された。目の前が真っ暗になった。
 こうして僕は、息も絶え絶えに十六歳になった。
 僕は今、ロビーのソファで頭を抱えている。中高年ならまだしも、この歳で尿路結石ってあんまりじゃないか。ちゅうすいえんの方がまだマシだった。こんなの苦しいだけで笑い話にもならない。思いのほか入院が長引き、ゴールデンウィークも明けて一週間が過ぎていた。やっと返してもらったスマホには、幼馴染からの心配するメッセージが溜まっている。学校では声をかけるなと突き放しておきながら、冷徹になり切れない人間なのだ。矢野からのラインによると担任教師から「木島は入院でしばらく休む」と説明があったらしい。高校生活にも慣れ始め、そろそろ新しい話題に飢えているクラスメイトたちにとっては格好の的だ。「え? もしかして若年性の癌? 白血病?」様々な憶測が教室中を駆け巡っているに違いない。
 期待値最高潮の中、僕は明日登校しなければならない。
 尿路結石という病名を引っげて。
「はああああああああ」
 春の芽吹きが枯れるほどのため息。前を通り過ぎる看護師が、ちらとこちらを見る。視線から逃れるようにうつむいたとき、
「不幸のどん底って顔してるね」
 背後で声がした。空耳かと振り返ると、似通った年頃の女の子がいた。後ろのソファで小さく腕組みして、僕をしげしげ見つめている。
「え?」
 不意打ちをくらい身構える。誰だ? この子。
 あさいろのパジャマ姿。肩口で揺れる髪の奥に、かげった顔がのぞく。少女はソファから身を乗り出して、僕に悪戯いたずらな笑顔を向けた。
「この世の終わりって顔してる。可笑しい」
 少しかすれた声。可笑しいと言った口は本当に笑いを堪えているらしく、肩が微かに震えている。僕は無視しようか逡巡しゅんじゅんするも、目があった以上、なにも答えないのは失礼だ。なにより久しぶりに同年代の子と話ができる。らしに付き合ってもらおうではないか。
「ああ。このまま死んでしまいたいくらいだよ」
 死、という言葉に少女は一瞬たじろいだ。しかしすぐに表情を繕って、「ふーん。君はずいぶん不幸が好きなんだね」と言ったきり口を結んだ。
 はっと我に返った。もしかしてこの子は不治の病で余命いくばくもなく、不幸をひけらかしている僕に苛立って絡んできたのかもしれない。そんなストーリーが頭をよぎった。大袈裟おおげさなため息をついていた自分が急に恥ずかしくなった。
「ごめん。病院でこんなこと言うべきじゃなかった」
「ねえ、君にお願いがあるんだ」
 少女は僕の謝罪を無視して耳打ちしてきた。
 君は不幸を寄せ付ける体質みたいだし、と前置きしてからこう続けた。
「この世界の、薄汚い、不幸せなことを私に教えてくれないか。もっと、もっと、もっと」

 梅雨前のぐずついた日差し。僕は教室のすみっこで、頬杖ほおづえをついて外を眺めていた。無人の校庭。水のれたプール。学校と外界を隔てるバックネット。校舎の二階から一望できるくらい淋しい漁師町。景色の終わりは海で締めくくられている。
 室内に目を戻す。教壇では数学教師がチョークで黒板を削っている。なにをイライラしているのか、ずっとこの調子だ。教師の不満をよそに、生徒たちは長閑のどかな時間を満喫している。
『うちのクラスに木島って根暗がいるんだけど、そいつ尿路結石だって』
 隣のメガネが、机の下で文字を打っている。僕に六十歳の寿命を宣告した三宅だ。スマホには即座に返事が吹き込まれる。『ジジイかよ』。爆笑マークが滅多めったちされている。僕に見えるようにわざとスマホを傾けやがって。メガネの奥でチラチラこちらを盗み見してくる。ほんっと、嫌なやつだ。
 今朝、「学校行きたくない」と散々渋った挙句、父親に蹴り出された。登校の道中、クラスの生徒に会わなかったのも不運だった。ワンクッション入れるチャンスもなく教室に到着。何食わぬ顔を装って、忍び足で着席する。が、次の瞬間、幼馴染の矢野が机の前に覆いかぶさった。
「返事くらいよこせ」
 すみません。と頭を下げる。教室中が、待ってましたとばかりに注目する。しどろもどろになる僕に構わず矢野は「で、なんの病気だったの」と詰問してきた。自分は全てを知る権利があると言わんばかりの剣幕。仲良しになったクラスの中心的な立場の女子が「ちょっと和佳奈。幼馴染だからって、あんまりプライベートなこと聞いちゃまずいって」と労りながら催促する。メガネの三宅がすきっ歯をき出して「とかだったらヤバいじゃん」と冷やかしを入れる。クラスの面白ポジションを獲得していると勘違いしているようだ。
 僕は死にたくなっていた。心の中で何度もギロチンにかけられている気分だ。もう存分に痛めつけただろう。僕のことなんか忘れてくれ。空気になりたい。でもこのまま引き下がったら、僕の最後の尊厳が踏みにじられてしまうのも確かだ。
 痔だと思われるのは、さすがに嫌だった。
 で、正直に打ち明けたところ、周りは水を打ったように静まり返った。二、三秒の間をおいて、矢野が「ぶふっ」と吹き出した。爆笑すべきか、話をらすべきか、皆一様に迷っている様子だった。あちこちで吹き出す音がれるも、笑いがまとまることはなかった。
 ホームルームが始まる。不完全燃焼したスクープは、行き場のないガスとなって他のクラスにまで染み渡っていった。
 二次関数のグラフをノートに写す。すぐに飽きる。代わりに今朝の騒動を思い返して、反省点をノートに書き出した。矢野の問いに、僕はどう答えるべきだったのか。
 パターン壱「いやあ、まさかの尿路結石でさあ。参ったよお」
 パターン弐「余命宣告受けてさ(しばしの沈黙)。うっそでーす。盲腸でしたー」
「嘘はダメだな」
 独り言をつぶやくと、三宅がギョッと目を剥いた。
 自分は世渡りが下手くそだ。ノートのセリフみたいに自ら笑いを誘いに行けば、起死回生の逆転ホームランもあったかもしれない。そうすべきだったのだろう。でも僕はうまく捌けなかった。ものじして、変な意地っ張りが前に出て、その挙句最悪な結末に陥ってしまった。
(君は不幸が大好きなんだな)
 病院で出会った少女の声が、頭を刺すようにフラッシュバックした。
 数学の方程式を投げ出し、昨日あの子と交わした会話を思い出す。
 彼女は綿わたと名乗った。下の名前は聞きそびれた。
 彼女は生まれつき体が弱かったそうだ。あちこちの臓器がうまく働かず、入退院を繰り返しながら育った。僕と同じ十六歳らしいが、成長期を素通りしたのか、小柄な子だった。白い肌は、病院の蛍光灯がすり抜けるほど透き通っていた。
「私に、世界の汚いところをもっと教えてよ」
 綿野はそんなことを口にした。ちょうどその時、待合室のテレビではワイドショーが汚職を報じていた。コメンテーターがこの世の欺瞞ぎまんを嘆いている。僕は画面を指さして「汚いことなんて、ニュースなりネットなりで掃いて捨てるほどあるだろ」と返した。綿野は首を横に振った。
「そういうのは実感がかない。私が知りたいのは、高校生が感じる身近な不幸なんだ。君の身に降りかかる、嫌なことや、ついてないこと。生きていてもつまらないと思う、そんな出来事を知りたいんだ」
 一息にそう言うと、綿野は急に顔をゆがめた。自分で口にした「君」という呼び方がしっくりこなかったらしい。尋ねられるままに名前を教えると、綿野はさっそくれ馴れしく道歩と呼び捨てにしてきた。
「道歩。ちょっと小銭持ってる?」
 呼び捨てにされた上に金をせびられるとは早速ツイてない。自動販売機コーナーで、綿野はミルクティーを買った。僕は洗ってキープしておいた空のペットボトルにウォーターサーバーの水を汲んで飲んだ。
「道歩、それは貧乏くさいと思う」
 綿野が顔をしかめる。気にせずゴクゴク飲む。こちとら尿路結石の再発を防ぐために水分を大量に取らなければならない身だ。いちいち天然水なんて買っていたら、あっという間に無一文になってしまう。
 綿野は最上階にある入院患者専用の休憩スペースに僕を案内した。ガラス張りの壁一面に田舎臭い町のパノラマが広がる。埋め込まれた回転椅子に腰掛ける。耳の遠そうな老人が端の席で、在りし日を振り返るように目を閉じている。他には誰もいない。ロビーと違って、内緒話をするのに打ってつけな静寂。
「綿野の病室はダメなん?」と提案すると、「初対面の男を部屋に呼ぶわけないでしょ」とにべもなく断られた。
 綿野は紙パックのミルクティーを飲み干すと、唇にくわえたストローを所在なげに上下させている。僕は大窓に手をついて外を眺めた。水平線に漁船が見える。
「私ね、もうすぐ死ぬの」
 景色に気を取られている間に、綿野はそう告白した。僕はどう答えていいかわからず、身動きできなかった。
「私は病院で生きてきた。そして病院で死んでいく。外に広がる世界を知らないまま死んじゃうんだ。そんなのあんまりじゃないか。だからせめて、外の世界なんて、生きる価値のないくらい汚いものだって、そう思いたいんだ」
 窓ガラスに鏡映しになった綿野を見つめる。パジャマから覗く彼女の体は、どこも骨張っていて、生気がなかった。
「体、そんなに悪いの?」
 おずおずと尋ねる。綿野は二度うなずいた。
「そもそも、中学卒業が余命宣告の期日だったのに。ここのヤブ医者、人の覚悟を弄びやがって」
 余命宣告をオーバーラン。だったら、そのまま快方に向かう可能性も?
「言っとくけど、ダメなのは変わらないから。体の中、もう腐りかけてるって」
 僕の淡い期待をピシャリとねつけた。
「今はまだこうやって歩けるけど、これからどんどん動けなくなって」
 綿野は脇腹をさすりながら、苦しげに呟いた。
「寒いのは嫌いだから、冬になる前に死にたいな」
 綿野はそう言って身震いした。窓に額をつけた綿野は、今にも日差しに溶けそうなほど儚かった。
「そういうことだから、明日もまた来てね。君が感じる不幸な出来事、色々教えてよ」
 ぴょこんと振り返って、いたずら気味に笑った。
「あ、お母さんに会わせるのは嫌だから、時間は連絡するね」
 連絡先を交換する。
「とびきりひどいの期待してるから」
 ウインクを残して、綿野は病室へ帰っていった。
 意識が教室に戻る。授業が終わり、ひとりぼっちの昼飯を終えたら次は地獄のグループワークだ。
 綿野。待ってろ。不幸ネタはバッチリだ。

「ぶはっ」
 綿野は容赦なく吹き出した。腹を抱えて笑い転げていると看護師に注意され、中庭に追い出された。
「やっぱ尿路結石って、パンチ強いね」
 笑いの尾を引きずりながら、綿野は目尻をぬぐった。柳の木を背に設えられたベンチに並
んで腰掛ける。細かい木漏れ日を肩に、僕は熱に浮かされたように饒舌じょうぜつだった。
「ひどくないか? 死ぬほど痛かったのに笑いの種にされるなんて。十代で発症なんて、難病みたいなもんだろ。これからずっと再発におびえながら生きてくんだよ? あー、誰か取材に来ないかなあ。十六歳、輝く結石。命の授業、みたいな感動ドキュメンタリー」
「ひいー、やめて、お腹よじれる」
 僕は今日あった出来事を順番に語った。水を飲みすぎてトイレの回数が多くなり、頻尿ひんにょうとあだ名されたこと。社会科見学の訪問先を決めるグループワークでは、泌尿器科で強行可決されたこと。休んでいた間の課題を提出しに職員室に入ると、結石経験者の先生に小一時間なぐさめられたこと。綿野はその一つ一つに笑い、僕の背中を叩たたき、最後に「ほんと最悪だね」と締めくくった。
 時間はあっという間に過ぎる。学校にいる時は、一秒ずつみ付いて数えるほど長かったのに。日が暮れ始め、肌寒くなる。柳の葉が冷たい風に揺れる。
 おしゃべりに夢中で、綿野の顔色が青くなっていることに気づかなかった。よく笑う綿野から、重病人という事実が抜け落ちていた。
「中に入ろう」
 慌てて学生服の上着を脱いで綿野にかける。
「ありがとう」
 綿野は震える唇を手で覆い、のどの奥から込み上げるものをき止めている。
「吐きそう?」
「ねえ、道歩」
 指の隙間から震える声がこぼれる。
「私、我慢するの嫌いだから、あっち向いてて?」
「いいよ。吐きなよ」
 その言葉をきっかけに、綿野の胃液が引きずり出された。中庭の植え込みに向かって何度もえずく。僕は綿野の背中をさすった。
 胃のなかのものを一通り吐き尽くすと、綿野はポケットティッシュを引き抜いて口を拭った。それから空にタバコの煙を浮かべるように、天をあおいで息をついた。
「あー。喋りすぎた。こんなに長いこと誰かとおしゃべりしたの、久しぶりだったから」
 照れ隠しで笑う綿野は、死人のように青ざめていた。
 僕はお喋りに夢中で、病人に無理をさせてしまったことを悔いた。
「ねえ。そういう困った顔、やめてよ」
 同情されたくないのだろう。綿野はまゆを吊り上げた。
 僕はどうしていいかわからず、とりあえず表情を放棄した。
「戻ろう」
 暖かい院内で、綿野は血の気を取り戻した。お喋りを続けようとする綿野をさえぎって、僕はリュックを背負った。
「綿野。明日までに体調整えとけよ。もっとひどいネタ持ってくるから」
 手を振ると、綿野は口を歪めてなにか抗議する素振そぶりを見せた。けれどなにも思いつかないらしく、綿野は飲みかけのペットボトルを僕に押し付けた。捨てておいてと暗に示している。
「それ、水筒がわりに使ったら殺すから」
 別れ際にくぎを刺してきた。手洗いに向かおうとしていたのがバレたらしい。

 約束通り、次の日も綿野に会いに行った。電車で二駅。帰り道とは真逆の方向だが、苦にならなかった。むしろ電車で移動する時間が惜しいとさえ思った。部活にも入らず、終礼でみんなが頭をあげる前に教室から逃げ出す。そんな僕には、綿野だけが話し相手だった。
 つり革につかまってヘッドホンに集中する。怪談を朗読するユーチューブ動画。僕はホラーに目がない。ホラー映画が封切られれば必ず映画館まで足を運ぶし、勉強もそっちのけで毎晩心霊動画鑑賞に没頭している。
 誰かが圧倒的な力で不幸になる姿に快感を覚えているのかもしれない。善人も悪人も分け隔てなく呪われる世界こそが真の平等社会だと訴えたい。そんな心構えだから、僕自身にも呪いが返ってくるのだろう。
 待ち合わせのロビーで僕を迎えた綿野は、昨日より顔色が悪かった。
「体調整えとけって言ったろ」
 僕の軽口に、綿野は血の気の抜けた頬を弱々しく歪めた。
「昨日眠れなくて」と息をこぼした。
 聞くと、楽しみに取っておいたアイスクリームが冷蔵庫の不調で溶けてしまったらしい。それが悔しくて、一晩中泣きべそをかいていたようだ。たかがアイスクリーム一つでそんなに落ち込むなんてバカバカしい。病院のコンビニで買い直せばいいじゃないか。そう伝えると、綿野は不貞腐ふてくされてしまった。
「お店終わってたし」
 悔しそうに唇を噛んだ。
「買ってこようか?」
「いらない。昨日の夜に食べたかったの」
 駄々をこねる綿野は、年齢よりも幼く見えた。
「今日はもう帰ろうか?」
 彼女の不機嫌さに、思わず逃げ腰になる。そでを掴まれて「逃げんな」と却下された。外は曇っていて寒いので、院内の洗濯室を占拠することにした。洗濯機のドラムが誰かのタオルを振り回している。くぐもった音が絶え間なく響く。
「で、今日はどうだった?」
 綿野の言う「どうだった?」とは「今日は嫌なことがあったか」という質問だ。日常で感じる嫌な思い、見たくもないのに目に入る嫌な光景、聞きたくもない言葉。顔を背けたくなるような不幸を拾い上げて綿野に報告する。実に奇妙な任務だ。
「僕の周りで、一日にどれくらい死ねって言葉が使われてるか、数えてみた」
 僕の話題に、綿野の不機嫌が鳴りを潜める。
「一日中数えてたの? 暇だねえ」
「友だちいないからな」
「かわいそ。で?」ちっとも哀れんでいない顔で先を促した。
「四回」
 彼女は拍子ひょうし抜けしたようだ。
「思ったより全然少ない」
 不満げな面持ち。
「僕も思った。もっと冗談とかでさ、バンバン使ってる気がしてた。でも改めて聞いてみると、みんなお行儀がいいのな。しかも四回のうち二回は数学の武田たけだだし」
 黒板に向かって舌打ちしながら「死ねやクズども、死ね」と吐き捨てていたのを聞き逃さなかった。
「うわ。教師の方が荒んでるって」
 現代社会の闇だねえ。と綿野はしみじみ頷いた。僕たちと同年代の人たちは、誰も彼も希望に満ちあふれた顔をしている。野球部に入った奴はキラキラした顔で一年のうちにエースの座を勝ち取ってやると息巻いていた。矢野もカーストの高い女子にメイクのテクニックを真剣に教わっている。メガネの三宅ですら、目立たない男子を引き連れてバンドを組もうと計画している。なにかに打ち込む姿は、人間を美しく引き立てる。僕一人が置き去りにされてしまった気がして、正直焦る。
「ていうか、ほんとに一日中数えてた?」
 綿野が疑いの眼差しを向けた。
「本当だって。トイレ以外ずっと。休み時間も」
「それ、かなりの数、見落としてない?」
 頻尿でトイレの回数が多いことを指摘しているのだろう。
「いやいや、今日はそんなにトイレ行ってないって。誤差だよ、誤差」
 僕が冗談めかして笑うと、綿野は眉をひそめた。
「だって道歩って、クラスで一人ぼっちなんでしょ?」
 ああ、そういうことか。指摘されるまで気づかないなんて、僕はなんて能天気なんだろう。僕が席を立った途端、陰口を叩く生徒たち。僕を槍玉やりだまにあげ、それまでふたをしていた負の感情を撒き散らす。「死ね」「死ねよ根暗」「死ねばいいのに空気悪い」
 ありうる。
「やめて。まじで。それは落ち込み過ぎる」
 想像するだけでゾッとした。肩を落とす僕を見て、綿野はカラカラと笑った。この女、思ったより性格が悪い。
「それに、お昼ご飯ってどうしたの? ほら、ネットだと、ぼっちはトイレで食べるって読んだけど」
 冷やかしを交えつつ攻撃の手を緩めない。綿野のペースに乗せられてはいけない。主導権を取り戻さなければ。
「あのな。とっくに開き直ってるっての。自分の席で蓋開けてどうどうと」
 嘘です。休み時間のうそ寝も、体育での一人壁打ちも耐え抜いた僕だったが、弁当だけはどうしても耐えられず、非常階段で食べました。勢いでかきこんだため、ハンバーグや厚焼き卵も一つの丸い塊になって胃に落ちた。惨めだった。階段の上から、サッカーボールを追いかける男子生徒たちを心底くだらないと見下しながらも、込み上げる涙を堪えていた。
 そんな惨めったらしい思いを綿野に話すのは抵抗があった。少しくらい話を盛ったところで、それこそ誤差にすぎないじゃないか。
「嘘はいらない」
 綿野は冷めた声で僕から顔を逸らした。僕は胸を刺されたように狼狽ろうばいしてしまった。狙い澄ましたように、洗濯機がアラームと共に動きを止める。気まずい静寂が訪れる。
「あの、その」
 二の句がつげず、ますます痛々しい沈黙を作ってしまう。綿野の肩が震えている。そして、
「ぶはっ。本当に嘘だったんだ。ごめん」と満面の笑みで顔を上げた。
 この女、カマかけやがった。
「うーーーっわ。やーーっな奴。信じらんねーー」
 僕がなじると、綿野は「嘘つく方が悪い」と悪びれる風もない。
「もう帰る」
 頭にきてリュックを担ぐ。
「あー、ごめんごめん。怒んないでって。いやあ、よかったよ。今日一番の不幸ネタだっ
た。あー、ソトのセカイはコワいなー」
 棒読みにもほどがある。僕もバカらしくなって、リュックを下ろした。
 それからも話題は尽きなかった。ここに来る途中、中学生相手に怒鳴り散らす中年男を見かけたこと。歩道に散乱する吸殻。自動販売機のゴミ箱に押し込まれた家庭ゴミ。スーパーでは金髪の夫婦が小さな子どもを挟んでののしり合っていた。
 ひとたび嫌なことに目を向けると、世界は抱え切れないほどの悪意に満ちている。
 そんな悪意にいちいち怯えていたら身がもたない。人目を気にしておちおち飯も食えないようじゃ、この世界は生きていけない。昼ごはんくらい、堂々と食べてやる。もう一度チャンスをください。明日こそは意地でも教室にへばりついてやる。
「死ねって言った回数、明日もう一度数え直すよ」
 脈絡もなく呟くと、綿野は浮かれたお喋りを止めた。また少し、黙り込む。
「そうだね。楽しみにしてる」
 綿野は僕のくだらない決意に寄り添ってくれた。
 洗濯物を取りに来た老婦人が、僕たちの会話の内容を測りかねるように首をかしげていた。

 次の日から、僕は教室で昼ごはんを食べるようになった。
 弁当箱を開けるとき、矢野がチラリとこちらに目を向けた。すぐに仲良しグループとドラマの話に戻っていったが、僕は危うく決意をくじかれるところだった。仕切り直しだ。深呼吸してはしをご飯に突き立てる。
 味なんかわからなかった。焼きざけが深海魚に思えた。冷や汗が背中を流れ、鳥肌と共にい上がった。教室中の視線が自分に注がれているような被害妄想もうそうに襲われる。弁当箱の隅に残ったタワシのようなブロッコリーを平らげたとき、僕は世界に勝利した気になった。
 どうだ。僕は一人でも生きていける。友だちなんていなくたって、僕は幸せになれる。勝ち誇った代償として、「死ね」を数え直すという任務をすっかり忘れていた。本末転倒な結果を綿野に伝えると「ドジ」と一蹴された。
 その後で「ま、頑張ったね」とめてくれた。
 それからというもの、僕は綿野に会うことだけを楽しみに日々を過ごした。僕の不幸話はつきることなく、毎日毎日飽きもせずに綿野へ報告した。学校では幽霊みたいに過ごしているのに、綿野と会うたびに、僕は息を吹き返した。最近雨がよく降るなと不思議に思っていたら、世間はとっくに梅雨入りしていた。そのくらい僕は世界に無関心だった。そして、綿野と過ごす時間に夢中だった。
 けれど、何事にも限度というものがあるらしい。
 ある日、「また明日」と別れを告げた帰り際、看護師に呼び止められた。
 若い女性。胸に「宮野みやの」とネームをつけている。吊り上がった目元。薄い唇。苦手な顔だ。看護師は僕を捕まえると、言いにくそうに切り出した。
「悪いんだけど、毎日来るのは遠慮してもらえるかしら。最近綿野さん、ちょっと無理してるみたいで。数値悪い日が続いてるの」
 具合が悪いではなく、数値が悪い。その言い回しに、浮かれ切っていた僕は頭を殴られた気がした。
『って、看護師さんに叱られた。どーしよ』
 メッセージはすぐに既読がついた。直後、『自分で考えろ、ばか』と返事がきた。
 雨がグラウンドに隙間なく降りしきる。
 僕は放課後の教室で補習が始まるのを待っていた。くしゃくしゃに丸められた数学の小テストを開く。二十問中、正解はわずか二問。青筋立てて答案を返してきた武田の顔が忘れられない。中間テストでは目をつぶっていた武田も堪忍袋の緒が切れたらしい。高校生になってまだ三ヶ月も経っていないというのに、早くも授業についていけなくなっている。やばいなあ。と言い逃れしている間にも単元は進む。ダメな僕を誰も待ってはくれない。
 教室には、僕の他にも数人の男女が居残っている。一様に気だるげで、でも恥ずかしさを隠し切れない顔。先生はまだ来ない。
『補習でだるいんで、今日の報告はパスします』
 綿野に送信。『薄情者』と返事。
『綿野って成績いい? 数学、教えて欲しいんだけど』送信。
 耳鳴りのような沈黙。僕は親指を宙にさまよわせて返事を待つ。
『勉強できるかどうか、わかんない』
 指が止まる。
 先生が姿を現し、教卓にプリントを投げる。
「お前ら、高一の一学期で補習は、はっきり言ってやばいぞ。高校受験が終わってたるんでるんだろうが、本番はこれからだ。大学入試は高校受験の比じゃねえぞ」
 お仕着せの説教を頭に、補習が始まった。プリントには、ハードルを低くした問題が嫌味ったらしく手書きで並んでいる。シャーペンをノックしては芯を戻す。
 綿野の言葉が頭から離れない。
 勉強できるかどうか、わからない。
 そりゃそうか。入院ばかりで中学もろくに出席できなかったそうだし。そもそも余命を告げられた人間が、勉強に身が入るわけもない。なにをするにも遅く、なにもできないまま死んでいく。
「木島。なにぼんやりしてんだ。もうお手上げか?」
 教卓の武田と目が合った。タバコのヤニで黄ばんだ歯が「死ね」と呟いているように見えた。
 僕は気を取り直して、つとめて明るく問題に取り組んだ。簡単だ、こんな数式。高校受験で散々見たじゃないか。明日から授業を真面目に聞けば十分挽回ばんかいできる。ペン先を走らせる。ほら、解けた。次も、ほら、大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせる。答案を書き込むたびに、なぜか罪悪感にさいなまれた。
 綿野は、勉強する機会すら奪われたのだ。
 同じ十六歳の僕は、恵まれた環境の中で、つまらないテストに頭を悩ませている。僕が怠惰に過ごしてきた時間が、とてつもなく重い罪に思えた。
 そんなことを考えていると、手書きの放物線が大きく歪んだ。
 ああ、つまらない。
 これから誰にも「さよなら」を言わずに学校を出て、家に帰って、手を洗って、冷蔵庫を漁って、茶色い夕食を作って、風呂に入って、宿題して、歯を磨いて。そんな些細ささいな積み重ねが耐え難い重荷に感じる。
 両親が共働きのため、自分のことは自分でやらなければならない。父母と食事を共にする機会が少なく、めいめいで自分の家事をこなしている。自ずと互いへの関心が薄くなる。中三の秋、自分の中ですでに決めていた進路について「相談」したのが、中身のある最後の会話だった。
 いつからだろう。小学生の頃はもっと家族の絆も深かった気がする。家族旅行にも出かけたし、同じテレビを観て笑い合っていた。しかし中学に上がり、僕が心霊動画に夢中になり始めた時、怯えた眼差しを向けていた母親が急に仕事を始めた。いくつかのパートを転々とした末、昔取った杵柄きねづかで夜勤の介護職に落ち着いた。中学二年生の時だった。僕が学校でとある問題を起こした直後だった。わざと生活リズムをずらしたのだと、今でも不満に思っている。
 ふと顔を上げる。教卓では武田が、僕らの顔に印をつけるように順番に睨んでいた。「できない奴ら」を記憶するために。
 問題を解き終えて武田に提出する。武田は答案を苦々しげに睨むと、「出来るんだったら最初からやれ。手間取らせんな」と刺々しく丸をつけた。
 綿野に返事を送れないまま、帰り支度を済ます。
 雨足が強まっている。靴箱のカビた臭い。傘立ては荒らされて空っぽ。僕の傘も盗まれては取り返し、また無くなって、今日もない。ずぶれ覚悟で校門を飛び出す。雨除け代わりにリュックを頭に担ぐが、すぐに無駄だと悟った。シャツが肌に張り付き、ズボンも靴もズブズブになる。
 このまま家に帰る気にもなれず、駅前の映画館に足を向けた。スマホの電源を落とす口実を作りたかったんだと思う。
 濡れねずみで券売所に並ぶ。時間さえつぶせればそれでいい。絶賛上映中を押し付けがましくうたうポスターを無視して、広告の隅で忘れ去られたホラー映画に目をつけた。僕はろくに宣伝文句も見ずに、その映画のチケットを三枚注文した。
「高校生、三人分ですね?」
 受付の女性スタッフが手元の端末で空席を探す。代表で並んでいると勘違いしているらしい。僕は受付で借りたタオルで顔を拭きながら訂正を入れる。
「いえ、一人で三回上映分ください」
 スタッフの指が止まり、不審な目を向けてきた。注文した内容と、映画のタイトルを秤にかけている。マイナーなホラー映画を三回続けて鑑賞する。お金を払ってまで。
「キャンセルはできませんのでご了承ください」
 釘を刺すように注文を復唱し、僕にチケットを手渡した。貸し出してくれたと思ったタオルは、実は買い取りだったことを知り、飲み物を買うお金がなくなった。
 劇場は教室ほどの規模で、よどんだ空気をまとった青年がチラホラと座っている。僕は居心地の悪さを感じながら、指定の席に腰を下ろした。
 率直な感想を述べよう。上映前に流れるブライダル広告の方がよっぽど面白かった。花嫁の演技の方がまだ見応えがあった。
 一度目の上映が幕を下ろし、悲痛な空気が流れた。映画通を自称して乗り込んだわずかな観客たちもを上げて席を立った。僕は息を整え、二度目の上映に備えた。大人しく帰ってカップラーメンでも食べてた方がマシだった。
「あんた、こういうキワモノ好きだったっけ」
 がらんどうの客席に、一際大きく響いた。声の主を探すまでもなく、すぐ横に矢野がたたずんでいた。矢野は握りつぶした紙コップ片手に僕の隣に座った。スカートを気にせず足を組む。
「面白かった?」
 矢野は鼻で笑うように感想を求めた。
「ハズレを引くにしても、もう少しマシなのあったよなあ」
 後悔を滲ませる。
「学芸会よりひどい」
 矢野がそう切り捨てる。
「矢野もなんでこんな映画見ようと思ったん」
 矢野は小さい頃から怖がりで、心霊番組が流れると逃げ回るほどだった。
「知り合いが出演してたから」
「マジで? え? どの役?」
 俄然興味が湧く。
「あの子の名誉のために教えてあげない」
 鼻に皺を寄せる。昔馴染みの何気ない仕草に、えも言われぬ懐かしさが込み上げた。こうしてまともに話をするのも久しぶりだ。
 小学生の頃はきょうだいみたいに寄り添っていた。中学でも互いの部屋で愚痴を言い合ったり、そこそこ仲が良かったものだ。それが高校になった途端に「話しかけてくんな」だ。メイクをマスターしてあか抜けた矢野に、僕も昔のように気安く接することができない。片やクラスのカースト上位、片やクラスのぼっちだ。高校入学を機に、住む世界が変わってしまったのだ。
「学校、どう?」当たり障りのない世間話を振ると、「人の心配してる場合か」と咎められた。
「ぼっちのくせに、昼ごはん教室で食べるとか、やめてくれない?」
 え? 今さらそんなことに難癖付けるの? 戸惑いながらも僕は反論した。
「別に誰にも迷惑かけてないだろ。みんな僕のことなんか無視してるじゃないか」
「あんた病気だったし、みんな優しいから見て見ぬふりをしてただけ。でももう限界。ずーっと昼休みだけ空気悪いの、気づかなかったの?」
 そうだったのか。クラスの雰囲気なんて、まるで眼中になかった。みんな長い間よくぞ耐えたものだ。
「ほっとけよ。つか、元を辿たどればあの日だって、お前が余計な口出ししなけりゃ、尿路結石を自白しなくて済んだんだ」
 蒸し返す気はなかったが、思わず口が滑った。矢野はまつ毛の巻き上がった目をかっと見開き、歯を食いしばった。
「あんたさ。悲劇の主人公でも気取ってんの? はっきり言うけど、自業自得だよ? 挽回するチャンスはいくらでもあったでしょ。人のせいにしないで。誰かに話しかける努力もしない、真っ先に一人で帰って話しかけられるチャンスも捨てて、どこ行ってんのか知らないけど、家と反対の電車に乗って、ばかみたい。友だちいないのは勝手だけど、少しは弁えてよ。見てるこっちが恥ずかしくなる。あんたがトイレ行ってる間に、みんな陰口叩いてるの知ってる? せっかくの和気藹々あいあいとした空気があんた一人のせいで台無しなの」
 一息にまくし立てた。やっぱり陰口叩いてやがったか。それにしても、矢野がこんなに荒れるのは珍しい。暗めの茶髪からピリピリ電気を放っている。
「矢野、お前大丈夫か? 最近マジでイライラしすぎじゃない? ちょっと無理してるんじゃないか?」
 頭を冷やしてやるつもりが、火に油を注ぐ結果となった。
「無理って、どういう意味? 私はね、高校ではやりたいことを思いっきりやるって決めてるの」
 これまでの束縛への復讐を誓うように、矢野は語気を強めた。
「ああ、矢野の親って、厳しかったもんな」
 父親が医者で、母親は公務員を経ての専業主婦。両親とも教育熱心なことで有名だ。中学の時も、成績が落ちたせいで美術部を辞めさせられていた。
「親は関係ないでしょ。あんたが幼馴染だって知られてから、あんたの評判が、私にまで降りかかってくるの。今日も補習なんか受けて。今の時期ありえないよ?」
 他にも何人か受けていただろうに、どうして僕だけ引き合いに出されるのか。
「孤立してるのは自己責任なんだから、せめてそれ相応の振る舞いをして。私の足を引っ張らないで」
 知らんがな。あきれたため息をらす。神経過敏の矢野は、僕のため息一つ許せない様子だった。
「あんたさ、」
 まだ言いたいことが山ほどあるみたいだが、次の観客がぽつりぽつりと入ってきた。矢野は人目を気にして、怒りを呑み込んだ。
「じゃあまた明日。お昼は外で食べてね」
 矢野はひざを叩いて立ち上がると、きびすを返して去っていった。
 大股で歩く矢野の後ろ姿を見送る。小太りのおじさんを肩で押しのけ、重い扉をすり抜けていった。
「なんだ、あれ」
 嵐のような奴だ。あいつ、中学校では真面目で大人しいタイプだったのに。僕が入院している間に、人が変わったように荒んでしまった。高校デビューも考えものだな。
 なんだかもうここにいたくない。残り二回分のチケット代は惜しいけど席を立つ。イライラした気持ちで映画館を出ると、雨はすっかり上がっていた。むせかえる湿気に夜の道が霞む。スマホの電源を入れると、未読ありのバイブが鳴った。矢野からのメッセージが一つ。
『明日から、あんたのイジメが始まるらしいから』
 しばらく意味がわからなかった。暗号を解読するように、端から端へ何度も往復した。
「ああ、そういうことか」
 やっと理解できた。どうやら今日の補習が決め手となったようだ。たとえクラスで浮いていても、勉強ができればギリギリ許容される。しかし学力まで平均以下だと知れば、もう手をこまねく必要はない。クラスの団結を高める格好のターゲットになる。
「いい不幸ネタをありがとう」
 湿度で膨張した月を振りあおぎ、負け惜しみを吐いた。

 矢野の予告通り、朝登校すると上履きが切り裂かれていた。
 足をつっかけながら教室に入ると、黒板消しが頭にヒット。クスクス押し殺した笑い声が漏れる。机には彫刻刀で大きく「尿」と刻まれ、引き出しは泥水でずぶ濡れ。着席すると画鋲が尻に刺さり、悲鳴をあげると笑いの渦が巻き起こった。
 精神がごっそり削られたまま授業に突入。教師の声に混じってどこからともなく「頻尿」と小声が漏れる。教師が「なんだ? 誰かなにか言ったか?」と振り返ると「木島くんが、おしっこ行きたいって言ってまーす」とサッカー部員。
「なんだ。水を飲むのもほどほどにしとけよ。まだ若いんだから」と尿路結石の事情を知っている教師がせせら笑った。
 背中には「尿」の張り紙が、剥がしても剥がしても背後霊のように貼り付けられる。体育で先生とテニスをした後、昼飯を食べに教室に戻ると机が撤去されていた。矢野はその一部始終を、引き攣った顔で盗み見ていた。
「便所に席取っといたぞー」
 メガネの三宅にエスコートされ、便座に押し込められて弁当を開けると、頭上でバケツがひっくり返された。頭にきて飛び出そうとドアを押すと、固いものにつっかえて開かない。わずかな隙間から覗くと、掃除用具で器用にかんぬきを作っているのが見えた。脱力して便座に崩れ落ちる。
猿蟹さるかに合戦かよ。もっとこう、小出しにしろよ。フルコンボじゃねえか」
 自嘲気味に苦笑し、ずぶ濡れの弁当を便器に流した。昨夜から仕込んだ、ほうれん草のおひたしが、あんかけミートボールが、舞まい茸たけの炊き込みご飯が、渦を巻いて流れてゆく。
 さて、綿野にどう伝えようか。面白おかしく、この子どもじみたイジメを風刺する。綿野が笑ってくれるように、コミカルに、いかにも平気なふりをして。
 考える時間はたっぷりある。当分出られそうにないのだから。そのうち、見て見ぬ振りができない臆病者がそっと閂を外すことだろう。それまで昼寝でもして時間を潰そう。

 この状況下で寝過ごすとは思わなかった。
 寒さで目を覚ますと、自分の輪郭がわからなくなるほど真っ暗だった。
「嘘だろ」
 ダメ元でドアを押すが、開かない。便座に尻を食い込ませ、両足で蹴ったがビクともしない。手応えでわかる。閂のブラシが増えている。
「あいつら、血も涙もないな」
 つばを吐きながらポケットを弄る。スマホの乏しい明かりに少し落ち着きを取り戻した。画面の時計は午後十一時を回っている。母親からのメッセージには買い物の依頼メモ。もう夜勤に出かけている時間だ。次に父親から『どっか泊まるの?』と絵文字付きのメッセージ。渡りに船とはこのことだ。すぐさま救助を呼ぼうと指を動かす。でも、どう説明すればいい?
 イジメられるよりも、イジメの事実を親に知られる方がよっぽど恥ずかしい。
『ごめん。友だちん家に泊まる。連絡忘れてた』
 送信。ちっぽけなプライドで自ら退路を断ってしまった。
 暗闇の中では時間が際限なく伸びる。心臓の音までゆっくり聞こえる。「腹へった」と虚空に呟いてみる。弁当を流したことが悔やまれる。水浸しの服が体温を奪っていく。目が冴えて二度寝することもできない。どうせなら朝まで寝過ごせばよかった。今さら叫んだところで誰の耳にも届かない。全てが裏目に出て、にっちもさっちも行かなくなった。
 波の音が聞こえる。
 海が近いこの町。
「昔はもっと栄えていて凄かったんだぞ」と、祖父は生前誇らしげに語っていた。時代の波に呑まれながらも堪えていたデパートが、去年の暮れに取り壊された。今では暴走族にさえ見捨てられ、夜の道を走るのは救急車くらいだ。
 サイレンが聞こえる。
 救急車で運ばれた、あの夜を思い出す。
 痛かったなあ。この世に地獄があるとすれば、間違いなくあの痛みだ。まだ十六歳なのに。イジメという高校生らしい悩みと、尿路結石の再発という五十路の悩みが肩を並べている。自分ほど不幸な十六歳がこの世に二人といるだろうか。
 やめだ、やめ。暇を持て余していると、ろくな考えが浮かばない。
 日課の心霊動画探しのためにネットを開く。しかし、いくらホラー耐性があるとはいえ、この暗闇では怖すぎる。すぐに閉じて、今度はメモ帳アプリを開いた。今日あったイジメの数々を記す。学校に告発するためではない。綿野に聞かせるためだ。惨めな自分を、これでもかというくらい揶揄して綿野に笑ってもらおう。
 電話が鳴った。
 メモアプリが自然に閉じ、画面に『綿野』の名前が浮かび上がる。
 僕はその名前をぼんやり見つめた。脳の処理が追いつかず「便座に座ったまま電話に出るのも、なんだかカッコ悪いな」なんてくだらないことを考えていた。無機質なコールが焦らすように繰り返される。留守番電話に切り替わる、寸前。
「もしもし」
 こちらの状況を気取られないように、努めて平坦な口調で電話に出た。

  *

続きは発売中の『毒をもって僕らは』で、ぜひお楽しみください !

著者プロフィール
冬野岬(ふゆの・みさき)
1988年生まれ。愛媛県松山市在住、徳島大学総合科学部卒。在学中から小説を書き始める。本作にて第11回ポプラ社小説新人賞特別賞を受賞。「田舎大好き人間」で趣味はドライブ、映画鑑賞。愛犬はミニチュアダックスフント。

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